前線基地においてリヴァイ中佐の副官≠ノは専用の部屋が与えられているが、そこがまともに使われた例は一度もない。定期的に部屋の主の手で掃除されているものの、人の気配のないそこは殺風景な物置と化している。
副官の部屋が用意されたのと同時期に、リヴァイ専用の寝室ではベッドの入れ替えが発生した。清潔であればそれでいいという考えの持ち主により簡素なシングルベッドだったのだが、少し大きくなってセミダブルになった。マットレスのスプリングもしっかりした物になり、寝心地が幾分改善されたのである。 元々地位や功績にそぐわぬ粗末な寝具だったので、リヴァイのベッドが新しくなった程度で一般の兵士から文句が出るはずもなく、むしろ「やっとか」という感想を抱く者が大半だった。 そんなこんなで新しくなったベッドに現在身体を横たえているのは一人。瞼はしっかりと降ろされ、小さな寝息を立てている。 ギシッとベッドが小さく鳴いた。スプリングを軋ませながらベッドの端に腰掛けたのは、この部屋の主であるはずのリヴァイ。寝ている人物を起こさないようぎりぎりまで絞られた灯りを反射する青灰色の瞳には、胎児のように身体を丸くして眠る副官エレン・イェーガーの姿が映っていた。 眠っているエレンはベッドの片側に不自然なほど寄っていて、一人分の空間をぽっかりと空けている。とは言っても、そもそもセミダブルというサイズは一人用であるため、もう一人がなんとか横になれるかどうかという狭さだったが。 「エレン」 無防備に晒されたエレンの首筋にリヴァイはそっと指を這わせる。普段は白い手袋をつけているが、今は素手で。 耳の下、数センチのところにあるのは白い翼を模した刺青。片翼のそれをなぞる指の動きは優しく、リヴァイの表情もまた普段の仏頂面とは異なり、無意識に柔らかくなっていた。 眠っているためエレンの金色の瞳は見えない。リヴァイはそのギラついた黄金が欲しくてエレンを無理やり己に縛り付けた。一度この手で故意に壊した弟は今や相反する二つの執着によりリヴァイの元を離れることができなくなっている。殺したいのに殺せない。愛したくないのに愛しくてたまらない。エレンの頭の中には四六時中リヴァイがいて、正反対の感情に気が狂いそうになっているのだろう。 「……悪くない」 ぽつりと漏れた呟きは意識してのものではなく、発したリヴァイ本人がほんの少し驚きに目を瞠った。だが眠るエレンに再び意識をやった時、金色の目をすっかり隠している寝顔を見つめて、やはり悪くないと思ってしまう。 首筋に這わせていた手を頬に添えれば、エレンはまるで子犬か子猫がすり寄るような反応を見せた。リヴァイは口元を緩ませ、そのまま自らもベッドに入る。エレンが用意していた空間に収まれば、自分より十センチ高い身長が甘えるように全身で密着してきた。意識がある時は適度な距離を取り、接触を限りなく抑えるエレンだが、無意識の時はそうでもないとリヴァイが知ったのはもうずっと前だ。 リヴァイはエレンの方に身体を向け、腕を回して兵士にしては薄い身体を抱き寄せる。体勢的に目視での確認は難しいが、服を引っ張る感覚があったのでエレンが縋りついてきたのが分かった。 「エレン」 唯一残った肉親。最も濃い血を持つ相手。生まれながらのベターハーフ。 愛しかろう。憎かろう。だから、それでも、離れられない。囚われる。 なんと可哀想な子供か。 リヴァイは小さくエレンの名を呼びながらその可哀想な子供の額にくちづける。子を慈しむ親のように、愛する人に対する恋人のように。たとえそれがリヴァイの意図したものではなくとも、ベッドの上での抱擁とキスはただの執着という言葉では表せないものを孕んでいた。『唯一残った肉親』も『最も濃い血を持つ相手』も『生まれながらのベターハーフ』も、エレンから見たリヴァイを示すだけのものではない。リヴァイから見たエレンもまたその名を付けるに相応しい存在であることを、そして己が捕らえるだけでなく同時に囚われていることを、本人だけが意識できていなかった。 「ミカサ、今ちょっといいかな」 「私なら大丈夫。……どうかした?」 軍の司令本部で廊下を歩いていたミカサに声をかけて来たのは、同じく本部に配属されている幼馴染のアルミン・アルレルト。実戦担当のミカサと後方支援担当のアルミンは部署が違えど頻繁に顔を合わせている。それは仕事のためでもあるし、またただの友人としてでも。今回はどちらだろうか。振り返ったミカサにアルミンは僅かな逡巡を見せた。 「アルミン?」 「こっちに来て」 ミカサを誘い、アルミンは歩き出す。自室へ帰るところだったミカサはこの後も特に予定など無く、素直に彼に従った。それに用事が無いからという理由だけではなく、アルミンの表情が気にかかる。人目を気にしているようだし、何か他人には聞かれたくないことをミカサに話そうとしているのだろうか。 (なんだろう……胸がざわつく) それはまるで、かつて敵軍の捕虜になりながらも無事に戻ってきた『大切な人』の寝顔を見つめていた時のように。 当時はまだ彼が再び戦場に出て行方不明になるなどとは予想せず、ただただ漠然と不安を覚えていた。ミカサはアルミンの背中を追いながら再び自分を襲う嫌な予感に小さく眉根を寄せる。 自分達の共通の『大切な人』が戦場に復帰してすぐ、その人の行方が分からなくなってしまって、彼を大切に思っていたミカサは酷く荒れた。止めようとした仲間にすら怪我を負わせる始末。そんなミカサとは対照的にアルミンはひたすら黙していたが、その裡ではミカサと同じくらいに混乱し、取り乱していただろう。 だがいつまでも喚くだけでは何も進まない。その人物が戦死扱いになっても、二人は自分達と同じく『彼は生きている』と信じる者達と共に情報を集めつつ、彼の帰還を待った。今も、待っている。 「この辺なら大丈夫かな……」 人気のない通路に入り、アルミンが独りごちると共に振り返った。 「あねの、ミカサ」 ミカサを見上げた青い瞳が揺れている。その辺の少女よりも余程可憐な相貌は今や青褪め、ミカサの内に芽生えた嫌な予感を急速に増幅させていく。 「落ち着いて聞いてほしい」 耳を澄ませるように一拍置き、そうしてミカサの幼馴染の少年は毒でも飲んだかのように顔をしかめた。 「最前線でエレンを見たという報告が上がってきてる」 「え……」 ミカサの黒曜の瞳が驚きに見開かれた。それは一瞬歓喜に染まり、しかし苦しい表情を浮かべるアルミンの様子に訝しむ。 二人の共通の『大切な人』――エレン・イェーガー。彼の生存が確認されたなら、どうして目の前の幼馴染は諸手を上げて喜ばないのか。そもそも何故エレンは生きているのに自分達の元へ帰って来ないのか。 「アルミン……ねぇアルミン、エレンは」 まさか。いや違うそんなはずがない。しかしもしかしたら。違うに決まっている。ならばどうして戻って来ない。 ミカサは動揺を露わにしながらアルミンの肩を掴み、その青い瞳から真実を探ろうとする。だがアルミンは目を伏せ、小さく首を横に振った。 「まだ未確定の情報だから公開はしていない。だからこの知らせは僕のところで止めている」 でもね、とアルミンは続ける。 「そもそも簡単に他の五家達に伝えられるわけがないんだ。……イェーガー家の人間が敵側に寝返ったなんて」 「どうして裏切っただなんて決めつけるの。エレンが私達を裏切るはずが……」 「決めつけ、か。ただしエレンが敵国の軍服を着ていたのは確かだよ。僕らの国の人間を斬り殺していたのも」 「だったら何か理由があるはず」 ここで別人を見間違えただけだとは二人ともどうしても言えなかった。半年以上、何の手がかりも得られなかったのだ。僅かでもエレンとの再会に繋がる手がかりが欲しい。 「そうだね。でもそれはもっと情報を集めるか……叶うならエレンに直接会ってみないと」 「……」 これまで生存の確認すらできなかった人物に直接会って話を聞くというのはそう簡単なことではないだろう。しかしミカサは噤んでいた口を開いた。 「だったら私が最前線に出る」 「! ミカサ」 目を見開くアルミンにミカサは強い眼差しを向ける。 「アッカーマン家ももう私しかいない。だから私が死ねば、エレンがいなくなって崩れた五家の一角が更に崩れることになる。でもエレンを連れ戻せる可能性があるなら私は躊躇わない。この目でエレンを見つけ、この手で連れ戻す」 ミカサの拳は強く握られ、白くなっていた。 エレンという人間がミカサにとってどれほど重要なのか、わざわざマフラーを外して彼女の首筋に彫られた片翼の刺青を見ずともアルミンは十分に理解している。だからこそ彼女がその身を案じるだけの他人の言葉で止まるはずがないというのも知っている。 「わかったよ」 アルミンは力強く頷き、ミカサに劣らぬ力強い視線で彼女を射抜いた。 「僕が全力で君をサポートする。絶対にエレンを連れ戻そう」 その数週間後、協力者としてジャン・キルシュタインを伴い最前線に出たミカサは、ついにエレン・イェーガーと再会することになる。 「エレンが戻っていない……?」 いつも通り戦場に出たエレンが帰還しない。その知らせを受けて、同じく戦場に出ながらも先に帰還したリヴァイは苛立たしげに表情を歪めた。 エレンは基本的に単騎で行動している。部下からの報告によると、いつもふらりと無言で戻って来るはずのエレンが今日はいつまで経っても基地に帰還していないらしい。負傷等で帰還が難しくなっているのかと、兵を出して確認したものの、その姿はどこにも無かった。死体の顔も念のため確認したので、死亡したわけでもないようだ。 とすれば、考えられるのはエレンがリヴァイを裏切り、母国へ戻ったという可能性。しかし精神的にリヴァイという存在に縛られたエレンがそう易々と再度寝返るとも考え辛かった。 「………………。ああ、あの女か」 リヴァイの脳裏によみがえったのは一度エレンを母国に帰すことになった際、身柄引き受けに来た女兵士の姿。エレンと対になる、リヴァイと同じ黒い片翼の刺青を持つ女だ。 彼女がエレンに強く執着していることはあの一度の邂逅だけで嫌と言うほど理解できた。またエレンよりよほど実力が高いことも。ならば彼女がエレンの情報を得てその身を奪還しようと出て来たのではないか。 有り得ないことではない。むしろエレンが望んで母国へ帰還したという仮定よりずっと可能性が高い。 リヴァイは報告してきた部下にエレンの行方不明についてひとまず秘しておくよう命じ、自分は踵を返す。いつもと変わらぬ態度で自室に戻り部屋に入ったリヴァイは丁寧な所作で装備を外すと、二振りあるサーベルを片方だけ抜刀して、 バシュッ! 傍らにあったソファに勢いよく突き立てた。 「俺からあいつを奪うなんて良い度胸してんじゃねぇか……」 まるでクッションを人の腹に見立て刺し傷を広げるようにサーベルを捻りながら、リヴァイは地を這うかの如き声で告げる。 「ただで済むと思うなよ」 「エレン、私達と一緒に帰ろう」 「オレはそっちには戻らない」 戦場で再会した家族とも言うべき少年はミカサが伸ばした手を拒絶した。 金色の目に光は無く、同族殺しと称すべき所業をエレンが望んでやっているわけではないと分かる。しかしやりたくもないことをし続けるエレンはそれを止めようとしない。 何か理由があるのだ。 「だめ。私はあなたを連れ戻す」 そんなエレンを前にしてミカサが折れてやるわけにはいかない。たとえどんな理由があってもそこから救い出してみせると誓い、「今のあなたがそれを望んでいなくても」ときっぱり告げる。 実際問題、ミカサの方が兵士としての能力は上だ。ゆえにエレンの意志を無視して彼の身柄を確保し、連れ帰ることも無理ではない。しかも協力者としてのジャンの存在もある。 結局、エレンは抵抗して見せたが、ミカサとジャンはエレンを無理やり気絶させて秘密裏に前線基地を経由し本国のイェーガー家へと連れ帰った。 そして気絶していたエレンが目覚め――。 「あの人のところに戻らねぇと」 熱病に浮かされたようにそう呟いて自宅から脱走を試みたため、ミカサ達は彼を拘束するしかなかった。まるでエレンが自分達の敵国に属する捕虜であるかのように。 「アルミン、エレンのあの様子は……」 「落ち着いてミカサ。ちゃんと説明するから」 エレンを連れ戻してから二日後。ミカサ、アルミン、ジャンの三人はアッカーマン家の本宅に集まっていた。 昨日エレンが目を覚ましてほっとしたのも束の間、様子のおかしい彼の様子に三人は戸惑い、ひとまず現在まで泣く泣くエレンを拘束する羽目になっている。どうしても敵国へ――正確には『あの人』とやらの元へ――向かおうとするエレンが異常であることは分かるのだが、何故そうなってしまったのかが分からない。 それに関して、エレンと数度にわたって短いながらも会話する時間を取ったアルミンがようよう見解を告げる。 「エレンがまともじゃないのは見ての通りだ。一応僕達のことは認識できているようだけど、それよりも優先すべき事項が今のエレンにはあるらしい。僕を見て『ごめん、でも行かなきゃいけない』って謝ってきたからね」 「その優先すべき事項ってのがあいつの言ってる『あの人』と何か関係があるのか?」 「だと思う」 ジャンの方を見てアルミンは頷く。 「エレンはね、敵国にいる誰かを守らなきゃいけないって思ってるようなんだ。しかもその気持ちは強迫観念じみている。あの様子じゃ自分の命を投げ出してでも対象を守ろうとするだろう。……僕達が知る中でエレンにそこまで思われるような人間は一人しか思い当たらない」 「………………、まさか」 沈黙の後、ジャンが呟く。三人の脳裏によみがえるのは敵国の捕虜になったエレンが秘密裏に解放された時のこと。彼を迎えに行ったミカサが会ったという男の存在だった。 その男の名は―― 「リヴァイ・イェーガーか……っ!」 ギリッと奥歯を噛み締めて絞り出すようにミカサがその名を口にした。「あいつが、エレンを」と続く言葉は憎しみと怒りに満ちている。 「ちょ、ちょっと待ってくれ! 確かそいつはエレンの実の兄貴なんだよな? でもそれだけで?」 戸惑いながらジャンはミカサとアルミンを交互に見やる。 「確かにエレンにとっちゃそいつは唯一血の繋がった肉親かもしれねぇ。でも前に帰ってきた時、エレンのヤツ言ってたよな? リヴァイ・イェーガーが『人類最強』で、あいつの親父の仇だって。だったら気持ちは複雑だろうけど、憎みこそすれあそこまで狂ったように守ろうなんてするのか?」 「そこだよ、ジャン」 怒り狂うミカサと戸惑うジャン。そんな二人とは対照的に、アルミンは淡々と落ち着いた声音で告げた。 「リヴァイ・イェーガーはエレンにとって特殊な立場にいる人物だ。色々と思うところはあるだろう。でも普通なら≠れ程までにエレンがおかしな様子を見せるはずがない。つまり、エレンは普通じゃないんだ」 一度捕虜になって戻ってきた時のエレンと今こうして取り戻したエレン。再び囚われていた間にエレンは普通ではなくなるようなこと≠されたのだ。 静かな声音に反し、青い瞳が冷たく眇められる。 「僕達と離れている間に、エレンは」 アルミンは右手を銃の形にして人差し指を己のこめかみに突き付けた。 「精神《ココロ》を無理やり弄られたんだ」 アルミンも洗脳の手法に関してはいくらか知識を持っている。実際に自分が他者に対して行ったことはないが、設備さえあれば自己認識の破壊と依存対象の設定・すり替えは比較的簡単であると思っていた。 今のエレンはそれが行われている。自己認識を狂わされたエレンは『唯一残っている肉親であるリヴァイ・イェーガー』を依存対象として設定されたのだ。だからリヴァイ・イェーガーを失えない対象と認識し、その身を守るために傍へ行こうとする。また依存対象と物理的に引き離され、それを守ることができないという現状においてエレンの精神には多大な負荷がかかっており、オーバーヒートして熱病に侵されたような言動をし続けているのだろう。 「エレンを元に戻すことはできないの?」 拳が白くなるほど握りしめながらミカサはアルミンに尋ねた。きっと今もし目の前にリヴァイがいたならミカサはなりふり構わず彼を殺しにかかるだろう。そのためのエネルギーを全て裡に溜めこむようにミカサは普段以上の冷やかさをまとって幼馴染の言葉を待つ。 一方、彼女の問いかけを傍らで聞いていたジャンはアルミンが答える前に目を伏せ、唇を噛み締めた。エレンに関する場合に限り冷静な判断がしにくいミカサとは対照的に、ジャンはアルミンの答えを正確に予想できていたのだ。 「ねぇ、アルミン」 催促する呼びかけを受け、アルミンは目を閉じる。 「無理だよミカサ。エレンを完全な状態に戻すことはできない」 「……ッ!」 息を呑むミカサ。 今のエレンを元に戻せるか否かというのは、割れた花瓶に似ている。粉々になった破片を接着剤で繋ぎ合わせて元に戻しても、それは壊れる前の姿と同じわけではない。つぎはぎだらけの不完全な花瓶になってしまう。一見して元通りになったと思わせる状態にすることは可能かもしれない。しかし自分達がずっと一緒に過ごしてきたエレン・イェーガーを取り戻すことはできないだろう。 「そんな」 「しかも今エレンがおかしくなっている一番の原因は、彼にとっての大切な人がリヴァイ・イェーガーに設定されていることだ。それを治すためには依存対象をリヴァイ・イェーガーから別人に変えればいい。手法としては比較的容易で、エレンへの負担も少ないだろう。でもそうしたところで僕達が一緒に過ごしてきたエレンとは少し違うものが出来上がる。本来の彼と同じ行動を取るようにはなるだろうけど、根幹に異物を挟み込んだ状態であることに変わりはない」 アルミンがそう言い切るとミカサは顔を俯かせた。重力に従いさらりと流れ落ちた黒髪が彼女の表情を隠す。 重い沈黙が三人を襲い、ただただ時間だけが過ぎていった。 だが、 「それでも……それでも、今のままよりは」 苦しみに満ちた声だった。 再び顔を上げたミカサがジャンとアルミンの双方に視線を向ける。 「ミカサ……」 「いいんだね、ミカサ」 「あんな男をエレンの中に留めておくわけにはいかない。たとえ私達のエレンが元に戻らなくても、あの異物だけは取り除かなければならない」 苦悩に満ちた、しかし強い意志が込められた言葉だった。 「……わかった。君がそう言うなら」 先程エレンに関して割れた花瓶に例えたが、それだけだと僅かばかり語弊がある。 今の彼は壊され、『リヴァイ・イェーガーへの依存』という別の破片を混ぜ合わせてその分だけ元の形を少しずつ歪ませながら再構築されたものだ。ミカサ達が望む結果を得るためにはエレンの精神から不要な破片を取り除き、その代わりに別の新たな破片を埋め込む必要がある。 これとは別に、元に戻すという観点では一度エレンの精神を粉々に砕き、『リヴァイ・イェーガーへの依存』を取り除いて更に歪みを完全に戻した方がより良いのだろうが、それではエレンへの負担が大き過ぎ、きっと耐えられないだろう。 エレンを思うからこそ、アルミン達は今のエレンへリヴァイではない別の人間を依存対象として設定しなければならない。依存対象のすり替えを行うのだ。 「リヴァイ・イェーガーを『唯一の肉親』として依存対象に設定しているなら、最もすり替えやすいのは……ミカサ、君だ」 アルミンの言葉は淡々と続く。 「君はエレンの許嫁。血は繋がっていないけど将来的にエレンの家族になる人間だよね。つまりエレンにとってはリヴァイ・イェーガーに次ぐ対象と言っていい」 こくり、とミカサの頭が動いた。頭の動きに合わせて首筋に彫られた黒い片翼の刺青も形を変える。 アルミンは親友として、ジャンは従者としてそれぞれエレン・イェーガーに近しい人物ではあるが、二人ともこの翼は持ち得ていない。ミカサだけが持っているエレンの伴侶たる証だった。 「こんな利用の仕方をしてすまない。でもミカサ、お願いだ。今から君にはエレンの正式な妻になって欲しい」 「問題ない」 首筋の刺青を指で撫で、ミカサは小さな微笑みすら浮かべてみせた。 「私はこの翼をもらった瞬間からエレンの家族。だったらその家族の一番大切な人になるのは自然なこと。少し時期が早まってしまったけれど、嬉しく思いこそすれ悲しむべきことじゃない」 微笑みを浮かべたままミカサは己の左手を持ち上げ、薬指にそっとくちづけを落とす。今はまだ何もないその指へ。 リヴァイへ 勝手に調べたから気に食わないだろうとは思うけど、役に立つ情報のはずだから本部に戻ってきた時に私を蹴り飛ばさないこと。むしろ礼を言うべきだと思うのでそちらを推奨するよ。 ――ハンジ・ゾエ そんなメモと共にリヴァイの元へ一通の手紙が届いたのは、エレンが行方不明になった翌日の深夜。同封されていたのは敵国の首都にあるイェーガー家の住所を示した地図と屋敷の見取り図、そして検問所を通過するための許可証だった。 まだ上には報告していないエレンのMIA(作戦行動中行方不明)の情報を掴み、更にはエレンが捕らわれているであろう場所の詳細まで送りつけてきたハンジの手腕にリヴァイは舌を巻く。イェーガー家をピンポイントで指定してきたことから察するに、彼女はエレンの素性について正しい情報を仕入れているのだろう。なんとも敵に回したくないタイプの人間である。 (ひょっとしたらすでに俺のことも知っているのかもな……) リヴァイの出生について。イコール、エレンとの関係について。 それでもまだこうして秘密裏に手を貸してくれるということは、彼女はリヴァイをただの同僚以上に見てくれているということなのだろう。有り難くもあり、またメモにもあった通り勝手に調べられて腹立たしくもある。だがエレン奪取に関してこれ以上有益な情報はない。リヴァイ一人ではここまで詳細な見取り図は得られなかったはずだ。 「……さて」 見取り図を完璧に頭の中に叩き込んでからリヴァイは必要な事柄を整理していく。 エレン奪還のため一人で敵国に乗り込むこと自体は、リヴァイの実力があれば不可能ではない。ただしそれを軍の上層部に気付かれないようにするには、それなりに裏工作が必要になる。準備に一日……否、半日使って、敵国首都へ乗り込むのに一日。エレンのMIAから三日後の夜には再びこの腕にエレンを捉えてみせよう。 リヴァイは声にも出さずそう誓い、青灰色の瞳を剣呑に光らせた。 高級住宅街とされる地区には建っているものの、特別目を引くような外観や敷地面積を有しているわけではない。イェーガー家の屋敷はリヴァイにそういう感想を抱かせた。だが外から見えない部分――この屋敷には地下室があり、中の様子を外に知られないよう完全な防音設備が備わっている。エレンがいるのはここだろうと言うのがハンジの見解であり、またリヴァイもそう予感していた。 この屋敷の主であるエレンが不在になってしばらく経つが、セキュリティは生きている。それがここ数日で復活したものか、それともエレン以外の誰かが維持し続けていたものかは知らないが、事前に調べた以上のものではないためリヴァイの障害にはならない。闇夜に紛れて屋内に侵入を果たし、リヴァイは地下へと向かう。 地上部分の部屋には灯りが見られなかったが、地下へ通じる隠し階段を降りていけば、長い廊下にはぽつりぽつりと非常灯が灯っていた。その先にあるのは一枚のドア。 リヴァイの両方の腰には大型のナイフがホルダーに収まって装着されている。普段戦場で振るっているサーベルとはリーチの差が比較にならないが、隠密行動を取る時にあのような大物は逆に不便だ。それにリヴァイはナイフの扱いにも長けており、不安はない。 ナイフの柄に触れてその存在を確かめながらリヴァイはドアに近付く。完全防音の部屋からは音も光も漏れていない。しかし、いる。この扉一枚向こうにエレンと、そしてリヴァイの手からエレンを奪っていった者達が。 こんなにも早く奪還しに来るとは思っていなかったのか、それともそもそも敵国の人間がエレンを取り戻しに来ると予想していなかったのか、不用心にもドアには鍵がかかっていなかった。 リヴァイは左手にナイフを握り、右手でドアノブに触れる。そこから先はまさに一瞬。 扉を開けた先の室内は薄暗く、確認できた人影は四つ。うち一つは椅子に座らされており、三つは座っている人物を取り囲むように立っていた。まず最初にドアから一番近い場所に立っていた黒髪の女――ミカサ・アッカーマンが侵入者に気付き振り返る。リヴァイは突入した勢いを殺すことなく床を踏みしめながら左手のナイフを地面と平行に構えた。直後、ミカサが太腿に取り付けていたダガーを抜いて投擲するも、それは横にしたナイフの腹に弾かれる。ミカサの胴はがら空きだ。リヴァイはすかさず防御のない鳩尾に右の拳を叩きこんだ。全身のバネと突撃の勢いを合わせた拳はリヴァイよりも長身のミカサを僅かに浮かせ、そのまま部屋の奥まで吹っ飛ばす。 ミカサの身体が奥の壁に打ち付けられてその衝撃音が耳に入るよりも早く、リヴァイは次の獲物に目標を定める。金髪の小奇麗な顔をした少年は青い目を大きく見開き、リヴァイの姿を見つめていた。だがそれだけで、身体は防御にも攻撃にも動いていない。左手に握っているナイフの柄で側頭部を強打してやれば、あっけなく倒れ伏した。 残った一人は馬面の少年。こちらは金髪の少年よりも動けるようだが、リヴァイどころかミカサにも敵わないだろう。敵の攻撃に備えて構えるものの、リヴァイは隙だらけのその少年に足払いをかけ、バランスを崩した相手の胸倉を掴むと右腕一本で背負い投げた。ぐるんっと少年の身体が空中で回転し、その勢いのまま床に叩きつけられる。 一瞬で三人を行動不能にしたリヴァイはナイフをホルダーに収め、ゆっくりと背後を振り返る。床に固定された椅子に腰掛けるのは、自分達の国の軍服ではなくサイズの合った私服に身を包むエレン・イェーガー。ただし厚手の布でしっかり視界を塞がれ、両手両足は椅子の肘掛と脚に固定されている。口枷のオプションもついており、リヴァイはいつかの光景と同じエレンの姿に知らず眉をひそめた。 「……エレン」 名を呼べば、エレンがぴくりと反応を見せる。顔を上げたものの視線は厚い布によって遮られており、リヴァイの姿を捉えることはない。だが声で誰が目の前に立っているのかは分かっただろう。 リヴァイが拘束を解き始めてもエレンは大人しいままだ。まず両脚の戒めを解き、次は両腕。それから胴と椅子の背もたれを固定していたベルトを外して口枷も取り払う。最後に視線を遮っていた布を解けば―― ダンッ! とリヴァイはバックステップで後退する。直前までリヴァイが立っていた場所を通過していくのは固く握られたエレンの拳。一撃目が躱されたと知るや否や、エレンは右足を踏み出して更にもう一撃放ってきた。リヴァイは左手でエレンの右手首を掴み上げる。 「いっ」 「この部屋の様子から予想はしていたが、どうやら俺は一歩遅かったようだな」 ぎりぎりとエレンの手首を締め上げながら呟くリヴァイ。相対するエレンの双眸はかつて戦場で出会った憎悪まみれの黄金で、ギラギラと光を放っている。だが今のリヴァイはそれを見て歓喜することはなかった。 憎悪と愛情。相反する感情を内包して輝いていたはずの瞳から感情の半分がごっそり抜け落ちていることに気付いたからだ。今のエレンの瞳はただ憎悪だけを湛え、濁っている。それでも十分美しいはずだったのだが、矛盾する感情を抱えたエレンの瞳の美しさを知った今では魅力を欠き過ぎている。 「俺への依存を何かにすり替えられたか」 エレンが放ってきた左拳も難なく受け止めてリヴァイは部屋の奥に倒れ伏しているミカサを一瞥した。彼女の投げ出された左手の薬指には銀色の環が嵌っている。そして同じデザインの物がエレンの左手の薬指にも存在していた。 エレンの両手首を握る手に必要以上の力が籠もる。ギチッと嫌な音がして、エレンが喉の奥から引き攣った短い悲鳴を上げた。 「っ、ぁ……ぐ」 リヴァイの拘束から逃れようとエレンが足払いをかけてくる。児戯にも等しいそれにリヴァイがかかるはずもなく、むしろその動きを逆に利用してリヴァイはエレンを床の上でうつ伏せに押さえ付けた。更に両腕を背中で捻り上げて左手で拘束し、身体の上に乗って身動きを取れなくさせる。 「クソが」 リヴァイは短く吐き捨て、腰のホルダーからナイフを抜いた。逆手に構えて刃をエレンの首筋に当てる。この子供を廃棄≠キるために。 二度の洗脳を受けたエレンはきっとこれ以上精神を弄繰り回す行為に耐えられない。もしミカサ・アッカーマンへの依存を再びリヴァイに対するものへ書き換えようとしたならば、もうこの金色がまともに他人を映し出すことはなくなるだろう。憎悪も愛情もなく、ただただぼやけた虚無が広がるだけ。そんな物に価値はない。 かと言ってミカサへの依存を保持したままでエレンがリヴァイの元へ下るわけがなく、二人は再び敵対する関係となる。黄金の輝きが半減しただけでなく、リヴァイの手元から去ってしまうというのに、何故わざわざ生かしておかねばならないのか。手に入らない宝はゴミ以下だ。 ゆえにこの場で始末をつける。 リヴァイはナイフを持つ手に力を込めた。ぷつり、と首筋の皮膚が切れて赤い玉が刃に沿っていくつも生まれて―― 「……あ?」 唖然とした声で呟く。 それ以上ナイフが動かない。それどころか右手が徐々に震え始めた。カランと高いのか低いのか分からない音がしたと思えば、手からナイフが滑り落ちており、リヴァイは強張った己の手のひらを呆然と見下ろす。 「なんで」 どうして自分はエレンを殺せない? リヴァイの手は難なくエレンの首を掻き切れたはずだった。しかしナイフは己の手を離れ、床の上に転がっている。 何故、どうして、とリヴァイは胸中で自問を繰り返した。洗脳を受けたエレンがリヴァイを殺せないことはあっても、逆の事態になどならないはずだったのに。 「失いたく、ない……?」 意図せずそう呟いた直後、リヴァイは己が何を言ったのか理解するよりも前にエレンの身体の上から飛び退いた。その残像を追うようにダガーを投擲するのはミカサだ。身を起こした彼女はエレンからリヴァイを遠ざけるようにダガーを幾本も放ち、自身はエレンに近付く。本心ではエレンが起き上がるのを手助けしてやりたいのだろうが、リヴァイ相手でその行為は命取りだ。彼女は床に取り残されていた大振りのナイフを掴み、更に床を蹴って跳ぶ。 力いっぱい頭上から振り下ろされたナイフをリヴァイはもう一本持ってきていたそれで弾いた。ギャリッと金属の特有の不協和音が幾度も打ち鳴らされ、その合間に鬼気迫る表情でミカサがぶつぶつと呟く。 「エレンは渡さない。エレンは絶対に渡さない……!」 「チッ、あいつに依存してんのはてめぇかよ」 吐き捨てるリヴァイはミカサの背後で身を起こしつつあるエレンを一瞥し、先程よりも桁外れに重くなった一撃を時に防御し、時に躱していく。今のエレンはミカサを依存対象に設定されているようだが、それ以前にミカサがエレンに強く依存していたのだろう。そして、その依存対象を奪われると思ったミカサの脳内でリミッターが外れた。 だがまだまだだ、と胸中で独りごちながらリヴァイは身体を深く沈める。ミカサが真っ直ぐ放った一撃が頭上を通過するのを肌で感じながら、全身のバネを使って右手に持つナイフを彼女の腹部へ―― 「っ!?」 片足が何者かに引っ張られガクンッとリヴァイの姿勢が揺れる。下を見れば床に倒れていた馬面の少年がリヴァイの足首を掴んでいた。すぐに振り払えたがその一瞬の隙が致命傷になることを本人も攻撃を仕掛けてきた女も知っている。 (――ッ) 殺意にまみれた白刃。それがリヴァイを貫こうとした瞬間、 「ダメだッ!」 何者かに身体を押され、直後、薄暗い地下室に鮮血が舞った。 リヴァイの視界に映り込んだのは美しく輝く黄金が二つ。 2014.04.05 pixivにて初出 |