引き倒したエレンの上に跨り、リヴァイはその首を刎ねようとする。だがふと動きを止めた。
「……殺したらその目が見られなくなっちまうな」
「は……?」
 殺されると思っていたエレンが訝しげな声を出す。しかしリヴァイは構わず、がっちりと少年兵の身体を固定したままサーベルを鞘に納めた。
 ああ、殺してしまう前に気付けて良かった。リヴァイは胸中でそう呟きながら、少し離れた所にいる部下へ命じる。「こいつを拘束する。縄でも枷でも良いから持ってこい」と。
「またオレを捕まえる気かよ」
「そうだが……少し違う」
「あ?」
 ますます訝るエレン。
 金色の双眸はリヴァイに負けてもなおその精神が折れていないことを示している。気を抜けばこちらの喉笛に噛みついてきそうな気迫をたたえてギラギラと輝く美しい黄金。もしエレンが死んでしまえば、この二つの眼球はただのモノと成り果てるだろう。それでは意味がない。リヴァイが欲したのはエレンという人間が発する剥き出しの感情で満たされた二つの宝玉なのだから。
 一度真実を教え、復讐しに来るチャンスを与えたことで、その純度は更に高まった。次はこれを手元に置く方法を取らなくてはならない。
 つまり。
「今度はてめぇを返してやらねぇってことだ」
 駆け寄ってくる部下の姿を視界の端に捉えながらリヴァイは告げた。


 一つの部屋に閉じ込めて枷で繋いで、その精神が保つ限り黄金の輝きを楽しむというのも手の一つだろう。エレンならそう簡単には折れやしないはずだ。しかしそれでは鑑賞の時間が限られてしまう。リヴァイも四六時中エレンを捕らえた部屋に張り付いているわけにはいかない。
 ならばエレンがリヴァイに付き添えば良い。そう考えたリヴァイはエレンを捕らえた後、彼を躾ける≠アとにした。
 怪我を治療したのは前回と同じ。しかし今回は基地内の空いていた個室に放り込んだエレンをベッドではなく椅子に座らせた。その上で身動きできないよう椅子に縛り付ける。指一本一本にも紐で拘束を施した。自殺予防として口枷も以前使ったのと同じ型の物を嵌める。それから部屋に強烈なライトを持ち込み、四方からエレンに向けて照射した。強い光はエレンの視界を奪い、また眠ることも許さない。
 身体を完全に拘束することで触覚を奪い、口枷を嵌めたことで食事がとれない――つまり味覚を奪い、更に光で視覚を奪った。
 人間を洗脳する場合、五感のどれかを奪っておくと効果的とされる。人間は自己を確立する際に相対的な判断を下す――つまり外界からの刺激に対して相対的に自己を認識する生き物だ。それが欠ければ、当然のことながら自己認識が狂ってくる。そして認識を失った者は上書き≠されやすい。
 通常の人間ならば感覚を奪って数時間も経てば精神に異常をきたす。さて、味覚・触覚・聴覚・嗅覚・視覚のうち三つを奪われたエレンはどれだけ保つのか。
 また感覚を奪った上でリヴァイはもう一つの手を打った。鍵となるのはエレンがリヴァイに抱いてしまった『情』だ。
 結果的に数時間では足らなかったので、少量の水だけを与えて三日ほど五感のうち三つを遮断した状態で放置した後、意識が混濁し自己認識もあやふやになったエレンの耳元でリヴァイは囁いた。「お前の兄は誰だ?」と。
 エレンはリヴァイを憎んでいる。それはリヴァイがエレンの父グリシャを殺した『人類最強』だからだ。しかしそれだけではない。リヴァイは今やエレンに残されたたった一人の肉親なのである。両親に大切にされて育ち、父の仇を討つために戦いの前線へ出て来るほど真っ直ぐな子供が、何の理由も無く最初から兄という存在を憎むことはない。しかもリヴァイの首筋にある黒い片翼の対となる白い片翼を持つ弟だ。負の感情どころか正の感情を持ち続けていたはず。それゆえに、リヴァイの正体を知った時の憎しみは倍増しただろうが。
 ともあれエレンにとってリヴァイという人間が特別な存在であることに変わりはない。ならば自己認識を狂わせたエレンにその感情だけを殊更強調してやればどうなるか――……。

* * *

「エレ、ン……?」
 戦場で出会った人物はエレンが生まれ育った国の軍服に身を包み、大きく目を見開いていた。見覚えのある顔だと思ったら、どうやら同じ学校に通っていた元同級生らしい。殊更仲が良かったわけでは無いが、普通に会話を交わすクラスメイトだったはず。
 その見開かれた目に映るエレンは彼と異なる軍服に身を包んでいた。「なんで」と合わさった剣の向こうで相手は動揺を露わにする。
「……」
 だがエレンは答えない。無言のまま腕に力を込め、相手の剣を叩き折る。武器を失った相手は、そのまま刃を自分に向けるエレンを見つめて声を震わせた。
「やめてくれ……」
「……」
「なあ、エレン。なんでお前がそっち側にいるんだよ」
「……」
「アッカーマンさんもジャンも心配し――」
 最後まで言わせる前に白刃で相手の心臓を貫く。物言わぬ存在に成り果てた『敵』を何の感情も映さぬ瞳で見下ろし、エレンは次の『敵』を求めて走り出した。


 今のエレンにとってリヴァイという人間は『己の手元に残った唯一のもの』だった。彼が自分の生まれ育った国の敵であり、父の仇であることは十分理解している。しかし同時に狂おしいほど大切なただ一人の肉親でもあるのだ。
「俺が憎いか、エレン」
 戦場から戻ってまだシャワーも浴びていないというのに、白い手袋に包まれた手は厭う様子も無くそっとエレンの頬を包み込んで撫でる。それにすり寄るように頭を傾けながらエレンは瞼を押し上げた。薄い皮膚の向こうに潜んでいたのは憎悪と嫌悪が滲んでギラついた黄金。「当たり前だ」と問いに答える声も負の感情で満ちていた。
 しかし己を撫でる手にすり寄る姿は愛猫が主人に懐くかのごとく。更にはその手を取ってギラついた視線を主人から逸らすことなく指先に口づけてみせた。
 視線と声、動作の不一致。だがこれこそが今のエレンの常態だ。
 睨み付けた先の男――実兄であるリヴァイ・イェーガーは、そんなエレンの様子に満足そうな笑みを浮かべた。デフォルトが無表情かしかめっ面の二択という男なので、ここまで表情が変化するのも珍しい。が、珍しいという表現はエレンの前では当て嵌まらない。エレンがこの食い違うような状態を示した時、リヴァイは必ずと言って良いほど笑うのだ。
 二度目に捕らえられた後、エレンの心は壊れてしまった。精神が完全に折れたわけではない。しかし正常に動いていた歯車に別の部品が組み込まれたような、正しく映像を映していた画面に奇怪な色のフィルターを貼り付けられたような、『普通ではない』状態に変えられてしまったのである。
 分かっているのに戻せない。憎いはずの人間が、同時に愛しくて仕方ない。絶対に失くせないと思う。自分が生まれ育った国にいる仲間達を捨ててさえ。
「そうか、俺が憎いか」
 唇を弧の形に歪ませながらリヴァイは笑い、エレンの腰に腕を回して抱き寄せた。脚を曲げさせて身長差を失くし、ギラつくエレンの双眸を間近で見つめる。
 そして互いの唇に吐息さえ感じられるような距離で男は告げた。
「だが戦え。俺が命じるままに」
 敵はエレンのかつての仲間達。
「友だった者の血を浴びてもっと俺への憎悪を強くしろ」
 身体はリヴァイの命令に従順だった。ゆえに言われた通りに戦場に出て祖国の人間を殺し、同時に憎悪は強くなっていく。しかしそれでも唯一を失いたくないという声が頭の中に響く所為でエレンはこの男を殺せない。
「そして、もっと俺にその目を見せてくれ」
 唇が触れ合った。
 瞬間、湧き上がるのは嫌悪と憤怒と愛情と憎悪と殺意と歓喜と吐き気と快感と。
 歯列を割って侵入してきた舌が上顎を撫で、奥に縮こまった舌を無理やりに絡め取る。目はどちらも開けたままだ。「あふ」と小さく吐息を漏らせば、至近距離で青灰色の双眸が細められた。きっとそれを見返す自分の目はリヴァイの好む色と輝きを放っているのだろう。
「ぁ……ん、っ……う、んん」
 息が苦しくなりエレンが不平を漏らせば、ちゅ、とこの関係に似合わぬ可愛らしいリップ音がして唇が解放される。二人の間を銀糸が繋ぎ、ぷつりと切れた。
「こ、の……変態野郎」
 エレンの毒舌にも男は気分を害さない。
 ああ本当になんて変態野郎なのかと、エレンは胸中でもう一度毒づく。
 この男はエレンと同じ性別であり、しかも血の繋がった兄弟で、更には今やこの身の全権を握る主人であり上官だった。にもかかわらず、男はエレンを愛で、エレンを甘やかし、エレンの暴言を許し、エレンの尊厳を踏み躙る。
「エレン、返事は?」
 嬉しそうに甘ったるい声で名を呼びながらリヴァイは尋ねる。エレンは奥歯を噛み締め、相手を睨み付けたまま絞り出すような声で答えた。
「Ja.」







2014.03.13 pixivにて初出