「ははっ……やった」
成し遂げた後もエレンはそれを奇跡だと思った。一体どんな偶然が働いたのか、エレンが放った一撃は相手の首を刎ね、相手が放った一撃はエレンの目のすぐ近くを掠めるだけに終わった。 ごろり、と。胴体から切り離された頭部が転がり、エレンはよろよろと近付いてそれに手を伸ばす。目は開いたまま。触れた肌はまだ温かい。頬に砂がついてしまっていたので無意識のうちにそれを払い落とした。 首の断面からはまだ血が滴っており、頭部を両手で抱えたエレンの服に黒ずんだ赤色の染みを落としていく。だがそもそもエレンの軍服も戦闘の中で切られ、裂かれ、自らの血で汚れていた。どうせもう二度と使えない服がこれ以上汚れても気にするようなことではない。 人間の頭って結構重いんだな、と胸中で呑気な感想を呟きながら、エレンは焦点の合わない青灰色の双眸を見つめる。父にも母にも似ていない。しかしエレンの血筋にはこの色を持つ者もいたらしいので、きっと隔世遺伝というやつなのだろう。イェーガー家は親戚内での婚姻が盛んに行われているため、劣性形質が隔世で発現しやすい。 青みを帯びたシルバーグレー。まじまじと見たのはこれが初めてだ。エレンの金眼とは正反対の静かな色合いは純粋に美しいと思えた。が、それは今後決して輝くことはなく、ただ腐っていくだけである。ホルマリン漬けにすれば保たれるだろうか? ……否、あれではこの珍しい色味は保たれない。 そう、これは失われてしまったものだ。 この男が化け物でもない限り、首を刎ねた今、目は二度とエレンに焦点を結ばないし、薄い唇は言葉を紡がない。この国のスラム街に捨てられ、そこで育ってきた彼の口から何を考えて生きて来たのか語られることはない。何を思ってエレンに触れたのか、真意は何か。 (いや……真意を知りたいんじゃない。オレは) 失血のし過ぎだろうか。それとも望みを叶えて燃え尽き症候群にでも陥ってしまったのだろうか。 ぼんやりとした頭でエレンは自分が刎ねた男の顔を見つめる。少し腕が疲れてきたので、抱きかかえるようにして持ち直した。首から滴る血が更に服を汚す。 周囲のざわめきが遠い。自分達の指揮官を失って呆然としているのか、逃げたのか、仲間が残存兵を引き受けてくれているのか。少なくともエレンを殺しにやって来る敵兵はいないようだった。だからこんなにも無駄に思考に耽る時間が生まれてしまう。 エレンの腕の中にいるのは敵だった。親の仇だった。戦場に出ている敵兵達の支柱であり、国を挙げて狩るべき命であった。人類最強などというふざけた呼称さえ背負ってしまえるつわものだった。 そして、 (オレの兄さん) エレンと同じイェーガー家の血を持つ、親の顔さえ知らない中で自らにリヴァイと名づけた男。 相手の血で指を濡らしながらエレンは己の中にある敵意や殺意が形を失っていくのに気付いた。役目を終えた今、その感情はもう必要ないということなのか。自分のことなのに理解できず、ただ推測だけが泡のように浮かんでは消えていく。 (やめろ、気付くな。考える必要のないことだ) 殺し終えた相手への殺意が消え、残ったのはそれ以外の感情。 エレン・イェーガーが、人類最強にではなく、リヴァイ・イェーガーに対して抱いたもの。 (さあ、立て。立ち上がれ。この首を掲げてオレ達の勝利宣言を。その後で軍本部に持ち帰ったら……あれ、どうなるんだろう。この首はどんな目に遭うんだ?) 文字通り血の気が引いた頬をもう一度撫で、その行く末を思う。 この男はエレンの父だけでなく、これまで沢山のエレン側の兵士達を殺してきた。ゆえにこちらが抱く恨みは大きく、深い。ならばまず無事には済まないだろう。折角こんなにきれいな顔をしている、のに。 「あ……」 頬を撫でていた手が滑り、首筋に触れた。耳から数センチ下に彫られているのは黒い片翼。エレンの対。 「ああ……」 彼は、エレン・イェーガーが幼い頃から憧れていた兄だった。 「あああああ……」 その兄は失われてしまった。エレンが失わせた。 兄が化け物でもない限り、首を刎ねた今、目は二度とエレンに焦点を結ばないし、薄い唇は言葉を紡がない。この国のスラム街に捨てられ、そこで育ってきた彼の口から何を考えて生きて来たのか語られることはない。何を思ってエレンに触れたのか、真意は何か。彼は。エレンの唯一の肉親は。 (オレを愛してくれていただろうか) だって兄弟だったのだ。血を分けた兄と弟だったのだ。エレンが崇拝にも似た憧れを抱く人だったのだ。エレンの片翼だったのだ。しかしその片翼は失われた。エレンが殺した。 「ああああああああああああああああ、あ」 だから。 「あはっ」 戦場の真ん中で幼子のように笑う。 己が犯した所業の重圧に耐えられず、二度と空を飛べない金眼の獣は自ら狂ってしまうことにした。 2014.03.13 pixivにて初出 |