エレンが属する国には五家というものがあり、その五つの一族はそれぞれ特別な紋章を持っていた。それらは生まれてすぐ身体の一部に刺青として彫られ、己の立場を示すものとなる。
イェーガー家は片翼のモチーフ。ただし他の四つの家が一つずつ紋章を持っているのに対し、イェーガー家は少しだけ違う。エレンが首筋に彫っているのは白い翼だが、もう一種類――黒い翼の刺青もあるのだ。そしてイェーガー家では白い翼の者には黒い翼の者が、黒い翼の者には白い翼の者が伴侶となるしきたりがあった。他の一族から嫁または婿を迎える場合も同様で、婚姻が決まった時点でその相手には対となる翼が彫られることになる。 また婚姻相手とは別に、同性でも白と黒の対は大切なものとして考えられていた。 たとえば兄弟間で白と黒の翼をもつ場合がある。これは兄弟仲良く、共に支え合って生きて行けるようにと願いを込めたものだ。そしてエレンもまた、エレンが生まれるずっと前に死んだ兄≠ェ黒い片翼の持ち主であったため、白い片翼を与えられた。会ったことも無い人物ではあるが、それでも兄の加護が弟にありますようにと両親が望んだ結果だった。 自分の兄が生きていればどんな人だっただろうと、エレンは憧れにも似た感情を抱いている。母は病死、父も戦場で殺されたため思い出話すら聞くことはできないが――……否、だからこそ自分の対となる翼を持つ兄という存在を、彼への思いを、エレンは大切にしていた。 「おい、クソガキ。メシの時間だ」 捕虜に向けるには適した台詞。しかしエレンが置かれている状況は、豪華ではないが清潔なベッドと明るい部屋であり、そして三食きっちり持ってくるのは看守や見張りの下級兵士ではなく敵国前線基地の指揮官だった。 指揮官の名前はリヴァイ。だが呼んでしまえば情が湧くと知っているエレンは、相変わらずその男を「おっさん」や「あんた」と言う。そんな配慮をする時点ですでに彼をただの敵兵として見られなくなっていることに薄々気付きながら。 ここに囚われて数日経つが、相変わらず怪我の所為でベッドの上での生活が続いている。ただし口枷が無くなり、手の拘束が背中側から腹側に変わったため、エレン一人でできることが多くなっていた。食事もその一つで、時間はかかるが、リヴァイの補助なく平らげられる。特に今日のようなサンドウィッチの類ならば、フォークやスプーンを用いる場合よりも簡単に済んだ。 おそらく運ばれてくる食事がエレンの状態を考慮したものだということには気付いている。スプーン一つ、フォーク一つで食べられるもの、その際に複雑な動き――例えば麺類などが該当する――を必要としないもの、更には手掴みで食べられるもの。そういった食事ばかり出てきたからだ。 マズイな、とエレンは思う。 自分は捕虜であるはずなのに未だ情報を引き出すための無体はされず、それどころか怪我人として丁重に――それこそこの国の一般兵よりも手厚く――扱われている。その所為で自分が絆されかけているのを理解していた。リヴァイの名前を頑なに口にしないのもそれがあるからだ。これ以上敵の兵士に心を許してはならない。この男はエレンの敵だ。たとえベッドの端に腰掛け、敵意が感じられない目でこちらの食事風景を眺めていたとしても。 「……」 パン屑が落ちても大丈夫なように腿の上に置いていた白い陶器の皿へ、エレンは食べかけのサンドウィッチを戻す。 「どうした。嫌いな物でも入っていたか?」 食事の手を止めたエレンを訝るリヴァイ。冗談交じりにそんな台詞まで付け加えてきた。まるで気の置けない仲間のように。 「……」 「……」 沈黙を守るエレンに対しリヴァイもまたこちらの様子を探るように黙り込む。 しかし彼は何を思ったのか、「なぁ」とエレンに呼びかけた。 「飯が不味くて食えねぇなら、代わりに少し俺の話でもしてやろうか。暇潰しくらいにはなるだろう?」 リヴァイがそう語り出したので、エレンは「ひょっとしてこの男は本当にオレを籠絡しにかかっているのだろうか」と思った。食事や住環境に気を配るだけでなく、リヴァイ本人について話し始めるというのは、そうとしか考えられない。ならばエレンはここで耳を塞がなくてはならない。リヴァイを知ってはならない。これはエレンの敵≠ナあり、リヴァイと言う名の人間≠ナはないのだから。彼を一人の人間として見てはいけないのだから。 だと言うのに、エレンは耳を塞げない。そもそもエレンの両手はガッチリと拘束されている。これでは片方の耳しか塞げない。しかもエレンはリヴァイの声に反応して視線をそちらに向けてしまった。リヴァイの顔を見て、その口元が僅かに弧を描いていることに気付いてしまった。 「俺は今じゃ一応佐官だが、他のボンボン共とは違ってこの国のスラム街で育った。親なんかいねぇ場所だ。だから当時は自分がなんでそこにいるのかなんて知らなかったし、そもそも考える余裕も無かった」 クラバットをして貴族的な雰囲気まで出しているくせに、この男はそれとは正反対の場所で育ったのか。確かに戦場で初めて見(まみ)えた時のことを思い出せば、あの凶暴そうな顔は貴族よりもゴロツキの方が相応しい。 「だが地位が上がるにつれて少しばかり余裕ができてな、気まぐれで調べてみればこれが嗤うしかない結果だった」 リヴァイは肩を竦める。 「どうやら俺は幼い頃に誘拐されてこの国に捨てられたらしい。おそらく人質として利用するつもりだったんだろうが、俺の家と国はそれに応じなかった。誘拐犯に殺されなかったのはただのラッキーだな」 両国がその事実を公にしなかったのは、奇跡的にその時だけ停戦状態だったからだ。二つの国は一部の人間が暴走して引き起こした事件によって両国の間に大きな戦争が再発することを恐れた。残念ながら、その後すぐ別の要因によって戦争は再開されてしまったが。――とリヴァイは付け足す。それを聞いてエレンは、はく、と不安定な呼気を漏らした。 この国が長い間争っている国は一つしかない。そして約三十年前、一時的に停戦状態になっていたことも歴史の教科書に書いており、エレンはその箇所を学校で習った記憶がある。 「まさか」 エレンが漏らした言葉にリヴァイは「ああ」と頷いた。 「俺は元々お前の国の人間だ」 だったらどうしてその国の兵士として戦っているのか、こちらに戻って来てくれないのか――と、エレンに問うことはできない。リヴァイの人生を狂わせたのはこの国だが、それを助長させたのは、リヴァイを見殺しにしたのは、エレン側の国なのだから。 ひょっとしてリヴァイがエレンに酷いことをしたり優しくなったりしたのは彼の過去が原因なのだろうか。そう考えたエレンは、ますますリヴァイに気を許し始めていた。 そんなエレンをリヴァイの青灰色の瞳がじっと眺める。そして、 「まぁそんなことはどうでもいいんだが」 「……は?」 何の重さもない、心底どうでもいいという感情を露わにして告げたリヴァイに対し、エレンは目を点にする。そんなエレンを眺めながらリヴァイは口元を歪めた。 「クソガキ、てめぇの父親は俺の国の兵士に殺されただろう?」 「なに、を」 それは今ここで確認すべきことなのか。それに何の意味があるのか。エレンは視線で問うものの、構わずリヴァイの声は続く。 「グリシャ・イェーガー、だったか。当時、五家の当主の一人だったな。だから相手に大した戦力もないことを知りながら、俺の国はそいつを確実に殺すために『人類最強』まで投入した」 「ッ!」 「てめぇ、親の仇を殺したくてあんな無茶な真似をしやがったな?」 あんな無茶な真似、とはエレンがリヴァイに斬りかかってきた一件のことを指している。本来、五家の一人であるエレンは戦場に出るにしてももっと後方に配されるべきなのだ。しかしエレンは前線も前線、敵地へと真っ先に、そして真っ直ぐに斬り込んできた。リヴァイはエレンの素性だけでそこまで推測してみせたのだ。 「その顔、大正解ってところか。てめぇの表情は読みやすいな。……そんなクソガキに一つ朗報だ」 親の仇である『人類最強』の名を出されて殺気立つエレンにリヴァイは口元の歪みを大きくする。この変化はエレンを捕まえて虐げた時と同じだ。その顔で「朗報」と言われても、ろくでもないことは簡単に予想できた。 悪意の籠もる顔を向けられ、エレンの中に生まれ始めていたリヴァイの偶像が崩れていく。そして、次の一言が徹底的にそれを打ち砕いた。 「てめぇの探してる兵士は俺だ」 はく、とエレンの口が開閉する。 声を出せないエレンにリヴァイは改めて言った。 「この国で誰よりも多く敵兵を殺し、『人類最強』なんて馬鹿げた名前で呼ばれ、そして臆病な上層部の命令に反対することなくお前の父親を殺したのは、俺だよ」 「……ッッッ!!!」 カッと頭に血が上る。怪我をしていることなど思い出しもしなかった。痛みと傷が開くことを恐れて動かなかっただけで、エレンの身体は骨格的には動かすことができる。 リヴァイの言葉を理解した瞬間、エレンは腿に乗せていた皿を鷲掴み、それをサイドテーブルに叩きつけた。バキンッという音と共に割れた皿の破片を両手で握り締め、エレンはベッドの端に腰掛けるリヴァイを強襲する。 エレンの握り締めた大きな皿の破片がリヴァイのクラバットを僅かに掠めた。しかし本人には届かない。それどころか、 「いッ」 「そういや、もう一つ言っておくべきことがあった。……なぁ、てめぇは『これ』の意味を知っているか?」 破片をナイフ代わりにして振り抜いたエレンの腕を掴み、圧倒的な握力でぎりぎりと締め上げながら男は己の首筋をエレンの眼前に晒す。 自分を殺そうとした相手に急所を見せるなんてとんだ馬鹿だと、普段のエレンなら嘲っただろう。しかし今だけは言葉を失い、相手の首筋にあるものを凝視せざるを得なかった。 「そ、れは……」 「俺が『これ』の意味を知ったのは軍に入ってからだったけどな。と言うかこれのおかげで俺は自分の出生を知ることができた。しかしまぁ、それを知りながら自分の父親を殺した$l間をきっとお前は許さないだろう。お前は馬鹿がつくほど真っ直ぐだからな」 「っ! 当たり前だ!!」 「ああ、いい目だ。やっぱりお前はその目が一番いい」 捕えられた腕を支点にしてエレンが脚を振り上げる。しかし渾身の一撃はあっさりとリヴァイに躱され、それどころか逆に腕を捻られて更に拘束が強まった。 「離せ!!!! このクズ野郎!!!!!」 絶対に許さない。あれは、リヴァイの首にあったものは――。 両目に殺意と憎悪をふんだんに込め、エレンはリヴァイを睨み付ける。頭の中で「殺してやる」という言葉が呪詛のように繰り返された。 しかし、 「今日は終いだ。続きは次会った時してやる」 「は!? ふざけ……ッ」 かくん、とエレンの身体から力が抜ける。それを支えたリヴァイは左手を手刀の形にしており、これでエレンの意識を奪ったことを示していた。 「これでまたお前のその綺麗な金色が俺だけを見て、怒りと憎しみに燃えるんだろうな」 楽しみだ。 リヴァイはそう呟き、エレンを横抱きにしてベッドの上に戻してやる。その後、自分が自室でエレンを捕えている事実を知る部下の一人を呼び出し、こう命令した。 「上の豚共に知られないよう向こうの国に連絡しろ。お前らの大事なガキを返してやる、とな」 2014.03.06プライベッター(フォロワー限定公開)にて初出 |