薬が効いたのか、エレンが一晩寝て起きた時には熱も下がっていた。
あの後、ここの主は部屋に戻って来なかったらしい。ひょっとするとエレンが眠っている間に帰っていたかもしれないが、少なくとも今はいない。 窓から入り込む太陽光の角度から察するに、今は午前七時頃だろうか。喉の渇きを覚えてサイドテーブルを見れば、敵国の少佐であるあの男が持ってきた粥と共にコップに入った水がまだ置かれていた。少し埃が入ってしまっているだろうが、飲めないわけではないだろう。 エレンは腹に力を込めないよう慎重に起き上がる。しかしここで問題が発生した。上半身を起こしたは良いものの、未だ両手は背中側で拘束されており、どう頑張ってもコップを持てそうにない。深皿に入った粥ならば――口枷の形が細い円筒状なので――直接口を付けて犬食いすることも可能かもしれないが、あの男がエレンを「駄犬」と称したことを思い出し、そうする気にはなれなかった。 (くっそ) 加えて、口枷の所為で悪態一つ満足に吐けない。 悔し紛れにしばらくガチャガチャと手枷を鳴らしていたが、やがてエレンは枷を外すのを一旦諦め、他に何か無いかとベッドから降りようと―― 「う〜〜ッ」 したものの、踏ん張りきれずに落ちてベッドの脇にうずくまった。 これはマズイ。歩くどころか立てないし、ベッドから落ちてしまったまま戻ることすらできない。床には絨毯もなく木製の板が貼られているだけで、怪我人が身体を横たえるには不適切すぎる条件だ。 冷たい床の上にうずくまってエレンは痛む身体にきつく目を閉じる。腹の傷口が熱を持ち、そこに心臓があるかの如くどくどくと強く疼いた。 そんな時、カチャリと鍵の開く小さな音が耳に届く。扉へ視線を向けると、ゆっくり開いたその向こう側からあの男が姿を現した。 「っ! このクソガキが……!」 ベッドの脇にうずくまるエレンを見つけて男が駆け寄ってきた。若干くたびれた感があり、また服から酒と煙草の匂いがする。エレンは顔をしかめたが、相手はそれに気付かず、悪態をつきながらエレンをベッドの上に戻した。 「勝手なことしてんじゃねぇよ。まだろくに起きられやしねぇくせに」 「ううへえ、さあうあ!」 (うるせぇ、触るな!) 「触るなってか? 床で寝るのが趣味なんて、奇特なヤツだな。……冗談だ。水でも飲みたくなったか?」 睨みつけるエレンを、男は腕を組んで見下ろす。エレンがベッドから落ちた理由も分かっているくせに、わざわざ疑問形にするのが忌々しい。 「飲ませてやろうか」 「あえあてええあんあのえをかいうか!」 (誰がてめぇなんかの手を借りるか!) 「そう嫌がるな。しかし水を飲もうとするってことは、少しは自殺する気が無くなってきたってことか?」 「……」 エレンは黙秘する。しかし図星ではないわけでもなかった。 二度も自殺に失敗したのと、更には熱も下がって体調が回復傾向にあるためか、エレンの思考からは徐々に悲壮さが抜け始めていたのである。 どうせ死ねないならば、逆にさっさと身体が動くようにしてこの男を出し抜いてやる。あわよくばこちらを舐めてかかっている男にぎゃふんと言わせてやろう、と、そう考えられるようになっていた。 加えてこの男はこの前線基地内で重要な役割についていると見える。まだ少佐という地位ではあるが、准将来訪時に応対していたことから察するに、基地の代表なのかもしれない。だったらエレンがこの男に一矢報いることで、敵の前線部隊に大きな混乱をもたらすことができるはずだ。 (でもさすがにこの基地にいるっていう『人類最強』には手が出せねぇか) 名前だけが有名で顔を見たことはない相手だ。強さの点でも、本人を探し当てるという点でも、そこまで高望みするのは今の状態で無謀というものだろう。たとえその人類最強とやらがエレンが本来狙う相手であっても。――そう、熱で朦朧としていた時はネガティブな思考しかできず思い出せなかったが、エレンにはどうしても殺してやりたい人間がいる。 ゆえにまずは身体を回復させること。それを念頭に置かなくてはならない。そしてきちんと回復し、ここを脱出して体勢を立て直した後は『人類最強』を――かつて戦場でエレンの父を殺した相手を、この手で殺してやるのだ。 「だんまりか。まぁ別に構わんが……………………、へぇ」 エレンと目を合わせた男が感心したように口の端を緩く持ち上げる。 「てめぇ、熱出してた時よりも良い顔するようになったじゃねぇか」 悲壮さが抜けたエレンの顔を見つめながら男はそう言い、「まずはこれか?」とガラスのコップを持ち上げてたぷりと揺らす。どこか満足げな表情をしているように見えるのはエレンの目の錯覚か、それとも。 「これなら口枷を外しても大丈夫そうだな」 悔しいことに相手はエレンの心情の変化を見事に察しているようだ。こちらが自殺の意志を失った途端、男は一旦コップを元に戻してエレンに反対側を向くよう指示する。それに従って男に後頭部を向ければ、口枷のベルトが緩んで呆気なくベッドに落ちた。 久々の自由を取り戻した口はまだ感覚を取り戻せておらず、エレンはもごもごと動かす。その視界の端では男がベッドの上に落ちた涎まみれの枷を摘まみ上げ、「汚ねぇ」と毒づいていた。 「あんたが嵌めたんだろうが」 「まぁな」 何がそんなに面白いのか、言い返すエレンに男は苛立つことなく肩を竦めて答える。それどころか青灰色の瞳はしっかりとエレンの金眼を捉えており、こちらの反抗的な態度を楽しんでいるようですらある。 思い返してみれば、この男は最初からこうだった。 (舐めやがって) 胸中で毒づき、おそらくはそれが顔に出たのだろう。見据える先の男の機嫌がまた少し良くなったように感じられた。とは言っても、どうやら相手はあまり表情を変化させるタイプではないらしく、ほんの少ししか変わらなかったが。 男はエレンから外した口枷をサイドテーブルに置き、改めてコップを手に取った。さすがに手枷を外してはくれないようで、そのままエレンの口元にコップを持ってくる。渋々口を付ければ、久々に触れた水の感触に我を忘れてすぐに飲み干してしまった。 口の端から零れた水が顎を伝う。手枷の所為で拭えずにいると、白い手袋に包まれた指が強めに皮膚を擦って拭いとった。 「何すんだよ」 「見苦しいから拭いてやっただけだ」 そう言って男は空になったコップをテーブルへ。次いで粥の入った深皿を一瞥し、 「……一晩で腐ったりはしないだろう」 と言いつつ、皿と匙を手に取った。 「え」 「何をしている。口を開けろ」 ずいとエレンの前に差し出されるのは匙に乗った粥。そしてその匙を持っているのは当然のことながらエレンが殺してやるとすら思った敵国の少佐である。 「いやいやいやいや、この枷外してくれたら自分で食うし! 何なら犬食いだってしてやるよ!?」 「はあ? 枷がなきゃてめぇ何するかわかんねぇだろうが。犬食いも駄目だ。んな汚ねぇこと、この部屋でさせられるか」 「だからってそれは無い!」 「こうでもしなきゃてめぇはずっと飯抜きだぞ」 更にずいと差し出される――と言うより、もう唇に押し付けられている――粥・オン・ザ・匙。 「〜〜〜ッ」 これもこの男を出し抜くため! と腹を括り、エレンは口を開いた。中に入ってきたのは紛れもなくミルク粥で、少なくとも自分が知っている毒の味はしない。ただ冷たいだけだ。 一度やってしまえば、二口目からのハードルも低くなる。必要なことだと念じながら無心で食べ続けた結果、十分ほどで皿の中身は空っぽになった。エレンの精神力も一時的に空っぽになったが。 「なさけねぇ……」 ぼそりと呟いて項垂れるエレン。今後毎食こんなに疲れる羽目になるのかと考えるだけで、食事で得たエネルギー分を全て消費してしまいそうだった。 そんなエレンを見下ろす男は小さく「ふむ」と考え込み、「身体ごとあっちを向け」とエレンに指示をする。 「あ? 何だよ」 「いいからあっちを向け」 「……はいはい」 男の眉間に皺が寄ったのを見て、エレンは言われた通りに身体をねじる。じくり、と腹が痛みを訴えたが、熱を出したまま暴れた時よりはずっとマシだ。 エレンの背中側で男が何やらごそごそとやっていた。しばらくすると、パチンと金属の弾けるような音がして両手首から圧迫感が無くなる。が、すぐに男が背中から覆い被さって来た。 「はあ!? おっさん、やっぱそっちの趣味が」 「ねぇよ、駄犬。枷を付け直すだけだ」 そしてガチャ、という金属音。エレンの両手は背中側でなく腹側で再びがっちりと拘束されてしまった。 「これで多少は自分で自分のことができるだろ」 「……」 確かにそうなのでぐうの音も出ない。不服そうな顔をするエレンを見下ろした男は僅かに口の端を持ち上げ、笑っているように見えた。戦場で最初に見たのとは全く異なり、どちらかと言えば穏やかな表情にエレンは毒気を抜かれる。 「一体何なんだよ、あんた」 「お前の敵国の兵士だな」 「んなことは分かってるっつーの」 「じゃあ何て答えて欲しいんだ?」 「……名前、とか?」 「自分を斬った敵兵の名前を知りたがるなんざ、相当変わり者だな」 「自分が斬った敵兵のちんこを触ったり目玉を舐めたりする男も相当な変態だと思うぜ、おっさん」 意趣返しにそう言えば、男の眉間の皺が深まった。それから長い溜息を吐き、男はぼそりと答える。 「リヴァイだ」 「へ?」 「俺の名前だ、駄犬」 「オレは犬じゃねぇ!」 「はいはい、クソガキだな」 「ッッッ!!!」 怒りに顔を染めるエレンだが、それを見てリヴァイがまた微かに笑った。これで枷や怪我のことがなければ、まるで年の離れた友人か兄弟の喧嘩(ただし年上が断然優勢)であるようにも見えただろう。怒り心頭のエレン自身がそれに気付くことはなかったが。 ギラギラと輝く瞳が美しい獣を拾ったが、獣は人に絆されやすい性質であったらしい。少しリヴァイが優しく接しただけで気を抜いた獣は、幾分警戒心を薄れさせ、年相応の軽口を叩くまでになった。 それも別に悪くはない。だがリヴァイを心から震わせ、陶酔させるのは、あのギラついた黄金の双眸だ。敵意と憎悪と殺意にまみれ、リヴァイだけを見つめる瞳。思い出しただけでセックスなど比べ物にならないほどの快感が背筋を駆け抜けた。 あれをもう一度見たい。叶うならばもっと強いものを。 ならばどうすればいい? 自問し、そしてリヴァイは答えを出す。 一度気を許した者に裏切られた時、人は以前と比べ物にならない憎悪を抱くと言う。ならばエレンにもそうすればいい。幸いにもあれは絆されやすい獣だ。そしてリヴァイにはあれが持ってしまった情を盛大に裏切るためにぴったりな過去の所業があった。 「これが運命ってやつか……?」 リヴァイの過去も、エレンの過去も、リヴァイがエレンを一目見て己の獲物と定めたことも。 「だったら神とやらに感謝してやるのも吝かじゃねぇな」 リヴァイはクラバットの上から己の首筋を撫でる。耳から数センチ下の部分を。 彼の胸に光るのは、階級を示すのとは別の勲章。この国一番の人殺しであることを証明するものである。――くつりくつりと低く笑うその男は、自国だけでなく敵国からも『人類最強』と呼ばれ、恐れられる存在だった。 2014.03.05プライベッター(フォロワー限定公開)にて初出 |