エレン・イェーガーはとても貧しい家の子供でした。大きな金色の目がたいそう可愛らしい男の子でしたが、家が貧しいため靴を買うこともできず、夏は裸足で、冬はあつぼったい木靴を履いて過ごしておりました。ですからエレンの足の甲はすっかり赤くなってしまい、いかにもいじらしく見えました。
母親はそんな息子にどうにかしてちゃんとした靴を履かせてやりたいと思い、ある時、美しく伸ばしていた髪を切ってそれをお金に変えました。髪は女の人にとってとても大事な――時には命よりも大事な――ものでしたが、愛しい我が子のためとあらば躊躇いなどありません。 髪を売って得たお金で、母親はエレンに赤い布でできた靴を買ってやりました。赤と言えば、世間的には男の子より女の子の色とされています。それなのに母親が赤い靴を買ったのは、彼女の目が色を見分けられなくなっていたからでした。 我が子を大切にしたい母親は自分の食べ物をエレンに与え、また病気になっても医者にかかろうとはしません。ですから彼女の身体はだんだんと弱り、しまいには目もたいそう悪くなっていたのです。 エレンはそれを知っていました。知っているのに自分が何もしてあげられないことを悔しく思っておりました。また母親に愛されていることをとてもとてもよく理解しておりましたので、母親が女の子用の赤い靴を買ってきた時も嫌がるどころか大変喜び、何度もありがとうと繰り返しました。薄い布でできた粗末な靴ではありましたが、それはエレンの母親の愛が籠もった靴です。赤い布の靴はエレンの小さな足を何よりも深い優しさで包んでくれたのでした。 しかしそれから季節が一回りする前にエレンの母親は天に召されてしまいました。やはり無理が祟ってしまったのです。そして不幸は続きます。エレンには父親もおりましたが、母親の死を嘆き悲しんだ父親はエレンを一人町に残してどこかへと消えてしまったのでした。 お葬式の日、エレンは母親からもらった赤い靴を履いて、たった一人で粗末な棺桶の後ろを歩くことになりました。赤い靴はお弔いには相応しくありませんでしたが、これしか履くものが無かったのです。昨夜降った雪が残る道をエレンの赤い靴が踏みしめます。 母親が眠る棺を墓穴に降ろしますと、エレンは金色の大きな両目からぽろぽろと透明な雫を溢れさせながら上から土をかけました。どうしてこんな目に遭うのでしょうか。優しい母親が死んでしまい、父親もどこかへ行ってしまい、エレンはたった一人でこれから生きていかねばなりません。いいえ、それどころか明日食べるパンを買うお金すらエレンは持っておりませんでした。更に家はすでに母親の葬式をするために売り払ってしまい、今夜眠るベッドすらありません。 神父様が朗々と告げる祈りの言葉を聞きながらエレンは思いました。神様などいないのだ、と。もし神父様が日曜日に教会でお話してくださることが本当なら、エレンの手は、足は、心は、こんなにも冷たくなるはずなどないのですから。 アーメン、と神父様が十字を切ります。エレンはじっと地面を見つめ、項垂れておりました。きっと周りにいる葬式を手伝ってくれた町の人達は、エレンが悲しみにくれながら神様に祈っていると思ったことでしょう。しかしその実、エレンは祈りなど捧げておらず、家族との思い出を噛み締めていたのでした。 お葬式が終わり、お墓が並ぶ丘から人々は去って行きました。十字架が立っている小さくて新しいお墓の前にいるのは、エレンと祈りの言葉を告げていた神父様のみです。 神父様は曇り空の色をした目を眇めてエレンに言います。 「エレンよ、これからお前が行く当てはあるのか。家はもう売り払ってしまったんだろう?」 「はい、神父様。今のオレは今夜眠るためのベッドも、明日の朝食べるためのパンを買うお金もありません」 「だったら教会に来ればいい。神の家はお前のような者のためにある」 風が吹き、さわさわと神父様の黒髪を揺らしました。 本来ならば神父様のお言葉はとてもありがたいものです。しかしエレンはつい先程、神様などいないと確信したばかりでした。「いいえ」とエレン首を横に振ります。 「何故だ?」 「オレにはその資格が無いからです」 きっぱりとエレンはそう答えました。 「神の家は神を信じる人のために扉を開いています。ですがオレは……」 エレンは強いまなざしで神父様の首に掛けられたロザリオを見つめます。まるで睨みつけているようなその眼光の鋭さに神父様が目を見開きました。しかしエレンはそれに気付くことなく、最後の言葉を口にします。 「オレは、神様を信じないことにしました。だから教会のお世話にはなれません。さようなら、神父様」 たった一人で丘を下りて行く小さな子供の背中を、黒いカソックを着た神父様は曇り空色の目でじっと見つめておりました。子供と並んでいる時は分かりませんでしたが、神父様の背はあまり高くありません。町の男達より低く、多くはありませんが神父様より背の高い女の人さえいるほどでした。しかし子供に向けられた三白眼はとても鋭く、小柄とは思えない存在感があり、他の人には無い何かを持っていました。 他の人とはどこか異なる神父様は顔に何の感情も浮かべず、小さくなっていく背中をひたすら見つめます。ですが一度も振り返らなかった子供の背中がついに見えなくなると、神父様はほんのかすかに口元を歪めて呟きました。 「ほう……俺の手を拒むのか、エレンよ」 ばさり、と神父様の背後で大きな羽音が一度だけ。 「躾が必要だな?」 その次の瞬間、神父様は丘の上から姿を消してしまいました。 残っているのは沢山のお墓と、そして真っ白な羽根が一枚。やがてその羽根も風によって空高く舞い上がり、どこかへ飛んで行きました。 今夜眠るベッドも明日食べるパンもないエレンは、一つ二つと星が輝きだした空の下でとぼとぼと丘から町へ続く道を歩いておりました。エレンの今の財産は自分が着ているつぎはぎだらけの服と、母が買ってくれた赤い靴。手袋などあるはずもなく、土がついた小さな手は寒さで真っ赤に染まっています。吐き出した息は真っ白で、いっそう憐れを誘いました。 自分が住む町と隣町へと続く分かれ道に差し掛かったところで、エレンの目の前を一台の馬車が通り過ぎました。二頭立てのその馬車には、きっと今夜のベッドも明日のパンにも心配することなどない御仁が乗っているのでしょう。エレンには縁遠い話です。 しかし奇妙なことに、馬車はエレンの前を過ぎて少し進んだところで急に止まりました。なんだろうとエレンが不思議に思っておりますと、馬車のドアが開いて白い絹の手袋に包まれた手が現れ、手招きをするではありませんか。 「そこの坊や、こっちにいらっしゃい」 「坊やってオレのこと?」 「ええ、そうよ。坊やはどうしてそんなに寒そうな格好で歩いているのかしら」 顔は見えませんでしたが、優しそうなご婦人の声です。エレンは冷たくなった手を握り締めて馬車へと近付きます。こちらを見ていた御者のおじさんがニコリと人の好い笑みを浮かべました。そうして、近付いて行った先にようやくドアの影になっていた声の主の姿が見えました。 馬車に乗っていたのは綺麗な服を着た、声の通りの優しそうなご婦人です。ご婦人はエレンと視線を合わせると、「なんて綺麗な金の目でしょう」と頬を緩ませました。 「坊やのご両親は?」 「母さんは死んで、父さんはどこかへ行ってしまいました。家も無くて、明日食べるパンもありません」 「まあ、なんて可哀想な子でしょう」 ご婦人はハンカチーフを取り出して目元をそっと押さえます。ですが寒さで赤くなったエレンの頬や手を見て、涙は止まるどころか次々と溢れ出しているようでした。 「お名前は何と言うの?」 「エレンと言います」 「素敵な名前ね。綺麗なあなたにとても似合っているわ」 ご婦人は手を伸ばしてエレンの真っ赤になった冷たい頬を撫でました。その手つきは優しく、絹の手袋はするすると滑ってエレンに痛みなど一切与えません。ですがエレンの母親の家事で荒れた温かい手には到底及びません。ご婦人はきっと優しい方なのでしょうが、エレンの心には何も訴えかけてきませんでした。 「ねえ、エレン。私には息子がいたの。生きていればあなたと同じくらいの年頃だったわ」 ご婦人の手はエレンの頬から頭に移ります。そしてご婦人はまだ涙で滲んだ目をそっと笑みの形に変えてエレンに言いました。 「だから、あなたが私の息子になってくれないかしら。今日ここで出会ったのもきっと神様の思し召しだわ」 ご婦人はそっと胸の前で十字を切り、神様に感謝のお祈りを捧げます。今のエレンにとってその行為はもう何の意味もないものでしたが、これにより自分が今夜から眠るベッドにも明日食べるパンにも苦労しなくて済むということは解りました。 神様を信じない自分が神の家で厄介になることはできませんが、このご婦人はただの人間です。しかも亡くした息子の代わりにエレンを選んだだけの。それならば衣食住を受ける代わりに、彼女に息子の代替品を提供すればいいのだとエレンは思いました。信仰心の有無など関係ありません。 「はい、奥様」 エレンはご婦人に褒められた金色の目を細めて柔らかな子供らしい笑みを浮かべます。そうしてご婦人に招かれるまま、エレンは馬車に乗り込んで隣町へと向かいました。 優しいご婦人に引き取られ、エレンは何不自由なくすくすくと成長いたしました。金色の大きな目は相変わらずきらきらと輝いており、母親に似た容貌も美しく、町の少女達どころか男達の中にも顔を赤くしてエレンを見つめる者が現れるほどでした。 成長したエレンの足にはもう母親が買ってくれた赤い靴は合いません。代わりに、その足にはご婦人が買ったエナメルの赤い靴がつやつやと光っておりました。 赤い靴はエレンにとってとても特別な意味を持っています。ご婦人がエレンに新しい靴を買い与えてあげようと言った時も、女の子用に誂えられていた赤い靴を選んでしまうほどに。 さて、そんなエレンにも堅信礼を受ける日がやってまいりました。しかし生憎その日はご婦人に急用ができてしまい、代わりにご婦人の父親である老人がエレンの付き添いを務めることになりました。 堅信礼はカトリックのとても大切なサクラメントの一つです。霊魂に消えない霊印を刻み、堅信礼を受けた者をキリストと教会にいっそう固く結びつけ、キリスト教信仰のための特別な力を与えるものでした。ですが神様を信じないと決めたエレンにとって、それはただのパフォーマンスでしかありません。ご婦人が熱心なカトリック教徒でしたので、エレンは息子の代役としてその思いに叶った行動を取るだけでした。 堅信礼を受けるために教会へ向かう前、エレンは靴の前で腕を組んで考え込みました。右にはエナメルの赤い靴。左には艶も飾りもない黒い靴。堅信礼を受けるため教会へ向かう時に鮮やかな色の靴を履くのは良くないとされています。しかしエレンの付き添いとなった老人は目が悪く、きっとエレンの履いている靴の色など分かりません。 エレンは右を見ました。それから左を見て、もう一度右を見ます。 「どうせ神様なんかいないんだ。罰なんて当たるはずがない」 エレンは右の赤い靴を手に取り、意気揚々と教会へ向かう馬車に乗り込みました。 教会に着くと、門の前に門番が立っておりました。長いひげを蓄えた老兵で、彼はエレンを見ると白い前髪の向こう側で曇り空の色をした目をにっこりと微笑ませます。 「なんて綺麗な靴だろう! どうかその靴の埃を払わせていただけんじゃろうか」 老兵はそう言うや否やエレンの前に跪きました。そして手に持った布でさっと赤い靴を撫でた後、「ああ、近くで見てもやっぱり綺麗なダンス靴じゃ。踊る時、ぴったりと足にくっ付いておりますように」と言って、靴の底をぴたぴたと叩きました。奇妙な靴磨きでしたが、赤い靴は更にぴかぴかになりました。エレンは老兵にお金を恵んで、教会の中へと入っていきました。 教会にいた人の誰もがエレンの赤い靴に気付き、その足元を見ます。十字架に磔にされたイエス様もエレンの靴を見つめているようでした。ですが当のエレン本人はこれっぽっちも気にしません。この教会の神父様がエレンの頭の上に手を乗せて、神聖な洗礼のことや、これからキリスト信者としてあるべき姿を説いても、その言葉はエレンの耳を素通りするだけです。 やがて必要な儀式が全て済み、エレンが教会を去る時間になりました。門の所まで行けば、やはりあの老兵がいます。老兵はエレンの姿を見つけると、にこりと微笑んで「何度見ても綺麗なダンス靴じゃ。赤い色もあなた様にたいそう似合っておる。どうかステップを踏んでみせてくださらんだろうか」と言いました。 赤い色が似合っていると言われて嬉しくなったエレンは老兵に乞われた通り、軽くステップを踏んでやりました。するとどうしたことでしょうか。少しだけだと思って始めたはずなのに、エレンの足は持ち主の意志を無視して勝手にステップを続けたのです。どんなに止まれと命令してもエレンの足は華麗に動き回ります。付き添いの老人が心配して近付いてきましたが、止まるどころかその老人の足を思い切り蹴りつけてしまったエレンは顔を真っ青にしました。 老兵がいた場所を振り返ってみますと、おかしなことにそこには誰の姿もありません。ただ門の前に一枚の真っ白な羽根が落ちているだけです。「どういうことだよ!?」とエレンは叫びました。その間にも足は勝手気ままにステップを踏みます。 「エレン! とにかく馬車へ!」 先程蹴りつけてしまった老人が足を抑えながらもエレンのために馬車のドアを開けてやります。教会の前でひたすら踊っているわけにもいきませんから、兎にも角にも馬車に押し込んで、ご婦人の住まう屋敷に連れて帰ろうということなのでしょう。 エレンは「はい!」と叫んでそちらに向かおうとします。しかしその途端、エレンは馬車が遠のいたので愕然としました。いいえ、本当は馬車が遠のいたのではありません。エレンの足が向かいたいのとは逆の方向に進んでしまったのです。 「なんで!?」 エレンは必死に馬車へ乗り込もうとします。けれど強く馬車に近付きたいと思えば思うほど、エレンの足はその反対方向へとずんずん進んで行きました。「エレン!」と老人の呼ぶ声がします。けれどもエレンの足は馬車を離れ、教会を離れ、町を離れ、とっぷりと日が暮れた頃にとうとう町の入口すら見えない場所へとやって来てしまいました。 その道はかつてエレンがご婦人に拾われた際、馬車に乗せられて通った道です。ずんずん進んで辿り着いたのは元々住んでいた町とお墓が立ち並ぶ丘への分かれ道。普通なら馬車で移動する道のりをダンスのステップで進んできたエレンの足はすでに痛みを訴えており、また休むことも食べることも水を飲むことさえもできないエレンはへとへとになっておりました。 ご婦人のいる町へ戻れないのなら、せめて人が沢山いる生まれ故郷の町へ向かった方がこのステップを止める方法も見つかるかもしれません。少なくとも死者しかいない墓地よりはずっとマシです。そう思ったエレンは足に「町へ向かえ!」と命じます。しかし足はエレンの言葉を裏切って、墓地の方へと暗い夜道を駆けて行きました。 今夜は月がありません。新月の夜空に浮かぶのは星達のみ。足元を照らすランタンもなく、エレンは真っ暗な道を進まされます。やがてエレンは丘を登り切り、墓地の中へと入っていきました。 死者の気配が満ちるその場所でエレンの胸は早鐘を打ちます。ここにはエレンの母親も眠っていますが、それを思い出したとしてもとても安心などできません。ぞわぞわと足元から這い上がってくる冷気にエレンは身を震わせました。 「っ、なんでこんなことになってんだよ……!」 エレンはたった一人、真っ暗な墓地で叫びました。 「なんも悪いことしてねぇだろ!?」 その時です。真っ暗だった墓地がいきなり光に包まれました。目を焼くような強い光にエレンは咄嗟に目を瞑り、踊り狂う足はそのままに腕で顔を庇います。どれくらいそうしていたでしょうか。光が収まり、エレンは腕をどけて周囲を見渡しました。 そして、金色の目をまん丸に見開きます。 「ここ、どこだ。墓地だったはずじゃ」 光が収まった後、エレンは真っ白な内壁が美しい教会の中におりました。未だステップを踏み続ける足からは墓地の土の感触ではなく、大理石の硬い床の感触がします。高いところにある窓からはステンドグラスを通して色とりどりの光が降り注ぎます。そして教会の一番奥、大きな十字架が掲げられたその正面に誰かが立っておりました。 その誰かは人の姿をしていましたが、背中に人ではあり得ない物が存在しています。真っ白で大きな翼は一度ばさりと空打ちされ、エレンにそれが本物であることを示しました。 黒い髪と曇り空色の瞳と白い翼。十字架を背にしたその人物を目にしてエレンは息を呑みます。 「てんし、さま」 「信じていないものが目の前に現れて、たいそう驚いただろう?」 天使様は鋭い目つきでエレンを睨みつけながら淡々とおっしゃいました。神様など信じていない自分の目の前に現れた神様のしもべにエレンは混乱しましたし、それに地上の人間を微笑みと共に見守るはずの天使様が怒ったように睨みつけていることにもエレンはびっくりしておりましたので、まともに言葉を発することができません。ただ一言、「なぜ」とだけ音にすることができました。 「なぜ、だと? それは俺の存在についてか。それとも俺がお前の目の前に現れたことについてか。もしくはお前のその狂ったように踊り続ける足についてか」 どれもです。そのどれもがエレンにとっての「なぜ」でした。くるくると勝手に踊り続ける足に翻弄されながらエレンは「全てです!」と声を荒らげます。 「ふん」 天使様は絵本や神父様のお話とは全く違い、エレンを蔑むような目で見つめました。 「愚かなお前には特別に教えてやろう。お前が踊り狂っているのも俺がここに現れたのも、お前が神を信じず、神の慈悲を受けず、神を軽んじる行動をとったからだ」 「そんなことは!」 「していないとは言わせない。神父によって差し伸べられた手を取らなかったのは誰だ。大事な堅信礼を受ける際にその赤い靴を履いていったのは一体誰だ」 「たったそれだけで!?」 「それだけ、だと思う心がすでに神を軽んじているのが解らないのか。そんなお前などずっと踊り続けていればいい。死ぬまで狂ったように踊り続けて……いやたとえその心臓が止まっても踊り続けて、神を信じなかった愚か者の姿をさらし続けろ!!」 天使様は腰に差した鞘から二振りの剣を引き抜きました。それらを振るった瞬間、再び強い光が溢れ出します。エレンが目を瞑り顔を背けますと、天使様の声が頭の中に直接響いてきました。 「許されたくば神を信じよ。己の愚行を悔い改め、正しき道に戻れ」 声が聞こえなくなり、しばらくしますと、ようよう光が収まりました。エレンは元いた墓地に立っており、相変わらず踊り続ける足は墓場の土を踏みしめております。 「神を信じろ。己の愚行を悔い改めろ」 限界を超えていたエレンの身体と頭にはその言葉が否応なく刻みつけられました。そうすることでしか救われないとエレンは思い込みました。 神を信じろ。己の愚行を悔い改めろ。それはつまり教会へ行って心から神様に祈ることです。しかしエレンの足は教会がある方向とは真逆へ進んでいきます。お墓が立ち並ぶ丘を通り過ぎ、来たこともないような場所を通り過ぎ、エレンがどんなに疲れ果てても足は勝手に踊りながら進みました。 昼が来て、夜が来て、また昼が来て、エレンはもう限界でした。踊り続ける所為ですれ違う人々からは奇異の目で見られ、子供達からは化け物だと石を投げられることもありました。それに食べ物どころか水さえ飲めず、眠る暇さえありません。頭の中がぼんやりと霞がかり、自分が何をしているのか解らなくなる時もありました。 ある町を通り過ぎた後のことです。エレンは人里離れたところに一軒の家を見つけました。ぽつんとその家だけ町から離れて建っています。そして家の裏手に沢山の斧があるのをエレンは見つけました。 「ここは……」 この家が一体どういう職業の人間のものなのか、エレンは気付きました。気付いた途端、戸口に向かって叫びます。 「どうか! どうか出てきてくれ! 頼む! この狂った足を切り落として欲しいんだ!!」 「……君は私が何者か知っているのか」 家の中から声がします。エレンは今にも途切れそうになる意識を必死に繋いで再び叫びました。 「知ってる! 裏手の斧は首切り役人の斧だ! あんたは罪人の首を切る仕事をしているんだろう!? だったら頼む! オレの足を切ってくれ! じゃなきゃオレは死ぬまで踊り狂って、教会へ行くことすらできないんだ!!」 「そうか」 ギィィィと軋む音を立てて扉が開き、中から金髪の大柄な男が出てきました。男は赤い靴を履いたエレンの足を見て、エレンの顔を見て、それからもう一度エレンの足を見て、エレンが自分の意志で踊っているわけではないことを悟ります。 「頼む! 切ってくれ!!」 「わかった。望み通り切ってやろう」 男は家の裏手に回り、大きな刃の斧を持ってエレンの元へ戻ってきました。そして男はその斧でエレンの望み通り、エレンの両足を切り落としたのです。 切り落とされた足は赤い靴を履いたまま、エレンの身体を離れてどこかへ踊りながら去っていきました。その場に残されたエレンは男に介抱され、義足をつけてもらいました。二本の足を失いましたが、エレンはこれでようやく狂った踊りから解放されたのです。 その後、エレンは首切り役人の男に紹介されて、ある親切な老夫婦の家で世話になることになりました。義足になったエレンは松葉杖なしでは移動すらままなりませんでしたが、老夫婦はそんなエレンを暖かく迎えてくれました。また近所から遊びに来る子供達にエレンは神様を敬うことの大切さを説き、その子達から慕われるようになっていきました。 しかしそこまでしてもエレンは神様にお祈りを捧げるため教会に向かうことができませんでした。松葉杖を使えば、なんとか教会の前まで辿り着くことはできます。しかしエレンがいざ教会へ入ろうとすると、目の前に赤い靴を履いた一対の足が現れるのです。赤い靴を履いた足はエレンを責めるように目の前でステップを踏み続け、教会の中へ入れさせません。エレンはくしゃくしゃと顔を歪めて老夫婦の家に戻るしかありませんでした。 教会へ行けない日々が続く中、エレンは徐々に自分の身体が弱っていくのを感じておりました。教会でお祈りができない代わりにエレンは老夫婦に用意してもらった木製の小さな十字架をチェストの上に置き、それに向かって手を合わせます。どうか過去の己の罪を許してくださいと祈るのです。今はまだ教会へ行く体力もありますが、いずれはこうしてベッドを降りて小さな十字架の前で祈ることすらできなくなってしまうかもしれません。もしかして教会へ行けずに神様に許しを乞うこともできぬまま自分は死んでしまうのでしょうかとエレンは恐ろしく思いました。恐ろしいと思うほど、今のエレンは神様を信じておりました。 今日もまたエレンは老夫婦が近所の子供達をつれて教会へ行った後、一人で小さな十字架に祈りを捧げます。 「どうかオレをお許しください。どうか教会へ行き、あなた様の御許で懺悔することをお許しください」 エレンがそうやって祈りを捧げておりますと、小さな部屋の中に自分以外の誰かの気配を感じました。顔を上げたエレンは驚きに言葉を失います。 エレンの大きな金色の目が見つけたのは、かつてエレンにその罪を告げた曇り空色の目の天使様だったのです。しかし今エレンを見下ろしている天使様はあの時のような怒りに満ちた表情ではなく、穏やかなお顔をしていらっしゃいました。 「エレンよ」 天使様の両手にはそれぞれ剣が握られています。エレンの名前を呼んだ天使様は同時にその剣を壁と天井に触れさせました。その途端、狭かった部屋の壁と天井が広がり、あっと言う間にエレンの部屋は立派な大聖堂に様変わりしておりました。 高い高い天井からはきらきらとした光が降り注ぎ、天使様とエレンを照らします。どうやっても辿り着けなかった教会に足を踏み入れることができたエレンは胸の前で手を祈りの形にしました。 「天使様……」 「お前の罪を許そう、エレン。さあ、今度こそこの手を取るんだ」 天使様は二本の剣を腰の鞘に戻し、エレンに手を差し伸べます。その姿は、着ているものこそ違いますが、母親の葬儀を終えたばかりの幼いエレンに手を差し伸べた神父様と同じでありました。 エレンが天使様の手を取りますと、ぐいと強い力でエレンは天使様に抱きしめられました。立派な翼がばさりと羽ばたき、祝福するように白い羽根が舞います。 「エレン」 天使様に名を呼ばれ、エレンは胸に暖かいものが満ちるのを感じました。エレンはようやく許されたのです。幸福のうちにエレンは目を閉じ、天使様の柔らかな服に頬をすり寄せました。 エレンを抱きしめた天使様はそんな様子にそっと口元を緩ませます。そして曇り空色の目をぎゅうと歪めて、 「やっと手に入れた。愛しい愛しい、俺のエレン」 その日の夕方、老夫婦が帰宅しますと、二人はエレンの部屋がとても静かなことに気が付きました。どうしたことかとノックをしますが、中から応えはありません。老夫婦は互いに顔を見合わせて、そっと扉を開けました。 嗚呼、と夫人は手で顔を覆い、彼女の夫がその肩を抱き寄せます。彼らが見たのは小さな十字架の前で手を組んだまま、安らかな顔で天に召されたエレンの姿でした。 赤い靴
2013.12.25 pixivにて初出 【解説(をしなきゃいけない内容ですみません)】 名前は出ておりませんがリヴァイ=天使で、エレンを自分のものにしようと神父の姿で近付くも失敗。それどころか自分を含む神の存在を信じなくなってしまったので、お灸を据えつつ自分の手を取るように仕組みました。エレンの赤い靴に呪いをかけた老兵もリヴァイが姿を変じたものです。性悪天使にエレンはまんまと捕まって、天国で一緒に暮らすことになりましたとさ。おしまい。 |