【1】
エレン・イェーガーがギラギラと金色の瞳を輝かせているところを見たことがある者は意外と少なく、その中でも特に濃い金色を直接見た者はリヴァイとエルヴィン、それから彼に苛烈な敵意を向けられる巨人くらいなものだ。 更に補足すれば、エルヴィンがエレンの濃い金色を真正面から目視したのは彼らが初めて顔を合わせた時――訓練兵を卒業したばかりのエレンが審議所の地下牢に囚われていた時である。その場にはリヴァイもおり、最強と謳われる兵士から何をしたいか問われたエレンが「巨人をぶっ殺したい」と答えた際、まだ十代の若い新兵の双眸はそれはもう融かした黄金をそのまま瞳に注いだかのような色をしていた。 なお、エルヴィンはその一回を入れて片手の指で十分足りるほどの回数であったが、リヴァイはエレンの直属の上官となり共に戦場を駆けていたため、何度か目にする機会があった。巨人化せずとも一人の兵士として敵を屠る技術を身につけたエレンは壁の外で巨人と出くわし戦闘になった際、リヴァイの隣でその双眸をあの地下牢で出会った時と同じ色に輝かすのだ。 「昔からなんです。感情が高ぶると文字通り目の色が変わる≠轤オくて」 まだ出会って間もなかった頃、旧調査兵団本部の古城で馬の背を撫でていたエレンが瞳の色について尋ねたリヴァイにそう説明した。 穏やかな表情を浮かべる彼の目は夜空に浮かぶ月のような銀。静謐なその色はエレンの心の裡そのものを表している。隣にいる馬もエレンと同調するように落ち着いた雰囲気を醸し出していた。人の心の機微を察しやすい生き物が穏やかでいるならば、エレンの言葉に偽りはないのだろう。 エレンの答えにリヴァイは「そうか」とだけ返した。自傷行為と目的意識だけで巨人になれる人間が今更目の色の一つや二つ変わったところで騒ぐようなことではない。本人は昔からだと言うし、問題なく兵士として戦えるならこれ以上リヴァイが気にかける必要もなかった。 同じく古城に住んでいる他の四人やエレンを研究するためにここを訪れるハンジらには、まだ瞳の色の変化について気付かれていないらしい。が、それもいずれは知れること。そうなった時もエレンが今と同じ状態で説明すれば難なく受け入れられるだろう。よって心配もしない。 そうして時は流れ、リヴァイが自ら選んだ四人の部下は皆死んでしまった。彼らがエレンの瞳の色について気付いたかどうかは知らない。 先輩兵士らと打ち解けてからのエレンは常時落ち着いており、瞳の色は――リヴァイが知る限りでは――銀から薄い金色だった。怒りに満ちている時も楽しくて気分が高揚している時も等しく瞳の色が変わるそうなので、エレンは古城での生活をそこそこ穏やかに過ごせたということなのだろう。 しかしそれを与えてくれた四人はもういない。いなくなって、かなりの月日が流れた。 巨人化の能力だけに目をつけられて調査兵団に入ったエレンもリヴァイの下で唯一生き残り続けている部下として、巨人化の能力抜きに精鋭の一人に分類されるようになり、巨人の謎を少しずつ解明しながら壁外で刃を振るっている。 その瞳の色は常に銀色だ。巨人を前にしても以前とは異なりほとんど変わらない。 いつの頃からかエレンの双眸は黄金にギラつくことが無くなっていた。 「ねぇリヴァイ。今のエレンが下の子達になんて言われてるか知ってるかい?」 「興味ねぇな」 「そう言わずに! ってか会話しておくれよ、どうせ暇なんだから」 「俺は暇じゃない。てめぇが持ってきた汚ぇ字の書類を解読してサインするって仕事があんだよ」 「と言いつつあなたの耳がちゃんと私の声を拾ってくれていることを知ってるから話すけどね。ああ、私の声だから拾ってくれるんじゃなかったか。エレンの話題だから聞くんだよね」 そう言ってハンジはリヴァイの執務室に設けられたソファにどかりと腰を降ろした。埃が立つその座り方にリヴァイは眉をピクリと動かしたものの、黙したままペンと書類を手に取る。 エレンが新兵≠フ区分から外れて久しい。 毎年訓練兵団を終えた兵士達が三兵団のどれかに振り分けられ、上司の堕落っぷりに辟易としつつそれに染まったり、十年ほど前には考えもしなかった緊迫感のある現場で日々任務に励んだり、壁の外に出て若い命を散らしたりしている。死亡率が極端に高い調査兵団の、しかも未だ人類最強と称され続けているリヴァイの下で働くエレン・イェーガーは今や精鋭と呼ばれる者達の中に入り、巨人化せずとも立派な兵士として戦えるようになった。 人類に味方する巨人としての働きと人間の姿での討伐数が着々と増える中、エレンは恐れられつつも尊敬や憧れを集めるようになったらしい。無論、巨人になれるということで過剰な恐怖や憎悪にも等しい感情を向けられることもあるが。 「ともあれ。下の子達の中にはエレンを怖がる子もいるけど、逆に尊敬しちゃってる子もいるってわけだ」 下の子達、つまりエレンよりも後に訓練兵団を卒業して兵士になった者達を指してハンジは告げる。その様はエレンと関わりが深いこともあってか、どこか誇らしげにすら見えた。 「そ、れ、で! エレンがその子達に何て呼ばれてるかって話だけど」 ハンジはぐふっと堪えきれなかった笑いを無理やり手のひらで抑え込みながら、その手の下でニンマリと口元を歪め、 「「白銀(はくぎん)の兵士長補佐殿」」 「…………え。リヴァイも知ってたんだ?」 「ちなみに『白銀の君』っていう言い方もあるらしいな」 目を点にするハンジに視線を向けることなく、書類の解読を進めながらリヴァイはぽつりと付け足す。 リヴァイがいる兵士長と言う役職のために明確な補佐役は作られていない。しかしエレンは入団以来ずっとリヴァイの下でその仕事を手伝ってきたため、通称としてエレンの立場を『兵士長補佐』と呼ぶことはある。ゆえに『補佐』とつくのは別におかしなことではない。 問題は『白銀の』だ。 たまたま調査兵団本部の廊下を歩いていて初めて耳にした時はリヴァイも開いた口が塞がらなかったが、その形容がエレンの両目の色に由来することだけはすぐに解った。 ここ数年、エレンの双眸は常時銀色である。そしてその働きぶりやリヴァイに従順な態度で付き従う姿を見た若い兵士達が、エレンをそう呼ぶようになってきている。更に付け加えれば、いつも厳しい表情をしているリヴァイとは異なりその傍で穏やかな佇まいを見せるエレンに、新兵らの――特に少女達の――脳内でエレンが異様に美化されているらしいのだ。そのため『補佐』の文字の後ろに『殿』がついたり――時々『様』にもなる――、果ては『補佐』が消えて王子様的な意味合いで『君』がつけられるようになった。 「あれが『君』なんてつけられるタマか?」 「ははっ! まぁここ数年のエレンはあの頃のやんちゃ君から大分変わってしまったからね」 「と言うか……」 ――ここ数年、感情の揺れが極端に少ない。 言葉に出すことなく、リヴァイは胸中で独りごちた。 もう長いことあのギラギラした金色を見ていない。地下牢の暗がりからこちらに向けられたそれを見て、リヴァイはエレンを手元に置くと決めたのだ。が、それは月日が経つにつれ、イコール自分達の顔見知りが減っていくにつれ、見かけなくなってしまった。 今のエレンは感情で動いていない。自分の行動がどんな結果を引き起こすのか深く考えた上で、感情をどこかに置き去りにしたまま微笑み、話し、戦う。おかげで目覚ましい戦果を上げているが、リヴァイに「悪くない」と言わしめた狂うほどの輝きは最早遠い過去のものだ。 「隠すのが上手くなるってのもつまんねぇモンだな」 「そう言わないであげなよ。エレンだって色々抱え込まされてるんだからさ。……なにせ人類最強のあなたに並ぶ『人類の希望』様だからね」 「くだらん呼び名だ」 「まったくその通り。とても馬鹿らしくて悲しい呼び名だ。でも私達はあえてそれを認めている。個人ではなく全体のために必要なことだと知っているから」 ハンジはひょいと肩を竦め、ソファから立ち上がった。 「雑談に付き合ってもらってごめんね。あなたが私と同じ気持ちでいてくれたことに少しばかりほっとしたよ。むしろ私より色々耳に入ってきて溜息しか出ない感じかな」 「そう思うならもう少しこっちを労わって、せめて報告書の文字くらいは綺麗に書きやがれ」 「ごっめーん! それは無理だわ。頭の中で駆け巡る文字を紙に書き起こしているとついつい走り書きになってしまうんだよ」 「じゃあ清書しろ」 「それは時間がもったいない。いいじゃないか、あなたが読めるんだから」 「良くねぇよ。しかも普通に読んでるんじゃなくて解読してるってさっきから言ってるだろうが」 紙の束にバシッと手のひらを押し付けて威嚇してみるが、そんなリヴァイにハンジが怯んだ様子は全くない。「おお怖い」と茶化すように告げたハンジはそそくさと部屋を出ていった。 執務室に一人残されたリヴァイはミミズが這ったような文字に視線を落として溜息をつく。これからこの文字達を解読していく作業が憂鬱なのは確かだが、脳内を占めるのは金色を失った部下のことばかり。 「まだまだガキのくせに……一丁前に大人ぶってんじゃねぇよ、クソガキ」 エレン・イェーガーが調査兵になって初めて犯した判断ミスは大切な先輩兵士四人の死をもたらした。感情に流され、仲間が欲しくて欲しくてたまらなかった心は状況を正確に判断することよりも彼らに嫌われない道を選び取り、結果、エレンの目の前から四人の命そのものを奪い去っていった。 もう二度とこんなミスはしない。 そう誓ったが、以後もエレンは感情に流され、沢山の命がその手から零れ落ちていった。 エレンはただの兵士ではない。巨人になることができ、かつ人類に味方する理性ある存在である。巨人化の能力が明るみになったばかりの頃は本当に使えるのか疑問視する視線や、そもそも巨人なんて信用できるかという嫌悪感、エレンの死を望む声等も多かったが、成果を残すにつれて逆の感情を抱く人間も増え始めた。そして兵団のお偉方にも有用性を認められたエレンは、他兵団からでさえただの一兵卒より重要視される存在になった。 一人で大きな戦力となるエレン。その命を守るためには一般の兵士達の命は実に軽い扱いを受けてしまう。そもそも最初の四人――ペトラ、オルオ、エルド、グンタもそうだった。彼らはエレンを守るという役目を負っていたために死んだ。エレンの一挙一動は数多の兵士の命の行く先を決めてしまう。 ゆえにエレンは自身の行動について深く考え、適切な道を選ばなくてはならない。それを自身の義務とし、その義務を果たせるようになるにしたがって、エレンは代わりに感情を失っていった。完全に消えたわけではなくとも、高ぶりすぎる感情が正確な現状判断の妨げとなることを経験則で知ってしまったため、それを抑えるようになっていったのだ。 ただただ巨人をぶっ殺したいと黄金の瞳をギラギラさせていた子供はもういない。子供は自分の一挙一動で数多の命が失われることを知った。だから、自分を殺すことを覚えた。人類が自由を取り戻すその日まで。 「よし、今日もこの色だ」 自室に設けた小さな鏡を覗き込んでエレンは独りごちる。 鏡に映った己の双眸の色は鎮静している証の銀。若干白目が血走っているのは昨日ハンジがリヴァイの元に持ち込んだ書類の確認もとい解読作業を手伝ったのが原因だろう。膨大かつ読みにくい文字のオンパレードに深夜までかかってしまった。おかげで今日は午後からの勤務が認められたものの、そうゆっくりするつもりはない。同じ時間まで起きていたリヴァイはきっとすでに仕事を始めているだろうから。 (今日も後悔のない選択≠。感情に流されず、本当に正しいと思った道を選ぶ) 誓いの言葉は胸の裡だけで告げ、エレンはそっと目を閉じる。もし自分が選択を誤れば、失われるのは数多の命。そうならないために感情を殺したことに後悔はない。 かつて上官であるリヴァイは選択の結果など誰にも分からないと言ったが、選択ミスにより大切な先輩達を失った過去はいつだってエレンの肺の辺りを圧迫してくる。だからエレンは今度こそ本当に悔いのない選択をするためにも感情に流されず判断することを己に誓うのだ。 そこまで己を殺したエレンだが、――否、だからこそと言うべきか――恐ろしいことが一つだけある。自分が人類の敵になり、大切な人々の命を危険にさらすことだ。 現在は巨人化時の身体の制御も上手くなり、長時間理性を保ったままでいることができる。しかし壁外での戦闘は常に予想外の連続だ。いつ何時、傷ついたり長時間の戦闘等で理性を失うか分かったものではない。そんな時、傍にいた人間に危害を加えてしまったら――。 大切な家族である少女の頬には未だ消えない傷がある。きっと一生痕が残るだろうそれは、エレンが巨人化した時につけたものだ。今でも整った顔にはっきりと残る傷を見てエレンの双眸には色が宿りそうになる。 エレンはそっと目を開けた。 鏡に映り込む双眸は一瞬だけゆらりと恐怖による金色を宿し、幻のようにふわりと消える。瞬きをすれば、金色が揺らいだ気配など微塵も感じさせない。 エレンが恐れているのは巨人化した自分が人類に牙を剥くこと。それが何よりも怖い。 「でも」 再びエレンが瞬いて鏡を直視した瞬間、銀色だったはずの瞳は純金へと変化した。とろりと甘い蜜のように、触れれば火傷程度では済まない融けた黄金のように、エレンの双眸が色を宿して笑みの形に細められる。 「もしもの時は兵長がオレを殺してくれるんだよな」 最も恐ろしいことを恐ろしくないものに変えてくれる人。 その姿を脳裏に描き、エレンは口元を弧の形に歪ませた。 だが一瞬後には瞬き一つでそれを消し、潔癖症の上官を不快にさせない格好であることを確かめるように制服の襟を軽く整える。そうして銀色の瞳を持つエレンは落ち着いた動作と表情のまま自室のドアノブに手をかけた。 泣き虫あの子はもういない。 世界が望んであの子が決めた。 たくさん泣いて、たくさん怒って、たくさん笑っていたあの子を、深い深い水の底へ沈めて殺してしまおう、と。 【2】 エレンが人類解放のために必要な人材であると多くの人々に認められた後も、彼の処刑を望む声が絶えることはない。そして時折思い出したかのようにエレン・イェーガーを処刑すべきという意見が王政府の保守派等から出て来るのだ。 これがエレンの入団当時ならば、そんな意見が持ち上がるたびに調査兵団内で大慌てしただろう。しかし兵士としての地位も確立し、加えてそんな話が幾度も幾度も上がっては消えていった現在、「あぁまたか」と面倒に思うことはあっても、血相を変えて対策を検討する事態にはならなかった。 今回も例に漏れず、処刑を望む意見に対して主に表舞台に立って対処するエルヴィンも、そこから話が下りてきたリヴァイも、勿論エレンも平然としている。それどころかエレンは「毎回毎回申し訳ありません」とエルヴィンらに苦笑を見せる始末。内心の不安を押し殺し表情を取り繕っているわけではないことは、その目の色を見れば簡単に判る。混じり気のない銀色は今日もリヴァイの隣で静かに輝いていた。 いつものことだ、とリヴァイは思う。これがいつの間にか『いつものこと』になってしまった。 「おい、なんでてめぇはそんなに平然としていられるんだ?」 ふと思い立ってか、それとも前々から考えていたことなのか、リヴァイにも分からない。だがその問いはこの時初めてリヴァイの口を突いて出た。 エルヴィンの所へ赴いて処刑云々の話を聞き、古城へと帰り着いてすぐのことである。 功績は認められているものの、未だエレンは現調査兵団本部での生活を許可されていない。しかしそのことに異論は無いようで、本人はこちらの方が気楽だと思っている節がある。エレンが古城に住めば、当然監視役であるリヴァイも同じ場所で生活するが、リヴァイ自身も特に困ったことや不快なことはないので良しとしていた。むしろ他人がいない分、生活空間が汚れにくいので潔癖症にはある意味ありがたい環境かもしれない。 「え?」 帰還直後に告げられた疑問に対し、エレンは銀色の目をきょとんと丸くしてみせた。その表情のまま「突然ですね」と言われたので、リヴァイも「まぁな」と短く返す。 「なんとなく気になった」 「はあ、そうですか……」 共に厩舎へ自分達の馬を連れて行く道すがら、エレンはことりと小首を傾げた。 「だっていつものことでしょう?」 「いつものことだが、それでも多少は何か感じたりするんじゃねぇか? 一部とは言え、明確にお前の死を望んでるヤツらがいるんだぞ」 「そうですけど」 くすり、とエレンは銀色の瞳のまま微笑んで、告げる。 「一部のヤツらがどんなに騒いだって、どうせオレは処刑されないじゃないですか」 「ほう……。大した自信だな」 「それだけの役目は果たしてきたつもりです。それに王政府の保守派がちょっと騒いだぐらいじゃ、エルヴィン団長達を屈服させることはできません。オレはそう信じています。だから慌てたり怒ったりする必要はないんです。……勿論、怒っているパフォーマンスが必要ならばいくらでもしますけど」 「なるほどな」 エレンがそのように考えているなら、感情に波は立たず、瞳の色が銀のままというのも納得できる。リヴァイは頷いてこの話は終いだと自分の中で完結させた。 部下が持つ黄金をもう一度見たいとは思うが、処刑などという不穏なものが原因で銀から金に変わってもリヴァイとしては全く嬉しくない。そんなことなら銀色の方がマシだ。 と、リヴァイはそう思っていたのだが――。 「あとは」 「まだあんのか?」 「はい」 エレン本人としてはまだ何かあるらしい。それを聞くのも悪くはないと思えたため、リヴァイは軽い気持ちで「言ってみろ」と先を促す。 「オレは今のままでいるなら処刑されることはまず無いでしょう。処刑を求める声が跳ね返せなくなるのは、おそらくオレが人類にとって害になった時です。でもそれもきっと有り得ない」 「お前が人類の敵になることはないから、か?」 「いいえ」 エレンは首を横に振る。その直後、銀色の双眸にゆらりと別の色が混じった。 「もしオレが人類に仇なす存在に成り下がった時は、人類がオレを処刑する前に兵長がその場ですぐに殺してくれるでしょう?」 だから『人類』という大きな集団がエレン・イェーガーを殺す時はきっと来ない。そう告げたエレンの瞳は、ドロドロに融けきった黄金色をしていた。 エレンに手綱を引かれて進む馬は平常通りで、年若いパートナーの歩みに合わせて従順に足を動かしている。だが反対にリヴァイの馬は常にないほど不安定な様子を見せた。突然暴れたりはしないが、落ち着きなくそわそわと周囲を見回したり、傍らのリヴァイを伺ったりしている。 エレンもリヴァイも外見上は平然としているが、この馬達の態度こそが両者の違いを明確にしていた。 いざとなればリヴァイが息の根を止めてくれるから、エレン自身は誰かを傷つけるかもしれない≠ニいう巨人化のリスクについて不安も心配もない。最悪の事態になる前にリヴァイが『死』という形でそれを止めてくれる――。うっとりとした、どろりとした、ぎらぎらとした、黄金の双眸でエレンは嬉しそうにそう告げた。 「そ、うか」 何とか絞り出したリヴァイの声は掠れ気味で、肋骨の下ではどくどくと心臓が異様な音を立てている。喉はからからに乾き、服の下では背中にびっしょりと嫌な汗をかいていた。 (俺が殺してくれるから心配ない? だから処刑される事態にはならないだと?) エレンはリヴァイの元に残った数少ない仲間の一人で、そしてたった一人の部下だ。だがその部下は今、リヴァイが気に入った黄金の目を久々にギラギラと輝かせながら、そのたった一人≠フ存在が告げるには残酷すぎる言葉を口にした。 (俺は……俺は、お前を殺すために一緒にいるわけじゃねぇんだぞ) エレンを生かすためにずっと傍にいるのに。エレンに生きていて欲しいと思えるから、こうして隣にいるのに。 なんてことだ、とリヴァイは目の前が真っ暗になった。 立ち止まった上官に気付かず進んでしまったエレンは数メートル先でようやく気付いて振り返り、「兵長?」と名を呼ぶ。その表情からは酷い言葉を告げた自覚など全くないことが窺い知れた。双眸も銀色に戻っており、それがますますリヴァイに追い打ちをかける。 「兵長、どうかされましたか?」 「いや……何でもない」 そう答えるのが精一杯だった。 リヴァイはのろのろと歩みを再開し、先を行く部下の背を見つめる。 エレンの願いは巨人を駆逐することだ。それは壁の外への憧れや自由を望む心が根底にある。だがリヴァイと共に在り、数多の人々と出会っては失うことを繰り返す中で、エレンは自由への渇望とは別に他者を傷つけることを酷く恐れるようになったのだろう。ゆえに、もしもの時はリヴァイがうなじを削いでくれることを喜びとして認識している。 (だったら) 必要ならば怒る演技どころか死さえ受け入れてしまうたった一人の部下へ、問う。 (巨人になれる力を失えば、お前は死を拒んでくれんのか?) ――もしそうならば、さっさと失ってしまえばいいのに。 兵士としてはあるまじき思いだと理解しながら、それでもリヴァイはそう願わずにいられなかった。 【3】 「ははっ……本当だ。もう巨人にならない」 どこか浮ついた声音でエレンは呟いた。 眼前に掲げた右手にはくっきりと歯型がつき、血が流れ出している。慣れた手順で目的意識を持って自傷行為に及んだものの、その手は傷ついたままの人間の手だ。 エレン・イェーガーはもう巨人になどならないし、なれない。 シガンシナ区を巨人から奪い返したのはちょうど一年前のこと。生家の地下室で発見された資料の中には人間の巨人化を完全に抑制する方法についても記述されていた。それらの資料からハンジ・ゾエを中心とした研究チームが巨人をこの世界から消し去る手段を編み出し、人類はついに巨人を駆逐して壁の外へと出る権利を得たのである。 もうこの世界には巨人などいない。……エレン・イェーガーという一人の兵士を除いては。 本当に巨人がいなくなったのかという不安もあったため、人類の勝利宣言がなされてから数ヶ月ほどエレンの能力は保険として残されていた。だが調査兵団を主軸に人類が壁の外へと繰り出しても全く巨人に遭遇しない日々が続いている。ゆえにエレンは最後の巨人化できる人間として、この度ハンジに手ずから巨人化の能力を失う薬を投与された。結果、エレンはどんなに自傷行為をしても巨人にはならない。完全にただの人間となった。 「やった。やりましたよ、兵長! ハンジさん! エルヴィン団長! 見てたか、アルミン! ミカサ! オレはもう巨人じゃない!」 感情の揺れがほとんど無くなっていたエレンが巨人化能力確認のために降ろされていた井戸の底から地上にいるリヴァイ達に向かって叫ぶ。遠目ながら、その双眸が完全な銀ではなくうっすらと金に色づいているのが判った。 井戸の縁に手をかけていたミカサはそっと頬を緩ませ、アルミンは「おめでとう、エレン!」と青い目を輝かせている。エルヴィンは微笑みを浮かべ、ハンジは己の研究の成功を確認して飛び跳ねた。『最後の巨人』がいなくなったことになるのだが、ハンジはそれを惜しむ気持ちよりも、研究の成功とエレンが見せた喜びの方がずっと重要なのだろう。 「エレン」 そんな仲間達を見回した後、リヴァイは井戸の底にいるエレンに向かって命じる。 「上がって来い」 おめでとう、などという言葉をかけたりはしない。そんな言葉は監視する者とされる者である自分達の関係には似合わない。ただ巨人化の能力を失ったとしても変わらず己の部下であるエレンに今すべき行動を命じるだけだ。 けれど、おそらくリヴァイの声は普段よりずっと優しい音をしていた。こちらを見上げるエレンが驚いたように元々大きな目を更に大きく見開き、次いで嬉しそうに口元を緩ませながら「はい」と告げたのだから。 「今、戻ります」 降りる時に使ったロープを握り締めてエレンは井戸の底から上がってくる。やがて縁にかかった彼の手をリヴァイが掴んでぐいっと引っ張り上げた。 「わっ!」 「てめぇはいつまでたっても軽いな」 「言わないでくださいよ、気にしてるんですから」 掴んだ手を解放してやりながらリヴァイがそう揶揄すれば、エレンは唇を尖らせる。 幼馴染の少女と同じだった身長は一応抜いたものの、相変わらず彼女より軽い体重はエレンのコンプレックスの一つだ。決して兵士として身体が鍛えられていないわけではないのだが、周りにリヴァイやミカサといった特例が存在するため、やはり多少なりとも比較しては何とも言えない気分になってしまうのだろう。 歯形がついたままの部下の右手を一瞥し、リヴァイはかすかに口元を緩ませる。 巨人化能力の扱いに長けるにつれ、エレンは人間の身体であっても傷の大小にかかわらずすぐに治癒できるようになっていった。調査兵団に入ったばかりの、巨人化も上手くできず噛み痕のついた血まみれの手を包帯で巻いていた時とは比べ物にならない。傷や違和感は立体機動をする上で致命的なミスに繋がることもあり、エレンが巨人ではなく人間の身体でも討伐数を伸ばすようになってからは皮肉にも便利な機能として治癒のレベルはどんどん上がっていった。 だが、それももう無い。 エレンの手には噛み痕がくっきりと残っている。血も止まっておらず、その辺を飛び跳ねていたはずのハンジがそそくさと戻ってきてエレンを適当な所に座らせ、手当てを始めていた。 先程のエレンの発言の通り、彼はもうその細胞の一片とて巨人ではない。ただの人間になった。誰かを傷つけることを恐れていた子供の恐怖の原因が今この瞬間、完全に消え去ったのである。 「必死に戦ってきた甲斐があったという顔をしているぞ、リヴァイ」 ハンジに手当てされているエレンの傍にはミカサとアルミンがいる。リヴァイは彼らから少し離れた所で立っており、傍らには実験に同席していたエルヴィン。何年経っても食えない性格の男はリヴァイの顔を一瞥して楽しそうに小さく言ってのけた。 「別にあいつ一人のために戦ってきたわけじゃねぇよ」 「そうか?」 「ああ」 嘘ではない。リヴァイは沢山の思いを背負って長い間戦ってきた。多くの兵の死に際に立ち会い、彼らに巨人の絶滅を誓って看取ってきた。だがいつか°瑞lに勝つという決意に早く°瑞lどもを絶滅させてやるという感情が混じり始めたのはいつ頃だっただろうか……。過去を振り返れば、エレンの巨人化能力が無くなれば良いと願ってしまったあの日の少し後くらいだったように思う。 エレンの巨人化能力の有用性は彼自身が良く解っており、リヴァイがその消失を願っても巨人の駆逐を何よりも強く望むエレン本人はきっと違う意見を持っていただろう。ただし巨人を消し去れば、エレンの能力も不要になる。ならば、と思ったのだ。 「そういうことにしておこうか」 まるで全てを見透かしたようにエルヴィンは笑う。厭味ったらしいことこの上ないが、チラリと見やった青い目が優しげに細められエレン達を眺めていたため、リヴァイは文句を言うために開いた口をそっと噤んだ。 巨人の完全駆逐を確認した調査兵団は今や巨人からの人類生存圏奪還ではなく、壁の外の世界をその名の通り調査≠キることを目的として動き出している。これまでエレンやリヴァイはもしもの時の保険として、外に出られてもあまり壁から離れないよう求められてきた。が、それも終わりだ。これからはエレンもリヴァイも本当の意味で外へ出て行くことができるようになるだろう。エレンがずっと見たがっていた海やその他多くのものを、彼は親友達と一緒にその目へと映して色を変えるに違いないのだ。 これでもうエレンが己を律し、瞳を銀色にし続ける必要もなくなる。巨人の駆逐を願って恐ろしいほどギラギラさせることもまた無くなってしまうのだろうが、今後は美しい世界を見て楽しげに金色の輝きを宿すのだろう。 そう、思っていた。 エレン・イェーガーはもう巨人になれない。ただちょっとばかり腕が立つだけの兵士になった。 巨人化能力の消失はすぐに王政府へと伝えられ、あちらがそれを確認すれば、近日中に民衆へと公表される予定である。しかし王政府の使者が調査兵団に持ってきたのは巨人化能力消失に関する承認証や他兵団の代表者による事実確認要請等ではなく、 「エレン・イェーガーの王都召喚と処刑命令……?」 早くも長期壁外調査について議論を交わしていた席に届けられた書状を確認し、エルヴィンが声を掠れさせる。同席していたのは団長補佐となったアルミン、ようやく長期の壁外調査に参加できるようになると思われていたリヴァイとエレン、それから各分隊長達。 エルヴィンが読み上げた一文を耳にし、出席者は一様に目を見開いた。その顔には信じられないと書かれている。リヴァイも白磁のカップを持ち上げたまま固まった。 そして皆の視線がリヴァイの隣に座っていたエレンへと向けられる。複数の視線に晒されたエレンは口元をヒクつかせて「え?」とだけ声を発した。 「エルヴィン、どうして王政府は今更そんなことを? と言うか、あなたがそういう顔をしているということは、今までとは違ってエレンの処刑を言い出したのが保守派だけじゃないってことなんだよね」 いち早く冷静さを取り戻したのは意外にもハンジだった。いや、『意外にも』という表現は不適切だろうか。エレンの巨人化能力消失に尽力し、その成功を殊更喜んだのは彼女自身だ。それが認められなかったという事実に怒りを通り越して逆に冷静さが戻ってきているのだろう。 ハンジに尋ねられたエルヴィンは眼鏡越しの視線を見返し、「ああ」と肯定した。 「これは保守派だけでなく、王政府だけでもなく……王そのものからの至上命令だ。誰も逆らうことはできない」 他兵団の名が連名として記載されていなかったのは喜ぶべきことなのかもしれない。未だに三兵団内での軋轢はあるが、そのトップ達は望むと望まざるとにかかわらずエレンの実力を認めていたり、彼の性質そのものに好感を持っていたりするらしい。 ただしその程度で王の勅命を退けられるほど兵士達の力は強くないのが現実だった。武力はあれど、壁の中の世界をひっくり返そうと企てられるような無責任さは持っていないのだ。兵士達は人類が生きていくために王という象徴や王政府という世界の仕組みを回す者が必要であると知っている。 「どうして……エレンはもう巨人化の力を失ったのに」 「それを信じられなかったのだろう、王政府は。……いや、信じる必要が無くなったと言うべきかもしれないな」 ハンジのおかげで常の状態を取り戻したエルヴィンが、思わず口を突いて出たらしいアルミンの疑問に答える。どういうことだ、という視線がそちらに集まった。皆からの視線が外れたエレンもまたエルヴィンを見ている。 「我々がエレンの巨人化能力消失に踏み切ったのは、巨人が完全にこの世界からいなくなったと判断したからだ。保険として保持してもらっていたエレンの能力が要らなくなった。これは王政府も同じだよ」 「つまり王政府は人を襲う巨人がいなくなったから、保険として生かしていたエレンも要らないと判断した≠ニいうことですか……?」 「そういうことだ。我々は巨人化の能力を消すだけで良しとしたが、あちらはそうでもなかった。能力が消えたかどうかなんてものはどうでもいい。その前にエレンそのものを殺してしまえば問題はない、とね」 調査兵団の頭脳たる二人は言葉を交わす。他の出席者達は静かにその話を聞き、そして理解した。 エレンは殺される。 彼をよく知りもしない、ただ中央でのさばっていただけの存在に。圧倒的権力で、理不尽に。 たとえエレンがもう巨人にならないと言ったところで、エルヴィン達が推測した通り王政府はそもそも巨人化能力の有無など論点にしていない。また王都の彼らが裏でそう考えながらも表向きにはエレンが本当に能力を失ったかどうか証明できない≠ニ民衆に説明して自分達の正当性を主張するのは目に見えていた。 確かにエレンが巨人化能力を失ったという事実を証明する、つまり『不在の証明』をするのは難しい。しかし本当に能力は失われたのだ。それはきっとエレン本人が一番よく知っている。 リヴァイは未だ包帯が巻かれたままのエレンの手を見た。机の上に軽く乗せられていただけのそれがエルヴィン達の会話を聞いてぎゅっと力強く拳を作る。 その拳からゆっくりと視線を上げた先には―― (……嗚呼) 青灰色の三白眼を見開き、リヴァイは口元に笑みを浮かべる。 黄金だ。 ギラギラした、ドロドロした、人を殺しかねないほどの灼熱の黄金。エレンがエレンたる化け物のような意志の強さが二つの瞳に凝縮され、そこにあった。 「絶対に嫌です」 一体どうすれば、と沈黙が落ちていた室内にはっきりとエレンの声が響く。全員の視線が一斉にエレンを見、そのギラギラした黄金に気付いた。 「オレはもう巨人じゃない。暴走して誰かを傷つける化け物じゃない。なのになんで今更殺されなきゃなんないんですか。わけが分かりません。上の奴らが勝手に怖がって我侭言ってるだけじゃないですか。そんなの一体誰が聞くんですか。小さなガキじゃないんだから自重しろってんですよ」 エレンの言葉を聞きながら、そして彼のギラギラした黄金を見つめながら、リヴァイは気分が高揚するのを感じていた。心臓はいつもより早い鼓動を刻み、最強と称される兵士の身体と頭をいつでも万全の調子で動かせるようにスタンバイしている。 「もしまだオレが巨人になれるんだったらその命令にも従ったかもしれません。大事な奴らから最後の危険≠取り除くためにこの首を差し出したでしょう。でも違う。そうじゃない。オレは人です。幼馴染の女にも負けるような筋力しかないただの人間です。それを恐れてオレを殺す? そんなの到底受け入れられません。そんな我侭でオレの夢を……海を、炎の水を、氷の大地を、雪の砂漠を、見つけに行く邪魔なんかされたくない」 室内の出席者達を見渡したエレンの双眸には生きる意志が満ち溢れていた。もう化け物だからという理由で死を望んでいた影は無い。今のエレンはリヴァイに殺されることに安堵を覚えたりはしない。むしろたった今告げた言葉の通り、エレンを殺そうとするならリヴァイにすら全力で刃向うだろう。 かつて審議所の地下牢で見た時の圧倒的な意思を宿らせた黄金がそこにある。 ならば。 ならばリヴァイはそれに応えたい。 殺されたいと望んだ部下が今は生きたいと訴えている。ならばリヴァイはその願いを全力で、己の全てでもって叶えてやりたいと思った。 眼力の強さに圧倒されて言葉もない参加者達を視界に収め、リヴァイが口開く。 「だったらエレンの巨人化能力が消せなかったことにすりゃあいい」 「は?」 一同が一斉に目を点にする。その中にはエルヴィンも含まれており、これまでずっと自分の思考よりエルヴィンの作戦を優先してきたリヴァイは面白くなって小さく笑った。 「なぁ知ってるか。この壁の中の世界じゃ死刑が最も重い刑だとされている。だが、それにはもう一段上があったってことを」 いきなり何を言い出すのか。話の中心であるエレンですらそんな顔をしている。しかし構わずリヴァイは続けた。 「壁外追放だ。……まあ、巨人が壁の外で闊歩していたからこそ生まれた最も重い刑ってやつだがな。それでも今のところ壁外はまだ人類にとっちゃ未開の地だ。生き辛いことに変わりはねえ。それにこれまでの調査じゃ肉食で大型の獣なんかも見つかってんだろ? 巨人ほどじゃねぇがそういうのも十分脅威になり得る」 現に壁外調査に出た調査兵の何人かは巨人ではなく肉食の獣に襲われて命を落としている。壁内にも人を襲う獣はいたが、そんなものが可愛いとすら思える程の巨体や凶暴性を持っているらしい。しかも当然だが巨人とは全く異なる動きをするので、巨人討伐に慣れた精鋭も襲われて重傷を負ったり死亡したりしている。 「地上はどうだったか知らねぇが、地下街じゃ壁外追放の話も普通に流れてた。オマケに運よく巨人に捕まらず生き延びた罪人共が壁の外で町を作ってる、なんて噂も俺が生まれる前からあったな」 犯罪者が多く住まう地下街だからこそ、そういう希望と絶望が入り混じった噂話が流れていたのだろう。そしてリヴァイはその死刑よりも重い刑=\―巨人がいなくなった今では死刑と同等の刑≠ゥもしれないが――があるというのを前提として本題に入った。 「エレンは今も巨人になれる。そして人類のために戦ってきたこいつを王政府は自分達の都合で殺そうとしている。エレンが怒るのは当たり前で、もし処刑の話が現実になれば、こいつは巨人化して中央の豚共を皆殺しにするかもしれない。ああ、そうだ。生憎こいつを抑える役目を担ってきた俺もそろそろ年なのか身体にガタがきてるってことにしておこう。本気で巨人化したエレンはもう抑えられるかどうか分からない」 まだまだそんなことはないが、というのを言外に潜ませてリヴァイは残りの言葉を一気に吐き出した。 「だから人類がエレンを処刑しようとしてこいつの怒りを買わなくて済むように&ヌ外へ追放しちまえばいい。幸いにも王や貴族共が恐れる化け物は昔から壁の外に出ることが夢だったらしいからな。王政府としては不要なものを壁外追放にできるし、エレンは誰彼憚ることなく外へ行ける。こいつが壁内に戻って来ないよう監視する役目は俺がやろう。身体に多少ガタがきていてもそれくらいは構わない。――これなら巨人になれる厄介なガキは壁内から追放できるし、それに英雄だか何だかと持て囃されてるらしい巨人殺しの能力しかねぇこの俺自身も厄介払いできる」 「知っていたのか」 最後に付け足した、エレンでは無くリヴァイに焦点を当てた事項に関してエルヴィンが驚きに目を瞠る。それを見返し、リヴァイは鼻で笑ってみせた。 「ああ。昔のエレンみてぇに、今は俺の存在も内乱の火種になるらしいな」 リヴァイは人類解放の英雄である。巨人が跋扈していた時からその存在は特別視されてきたが、百年の鳥籠生活から解放されて浮かれきった民衆の一部はリヴァイという名の偶像を祭り上げ、王よりもリヴァイの言葉や行動を支持し始めているという。確かによく解らない『王』よりも目に見える『英雄』の方が人の心を掴みやすいだろう。そして、本来人の心を掴んでおくべき王達がその状況を歓迎するはずなどない。 エレンの時は壁内に籠もりたがる有力者達と壁外へ出たがる民衆や商会関係者達がぶつかりかけた。そして今、対象者と背景を変えて再び人々がぶつかろうとしている。 「王政府にとっちゃ悪くない話だろう? エレンどころか俺まで壁外へポイだ」 エルヴィンは黙っていた。その目つきは呆けているものではなく、猛スピードで頭を回転させている時の顔だ。 やがて彼の言葉を黙して待っていた出席者達の前で調査兵団一の策略家は――。 「無茶苦茶だな、リヴァイ」 くすりと苦笑を浮かべた。 どうにもならない現状に嘆く表情ではない。それを見てリヴァイが切り返す。 「無茶苦茶だろうが支離滅裂だろうが、やれよエルヴィン。中央の豚共にこの条件を飲ませろ。それがてめぇの仕事だ」 「……いいだろう。二人の♂p雄の命を守るためにも全力を尽くそうじゃないか」 「てめぇらが追い付くより先に俺達が海を見つけて、こいつの目が金色に輝くのを俺が独り占めしてやるよ」 壁の外へ出るその日、リヴァイは見送りに来た者達に向かって不敵な表情を作った。 それに殊更反応したのはミカサとアルミン。特にミカサの方は今にもリヴァイを射殺さんばかりの目つきの悪さだ。 これならば予想よりも早く長期壁外調査の準備を整えて彼女達も壁内を発つかもしれない。追いつかれて幼馴染や仲間に再会したエレンが喜ぶのも見てみたいが、やはり先に海や炎の水や氷の大地や砂の雪原を見つけて、それらに目を輝かせるエレンを独り占めしたいとも思う。 (ああ、どちらも楽しそうだ) リヴァイは馬に跨りながら胸中で独りごちる。 エレンとリヴァイは当初の希望通り壁外追放となった。と言っても王政府が自分達の体面を保つため、出立の名目は『調査』ということになっている。その前に何かひと悶着あるかもしれないと思っていたが、それも無く、どうやらエルヴィン達が予想以上に上手くやってくれたらしいと分かった。 もう壁内に戻ってくることはできないだろう。しかしエレンとリヴァイがここに戻って来ずとも、大切な者達の多くはいずれ壁の外に自分達から出てくる。特にミカサやアルミンはそれが顕著で、早く長期壁外調査に参加し、先に発つエレンを追いかけることに必死だ。 ゆえに別れを惜しむ必要もない。 「エレン、そろそろ行くか」 「はい、兵長!」 応えるエレンの瞳は淡い金。これからの旅路に胸を膨らませている、といったところか。 長年共に戦ってきた彼の馬は本日一段と機嫌が良さそうで、手綱を握る主人の命じるままに動き始める。リヴァイも青毛の相棒の首をひと撫でし、大量の荷物にも全く動じない愛馬に前進を命じた。 壁の内と外を繋ぐ扉が開く。この扉が開く瞬間を今以上に高揚した気分で迎えたことはないだろう。 「……悪くない」 「兵長? 何か仰いましたか」 「何でもねぇよ。行くぞ、エレン。遅れるな!」 「了解!」 馬の腹を蹴って一気に走り出す。 壁を抜けて見上げた空は抜けるように青く、二人の旅路を歓迎するように大地はどこまでも広かった。
泣き虫あの子はもういない
たくさん泣いて、たくさん怒って、たくさん笑っていたあの子は、今、世界を見て回ることに夢中で泣いている暇なんてないのだから。 2013.10.21〜2013.10.27 pixivにて初出 平時は銀色、興奮すると濃い金色になる目を持つエレンの話。 原作カラーイラストのエレンが金眼だったり銀眼だったりするのでやらかしました。 これに「緑→金」へと色が変わるエレンの話を加えて、オフ本になりました。詳細はoffページをご覧くださいませ。 |