【1】

 その少年は王都でも有数の貴族の嫡子としてこの世に生を受けた。
 母親は産後の肥立ちが悪く、少年を産んで数ヶ月後に帰らぬ人となり、広い屋敷に住むのは父親と少年そして乳母と多くの使用人達。乳母は少年に必要なくなった後、主人である少年の父親から暇を出されて屋敷を去った。
 父親が身分に厳しい人だったため、使用人が気安く少年に話しかけることはない。更に当の父親は愛する妻の命と引き換えに生まれてきた息子を心から愛してやることができず、言葉を交わすどころか顔を合わせることすら滅多に無かった。
 少年が日々接するのは、数人の家庭教師や身の回りの世話をする使用人ばかり。そこに時折、今から少年に取り入ろうと企む格下の貴族とその子供達が含まれる。後者は少年と初顔合わせの際、友達になると言う名目で近寄ってくることが多かった。ゆえに表面上は少年もそれらしい対応を取る。だが心の内では気を許すどころか油断してはいけない相手として見るばかりだった。
 満足に愛情も与えられず、他人の中には少年を不幸だと言う者もいるだろう。しかし少年にとってはその生活こそが当たり前であり、己を不幸や可哀想だと思うことはない。
 またそういう立場も災いしてか、周囲と比較して自分が他者に関心の薄いタイプだというのは早々に理解したが、それで何か不都合を被るわけでもなかった。むしろ何かにつけて心の中に波を立てずに済み、また客観的に他人を評価することができるので良いとすら思える。
 おかげでまだ十二という年齢だというのに少年は普段から無表情で、変化と言えば眉間に皺が寄ったり片方の眉が僅かに上がったり生来の鋭い目つきが少しだけ丸くなったりする程度。特に何かへ興味を抱いた時の反応である後者は一年に一度あるかないかというものだった。
 その一年に一度の表情の変化が訪れたのは、少年が十二歳の誕生日を四ヶ月ほど過ぎた春の日のこと。普段から顔を合わせることのない父親が執事を介して今夜食事を一緒に取ろうと言ってきたのだ。


「リヴァイ、私は新しい妻を娶ることにした」
 少年――リヴァイが席についてすぐ、父親は己が掲げたグラスに視線を向けたままぽつりとそう言った。
 グラスの中では赤いワインがくるくるゆらゆらと揺れている。
「そうですか。おめでとうございます」
 リヴァイは何の感慨も抱くことなく淡々と答えた。正直に言ってどうでもいい。記憶にない母親への愛情など欠片もなく、父親が妻だった女を忘れて特定の人間に現を抜かすとしてもリヴァイ本人の生活が保障されているなら好きにしてくれといったところだ。
 父親は「ああ」とだけ頷いて、新しい母親をリヴァイに紹介するだとかそういったことは一切口にしない。ひょっとしなくても父親は新しい己の妻をリヴァイに会わせたくないのだろうか? ならばこちらも余計なことは言うまいと、リヴァイはようやく水が入ったグラスに口を付けた。
 以降は淡々と食事が進み、父子の間で交わされる言葉は一切なかった。
 急に食事になど誘うから一体何事かと思ったが、ただの報告だったことにリヴァイは落胆……とまではいかないが、いささか白けてしまう。しかも新しい母親がリヴァイと会うことはないのだから、これまでの生活にも何ら変化はない。
 ナイフが皿に擦れる僅かな音や給仕の際にワゴンが動く音、その他小さな物音だけが存在する食事はついにデザートまで辿り着き、リヴァイと父親の前には小さなケーキが置かれた。白い生クリームに覆われたケーキの上には花の形を模した砂糖菓子がちょこんと乗っている。
 その時、リヴァイが視線を上げたのは本当に偶然だった。
 リヴァイよりほんの少しだけ先にケーキを給された父親がデザートフォークで砂糖菓子の花をそっと掬う。それを口に迎え入れる時の父親の表情といったら!
(なんだあれ)
 ――きもちわるい。
 心の中でそう呟いたリヴァイはすぐに視線を逸らす。だが恍惚とした表情で花を口内へ迎え入れる父親の姿は薄気味悪いものとしてリヴァイの脳内に残った。
 思わず花の形をした砂糖菓子を皿の端に避け、ケーキにフォークを入れる。だが口に含んだ甘いはずの菓子はリヴァイに吐き気しか催さない。これは駄目だと判断し、我慢しながら再度父親に視線を向ける。
「すみません、今日はこれで……」
「そうか」
 砂糖菓子を食べ終わった父親は先程の恍惚とした表情が嘘だとでも言うように、リヴァイとよく似た顔――正確にはリヴァイが父親に似ているのだが――から表情を消している。もう一度あの顔を見ずに済んだことにほっとしながらリヴァイは一礼し、一口だけ食べたケーキを残して席を立った。
(……ん?)
 食堂を辞そうとしたリヴァイの視界の端に何か光るものが入り込む。反射的に視線をやると、父親の胸元に金色のペンダントが……否、あれは金色の鍵だ。装飾品でもないそれを首からかけている父親に違和感を覚えつつも、しかし生来の無関心が災いしてリヴァイが鍵のことで父親に声をかけることはなかった。



【2】

 最近の旦那様はどうされたのだろう――。使用人達の間でひそひそと囁かれるようになったのは、リヴァイが父親と夕食を一緒にとったあの春の日からしばらくしてのこと。
 外に近い壁の方では徐々に「暖かい」よりも「暑い」という言葉の方が相応しい時期になっていたが、標高の高いウォール・シーナの更に中央、王都にあるリヴァイの屋敷においてはまだ「暑い」などという言葉も程遠い。
 交流が薄いはずの使用人達の噂がリヴァイの耳に届くというのは、噂が立ち始めてからそれなりに日数が経過しており、また多くの者が囁いている話題ということでもある。となると、父親がおかしくなり始めたのは春頃だろうかとリヴァイは見当をつけた。
 噂によれば、なんでも父親がある部屋に入り浸っているそうだ。その部屋は外から鍵がかかる仕組みで、屋敷の主人である父親だけが開けられるのだと言う。
 部屋には掃除のために使用人が入ることすら許されていない。なんと驚くべきことに、父親自ら掃除用具を持って部屋に入る日もあるらしい。誰の目にも触れさせたくない特別な宝物があるのか、それとも別の意味で誰かに見られてはいけないモノを隠しているのか……。
(そう言えば、夫の奇行について新しい母はどう思っているんだろうな)
 父親についての噂が耳に入るまで気にも留めたことのなかった人間の存在を思い出し、中庭で本を読んでいたリヴァイはふと顔を上げ、脇のテーブルで紅茶の給仕をしていた侍女に視線を向けた。
「お母様はどうしていらっしゃるだろうか」
「リヴァイ様? 何を仰っているのでしょうか。奥様はもう随分前にお亡くなりになられたはずですが……」
「俺の母親じゃない。お父様が春に新しく迎えられたという女性の方だ」
「え?」
 侍女は大きく目を瞠り、そしてゆっくりと首を横に振った。
「申し訳ありませんリヴァイ様。そのような方は存じ上げません」
「は……?」
 リヴァイは口を開けて「こいつは何を言っているんだ?」という顔をする。しかし青灰色の瞳が向いた先にいる侍女も「この方は何を言っているのでしょう?」と同じような顔をしていた。
 普通に考えて、主人の新しい妻について使用人が知らないはずがない。人が一人増えるということは彼・彼女らの仕事の増加に直結するからだ。だと言うのに、主人の息子であるリヴァイの身の回りの世話を任されるレベルの侍女であっても主人の後妻の存在を知らないとは――。
「リヴァイ様?」
「いや、いい。気にするな。少し寝惚けていたようだ」
 侍女から視線を外し、リヴァイは彼女にもうこの場から辞すよう命じる。教育が行き届いた使用人は表情一つですらそれに反することはなく、静々と中庭から去って行った。きっと彼女はついでにこの場の人払いもしてくれることだろう。
 他人の気配が一切なくなった庭でリヴァイは本を閉じ、テーブルに肘をつく。手を組んでその上に顎を乗せると、爽やかな初夏の気配に似つかわしくなく、眉間に深い皺を刻んだ。
 あの春の日の夜、父親は確かに新しい妻を娶ると言った。愛していないリヴァイに会わせるつもりなど無い程度には愛しているはずの女性を。だがいくら独占欲が顔を出したとしても、この屋敷の管理をする使用人達にすら存在を知られていないなど有り得ない。不可能だ。それともまさか父親は支配階級でありながら自ら新しい妻の身の回りの世話を全て行っているとでも言うのだろうか……。
「…………、身の回りの世話を全て行う?」
 自身の思考に引っ掛かりを覚えてリヴァイは思わず口に出す。
 そのような何か≠ェこの屋敷にある――もしくは『いる』――という話を、己は耳にしなかっただろうか。
「使用人が掃除に入ることすらできない、鍵のかかった部屋。……まさか」
 確証はない。また生き物を一つの部屋で生かし続けるというのは無理ではないが不都合が多いのも理解している。しかしいるとすればそこである可能性が最も高いというのも事実。
 実の父親の奇行というものに久しく感じなかった好奇心が顔をもたげたリヴァイは更に記憶を浚い、父親がペンダントのように首から下げていた金の鍵の存在をも思い出す。時期的に考えれば、あの鍵こそが主人しか入れない部屋の物だ。
 ついでに思い出してしまった己とよく似た男の恍惚とした顔を手で振り払うようにしながら、リヴァイはまず該当の部屋を探すことにした。


 部屋の存在は確かなので、それはその辺にいる使用人に訊けばあっさりと答えが返ってきた。
 客が宿泊できるように誂えた部屋が並ぶ三階の東側。奥の一番大きな部屋がそれに当たるらしい。父親が不在の時を狙って早速部屋を訪ねてみれば、確かにその両開きの扉には廊下側から鍵がかけられており、頑なにリヴァイの侵入を拒む。念のため外からノックをしてみたが、中から応えはなかった。
 これが一日目のこと。
 リヴァイはその次の日も家庭教師の授業の合間を縫って三階の東の部屋を訪れた。昨日と同じようにノックをしても応えはなく、ノブを回すが鍵がかかっており開くはずもない。
 三日目。家庭教師の授業が午前中のみだったその日は父親が部屋を訪れるのを隣室の扉の影に隠れて待ち伏せすることにした。現れた父親はリヴァイの存在に気付くことなく――周囲に誰かいるなど気にしていられないほど東の奥の部屋に意識を向けていたのだ――首から下げた金の鍵で扉を開錠し、中へと入る。隣室から出てきたリヴァイがその部屋の扉に耳を押し当てて中の様子を探るものの、父親の声が微かに聞こえるだけだった。
 だが幼い少年の耳はある単語を拾う。――私の愛しい××よ。
 何が愛しいのかまでは聞き取れなかった。しかしどうやらこの部屋には父親が心から愛でる存在が隠されているらしい。
 その後も父親は何者かにぼそぼそと語り続け、結局、食事の時間になるまで部屋から出て来ることはなかった。
「……異常だな」
 父親と別々に食事をとった後、一人の部屋に戻ったリヴァイはぽつりとそう呟いた。
 使用人達の噂通り、明らかに己の父親は異常な行動を取っている。部屋に何かを隠し、それに向かってひたすら気持ちの悪い声で語り続けるのだ。これを異常と言わずして何とする。
 しかもその頻度は入り浸る≠ニ称されるほどだ。幸いにも父親の右腕とも言える執事が取り仕切っているおかげで何とか稼業や諸々の事柄も上手く回っているが、本来それをすべき父親が完全に仕事を放棄していたとすれば、訪れる結果が決して良いものではないことくらい簡単に分かる。
 元々リヴァイの父親は決して義務を疎かにするような男ではなかった。むしろ愛人を一人も作らずただ一人の女性を愛するほどには一途かつ誠実で、その女性の命と引き換えに生まれてきた息子への接し方が分からないくらいには不器用な男だ。しかし今、その性質が狂ってしまっている。
 正直なところ父親が今更新しい何かに心奪われようとも、そのこと自体をリヴァイが気にかけることはない。だがこの家の長である男に生じた狂いがリヴァイの生活に影響を及ぼすなら話は別だ。関心云々ではなく、この家の次期当主としてリヴァイには状況を正しく把握し必要に応じてその解決に動く義務がある。
 だとすれば一番手っ取り早いのは、あの部屋に入って中に何があるのか確かめることだ。しかし鍵は父親が所持しているところしか見たことが無く、またあの様子ではスペアキーも作っていないだろう。しかも彼はそれを四六時中肌身離さず持っている。となると、気は進まないがリヴァイには一つしか案が浮かばなかった。


 照明をつける必要が無いよう、月の明るい夜を選んでリヴァイは行動を開始する。
 部屋の中を確かめる手段としてリヴァイの頭に一つだけ浮かんだのは、鍵の所有者である父親が熟睡している間にそれを拝借するというものだった。
 だがそれを使って扉を開けに行くわけではない。部屋の中を確かめるのは本人がいつ起きるか知れない今ではなく、一週間後に父親が三日ほど家を空けるので、その際に実行するつもりだ。王からの命令が関わる重要事項であるらしく、何があっても――たとえば家族の誰かが死んだとしても――絶対に欠席は許されない。
 今宵はただ鍵の型をとり、複製の準備をする。幸いにも父親が首から下げていた金の鍵はあまり複雑な構造をしておらず、ごく一般的な部屋の鍵と同じように見えた。元々ある部屋の鍵なのだから当然と言えば当然なのだが。
(……あった)
 父親の部屋に忍び込んだリヴァイはサイドテーブルの上に置かれている鍵を見つけ、青灰色の双眸を細める。罪悪感が無いわけではなく、また貴族である己がコソ泥の真似をすることにプライドが傷つくような気はしたが、だからと言って父親の異常を見逃して良い理由にはならない。
 ベッドで仰向けになっている父親の呼吸からその眠りが深いことを確認し、リヴァイはそっと鍵を拝借した。そして素早く自室に戻り、この時のために用意していた専用の道具で型を取る。上手く取れたことを確認してすぐさま鍵を父親の寝室に戻すまで、かかった時間は三十分も無かった。
 こうして取った型から複製された鍵が出来上がるまで二日。更に五日後、父親は予定通り屋敷を出て、リヴァイはようやく本番を迎える。



【3】

 複製した鍵はカチャリと小さな音を立てただけで、開錠は実にスムーズだった。両開きの扉の片方だけを開いて中に入れば、視界に飛び込んできたのは南向きの大きな窓がある陽当たりの良い部屋。父親の奇行から予想される気味の悪い雰囲気は微塵もない。清潔感溢れるすっきりとした部屋だ。
 だがそこには生活に必要なベッドもチェストもテーブルも、そして室内を飾るための絵画や彫像といった美術品などもなかった。あるのはただ一脚の椅子のみ。
 その椅子は他に何もない代わりだとでも言うように高価なものだ。しかし金箔や宝石で飾られているわけではなく、深い赤のクッションと精緻な細工が施された飴色の木材――ただそれだけの色彩で構成されている。
 リヴァイが部屋に入った時、椅子には一人の少年が座っていた。少年と一言で表してもリヴァイより年上で、ちょうど十代半ばくらいに見える。また目を閉じて表情も浮かんでいないため、雰囲気としては更に大人びているように感じられた。現在十二歳であるリヴァイからすれば青年と称した方が相応しい。
 椅子の肘掛に両手を預けて座る青年は、リヴァイが部屋に入ってもその両目を閉じたまま微動だにしなかった。黒髪が太陽の光を受けて茶色がかって見えている。睫毛も同じ色。それに気付いたリヴァイはふと思う。――あの伏せられた瞼の向こう側には一体どんな色の瞳が隠れているのだろう。
 後で思い返してみれば、それはまさに一目惚れをした瞬間だった。それまで他者にあまり関心を抱けなかったリヴァイがたかが瞳の色に興味を抱き、見たいと望み、また更には己を見て欲しいと願う。
 ともあれその自覚がないまま、リヴァイはふらふらと誘われるように椅子に座る青年へと近付いた。
「……お前は、誰だ?」
 椅子の正面に立ってリヴァイは問う。
 青年が着ているのは白いシルクのシャツと黒いスラックスで、宝飾品などは一切なく、こちらも椅子と同じく色味が少ない。しかし白くきめ細かい肌や艶のある黒髪と合わさるだけで青年は一つの完成された芸術品のように美しかった。
 これが、リヴァイの父親が隠していたモノ。
「まさかお前が新しい母親≠ネのか?」
 どう見ても男の身体をしている相手に向かってリヴァイはぽつりと呟く。
 有り得ないはずなのだが、扉越しに聞いた父親の気持ち悪いほど甘い声がその考えを否定させてくれない。
 もしこの考えが正解であるなら、リヴァイの父親は春からこの若い男を妻と呼び、囲っているということになる。
(それにしても……)
 リヴァイは椅子の正面に立ったまま腕を組み、青年の顔をまじまじと見つめた。
 目を開けることも身じろぐこともしない青年はまるで一流の人形師が作り上げたビスクドールのようだ。触れればそこに人間の体温はなく、人形の冷たさが伝わってくるのではないかと思えてしまう。なんとか青年が生きていると分かるのは、シルクのシャツに覆われた胸が微かに上下しているからだった。
 だが青年が人形ではなく人間であるならば、この部屋の様子はますます異常に見えてくる。今、青年は椅子に腰かけたまま眠っているようだが、部屋に入ってすぐ分かった通り、本来彼が身体を横たえるに相応しいベッドも、食事をとるためのテーブルも、水回りの設備一式も何もここには存在しない。
 この青年が食事や風呂、排泄等のために部屋から出るならば、一度くらい使用人に目撃されてもいいはずだ。美しく、そして見知らぬ青年であるならば、その噂は今回の父親の異常行動よりも素早く広まったことだろう。
 まさか本当に設備が不十分なこの部屋に閉じ込めているわけでもあるまいに。リヴァイはそう思いつつも、廊下へ繋がる唯一の扉を見た。内側からは鍵が――……かからない。
「……」
 内鍵のツマミがあったはずの部分は綺麗に切り落とされ、中から施錠も開錠もできなくなっていた。
 リヴァイの背中を嫌な汗が伝う。これは完全な監禁だ。法律スレスレどころか完全に法としても人道的にも外れた行為を好む貴族は少なからず存在するが、その一人が己の肉親であり、現場をこうして直視してしまえば、さすがのリヴァイも頬を引き攣らせた。
 が、ここで疑問が浮かび上がる。
 椅子以外何もない部屋に監禁されているこの青年はどうやってこの清潔な状態を保っているのだろう? 部屋は生き物を閉じ込めた際の汗や糞尿の臭いなど全くなく、それどころか微かに芳しい花の香りがしている。いくら父親が手ずから掃除している(かもしれない)とは言え、彼が最後にこの部屋を出てから半日以上過ぎており、父親が世話をしているという事実がこの部屋の空気の理由にはならない。
 とすれば、逆にこの青年がそのような世話を必要としない存在であるという可能性が浮かび上がってくる。リヴァイがそう思えたのは、未だ眠り続ける青年の容姿が生き物から少し外れた神秘的な美しさを備えていたからでもあった。
 実は潔癖の気があるリヴァイが触れてみようと思ったのは、青年が人間味を欠いた存在であり、単なる『物』を確かめるために触れるという意識があったからか。はたまたその美しさに引き寄せられた結果なのか。リヴァイは自覚が無いまま、青年の頬に手を伸ばす。
「きちんと温かいんだな」
 指先で触れた肌は柔らかく、体温があった。次第に接触面積を増やし、手のひらで頬を包むように触れれば、それが更にしっかり伝わってくる。
 リヴァイに触れられても青年の様子が変わることはなかった。相変わらず微かな呼吸をゆっくりと行いながら目を閉じて――……否。
「……っ」
 それはまるで蕾が綻び、花開くように。ずっと閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上がる。
 薄い皮膚の向こうから現れたのは淡い輝きを放つ黄金。それが正面に佇むリヴァイの姿を反射する。引き込まれそうなその美しさにリヴァイはゴクリと喉を鳴らした。
 目を閉じていた時は人形のような美しさがあったが、目を開けた今、それだけで青年には生き物としての魅力が満ち溢れていた。
 リヴァイは気付く。こんなに美しいものを他者の目に触れさせるなど勿体無い。部屋に閉じ込めてひたすら己だけで愛でたくなるのは当然だった、と。
 前を見据える黄金の双眸がぱちりと瞬き、リヴァイに焦点を合わせる。そして無表情だった顔がふわりと綻び、小さな笑みを浮かべた。
「オレを起こしたのはあなたですか?」
 青年の唇から零れ落ちたのは声変りをした後の、けれどもとても澄んだ少年の声。その声に聞き惚れてしまい、リヴァイは質問の意味を半分も理解できないまま「……あ、ああ」と頷いてしまう。一応、リヴァイが触れた後で目覚めたのだから、それはあながち間違いではないのかもしれないが。
「あなたの名前は?」
「……リヴァイ、だ」
「リヴァイ。……覚えました。ではリヴァイ様とお呼びしましょう」
 ただ名を呼ばれるだけでこんなにも心臓が跳ねるだなんて知らなかった。リヴァイは頬が紅潮するのを感じながら何とか頭を縦に動かし、次いで「お前は?」と問いを返す。
「お前の名は何と言う? お前は一体何者だ?」
「オレはエレン。たった今からあなただけの【花】となる、エレンです」
「俺だけの?」
「あなたはオレを起こしました。だからオレはあなたのものです」
 自らを【花】と名乗るエレンはそう言って頷いた。
 しかしリヴァイはこの部屋にエレンを連れてきて閉じ込めたであろう人物の存在を知っている。とすれば、――このような言い方は好かないが――エレンの所有者はリヴァイの父親ではないのだろうか。
「お前をここに連れて来たのは俺じゃなくて俺の父親だ」
「そうだとしても、あなたのお父様はオレを起こす人物足り得なかった。そしてあなたがオレを起こした。だからオレの主人はあなたです」
 リヴァイの父はエレンを目覚めさせることができなかった? と言うことは、扉越しに聞いた父の声は眠り続ける相手へ一方的に語り掛けるものだったということか。
 新しい事実を知りながらリヴァイは更に問いを重ねる。
「お前を起こすには何か特別に必要な要素があるのか?」
「一概には言えません。しかしオレはあなたでなければ目覚めなかった。そういう存在なんです」
 言葉にするなら、それは運命だとか必然だとか言うのかもしれない。普段のリヴァイなら一笑に付して終わっただろう。しかし目の前の美しい存在から告げられた言葉に関しては笑って捨てるどころか、リヴァイの鼓動はますます早くなり、歓喜で手が震えた。
 その微かに震える手のうち、エレンの頬に触れていたままだった方が上からぬくもりに包まれる。
「え、れん」
「はい」
 エレンの手が上からリヴァイの手を覆っていた。同時に頬を擦り寄せ、甘えるように金色の瞳がリヴァイを見上げる。
「リヴァイ様、オレの主。オレはあなたの【花】です。どうか末永くあなたのお傍にいさせてください」


 エレンの主人になった翌日も、リヴァイはその部屋を訪れた。
 父親に知られてはならないという直感に従い、使用人にすら悟られぬようにと考えてしまえば逢瀬の時間はあまり長く取れない。だが東の部屋を訪れ、暖かな日差しが降り注ぐ中でエレンと他愛ない話をすることがリヴァイにはとても心地よかった。
 そんな日々は父親が帰宅してからも続き、父親や使用人の目を盗みながらリヴァイはエレンとの逢瀬を繰り返した。
 会話の中で判明したことなのだが、リヴァイ不在の間、エレンはずっと眠り続けているらしい。ゆえに時間の経過も、眠っている間に誰が何をしているのかも分からない。それで良いのだとエレンは言った。
「オレはあなたの傍に居たい。あなたが居ない時間は自覚する価値すらありません」
 ゆえにエレンは昏々と眠り続ける。そしてリヴァイが部屋を訪れ、その名を呼んでようやく、彼は瞼を震わせ黄金の瞳を覗かせるのだ。
 またそんな彼は人間のような食事を必要としていなかった。摂取するものが無いのだから排出するものもなく、人間と同じなのは見た目だけ。己を【花】と称したように、十分な光と適度な水分は必要とのことだったが、眠っている間はどちらもほとんど必要ない。そして起きている時にはその話を聞いたリヴァイが水差しを持ってくるようになったので、水不足で枯れる℃桝ヤにはなりそうになかった。
 リヴァイはこんな生き物の話など聞いたことがない。しかし実際には目の前にこうして存在し、言葉を交わしている。また実はエレンがただの見目が良いだけの人間で、リヴァイのいない間に食事を摂っている可能性もあったが、それならばそれで別に構わないと思えた。リヴァイの興味がエレンに向き、エレンがそれに応えてくれているのは事実なのだから。
 だがある日、エレンを人間ともそうでないとも決めていなかったリヴァイに決定的な証拠がもたらされることとなった。
 その日はリヴァイが話題の一つにするため、東の部屋に一冊の本を持ち込んだ。本当ならエレンがどのような本を好むのか知るために何冊か候補を持ち込みたかったのだが、誰にも気付かれないよう部屋に入るためには一冊がやっとだった。
 ともあれ、エレンが見やすいよう座った彼の膝の上に本を広げて、リヴァイは逆側から覗き込む体勢をとる。ページをめくるのはエレンだ。
 その最中、エレンが紙で指を切ってしまった。痛みへの感度が鈍いのか、エレンは指を切っても「……ん」と小さく漏らしただけ。反対にリヴァイは綺麗なエレンの指先を傷つけてしまったと焦ってその手を掴む。
「エレン、指が!」
「大丈夫ですよ、すぐに治ります。それに」
 リヴァイにされるがまま、己の主人の眼前に傷ついた指先をさらし続けるエレンは言った。
「血なんて出ませんし」
 直後、思ったよりも深く切れていた指先の傷口から赤いものが零れ落ちる。しかしそれは決して血液ではない。それどころか液体ですらなかった。
「……!」
 リヴァイの目の前でエレンの指先から現れたのは真っ赤な薔薇の花びら。それはひらひらと舞い落ちて床に色を添える。
「なん、だ」
「オレは【花】ですから」
 いつか聞いた台詞をエレンは微笑と共に告げた。それどころか、
「もっとよくご覧になりますか? あまり中の花を流しすぎるとオレの身体が縮んでしまいますけど」
 あろうことかエレンは己の傷に爪を立て更に大きくする。リヴァイが止めるまもなく広がった傷口からははらはらと真っ赤な花びらが幾枚も現れ、時折赤い薔薇の花そのものが零れ落ちた。
 ただ愛でる対象という意味ではなく、真にその身が花から作られている。だからこそ己は【花】と名乗るのだとエレンは笑う。
「……お前は、人じゃないんだな」
「その通りです、リヴァイ様」
 今ようやくリヴァイは理解した。エレンは人外を装った人ではなく、正真正銘の人外なのだ。
 しかしそれを理解して尚、リヴァイは恐怖も嫌悪も抱かない。むしろエレンの美しさの理由はこれだったのかと納得することができた。
 エレンもリヴァイの様子からそれを正しく悟ったのだろう。己を恐れず、むしろ改めて好意を寄せてくる主人にエレンは笑みを深める。
「美しいな」
「ありがとうございます」
「だがやはり傷ついたままというのは忍びない。もう自分から傷を作るような真似はやめてくれ」
「わかりました。あなたの仰る通りに」
 その返答を聞き、リヴァイは握ったままだったエレンの指先に満足そうな顔で口づけを落とした。



【4】

 それはただ単に運が悪かっただけなのだ。
 一日中不在にしているはずの父親が急に帰宅し、なおかつ彼がエレンの部屋に赴くのと短い逢瀬を終えたリヴァイが部屋から出て来るタイミングが合致してしまったのは。
 最初、親子は互いの顔を見合わせて固まった。東の部屋の扉を閉めて廊下を歩き出そうとしたリヴァイと、いつも首から下げている鍵を手に持って扉の数メートル手前までやってきていた父親。リヴァイの背後でかちゃりと扉の閉まる音がする。おそらく中にいるエレンはこの音を聞いた時点で再び眠りについたことだろう。
 最初に身体のこわばりが解けたのは父親の方だ。彼はリヴァイが何をしていたのか理解し、眉間に皺を寄せて低い声を出す。
「リヴァイ、その部屋に入ったのか」
「……」
「答えなさい」
「……」
「リヴァイ」
「……入りました」
 同じ名前を呼ばれるのでも、エレンが口にするそれとは全く異なっている。背中に嫌な汗をかきながらリヴァイは答えた。
「そうか」
 父親は固く低い声のまま問いを続ける。
「どうやって入った。鍵がかかっているはずだろう? 私の部屋から盗んで複製したのか?」
「仰るとおりです」
「この家の嫡子ともあろう者が泥棒の真似事か。恥を知りなさい」
「……」
 確かに泥棒の真似事をしたのはリヴァイ自身も恥ずべきことだと思っていたので何も言い返せない。
 父親の声は厳しいが、怒鳴ったり殴りかかってきたりすることはなかった。まだ子供のリヴァイでは権力的にも体力的にも父親に敵うはずなどないが、少なくとも物理的な痛みは受けずに済みそうだ。
 と、思っていたのだが――。
「リヴァイ、この部屋に入ったなら中の様子も見たんだな?」
「……はい」
 父親が一歩ずつ近付いてくる。
「あれは美しいだろう?」
「はい。とても」
 父親の手の中で金色の鍵がきらりと光を反射する。
「あれが私の妻だ。しかしお前の母親ではない。あれは、お前のものではない」
「……」
 鍵は父親の手の中に握り込まれ、一旦姿を消す。
「私が見つけて、私がこの屋敷に連れてきた。たとえ目を覚まさずとも、たとえ声を聞けずとも、あれは私の妻であり私だけの【花】だ」
 花と称したことからどうやらエレンの身体の特性は分かっているようだが、リヴァイの父親はエレンに選ばれず、眠り続ける彼の姿しか知らないのだろう。リヴァイのようにその目が黄金だということを知らないし、声すら美しいことを知らない。当然、彼の名がエレンであることも。そして、エレンが己の主人としてリヴァイを選んだことも。
「リヴァイ、お前はあれに触れたのか?」
 父親は右の手を握り拳にしてリヴァイに問う。物理的な痛みはやって来ないだろうと思っていたが、おそらくリヴァイの返答によってはその予想が外れてしまうだろうことは分かっていた。痛いのは嫌いだ。しかしエレンの名前も知らないくせに彼を己のものだと言う男に、リヴァイは下手に出る気が失せていた。
 しっかりと顔を上げて父親と目を合わせる。そしてリヴァイの愛しい【花】を己の者だと嘯く愚かな男にきっぱりと宣言してやった。
「触れました。頬にも、手にも。髪にも首筋にも瞼にも唇にも。それだけじゃない。俺の耳は彼の声を聞き、俺の目は彼の瞳の色を知りました。俺は貴方が知らない彼を知っている。彼の名前も彼の口から聞いて知っている!」
 言い終わった瞬間、リヴァイの小さな身体は吹っ飛んだ。エレンの部屋の扉に背中を強く打ち付け、呼吸がおかしくなる。殴られたと分かったのは、薄目を開けて確認した父親の右腕が振り抜かれていたことと、己の左頬が尋常ではない痛みを早々に訴えだしたからだ。
 泣きそうなくらいに痛い。しかし口元は笑みの形に歪む。
「そんなことをしても何も変わらない」
 最早父親に対する敬語も何もリヴァイの中から抜け落ちていた。今、目の前にいるのはリヴァイの【花】に相手にされず、暴力に訴えることしかできない哀れな男だ。
 扉に背を預けたままその哀れな男を見上げて笑う。

「あれは……エレンは、俺の【花】だ」

「……っ!!!!!!」
 エレンの名すら知らなかった男はリヴァイのその言葉でようやく焦がれる【花】の名を知り、そして嫉妬で顔を憤怒の赤に染め上げる。
 鍵を握りしめたままの拳が更に力を込められ、白く染まった。それが大きく振り上げられ、リヴァイに向かう。
 その拳から視線を逸らさず、リヴァイは笑い続けた。――――暗転。


「……」
 リヴァイが目覚めたのは自室の広いベッドの上ではなく、どことも知れない暗い路地裏。両脇に聳え立つ建物の合間から馬鹿みたいに青い空が覗いている。
 身にまとっているのは記憶が途切れる直前まで着ていた己の服。しかし高価な生地はぼろぼろに傷み、所々乾いた血液が付着している。それらは全てリヴァイから出たものだろう。
 靴は片方しか履いていなかった。そしてリヴァイの持ち物はそれだけだ。
 嫉妬に狂った父親はリヴァイを死ぬ寸前まで殴りつけ、そのまま使用人を使ってこの場所に捨てたのだろう。今から屋敷に戻っても門前払いどころかもう一度父親に殴られ、今度こそ死ぬかもしれない。しかもそれ以前にリヴァイの身体は全く起き上がろうとしてくれなかった。おかげで暗くて臭いこの路地裏から未だに動くことができないままだ。
 だが――
「必ず取り戻してやる」
 リヴァイは空を睨みつけて強く誓う。
 屋敷に囚われたまま眠り続けるエレンをもう一度この手に。そのためなら父親の命すら厭わない。必ずエレンを迎えに行くのだ。
「エレンは俺の【花】なんだからな」



【閑話】

 誰かが己に触れている。誰かがひたすら己の名を呼んでいる。
 普段の【花】であれば、己の主人がたった一度でも名を呼べば歓喜と共に目を覚ますことができた。しかし今は夢現のままその声を聞き、それからじわじわと思考が活動を再開する。
 己の名を知っているのはまだ幼い主人だけ。それを呼ぶということは、声の主は【花】の主人ということではないのか。
 そこまで考えてようやく【花】――エレンは目を開けた。主人のリヴァイが傍にいる時とは異なり、その目覚めはとてもゆっくりなものだったが。
 ぼんやりと開かれた目に映るのはリヴァイと同じ黒い髪。だが目覚めたエレンはその声も背格好もリヴァイのものではないことに気付き、己の頬に触れる手を力強く振り払った。
 ぱしん、という音が何もない室内に反響する。手をはたかれた男はエレンを見て驚きに目を瞠り、だが怒りではなく恍惚とした表情で再び名を呼んだ。
「ああ、エレン。なんて美しい……!」
 その男は少しだけリヴァイに似ていた。だがエレンの主人たるリヴァイではない。だと言うのに男はエレンを見つめたまま「美しい」「すばらしい」と繰り返し、そしてついには「私の【花】」という言葉を使った。
「はあ? 誰がてめぇのだ。オレはてめぇみたいなオッサンのものじゃねぇよ。オレの主はリヴァイ様ただ一人だけだ」
 椅子から立ち上がったエレンは金の目で男を睨みつけながらそう吐き捨てる。
 美しい花≠ェそのような言葉遣いをし、また己ではなく別の人間を主人と認めていることが余程衝撃的だったのか。男は三白眼気味の目を大きく見開き、唇をわなわなと震わせた。そこへ追い打ちをかけるようにエレンは続ける。
「おい、リヴァイ様はどこだ。あの方をどこへやった。何かしてやがったらただじゃ済ませねぇぞ」
 エレンの目は男など見ていない。求めるのはまだ幼いたった一人の主のみ。
 それを察したであろう男は憤怒に顔を赤く染めて叫んだ。
「あんなガキ捨ててやったさ! 折角私が手に入れた【花】に手を出したんだ! ぼろぼろになるまで殴って路地裏に捨ててやったとも! はっ、今頃はもう汚い犬の餌になってるだろうよ!」
「……そう、わかった」
 男の両手の皮がちょうど人を何度も殴りつけた後のようにめくれあがっているを目視してエレンは静かに答える。大人の男の手がこんなになるまで、この男はエレンの大切な人を殴り続けたのだろう。しかもその生死は完全に不明。
 にこり、とエレンは笑みを浮かべる。それはエレンに蔑むような目しか向けられなかった男にとっては息を呑むほど美しいものだっただろう。
 その表情を浮かべたままエレンは己の親指の付け根に歯を立て、躊躇無く噛み切った。
 傷から溢れ出すのは多種多様な花達。しかしその色は全て白。花に詳しいものなら、それらを見て美しいと思う前にぞっと顔を青褪めさせただろう。エレンの傷口から溢れる白く美しい花々はどれもこれも強い毒性を持つ毒花だったからだ。
 微笑みながらエレンはその手で男の顔面を掴む。

「オレからあの人を取り上げた罰だ。死んで詫びろよ」

* * *

 決して狭くはないその部屋は元々白かったであろう茶色く枯れた花で溢れかえっていた。花は部屋の扉を押し開いて廊下に溢れ、ずっと向こうまで茶色に染め上げている。
 花の中には一人の男が横たわっていた。呼吸は無い。その心臓は完全に動きを止め、腐った花の中でそれとは異なる種類の異臭を放ちながら腐敗を始めている。死後数週間が経っていた。
 部屋の外に溢れた花々に埋もれた屋敷の使用人達も男と同じ状態であり、王都に建つ大きな屋敷は完全に死の館と化している。
 それを屋敷の玄関から順に見てきた訪問者――数ヶ月前からこの日に屋敷の主人の検診を依頼されていたためやって来た医者は、表情をこわばらせながら三階の東側にあるその部屋に足を踏み入れ、自分が診るはずだった男から少し離れた椅子の上に赤子がいるのを見つけた。
「生きているのか……」
 その赤子は金色の目をぱっちりと開けて医者を視界に納めている。赤子は産着の代わりに成人男性が着るようなサイズの服にくるまっているようだった。
 医者は花の残骸をかき分け、唯一の生存者らしき赤子を抱き上げる。この家の嫡子は確か青灰色の目をしていたはずだ。しかもすでに十歳を過ぎているので、この赤子がそれであるはずがない。
「名前は……言えるわけがないか」
 金色の目をした赤子から視線を外し、医者は周囲を見渡す。何か赤子のヒントになるものは無いだろうかと。
「ん?」
 しばらく探していると、赤子がくるまっていた衣服のポケットから紙切れが出て来た。それは【花】の口から直接その名を聞いた少年が綴りを確かめるために記したメモであり、物を保管する場所すら持たない【花】が大切にしまっていた物だったのだが、そのような事情を知らない医者はただ単にメモの内容を読み上げた。
「エレン?」
 呟いたのと同時に、「あー」と赤子が声を発した。ひょっとしてこの子はエレンというのだろうか。
 誰の子とも分からぬ赤子を抱いたまま医者は次のことを考える。まずはこの惨状を憲兵団に知らせなければならないが、その後にこの子がどうなってしまうのか……。
 医者は眼鏡の奥の両目を細め、眉尻を下げる。そしてしばらく黙考した後、
「エレン、私の家の子供になるかい?」
 赤子は「あーう」と、イエスともノーともつかぬ答えを返した。
 数日後、金色の目をした赤子はその医者の姓を名乗ることとなる。イェーガー、と。


 月日は流れ――。
 ウォール・マリアのシガンシナ区に住む医者のグリシャ・イェーガーの血の繋がらない息子――エレンは、常に何かを探しているようだった。「早く大きくなって探しに行かなきゃ」という言葉を時折ぽつりと漏らし、まだまだ小さな己の身体にもどかしさを感じる日々。
 そんな子供が調査兵団に入りたいと言い出したのはいつ頃からだっただろうか。ちょうど調査兵団にとんでもない実力の兵士がいるという噂がシガンシナの住民達の間に広がり始めたのと同時だったような気もするが、グリシャはそれとエレンの間に関係を見出して良いものかどうか分からなかった。
 確かその兵士の名はリヴァイとか言ったはずだ。
 まさかエレンがずっと探し続けているのがそのリヴァイなる人物だったりするのだろうか。
「……まさか、な」
 グリシャは飛躍しすぎた己の思考に苦笑しながら頭を振る。それが真実であることも、またエレンの正体が何であるかも知ることなく。



【5】

 実の父親によって瀕死の状態に追いやられたリヴァイはそこから何とか回復し、まず自分が住んでいた屋敷の様子を見に行った。だが奇妙なことに気付く。完全な回復に月単位で時間がかかってしまったリヴァイがそこへ赴いた際、敷地内には全く人の気配がしなかったのだ。
 使用人達によってきれいに整えられていた庭は荒れ始めており、中へ足を踏み入れても誰かがリヴァイを見咎めることはない。まさか入れるとは思っていなかった屋内をずんずんと進み、リヴァイはエレンがいるはずの部屋の前にまで辿り着く。
 茶色く枯れた花が比喩ではなく山のように溢れかえっていた屋内も今はすっかり片付けられており、リヴァイがそのような惨状を知ることはない。
 扉を開くと、中にはやはり一脚の椅子だけがあった。しかしその椅子に座るべき者の姿がない。
「エレン……?」
 呼びかけても当然応えが帰ってくるはずはなく。リヴァイはふらふらと自失状態で椅子へと歩み寄る。
「どこへ行きやがったんだ……お前は俺の【花】なんだろうが」
 誰も彼もいなくなり滅亡してしまったある貴族の、しかも花に埋もれた死体がたくさん出て来たおぞましい館に買い手がつくはずもなく、このまま朽ちていくだろう屋敷の一角でリヴァイは立ち尽くす。だがその双眸がキッと鋭くなり、自失状態から脱して拳を強く握りしめる。
「必ず見つけ出してやる。何をしても」
 殺すことも厭わないと思っていた父親の姿はすでに無く、求めていたエレンも消えてしまった。ならばとリヴァイは考える。たとえアンダーグラウンドに手を染めることになっても構わない、と。それでエレンを取り戻せるなら何だってしてやると誓った。
「待っていろ、エレン」
 その決意の通り、やがてリヴァイは王都の地下街へとその身を落とすこととなる。

* * *

 あの誓いから十五年もの月日が流れても、未だにリヴァイはエレンを見つけることができていなかった。地下街ではそれらしき情報を掴むこともあったが、全てガセネタでエレンには絹糸一本分も繋がらない。
 そうこうしているうちに地下街でできた生まれて初めての友人達も失い、リヴァイだけが調査兵団に所属するという形で地上へと再び出ることになった。
 調査兵団兵士長。それが現在のリヴァイの立場を示すものである。
 年月を経て人との関わりを持ち、リヴァイはかつての己が想像だにしていなかったところにいる。だがそれでも尚、リヴァイの胸の中心を占めるのはエレンだ。兵士長という地位につき沢山のしがらみを背負う羽目になって身動きがとれない状態になっても――否、だからこそエレンに焦がれる思いは年々強くなっていった。
 リヴァイが地下街から出てそれほどしないうちにウォール・マリア陥落という未曾有の大惨事には見舞われたが、それ以降も壁の外に出て、部下や同僚を巨人に食われ、また新しい部下ができる――。その繰り返しのある種変わり映えのない日々が続いていた。しかしトロスト区の壁が破られた日、リヴァイの中で止まっていたものが再び動き出す。


 初めて巨人になれる兵士の顔を見たのは、壁外調査から戻ってすぐの混乱真っ直中でのことだった。
 まだ訓練兵であることを示す交差した剣の紋章を背負う少年と少女が一人の少年を囲んでいる。その少年の視線は彼らを巨人から守ったリヴァイに向けられていたが、目は瞳の色が分からない程度にしか開かれておらず、また顔の美醜が判断できないほど汚れていた。しかも遠目だったこともあり、リヴァイにはぐったりとしているその少年の姿をきちんと認識することができなかった。
 ゆえに巨人になれるというその子供の名を調査兵団団長のエルヴィンから聞いた時も、リヴァイは「エレン」という名には反応したが、審議所の地下牢に入れられた彼への面会がなかなか憲兵団が許可せずともあまり気が焦ることはなかった。
 しかしトロスト区奪還から三日後、ついに面会の許可が下りてリヴァイはエルヴィンと共に件の訓練兵が囚われている地下牢へと足を運んだ。
 少年は鉄格子側に足を向けて眠っており、盛り上がったシーツの所為でその顔を見ることは叶わない。しかし見張りの憲兵が刺々しく、しかしどこか怯えた声で「おい、起きろ!」と言えば、シーツの山がもぞもぞと動いて少年が身を起こす。
 薄汚れた白い山から最初に見えたのは剣を握る者として兵士特有の形になり始めた手。それから黒髪の頭部、未だ汚れが拭い切れていない額が続く。やがて瞼が降りたままの顔を目にした時、リヴァイはそれまでもたれ掛かっていた壁から勢いよく背を剥がした。
「リヴァイ?」
 傍らで椅子に座っていたエルヴィンが訝る。しかしそれに答える余裕はリヴァイに無く、ゆっくりと開かれる両目を食い入るように見つめた。
 薄い瞼の向こうから現れたのは遠い昔の記憶にある黄金。
「エレン……」
 労働を知らない美しい手は兵士特有のものになっていたが、その少年は紛れもなくリヴァイが探し続けた【花】の姿をしている。
 名を呼ばれた少年は焦点をぴたりとリヴァイに合わせ、

「はい。あなたの【花】のエレンです、リヴァイ様」

 あの頃と全く同じ美しい笑みを浮かべて見せた。







2014.02.02 pixivにて初出