【1】

 シガンシナ区には大きな林檎の古木があった。
 木は毎年、春に白い花を咲かせ、秋には真っ赤な実をたわわにつける。しかしその実を好んで採る者はほとんどいない。理由はただ一つ。見た目に反してその実が非常にすっぱく、とても食べられたものではないからだ。
 採って来たとしても食べるには砂糖と一緒に煮詰めてジャムにするか、パイにするか、兎にも角にも加工が必要である。そしてこの壁内において、砂糖は贅沢品の一つだった。
 そのままでは酸味が強すぎて食べられない果実をわざわざ採るのは、見た目に騙された者や罰ゲームの対象になった者くらいである。しかし奇妙なことに一人だけ例外がいた。
「不思議だな。どうしてエレンが採ったものだけこんなにも甘いんだろう」
 川べりに腰掛けてアルミン・アルレルトは首を傾げる。両手で持った真っ赤な林檎を一口齧れば、シャクッという瑞々しい音と共に口内いっぱいに広がる甘みと酸味。誰が採ってもすっぱいだけの実であるはずの林檎の木から、たった一人、甘い果実をもぐことができる友人を横目で眺めやり、アルミンは「どうしてかなぁ」と再度疑問の言葉を呟いた。
「母さんはあの木がオレのこと好きだからじゃないかって言ってたけど」
 そう返したのはアルミンの隣で同じように腰掛けているエレン・イェーガー。
 現在八歳のエレンはもう、母が告げたそのような言葉は信じなくなってきている。木が人間を好きかどうか判断して果実の味を調節しているはずがない。
 アルミンもその意見には同意だ。しかしエレンが手にする果実のみ甘い理由を他に思いつくことができないのも事実だった。が、アルミンには親友の奇妙な特性よりもずっと強く興味を引かれるものがある。今日もまたおやつ代わりに林檎を食べ終わった後、手についた汁を綺麗に拭ってアルミンは家から持ってきた本を自分とエレンの間で開いた。
 紙の上には壁の中で生まれ育った自分達の知らない世界が記されている。炎の水、氷の大地、砂の雪原――そして、海。それらが一体どんなものなのか、アルミンとエレンは想像し、その小さな胸に期待と希望を膨らませるのだ。
 外の世界に興味を持つことは、今のこの壁の中では禁忌とされている。ゆえに大きな声で、多くの人々と、この期待と希望を共有することはできない。外の世界というものに興味を持ってしまったアルミンにとって、エレン・イェーガーというのは唯一この素晴らしいものを共有できる特別な存在だった。
 そんなアルミンにもう一人、外の世界への興味を語ることができる人物が現れたのは、これから更に一年後のこと。新しく加わった彼女≠ヘ外の世界ではなくエレンにしか興味のない人物ではあったが、たとえ目の前でアルミンとエレンが外への興味を示しても、それを頭から否定することはなかった。興味の先にエレンが調査兵団入りを希望することについては難色を示したが、それはそれだ。彼女ことミカサ・アッカーマンは自分の命を救ってくれた同い年のエレンを特別視している。壁の外へ出ることは命を危険に晒すことと同義であり、エレンを最優先と考えているミカサが自ら進んで壁外へ赴く集団へ参加したいという彼の意志を歓迎できるはずなどないのだから。
 ただしそれは裏を返せば、エレンが健やかな生活を送るのであればミカサはあまり口出ししないということだった。母親に怒られるのが目に見えている――つまりエレンが後々不快な思いをする――ことが明白である時にはエレンの行動を注意する場合もあるが、エレンが強く望んだならばその後について彼のサポートをするほどである。
 そんなミカサが唯一、エレンの命の危機もなく母親からの小言もないはずなのに難色を示し、更にはエレンを必死に止めようとする行為があった。彼女がイェーガー家に引き取られる前から当然のように行われてきたこと――……エレンが例の林檎の古木へと向かうことである。
 しかもエレンを引き留める明白な理由はなく、彼女が告げるのは「なんとなく嫌な感じがするから」という曖昧なものだった。


 ミカサが初めてエレンに連れられて林檎の木を訪れたのは、ある寒い日の朝のこと。
 昨夜のうちに降り積もった雪はまだ誰にも踏み荒らされておらず、その場があまり人の寄りつかない所だというのが分かった。少し開けた土地に一本の大きな林檎の古木が立っている。季節が季節であるため、赤い実はない。花も葉もなく、枝だけの寒々しい姿を晒していた。しかし年月を重ねている所為なのか、貧相には感じられず、むしろどっしりとした感を受けた。
「秋にはすっげぇ沢山の林檎がなるんだ。みんなはすっぱいって言って全然とらねーの。でもオレが採ったやつは、なんか知らないけどめちゃくちゃ美味いんだぜ。来年の秋になったらミカサにも採ってきてやるからな! あ、それに夏はこの下で昼寝すんのも最高なんだ。すっげぇ気持ちいいし、なんでかこう……安心? そんな気持ちになれる」
 金色の双眸を笑みの形にしてエレンは古木に近付き、ぽんとその木肌に手のひらを押しつけた。それで何か変化があったわけではない。幹が震えたわけでも、突然花が咲いたわけでもなく、木は微動だにせずそこに立っている。しかしその瞬間、ミカサの警戒心は最上級レベルにまで跳ね上がった。
「エレンっ!」
「ん? なんだよ、ミカサ」
 相変わらず木に片手を触れさせているエレンが首を傾げた。切羽詰まった声で自分を呼ぶミカサに驚いているようでもある。ミカサ自身もまた、己がどうしてここまで警戒しているのか解らない。だが『警戒しなくてはならない』ということは理解していた。
「エレン……その木のことは、もう十分だから。そろそろちゃんと薪を集めに行こう」
「お、おう」
 古木に向かって理由も解らず「やめろ!」と叫び出しそうになるのを必死に押し止め、その所為で極端に抑揚を欠いた声がミカサの口から出る。普段は聞かないその声にエレンも疑問や反論を呈することはできず、戸惑いつつも頷いてくれた。
 エレンの手が古木から離れてこちらに歩いてくる。ミカサはやっと一息つき、無意識にこわばっていた肩から力を抜いた。その時、ザァッと風が吹く。林檎の古木は梢を揺らし――……葉が無いはずなのに、まるで不平不満を表すようにざわりと音を立てた。
「……ッ!」
「ミカサ?」
 僅かな音と時間のそれにエレンは気付かなかったらしい。ミカサだけが林檎の古木の音を聞いていた。
「なんでも、ない。早く行こう」
 ミカサはエレンを促し、足早に古木から離れる。もうあり得ないはずの音は聞こえない。しかしミカサの中の警戒心は強まったままだ。
(あれは、だめ。あれは、いけない。あれにエレンを近付けては、いけない)
 もしエレンが古木に近付きすぎれば――
(エレンが、とられてしまう)
 何故そんな風に思うのかミカサに説明することはできない。理由も根拠もないからだ。しかし強い確信だけがあり、ミカサにとってはそれだけで十分だった。
 以降、ミカサはエレンが林檎の古木に近付くことをことごとく拒むようになる。しかし理由を説明されないそれにエレンが素直に従うはずもなく、彼はミカサの目を盗んで頻繁に古木の元を訪れ続けた。


 寒い季節が終わってエレンの年齢も一つ大きくなり。晩春の頃、エレンの姿はその日も林檎の古木の傍にあった。
 瑞々しい緑の葉が茂る中で沢山の白い花が咲き誇っている。熟した果実ほどではないが、花の香りは実と同じく甘ずっぱい。その花の下、木の根本でエレンは仰向けになって気持ち良さそうに眠っていた。
 白く小さな花が時折エレンの髪や身体に落ちて香りと彩りを添えていく。エレンの黒髪に林檎の白い花は特に映えた。まるで白い花で飾られた薄衣のヴェールでもまとっているように。
 そんなエレンの姿を見つけたのは、この地域に勤務している駐屯兵団のハンネスだった。ハンネスは酒の入った赤ら顔で木の傍へと歩いていく。
 エレンの穏やかな寝顔を見下ろし、昔から知っているやんちゃ坊主も寝ている時は静かなもんだとハンネスは笑った。しかも髪や服に真っ白な花を付けているため、
「まるでお前の花嫁みてぇじゃねえか、ええ?」
 酒が入って陽気なハンネスは自分よりもずっと長い年月を生きている林檎の古木に冗談半分で語りかける。
 ハンネスもこの木とエレンの特別な関係を知っていた。エレンだけがこの木から甘い果実を得られることに対し、彼の母親ではないが「エレンは木に選ばれたのかもな」と軽口を叩くほどに。その所為もあって、男であるエレンを――それも人間ではないものに対して――『花嫁』などと言ったのだ。
「もしそうなら、これからもこいつのことを大事にしてやってくれよ」
 更に冗談を続けてハンネスは軽く古木の幹を叩くと、笑ってその場を去っていった。さっさと家に帰って同僚兼呑み友達に我が家のとっておきの肴を持って行ってやらなくてはならない。
 ハンネスが去った後もエレンは変わらず眠り続けていた。余程熟睡しているのか、酔っぱらいの声にも起きることの無かったエレンは金色の目を薄い瞼の下に隠し、ゆっくりとした呼吸を繰り返している。その淡く色づいた唇の上にそっと白い花が降ってきた。
 まるで誓いのキスのように静謐で神聖なそれを目撃した者はいない。エレン本人ですらも気付かない。しかし白い花びらに触れられた唇はそっと微笑むように弧を描く。
 白い花は相変わらず咲き誇り、エレンの不在に気付いたミカサが探しにくるまで延々とエレンの身体に降り積もり続けた。
 それはまるで人ならぬ者が小さな花を言葉とくちづけの代わりとでもするように。



【2】

 かつてアルミンはエレンが赤ではなく彼の瞳と同じ黄金の林檎を齧っている姿を見たことがある。ずいぶん幼い頃の出来事だったのでアルミン本人も本当に金色だったのかとその記憶を疑っているのだが、何度思い出してみてもエレンが齧り付く林檎の色は美しい黄金だった。
 またエレンが件の林檎の古木から甘い果実を採ってくるようになったのもちょうどその後からだったように記憶している。おかげでこれら二つには関係性があるのかもしれないと、アルミンは考えていた。
 ……――しかし壁の外の世界に対する想像の合間でそのことについて考えていたのは、否、考えていられた≠フは、ウォール・マリアが巨人の手に陥落するまでのこと。シガンシナ区の壁の開閉扉を蹴破った超大型巨人によってマリアの住人はその土地を放棄し、内側のローゼへと逃げ込んだ。その多くは開拓地送りとなって厳しい環境に晒され、かつてのように取り留めのない思考に耽る余裕など一秒たりとも持てなくなってしまったのである。
 開拓地での生活はつらく苦しい。言葉を話す暇があるなら土地を耕し、ものを考える暇があるなら種を蒔く。それでも痩せた土地では満足な収穫など得られない。そして一から耕してやっと得られた作物は憲兵団に徴収され、自分達の口に入る食物は到底満足できる量ではなかった。
 配給される食糧の多くは痩せた土地でも比較的育ちやすい芋で、果物でさえ滅多に出ない。肉や魚などは夢のまた夢だ。稀に芋がパンに代わったり、味が薄く具も少ないスープがついたりする。
 しかし今日は珍しく配給された食糧の中に林檎が一つ含まれていた。それも一人一個だ。子供の片手で持てるくらいの大きさしかなかったが、久々の果実に開拓地の者達は喜んだ。
 アルミン達もその例に漏れず、確保した食糧を心ない大人達に奪われる前にさっさと自分達の居住スペースに持ち帰って食事と相成った。こんな厳しい環境では好きな物を後にとっておくなどというのは愚行でしかない。欲しいならばその場で腹に納めておく。それがここのルールだ。
 そのルールに則り、子供達は揃って林檎に手を伸ばした。シャクリと瑞々しい音を立てて頬張った林檎は皮が固く酸味も強かったが、アルミンにはとても美味しいものに感じられた。ミカサも同様だったようで、無表情であることが多い彼女の目元がふわりと緩む。アルミンは次いでエレンに視線をやり、
「エレン……?」
 見やったエレンはなんとも難しい顔をしていた。大きな金の瞳をぎゅっと歪ませ、眉間に皺を寄せている。その手にはアルミン達と同じく林檎があり、一口齧られた跡もあった。
「どうしたんだい」
 アルミンが尋ねたもののエレンは変わらず難しい表情で林檎を咀嚼している。そうしてしばらく待てば、ごくりと細い喉が動いて林檎を飲み込んだのが判った。
「ハズレだ」
「え?」
 ぼそりと呟いたエレンの真意が読めずにアルミンは首を傾げる。ミカサも心配そうにそちらを見ていた。二対の視線を受けたエレンは「これ」と言って己が齧った林檎を示す。
「すっげぇマズい。噛んでも味がしなかった。砂でも噛んでるみてぇだ」
 憲兵団のヤローこんなもん渡しやがって、とエレンは悪態をつく。
 アルミンの目に映ったそれは自分がもらった林檎と何ら変わらないように見える。多少傷んでいる小さな林檎。皮が厚くて、やや酸味が強い。それでも果物など滅多に口にできなくなったこの地ではご馳走の部類に入るもの。
 自分達の中で林檎と言えば、すぐにエレンだけが得られたあの甘い果実を思い出す。それを食べ付けていたエレンだからこそ甘みの弱い林檎を「味がしない」と評するのだろうか。
 念のため、アルミンはエレンに「僕のと交換してみる?」と言って自分の林檎を差し出した。エレンは不味いと判っていて己の手にある林檎を渡すことに躊躇いを覚えたようだが、「じゃあとりあえず一口だけ」とアルミンが妥協案を示したことで頭を縦に動かした。
 エレンが持っていた林檎を手に入れたアルミンは早速一口齧ってみる。口内に広がる味は自分が最初に口にしたものと全く同じだった。一方、エレンを見やれば、彼は砂でも噛んでいるような顔をしてアルミンの林檎を咀嚼している。
 やはり舌の肥え方の違いだろうか。しかしミカサの方を向くと、彼女は平気そうな顔で二口目を齧っていた。一年間とは言えどもイェーガー家にてエレンと同じ頻度で甘い林檎を口にしていたミカサが不満を覚えている様子はない。
 アルミンの視線を受けて今度はミカサが口を開く。
「エレン、すっぱいだとか味が薄いとかじゃなくて、本当に味がしないの?」
「おう。これならまだ何もついてねぇ芋の方がマシだ」
 アルミンはミカサと目を合わせた。どうやらエレンは本当に林檎のみ味を感じ取れなくなってしまったらしい。それがいつからなのか見当もつかない。開拓地に来て林檎が出たのはこれが初めてであり、シガンシナにいた頃は林檎と言えばエレンが採ってくるあの甘い林檎だけだったのだから。
 アルレルト家ではそうでもなかったが、イェーガー家では誰も採らない所為で取り放題になっている林檎をエレンが毎年大量に収穫してきたため、他の木から採ってきたり買ってきたりということが無かった。ゆえに当時あの林檎の木から採ってきたもの以外の林檎についてエレンの舌がどう感じていたのかアルミン達もエレン本人も知らないのである。
「えっと、とりあえずエレンの林檎は僕とミカサが食べるよ。その代わりエレンには僕達の芋を半分ずつ渡すってことで」
「ごめん。それからありがとう、二人とも」
「どういたしまして」
「私はエレンに芋全部あげてもいいけど」
「それはダメだ。ミカサもちゃんと食べろよ」
「うん」
 ぶっきらぼうな物言いだが、それを聞いたミカサの頬がほんのり赤く染まる。エレンがミカサの身を案じているのが解ったからだろう。そんな二人を眺めてアルミンもそっと口元を綻ばせた。


 エレンの味覚障害にアルミンもミカサもその時ばかりは心配したが、日々の余裕のない生活の所為でそれもすぐに記憶の奥底に姿を消してしまう。味を感じないのが林檎だけだというのもその原因の一つだろう。林檎以外は果物であっても野菜であってもエレンは正常な舌をしていた。芋とパン以外はほとんど配給されないため、思い出す機会が無かったとも言える。
 さて、話は変わるが、開拓地において老人と子供は圧倒的弱者である。その空気を早々に肌で感じ取ったアルミン達はなるべく三人で一緒に行動し、悪い大人に隙を見せないようにしてきた。他の子供達も同様に。
 しかし悪い者ほど頭が回ると言うか、それとも回りをよく見ていると言うべきか。時折幼い子供が大人に乱暴を受けるという事件が発生した。乱暴と一口に言っても、ただの暴力であることもあれば、そうでない場合もある。そうでない場合≠ェどういう行為を示すのか、まだ幼いアルミン達にははっきりと解らない部分もあったが、とても良くないものだというのは感じ取っていた。
 しかも悪いことに、開拓民同士のいざこざに関して憲兵が動くことはなかった。憲兵にとって開拓民は――否、そもそもマリアから逃れてきた人々は負担以外の何物でもなく、畜生以下の存在と言ってもいい。無駄にローゼの食糧を食い荒らし、その肉が家畜のように食べられるわけでもない。そんな生き物≠ェ暴力沙汰を起こそうが性犯罪を犯そうが、取り締まる気など起ころうはずもないのだ。彼らは開拓民がきちんと働いて畑を耕していれば、それだけで良かったのである。
 おかげで同じマリアから逃げてきた者同士であるにもかかわらず、気を抜けば弱い者から食われて≠「くという状況ができあがってしまった。それくらいでしか開拓地でたまりにたまった鬱屈を晴らす手段がないというのも原因だろう。
 そしてどうせ同じ食う≠フなら、見目は良い方がいいというのが加害者の考えだった。ゆえにアルミン達が一番心配したのは自分達の中で唯一の少女――東洋の血を引く美しい顔立ちのミカサである。その次が少女めいた容貌を持つアルミン。エレンも大きな金色の目が印象的で、母親譲りの顔は美しいものだったが、先の二人に比べれば……という認識がエレン本人にあったため、優先度は一番最後になっていた。
 しかし人には好みというものがある。十人中九人が美しいと感じるミカサに惹かれる者もいれば、柔らかな雰囲気のアルミンを目で追う者もいる。そして、勝ち気な表情をしたエレンを己の下で屈服させてやりたいと思う輩も。
 アルミン達が開拓地に来て一年が経っていた。あともう一年我慢すれば、三人は揃って訓練兵団に入る。そうしてこの生活とはオサラバだった。
 だが一年間なんとか無事に過ごせた所為で油断が生まれていたのかもしれない。また三人の中でエレンは比較的襲われにくい方だという認識があったこともあり、ある日の夜、エレンは一人で寝床を離れた。夏の暑い日であり、喉が渇いたのだと言って。アルミンとミカサも井戸までついて行こうと告げたが、エレンは二人に寝ておくよう言ってさっさと出て行ってしまった。明日も早朝から働かなきゃいけないんだから、と。
 そうしてエレンのみ行かせたことをアルミン達は後悔していた。いくら待ってもエレンが帰って来ないのだ。井戸まで少しばかり距離はあるが、そろそろ戻って来ても良い頃である。
「ミカサ」
「行こう。エレンが心配」
「うん」
 決断が下れば後は早い。二人は互いに頷き合うと、見回りの憲兵を警戒しながら寝床を飛び出した。手分けをして探すという愚行は犯さない。効率は悪いかもしれなかったが二人一緒にエレンを探す。
 まずは自分達が寝ている所から井戸までの最短距離を。しかし井戸まで行ったものの、エレンの姿は無かった。ただし井戸には使われたばかりの形跡があったため、ここにエレンが辿り着いていた可能性が高いことは判った。
「考えたくはないけど……」
 アルミンは一度言い淀み、ミカサを見つめて再び口を開く。
「今度は人目に付かない所を探そう。声もあまり聞こえないような場所を」
「アルミン……」
「急ごう、ミカサ」
「わかった」
 二人は僅かな声も聞き逃すまいと、耳を澄ませて周囲の状況を探りながらエレンの捜索を再開する。今度は木々の向こうや建物の陰にも注意を配り、どうかこんな所にいてくれるなと願いながら。
 しかしどんなに探してもエレンの姿はない。二人はとうとう自分達の寝床にまで戻って来てしまい、恐慌に陥る一歩手前で扉を開けた。
「あれ? なんだよ二人とも、どこ行ってたんだ」
 そこにいたのは自分達が探していたエレン・イェーガー。アルミンとミカサはぽかんと大口を開け、あっけらかんとした顔で二人を出迎えたエレンを見つめる。
 月明かりを頼りに確認したところ、その着衣に乱れはなく、顔色もいつも通り。怪我をしている様子もない。
「エレン、どこに行ってたの」
 先に復活したのはミカサの方だった。彼女はエレンに詰め寄り、自分達がエレンを心配して井戸にまで行ったことを伝える。
「え。オレは普通に井戸まで行って水飲んで、それから……」
 何も変わったことは無かったし、していない。エレンはそう説明しようとしたのだろう。しかし彼の言葉が途中で止まる。
「エレン?」
「あ、れ……。オレなにしてたんだろう」
 エレンの様子がおかしい。何でもないことを告げようとしていたのに、その説明したいことと記憶が噛み合わず、しきりに首を捻っている。そうしながらエレンは己の右手首を左手で強く握りしめた。まるで何かの感触を消すかのごとく。
 ざわりと、アルミンとミカサの首筋を嫌な感覚が伝う。上手く説明できないが、これは明らかに異常だ。
 エレンの視線が下がり、じっと己の右手を見つめた。その口から零れ落ちるのは誰かに聞かせるためではない、完全な独り言だ。

「ここに帰ってくる時に、なんか、掴まれて、引っ張り込まれて」

「でも、あれ?」

「何があったんだっけ」

「気付いたらここに戻って来てて」

「アルミンとミカサがいなくて」

「探しに行く前に二人が戻ってきて」

「それで」

 アルミンは再びエレンを観察する。今度は貴重なランプに火を灯して。そうやって確認してみても、やはり着衣に乱れはなく、見えるところに怪我もなく、土や葉がついている様子もない。誰かに襲われた気配は微塵も感じられなかった、わけが分からない。判るのは、エレンが無事であるということ。少なくともエレンの身体は。
「エレン」
 呼んだのはミカサだった。彼女は混乱するエレンの身体を抱きしめて「今日はもう寝よう」と告げる。
「きっと疲れてるから。考えるのは明日にしよう。アルミンも」
「う、うん」
 母親のようにそっとエレンを包み込みながら告げられたミカサの言葉にアルミンも頷く。味覚障害の次は記憶障害だなんて笑えない。しかし自分達は明日も重労働が課せられるのは必至で、それを乗り越えるためには休息が必要だった。
 とりあえずエレンの身体が無事なことだけをもう一度だけ確認してからアルミンはランプの火を消した。


 翌朝、開拓地は早朝からざわざわと嫌な感じに空気が騒がしかった。起床したアルミン達は外に出てその理由を知る。
「なんだ、あれ……」
 自分達が見たものにアルミンは言葉を失った。
 そこには一本の木が生えていた。もう枯れてしまって花や実どころか葉もつけない木だ。アルミン達も昨夜、エレンを探す時にこの木の下を通った。幸か不幸か下ばかり探していて見上げることは無かったのだが。
「もしかして僕らが通った時にはもう、これが……?」
 アルミンは顔をこわばらせながら隣のミカサにしか聞こえない小さな声で呟いた。その青い目が見上げた先、枯れ木の先端に何かが突き刺さっている。否、何か≠ナはない。あれは人だ。これまで何人かの子供を襲ったとされる、悪い大人≠フ一人。
 もずのはやにえ、という言葉がある。モズという鳥が餌であるはずの虫などを木の枝に突き刺して放置する行為を指す。これはまさにその言葉の通りだった。男が木にその身体を貫かれて絶命している。
 そう言えばあの絶命している男はミカサのような美しい少女やアルミンのような中性的な少年よりも、エレンのような勝ち気な子供や女性を屈服させたがるタイプだったらしい。罰が当たったのよ、と傍を通りがかった女が囁いていた。その彼女も少しキツい顔つきをしていたので、ひょっとすると手を出されたことがあったのかもしれない。
 異常な状態にある死体をさすがに憲兵も無視できなかったようで、しばらくすると一角獣の紋章を背負った男達が面倒臭そうな表情でやってきた。と同時にアルミン達もその場を離れる。誰も彼も憲兵に「早く持ち場につけ!」と怒鳴られるのが解っていてその場に残るはずがない。
 その場を立ち去る際、アルミンは地面に目をやってあるものを見つけた。未だ緑の少ない茶色ばかりの地面に大人しく色を添える存在――そこには、小さな蕾が一つ。
 あれは林檎の花だ。この辺には一本も生えていないはずなのだが、確かに林檎の花の蕾が落ちていた。固く閉じた蕾はまだ花の色を予想させない緑と茶で構成されているが、エレンとよく見ていたアルミンには判る。シガンシナ区にあったあの古木が真っ白な花を咲かせる前、その梢に沢山ついていた蕾だ。
 奇妙な死に方といい、あるはずのない林檎の花の蕾といい、疑問は増えるばかり。だがアルミンは隣を行くミカサを見て、同じ物を見ていた彼女と視線を合わせた。そして少し先を行くエレンには聞こえない音量で、理由もなく同じ台詞を強い確信と共に告げた。
「「きっとエレンに手を出そうとしたから罰が当たったんだ」」
 かつてシガンシナの地で林檎の古木に愛されていた少年に手を出したから、馬鹿な男はその命を失ったのだ。



【3】

 だからエレンが調査兵団の兵士長から圧倒的暴力を受けた時、アルミンとミカサは怒りを抱くと同時に疑問をも抱いた。リヴァイ兵士長はあそこまでエレンを痛めつけているのに、どうしてその報いを受けないのだろう、と。
 エレンの身柄が憲兵団に渡らないようにするには必要なことだったから? だが一発で奥歯が抜けるほどの蹴り等はあまりにも度が過ぎているのではないのか。もっと見た目は酷く、しかしエレンへの負担が少ない行為にはならなかったのか。――エレン側の人間という思考の偏りはあったかもしれないが、それを考慮してもアルミン達にはリヴァイが報復≠受けないことが不思議で仕方なかった。


 そんなアルミン達の心情など知る由もなく、審議所での公開躾≠終えて見事エレン・イェーガーを獲得した調査兵団の幹部達は、一旦、同じ建物内にある控え室へと引き上げていた。
 調査兵団入りをするために自分がどのような目に遭うのか事前に教えられていなかったエレンは当然リヴァイの行為に驚いたし恐怖もしただろうが、こうしてエルヴィンと視線を合わせた今の彼の表情には現状を理解した冷静さが見受けられる。地下牢で初めて顔を合わせた時に見せたあのギラついた双眸の気配は微塵もないが、エルヴィンはエレンのそこに惹かれたわけではないので問題ではない。むしろ正しく現状を理解できる人物であると判った今の方が好感度は高かった。好感度、と言っても、それは使えるか使えないかという区分に由来するものであるが。
 一方、エルヴィンとは異なり地下牢でのエレンの意志の強さに興味を引かれたらしいリヴァイは、エルヴィンとエレンの会話が終わると、これから自身の監視対象となる少年の横にどさりと腰掛けた。やはり頭では解っていても身体が反応してしまうのか、エレンの両肩が小さく跳ねる。しかしリヴァイが「なあ、エレンよ」と呼びかけて視線が交わされた瞬間、
(……ん?)
 エルヴィンは内心で首を傾げた。エレンの金色の双眸が強靱な意志とは正反対に、とろりと恍惚に溶けたように見えたのだ。しかしそう見えたのは一瞬だけで、エルヴィンが疑問を感じた時にはもう元に戻っている。否、最初から変化などしていなかったのかもしれない。エレンと視線を合わせたリヴァイも、またエレン本人も、そんなことがあったようには到底思えない様子でぽつりぽつりと言葉を交わしていたのだから。
(見間違いか)
 光の加減で一瞬だけエレンの瞳がおかしな具合に見えただけかもしれない。エルヴィンはそう判断し、意識を現状に戻す。
 ちょうどハンジがリヴァイの蹴りで吹っ飛んだエレンの歯を確かめているところだった。しかし奇妙なことに、エレンの抜けたはずの歯はきれいに生え揃っていた。
「巨人の力の副産物ってやつかな!」
 人間では生え替わるはずのない永久歯がこの短時間で生え替わったという事実を前にして、巨人研究に情熱を燃やすハンジは早くも興奮気味だ。「腕を切り落としても生えてきたりして!」と頬を染めながら大声で独り言を言っている。おかげでエレンは顔を真っ青にしていた。彼はトロスト区での戦闘で一度腕と足を一本ずつ失い、しかし再び五体満足でここにいることから、ハンジの予想もあながちハズレではないだろうが、それでも目の前に腕を切り落とすかどうか検討している人間がいるというのは気持ちの良いものではないだろう。
「ハンジ、そのエレンの歯はどうするつもりだ?」
 ひとまずエレンの四肢切断実験から意識を逸らす意図でエルヴィンはハンジに別の話題を振ってみた。すると案の定、彼女は一人の世界からこちらに戻ってきて「そうだねぇ」と楽しそうに眼鏡の奥の双眸を細める。が、ハンジの唇が回答を紡ぐ前に別の人物が口を挟んだ。
「その辺に埋めておけば木でも生えてくるんじゃねぇか」
 言葉の主はリヴァイだ。未だエレンの隣に腰掛けたまま、彼は視線をハンジに向けることもなく何でもない風のまま言ってのけた。
「たとえばどんな?」
「林檎とか」
「あはは。リヴァイも冗談なんて言うんだねぇ。ちなみにこの歯は私の研究サンプルとして保管させてもらうよ。土に埋めるなんて勿体無い!」
 やや大げさにハンジは笑った。
 隣に監視者、他のメンバーは調査兵団の団長と分隊長という取り合わせの中にいたエレンの様子を察してのことだ。ハンジのとんでもない実験計画に顔を青くしていたエレンをエルヴィンの一言が助けた後、この新兵は己を取り巻く大人達の役職を思い出し、別の意味で身を固くしていたのだ。ゆえにそんなエレンの緊張を解くためにリヴァイが不慣れな冗談を口にしたのだろう。そうエルヴィンも、そしてきっとハンジも思い、加えて彼女はリヴァイの不慣れな冗談に乗ってやったのだろう。
 兵士長の不器用な気遣いが少しばかり場を和ませた後、ちょうど調査兵団本部への帰還の準備を整えていた兵士が扉をノックし、会話はお開きとなった。これから全員で調査兵団本部へ赴く。しかしエレンはその後本部内に部屋を与えられることはなく、リヴァイや彼が選んだ精鋭と共に旧調査兵団本部の古城へ向かう予定になっていた。
 エルヴィンが最初に部屋を出る。次にミケ、ハンジ、エレンが出て、最後にリヴァイ。出発の準備完了を報告しにきた兵士はエルヴィンの一歩後ろで報告の続きをしている。エルヴィンとミケの意識はその報告に向き、ハンジはエレンの歯を見つめてうっとりとしており、エレンはそんはハンジに顔をひきつらせていた。誰もリヴァイの様子には気を配らない。
 ゆえに、彼がそっと口元を緩ませたことに気付けた者はいなかった。

* * *

 エレン・イェーガーの監視という名目でリヴァイが班員を選択して結成された調査兵団特別作戦班。その一人に選ばれたエルド・ジンは本日昼前に届いた物資の確認に勤しんでいた。
 エルド達が旧調査兵団本部だった古城に来てから半月が経つ。最初の頃はエレンをエレン≠ニしてではなく巨人になれる正体不明の人間≠ニして見ていたためぎこちない部分もあったが、今ではすっかり良い先輩と後輩の関係を築けていると思う。自分達はエレンを守る者として、この奇妙な境遇にある新兵を信じて守護することを改めて胸に誓ったし、エレンの方もエルド達を信じると誓ってくれた。皆の手の親指の付け根に未だ残る噛み痕がその証だ。
 己の親指にもついている歯形を眺めてエルドはふっと吐息を漏らした。
「さーってと、もうちょっとだな」
 歯形のついた手を腰に当てて伸びをし、仕事を再開させる。これが終わればリヴァイへの報告が待っており、それが済めばエレンの対人格闘術訓練の手伝いをする予定だった。


「兵長、エルドです」
「入れ」
 中からの応えを聞いてからエルドは「失礼します」と扉を開けて中に入る。
「物資の点検完了いたしました」
「ご苦労」
 そう答えたリヴァイの視線は窓の外に向けられていた。ちょうど今はこの部屋から見える場所で自分達以外の班員が対人格闘術の訓練をしている頃だ。立体機動で巨人のうなじを削ぐ自分達にとって対人格闘術はそれほど重要視されない。しかし巨人となって取っ組み合いをする可能性もあるエレンにとってはとても大切な訓練の一つだった。そのため同期との訓練が難しいエレンの相手をエルド達が交代でしているのだ。
「エレンのやつ、訓練兵団では格闘術で二位の成績らしいっすね。その成績に恥じない実力はあるようです」
「まだまだ荒削りでなっちゃいねぇがな」
「その辺は我々がおいおい叩き込んでいきますよ」
 対人格闘術があまり重要視されていないと言っても、エルド達の方がエレンよりずっと兵士経験が長い。内地で飲んだくれている憲兵ならまだしも、日々鍛えているエルド達がエレンに負けることはまず無かった。
「……差し入れでもしてやるか」
「え?」
 ぽつりと呟かれたリヴァイの言葉にエルドは一瞬呆けてしまったが、自分の上官が冷徹に見えて意外と部下思いであることを思い出し、「そうですね」と返す。ちょうど先程確認した物資の中に美味そうな色の林檎があったことも併せて思い出したので、リヴァイに「林檎でも持って行ってやりましょう」と提案してみた。
「林檎か。じゃあエルド、お前は食料庫から林檎を五つ持ってこい」
「了解しました!」
 びしっと右胸に拳を当てて敬礼をしてからエルドは元来た道を戻る。


 リヴァイに言われた通り林檎を確保したエルドはその足で他の班員が格闘術の訓練をしている場所へ向かった。リヴァイはすでに到着しており、訓練の様子を眺めている。その彼がエルドの接近に気付き、視線をくれる。リヴァイの視線がついとエレン達に向けられ、無言のまま林檎を配ってやれという指示が与えられた。
 エルドはその指示を正しく受け取り、「差し入れだぞー」と四人に声をかけながら近付いていった。訓練を中止した班員達がわらわらと集まってくる。
 林檎の存在に気付いた四人から手が伸び、エルドはその手に一つずつ林檎を渡して行く。三つ配った時点でリヴァイから「エルド」という呼びかけと共に手を出されたので、そちらに一つ渡した。残りは一つ。この時点でようやくエルドは周囲を見渡し、
(あ、れ……?)
 首を傾げた。
 食料庫から持ってきた林檎は五つだったはずだ。しかし林檎を持っているのはエルド、グンタ、オルオ、ペトラ、リヴァイ、それからリヴァイ本人から手渡されたエレン。――六人。間違えて五つではなく六つ持ってきてしまったのだろうか。
「おいエレン! てめぇ兵長が手ずから渡してくださったからって調子に乗んじゃねぇぞ!」
「うるさいオルオ。黙れ。エレンに喧嘩売ってんじゃない」
 エルドのすぐ近くではオルオとペトラがいつも通りの夫婦漫才を繰り広げている。ちなみにリヴァイから林檎を手渡されたというエレン本人は調子に乗るどころか恐縮している様子だった。おかでげでオルオのやっかみなど全く耳に入っていない。
 真っ赤な林檎をじっと見つめていたエレンはそっと躊躇う仕草を見せてから、おそるおそる齧り付いた。いくらリヴァイから渡されたと言ってもそれは大げさすぎやしないだろうか、とエルドは思う。
 エルドにそう思われているとは知らないエレンはシャクリと瑞々しい音を立てて林檎を頬張り、そして驚いたように目を瞠った。
「おいしい……」
「あ? 当たり前だろ! なんせ兵長が自ら「オルオ黙れ死ね」
 最後まで言わせることなくペトラがオルオの口に林檎を突っ込む。舌を噛む代わりに口を塞がれたオルオはもごもごと何語かを喋りながらペトラに非難の視線を向けていた。
「兵長! この林檎すっげぇ美味いです!」
「そうか」
「はい!」
 何がそんなに嬉しいのか、エレンはにこにこと笑顔を浮かべて二口目を頬張った。
 林檎が美味いだけでそんなにも笑顔になるものだろうか? エルドが抱いた疑問は他の班員も同じだったらしく、言葉数の少ない方であるグンタがエレンの肩をトントンと叩く。
「エレン」
「グンタさん?」
「お前、林檎に何か特別な思い入れでもあるのか?」
「思い入れ、ですか……? まぁ有るような無いような」
 そう言ってエレンはぽつりと続けた。
「オレ、故郷に生えてた木以外の林檎の味を感じられないはずだったんですよ」
「は?」
「マリアが放棄されてからその木以外の林檎を食っても味がしなくって。だからびっくりしたんです。この味、小さい頃に食べてた林檎と同じだったから」
 エレンの話が事実なら、なんとも特殊な味覚障害があったものだ。味を感じないと言っても林檎だけ、しかも特定の林檎の木から得た物ならちゃんと味を感じられるという。専門家ではないので詳しいことは解らないが、エルドはグンタがエレンに向けた「そうか。不思議なもんだな」という言葉に同意した。


 その日以降、エルドを含む班員は時折エレンが美味しそうに林檎を頬張っている姿を目にするようになった。そのまま通り過ぎることもあれば、近付いて誰にもらったのか尋ねることもある。そして尋ねた場合のエレンの回答は常に「リヴァイ兵長からいただきました」という言葉だった。我らの班長様はこっそり(になっていないが)新兵を可愛がっているようである。
 林檎ばかりで飽きないのかとも思ったが、エレンにとって味をちゃんと感じられる林檎≠ニいうのは特別らしい。しかもリヴァイから与えられるのは今や巨人の手に落ちた故郷でしか食べられなかった特別美味な林檎と同じ味。何個食べても飽きることはないとのことだった。
 そんな穏やかな日々も終わりを告げようとしている、壁外調査の二日前。事件は起きた。
 特別作戦班のメンバーは壁外調査が目前に迫る本日もまた、変わらず箒や雑巾やハタキを持って古城の清掃に励んでいた。
 巨人になれる兵士エレン・イェーガーにはその監視役としてリヴァイ兵士長がついているが、この古城にやってきてリヴァイがエレンに四六時中張り付いているということはない。むしろほとんどの時間は――古城内限定という制約はあるものの――別々に行動し、エレンが一人でいることも多かった。日々の清掃活動なども人手が足らないという理由の下、エレン一人で指定された部屋の掃除や洗濯を行っている。
 今もまたリヴァイを含む班の全員が朝から古城内のあちこちで各々与えられた仕事を全うしている最中だった。リヴァイは共有スペースの清掃、ペトラは食堂の清掃及びそれが済み次第昼食の準備、オルオは厩舎、グンタは中庭、エルドは城内の朽ちかけている扉の修繕、そしてエレンは洗濯という風に。
 扉の蝶番に油を挿して動きの確認をするエルドには城の一角にある井戸で今頃洗濯物と格闘しているエレンの姿など伺えるはずもない。他の者達にも同様のことが言えた。
 さて、この古城は壁や川から遠く、また最も近い街に行く時でさえ馬が必要になるような場所に建っている。巨人化できる兵士≠囲うには最適だが、特別作戦班がこの地を拠点にしているのにはもう一つ理由があった。
 それはエレン・イェーガーを人間から守る≠スめ。エレンをイコールで巨人と結びつけ害意を抱く人間の目にエレンを触れさせないことをもう一つの目的としていたのだ。
 リヴァイ兵士長が選んだ少数精鋭でエレンを守る城。ゆえに古城には見張り役の兵士すらいない。憲兵団はもとより同じ調査兵ですらエレンを襲う人間になりかねないからだ。
 しかし今回は見張りの不在が逆に徒となってしまった。
 最初に異変を察知したのは――否、それ≠目撃したのは、厩舎の掃除が終わって馬に与える水を井戸まで汲みに来たオルオ。彼が井戸の傍で警笛を鳴らしたのだ。
 普段から班員達は古城内でバラバラに行動している時のために、何かあれば仲間にそれを知らせることができるよう笛を持たされている。その警笛の音が古城内に響き渡り、すぐに残りのメンバーも集まってきた。
 井戸から最も離れていたエルドは最後に現場へと駆けつけた。その彼が最初に見たのは、先に到着していたリヴァイ、グンタ、ペトラ。その向こうに茫然と立ち尽くすオルオ。そして彼らが見つめる――
「……なんだ、ありゃ」
 きっと咄嗟に警戒態勢に入るのではなく茫然と立ち尽くしてしまったのは、自分達がエレンを信じるべき仲間だと認めた後だったから、というのがあるだろう。しかし一番の理由は、何が起こっているのか全く理解できなかったからだ。
 エルドを含む五人が見つめた先、そこにはエレンがいた。しかしいつもきらきらと輝いていた金色の双眸からは光が失われ、両腕をだらりと下げたまま突っ立っている。そして垂れ下がった腕の片方――右腕の長袖の先は人の手の形をしていなかった。
 部分的な巨人化をしたのではない。右の袖口から伸びているのは巨大化した手ではなく、人の腕の太さと同じ木の枝だ。茶色くごつごつしたそれが地面に触れたところでくにゃりと曲がって更に伸びている。その先を視線で辿れば三メートルほど離れたところで今度は空に向かって曲がっており、地上二メートルの位置に何かが突き刺さっていた。
「もずの、はやにえ」
 ぽつりとペトラが呟いた。
 空に向かってまっすぐ伸びた枝。二股に枝分かれしたその先に見知らぬ男が腹と心臓を貫かれて絶命している。枝の先端には僅かに綻びかけた花の蕾が一つ。エルド達は知る由もないが、蕾は林檎の花のものであり、またその光景そのものはエレンが開拓地にいた頃、ある日の朝に見かけた凄惨な光景によく似ていた。
 木質化したエレンの腕――なのだろうか――を伝って真っ赤な血が地面へと染み込んでいく。絶命した男が垂れ流す汚物の臭いが鼻についた。が、誰もその場を動けない。頭が状況に追いつかず、現実を認めようとしていなかった。
 そんな中で唯一動いたのはこの班をまとめるリヴァイだった。彼はオルオの横を通ってエレンへと近付いていく。
「へ、いちょう……、兵長! 危険です!」
 最初に警笛を鳴らしたオルオが何とかそれだけを叫んだ。しかしリヴァイの足は止まらない。エレンの斜め前に辿り着いたリヴァイは三白眼をエレンの腕へと滑らせて、その先にある男の死体の位置で止める。
「……エレンを殺しに来たのか」
「ッ!」
 エルドはリヴァイの確信を持った物言いに目を見開いた。
 当のリヴァイは絶命している男を見上げたままぽつりぽつりと独り言を続けている。
「見たところ所属は判らんが……。憲兵の奴らか? だが身分を隠してるってことは秘密裏に事を進めたかったんだろうな。とすればコイツの死亡も公には扱えない。こちらにとっては不幸中の幸いか。にしても反撃の仕方がエゲつないな」
 木質化したエレンの腕に心臓と腹を貫かれて死んだ男は無かったこと≠ノなるのだとリヴァイは言った。男を寄越したであろう憲兵団は兵法会議での決定を破ってエレンを殺そうとしたことがバレてはいけないし、調査兵団もエレンが殺人を犯したとなどと知られては都合が悪い。それはエルドも他の班員も解っている。しかし、そもそも――
「どうして兵長はそんなに落ち着いていられるんですか!」
 掠れた叫び声がエルドの口から飛び出した。
「なら逆に尋ねる。なぜお前等はこれをみてビビってんだ?」
「それは……当然じゃないですか! こんなの普通じゃありません!」
「普通?」
 リヴァイはエルド達に視線だけ向けて小首を傾げた。
「コイツが普通じゃねぇのは今更だろうが」
 そう言ってエレンの肩に触れる。直後、長く伸び木質化していたエレンの腕が空気中に溶けるように無くなって普通の人間のものに戻った。貫かれていた男は地面に落ち、エレンもまた身体から力が抜けてその場にくずおれる。が、その細身は傍にいたリヴァイによって抱き留められた。
「これがお前達の守るべき対象だということに変わりはない。どうせ巨人になれる変人なんだから、今更木の枝が生えたところでいちいちビビってんじゃねぇよ。これも巨人化の一種かもしれねぇしな」
 両腕でエレンの背中と足を支え、頭を己の肩口へ。エレンを横抱きにしたリヴァイはそのままエルド達の方へ――否、城へ戻るために歩き出す。
「ひとまず混乱を避けるためにも明後日の壁外調査が終わるまでこの一件については他言無用だ。一応、俺からエルヴィンには話しておくが、お前等が自己の判断で他人に喋るのだけはやめておけ。いいな?」
「「「「は、はい!」」」」
 返事は兵士として鍛えられた反射のようなものだった。それを聞き、リヴァイが僅かに苦笑する。
「……そう緊張すんな。言っただろう? これがお前等の守るべき対象だということに変わりはない、と。エレンはお前等と一緒に一ヶ月過ごしてきた後輩だ。そのことを忘れてやるな」
 リヴァイの言葉を聞いてエルド達の目が見開かれた。
 自分達が敬愛する兵士の腕の中には意識を失っている若い兵士の姿。それはこの一ヶ月、何やかんやで可愛がってきたエレン・イェーガーに他ならない。巨人になれること以外は普通の兵士と同じ、いやそれどころか何事にも一生懸命でひたむきな態度を崩さない可愛い少年だった。
「はい」
「そうっすね」
「了解しました」
「兵長の仰るとおりです」
 肩の力を抜いた四人は口々にそう答えて穏やかな表情を浮かべる。巨人化の一種かもしれない、という発言もその大きな要因となっていた。これが巨人化に含まれるなら、それは自分達が知るエレンそのものであり、恐れることは何もない。
 リヴァイの言う通りなのだ。エレンはエレンであり、自分達の守る対象であることに変わりはない。尊敬するリヴァイの躊躇いのない言葉は四人に強くそう思わせる力があった。
「ひとまず俺はこいつを地下に放り込んでくる。その後は本部のエルヴィンの所に顔を出してくるから、留守はお前等に任せた」
 そう言ってリヴァイはエレンを抱きかかえたまま歩き出す。四人は敬礼の姿勢をとりながらその背を見送った。
 リヴァイがエルヴィンへ今回の件を報告したならば、追って必要な指示が出されるだろう。それまではリヴァイが命じた通り、エレンの新たな秘密に関しては口を噤むとする。――そう決めて、エルド達はエレンと共に古城に残った。
 エレンが目を覚ましたのはリヴァイが本部に行っている間のこと。しかも当の本人は自分が一体何をしたのか全く覚えていなかった。多少の記憶の混乱もあるらしく、自分が襲撃されたことすら忘れている始末だ。だが今回のことを喋るなと命じられていた四人はエレンに対してもはっきりと事実を明かすことはできなかった。今この奇妙な件について話した時、一番混乱してしまうのはエレンだと解っていたからだ。
 やがてリヴァイが本部から戻ってくると、エルヴィンからの指示が伝えられた。内容は最初にリヴァイが言った通り、ひとまず壁外調査から戻ってくるまでは秘密にしておくようにとのこと。その対象にはエレンも含まれる。
 だが壁外調査終了後もこの一件が外部に漏れることはなかった。第57回壁外調査で四人はエレンのもう一つの秘密を誰かに話す前にその命を失ってしまったために。



【4】

 それから沢山の出来事が起こった。外の敵と中の敵、裏切りと喪失、この世界の秘密、その他色々なことが明らかになった。ともあれ、壁の中に閉じ籠って巨人に怯えて暮らす時代は終わったのだ。
 それは人類の勝利と解放であり、同時に巨人になれる人間≠ェ人類に必要とされなくなった――それどころか排除されることをも意味している。
 唯一人間の側に立って戦った巨人になれる兵士エレン・イェーガーの処遇について、調査兵団と中の敵≠ノ該当せず民衆からの糾弾を受けずに済んだ王都の一部貴族達の間では話し合いが何度も持たれ、エルヴィンを始めとする調査兵団の代表者やその他エレンに好意的な実力者達の働きで何とか身柄をこちらに留めておけるというギリギリの状況が続いていた。
 エレンの安全と自由が保障されない不安定な日々の中で、ある時、殊更エレンに執心している者達の一部に彼を壁外へ逃がしてしまおうという計画が持ち上がった。それをわざと見逃す者もいれば、取り締まる者もいる。今回、エレンの逃亡を計画したのはミカサとアルミンを中心としたエレンの同期達。そして見逃そうとしたのはハンジ・ゾエを主とするエレンと接する機会の多かった調査兵達。これは、事が起こってしまえば別段驚くようなものではなかった。だが取り締まる側にある人物がいたことで、今回の件に関わった者達は驚かざるを得なくなってしまった。
「やあ、リヴァイ。わざわざ謹慎中の同僚を訪ねてくるなんて、あなたも随分酔狂だね」
「無関係なフリもできたくせに自分から謹慎を申し出たてめぇの馬鹿さ加減には劣るがな」
 未遂に終わったとは言えエレン逃亡をわざと見逃したとして自室で謹慎中だったハンジの元を訪れたのは、調査兵団の中で最もエレンと長く接してきたリヴァイ兵士長その人であった。しかもこの男は今回、エレンを逃がすでもそれ見逃すでもなく、捕まえる側に回ったという経緯を持つ。エレンを逃がそうと画策していた者達はリヴァイが味方でないと知った時、愕然とした。彼がエレンを大切にしていたことを、彼らはよく知っていたからだ。
 ハンジも事の次第を知ってミカサ達と同じく愕然とした。その事実が信じられなかった。エレンは今やリヴァイにとっても最も付き合いの長い部下となっている。それまでの班員は皆、巨人との戦いで死んでしまった。またエレンの後から入ってきた兵士もいるが、それは役目が終わればリヴァイ班から抜けて別の班へと配属されたので、共にいる期間が長いどころか、現在、正真正銘リヴァイ直属の部下はエレンしかいない。
 そんなエレンが殺されるかもしれないのに、リヴァイは見逃すことすら良しとしなかった。だがエレン処刑への反対をエレンの逃亡をわざと見逃したと分隊長自ら明かすこと≠ナ示そうしたハンジの様子を見に来たということは、彼がエレンの処刑を容認しているわけではないのかも……とハンジに思わせた。いや、そう思いたかっただけなのかもしれないが。
「で、こんな雑多な部屋に何の用だい? 仕事ならモブリットが代行してくれてるはずだけど」
「この部屋が雑多の一言で済むかよ。こういうのはゴミ溜めって言うんだ。それと仕事はお前がやるよりずっと捗ってる」
 眉間にくっきりと皺を刻みながらリヴァイは告げた。いつも通りの同僚の様子にハンジは苦笑を浮かべる。
 やはり彼がエレンの逃亡を阻止したことが信じられない。仏頂面の所為で判りにくいが、彼はとてもエレンを可愛がっている。決して死んで欲しいなどとは思っていないはずだ。そしてこうして顔を見て言葉を交わしてみても、リヴァイが誰かに脅されたり精神的におかしくなっている様子は見受けられなかった。
「じゃあお茶でも飲みに来た?」
「それこそ有り得ねぇな。こんなゴミ溜めで茶なんぞ飲めるか。……茶と言えば、てめぇらが余計なことをした所為でエレンも手枷付きで地下牢行きになっちまった。おかげでアイツの淹れる紅茶が飲めなくなったんだぞ」
 どうしてくれる、とリヴァイはかなり本気で鋭い視線を投げかけてくる。が、ハンジはそれに怯むどころか普段のように笑い飛ばすことができなかった。
「だったら!」
 ダンッ! といきなり傍らの壁を殴りつけて、いつものへらへらした笑みを取り払ったハンジは声を荒らげる。
「紅茶が飲めなくなるのはエレンが死んでも同じでしょうが! なのにあなたはどうして平然としていられるんだ!? エルヴィン達が頑張っているのは解ってる! でも今のままじゃジリ貧なのは誰もが知ってることだ! だから貴族連中も無理なことはしてこない。近々自分達の望む通りになると確信しているから!」
「そう怒鳴るなクソメガネ。うるせぇ」
 激高するハンジとは反対にリヴァイは怠そうな雰囲気をまとって静かに答えた。
「ついでに言えば、アイツが壁外に無事逃亡した場合も俺はアイツの淹れた茶が飲めなくなる」
「はあ? 何ふざけたことを――」
「ふざけたことをしたのはてめぇらの方だろうが」
 ハンジの言葉を遮って告げられたのは、決して苛立ちや怒りを露わにしたものではない。しかし淡々とそう告げられた瞬間、ハンジは凄まじい威圧感にビクリと肩を跳ねさせた。
「リ、ヴァ」
「なあ、クソメガネよ。今日はてめぇに釘を刺しに来たんだ」
 僅かにリヴァイの口の端が持ち上がる。ハンジが見たのは瞳だけ熱に浮かされたような男の冷笑だった。
 歪な笑みを浮かべたリヴァイはその表情よりも凍えるような声でハンジに告げる――……否、命じる。
「余計なことはするな。本人に自覚はなくとも、アレはずっと昔から俺のものだ。壁内だろうが壁外だろうが、俺の手元からてめぇらがホイホイ逃がしていい相手じゃねぇんだよ」
「エレンがあなたのものだって? それはどういう意味だい」
 リヴァイがエレンの殺生与奪権を握っているから、という風には聞こえなかった。しかも昔から≠セと言う。それはいつからのことを示しているのか。少なくとも、エレンが調査兵団に入団した時のことを言っているようには思えない。それよりもずっと前のことを示しているように聞こえた。
 ハンジの問いかけにリヴァイはくっと喉を鳴らす。彼が笑ったのだと解ったのは、その後に告げられた答えが愉しげな声によるものだったからだ。
「時期が来れば解るさ。俺もそれが早く訪れてくれることを心から望んでいる」
 ああ愉しみだ。――そう最後に呟いてリヴァイはハンジの部屋を出ていった。

* * *

 エレンの処刑が決まったのは、その一件から半月後のこと。まだエレン・イェーガー逃亡幇助の主犯であるミカサ達は独房に入れられたままであり、それを知らされることすらなかった。
 処刑が実行される場所は王都から遠く離れたシガンシナ区。巨人の驚異は無くなったと言えども、巨人によって最初に踏み荒らされた土地は被害が大きく、未だ住民達は戻ってきていない廃墟と化している。その決して人目に触れない場所でエレンの処刑は秘密裏に執り行われることとなった。
 首を切り落とす役目を負ったのはエレンの上官であり続けた人類最強の兵士、リヴァイ。死体はシガンシナを貫く川に流す予定となっている。エレンは墓すら作ってもらえないのだ。
「オレの死体は川へ、ですか……。じゃあいつかは海に辿り着けるのかな」
 護送の馬車の中でエレンはぽつりとそう呟いた。狭い車内の向かいにはリヴァイが座っている。その横にいるエルヴィンはエレンの呟きを耳にして眉間に力が籠もるのを自覚した。
 エレンはもう炎の水も氷の大地も砂の雪原も、もちろん海も探しに行くことは叶わない。あれほど壁の外へ行くことを切望し、そのために戦ってきた子供が、結果論ではあるが彼が守った人間の命令によって失われてしまうのだ。
「エレン」
 その事実を思い出せば自然と口が開いていた。
「何か私達にしてほしいことや自分がしたいことはあるかい」
 吐いた途端になんと偽善的で利己的な言葉だろうかと思う。しかしこれくらいしか今のエルヴィンには憐れな少年にしてやれることがなかった。
 当然のことながら、「生きたい」「死にたくない」「逃げたい」という願いは決して聞き入れられない。エレンもそれは十分理解しているだろう。
 金色の双眸がエルヴィンに向けられ、ぱちぱちと数度瞬く。そして伏せられる視線。彼の中で考えがまとまるまでの数秒の間、馬車の中には沈黙が落ちた。
「団長」
 次にエレンの視線が上がった時、そこにはエルヴィンの無力を責めるものではなく、穏やかな光が宿っていた。
「刑を執行する前に一カ所、寄りたいところがあるんですが……構いませんか」
「ああ、許可しよう」
 それくらいしかもう自分がエレンにしてやれることはない。エルヴィンは即答し、リヴァイと自分が同行することで後続の馬車にいる憲兵達にも文句は言わせないと付け足した。


 辿り着いたのはエレンの生家やエルヴィン達から逃亡できそうな物陰の多い場所などではなく、林檎の古木が一本立っている広場だった。
「懐かしいな。この木、オレにだけすごく甘い林檎をくれたんです」
 エルヴィンとリヴァイ、そして見張り役兼見届け役の憲兵達を伴ってここまでやって来たエレンは、林檎の古木に手を触れさせて小さく微笑む。
「君にだけ、とは?」
「オレ以外の人間が実を採るとすごくすっぱいやつばっかりになるらしいんですよ」
 エルヴィンが尋ねれば、エレンは懐かしむように金の双眸を細めた。
「ミカサもアルミンもハンネスさんも、母さんだって。誰が採ってもこの木の林檎はすっぱくて不味い。でもオレが採ると、どれもすごく甘くて美味しかった。随分不思議がられましたけど……今も理由は分からないままです」
「そうか」
 エルヴィンにとってそんな話は初耳だったが、エレンの処刑が目前に迫った今となっては疑うよりも一緒に「不思議だね」と笑ってやることの方が相応しく思える。
「一体いつ頃からそうだったんだい?」
「いつ頃から、ですか」
 古木の幹に手を触れさせたままエレンが空を仰いだ。彼の視線が向けられた先には古木ながらも立派に枝を伸ばした林檎の木が青々と葉を茂らせている。その合間には蕾がついており、時期が来れば甘い香りの白い花が咲くことを示していた。エレンにその開花を見せてやることはもうできないけれど。
「いつからだったかな……」
 独りごちるようにエレンは呟く。そして、
「ああ、そうだ。思い出した。あの日……オレは金色の林檎を食べたんだ」
 林檎なのに金色だったんですよ、と黄金の双眸を持つ子供は微笑んでみせる。
「有り得ない色だったのに何故か食べちゃったんですよねぇ。好奇心が勝ったのかな」
 独り言を呟き、エレンは幹に手を触れさせたままゆっくりと歩き出した。視線は青々と茂る葉に向けられているものの、実際に彼が見ているのはもっと遠いものだろう。もう戻らない、彼の幼い日々の記憶。
「アルミンとはよくこの木の林檎を食べたな。ミカサにはこの木に近付くなってすげぇ言われた。なんでかな。まぁ聞かなかったけどさ。母さんはこの木がオレのことを好きだって言ってたけど……ああ、ハンネスさんもそんなこと言ってたっけ? 冗談半分で」
 最早遠く、手が届かなくなってしまった穏やかな記憶達。それらを思い出しながら古木の周りをぐるりと一周したエレンはその場で歩みを止め、こつりと幹に軽く額を押し付ける。



「死にたく、ない、なぁ」



 そよ風にすら吹き消されてしまいそうなほど小さな囁きだった。しかし木に額を押し付けて閉じられた目はぎゅっと力が籠もって眉間に皺を寄せており、幹に軽く触れていただけの両手は白くなるほど握りしめられている。
 エルヴィンや他の皆がどれほど尽力してもエレンの処刑を撤回することはできなかった。加えてエレンの直属の上司であるリヴァイは何故かエレンの処刑に明確な反対の意志を示さない。それどころか他の者達がエレンを逃がそうとする動きを阻止した。以降、エレンは己の処刑に関して完全に抵抗する気を失ってしまっている。
 しかしそれでもエレンは自分が生まれた土地を訪れ、思い出深い場所に立ち、過去の記憶を脳裏によみがえらせて、胸の奥底に仕舞った望みを露わにした。
 エレンが吐露した心情を聞き、エルヴィンは唇を噛む。己の無力さを痛感したことは多々あるが、これはその中でも特に酷い。利用できるものは利用し、捨てなければいけないものは躊躇いなく捨ててきたものの、目的が達せられた今、救える命は一つでも救いたかった。しかもエレンは己の片腕を失ってまで守った一等特別な子供だ。
 そう悔しさに苛まれながらエレンを見つめていたエルヴィン。しかししばらくして、己の両目が捉えた異様な光景に息を詰めた。
「エレン……?」
 掠れた声で名を呼ぶ。エルヴィンと同じ物に気付いた憲兵達も「なんだあれは」と背後でザワついていた。ひとまずエルヴィンは背後の彼らに「落ち着け」と声をかける。「いざとなればリヴァイが動く」と続ければ、立体機動装置のグリップにかかっていた彼らの両手から僅かに力が抜けた。
 見つめた先にいるのは相変わらず林檎の古木に触れたまま目を閉じているエレンの姿。頭上の枝は青々と葉を茂らせ、まだ花開く気配のない固い蕾をつけている。しかしエレンの黒髪にぽとりと白い花が落ちてきた。
 白く小さな花は一つだけではない。一つ、また一つ。自然の摂理に逆らうように突然エレンの周囲に現れては、重力に従ってぽろぽろと少年や地面に降り注ぐ。風に乗って運ばれてきたのは林檎の花の甘い香りだった。
 己に降り注ぐ花に気付かず、エレンはずるずると腰を落として地面に座り込む。握られた拳は相変わらず力が籠もりすぎて白くなり、腕の陰から覗く口元は固く噛み締められていた。
「死にたくない、です。壁の外へ行って世界を見ようって約束したのに。折角自由を手に入れられるはずだったのに」
 どうして、とエレンは押し殺した声で問う。どうして自分は死ななくてはならない。どうして逃げてはいけない。外に出てはいけない。どうして、どうして。
「どうして兵長はオレを外に行かせてくれないんですか……ッ!」
 やはりエレンが逃げ出そうとしなくなったのはリヴァイの存在があったからなのだ。そうエルヴィンは改めて思う。ずっと一緒にいた直属の上官が己の前に立ったことで、実力差的にも心情的にもエレンは逃げる足を止めざるを得なくなってしまった。
 いくらエレンが意識の化け物で誰にもその意志を折ることはできずとも、リヴァイならば実力で彼の少年の足を止めることができる。その事実が人類の生存圏を取り囲んでいた壁よりも高くエレンの前に立ちはだかっていた。
 エレンに問いかけられた対象たるリヴァイをエルヴィンはそっと横目で見る。相変わらず感情を押し殺したしかめっ面でいるのだろう。せめて一言でもエレンに答えてやってくれ。そう思いつつ向けた視線だったが、
「リヴァイ……何を笑っている」
 掠れた声で問う。
 エレンの周囲に白い花が降り始めるという奇妙な現象が続く中、驚愕の表情を浮かべていたならばまだ理解はできた。しかしエレンを見つめるリヴァイは今、嬉しそうに口の端を持ち上げてはっきりと笑みを浮かべている。
「エレン」
 その名を口にしたのはリヴァイだ。
「エレン、お前の疑問に全て答えてやる」
 一片の躊躇もなく、人類最強と呼ばれた男はエレンに向かって歩き出した。
「へいちょう……?」
 顔を上げたエレンの金眼は普段より多くの水分をたたえており、今にも零れ落ちそうだ。そのエレンの傍で片膝をついたリヴァイは、地下街から彼を連れてきたエルヴィンでさえ聞いたことのないような甘い声で少年の名を呼ぶ。
「やっとその時期が来たんだ、エレンよ」
「じ、き?」
「お前が俺の伴侶として十分に成長したということだ。処刑までに間に合うかどうか心配だったが……ギリギリだったな。まぁまだ咲かない¥態だったならお前を攫って逃げてやるつもりだったが」
「え? 兵長、何を言って」
 長年刃を握ってきたリヴァイの皮膚の厚い手がエレンの顔を包み込む。
「黄金の林檎は唯一の伴侶と決めた者に捧げる契約の証。お前はそれを食べた。ゆえにお前の身体は伴侶となるに相応しいものに作り替えられた。他の木の林檎を食べても不味く感じるようになったのはその影響の一つだ」
「待って! 待ってください! 訳が分かりません!」
「言葉の通りだろうが。だがまぁ何度でも言ってやろう。お前は俺が選んだ片割れで、だからお前の身体は俺に相応しいものへと作り替わった。お前が他の林檎の木から採った実を美味いと感じられなかったのは、お前が俺以外の伴侶を受け付けなくなったっつう性質が表面化したものの一つだ。ちなみにお前だけが俺から特別美味い林檎を与えられたのは、まぁ己の伴侶に対する俺からの貢物ってところか。俺は自分の片割れを甘やかすタイプだ」
「兵長、あなたが何を言ってるのか理解できません! オレが兵長の選んだ伴侶? でもこの木の林檎しか美味いと感じられなくて、でもそれはオレがこの木の伴侶になったからで……? と言うかそもそも伴侶って何なんですか。兵長がオレを伴侶とか片割れだとか呼ぶ意味も解りませんが、そもそも木が人を選ぶ? 木に意志なんてあるんですか?」
 木に意志なんてあるわけない。エレンはそう叫ぶ。しかしリヴァイは気分を害した様子もなく、相変わらず甘ったるい声でエレンを諭す。
「それも説明してやるよ。あと、木に意志が無いなんてのは人間の考えだ。そういう人間本位の間違った常識は捨てろ、エレン。――お前はこれから俺達の同胞として迎えられるんだから」
「え」
「お前の身体は作り替えられたと言ったな? この花もその結果の一つだ。開花は時期が来たことのしるし。お前の身体は今ようやく完成した」
 リヴァイに言われて今更ながらにエレンが己に降り注ぐ白い花の存在に気付く。しかしそれよりも目の前の上官が告げた内容だ。彼は今、何と言った? 俺達の同胞=H
 エレンが混乱しているのは明らかだった。それを見ていたエルヴィンが口を開く。
「リヴァイ、お前は一体何者なんだ」
 頼りにすべき兵士長の様子ですらおかしくなって動揺を見せる背後の憲兵達を制止しつつ静かに問うた。
「何故お前はそんなにもこの奇妙な状況の説明ができる。お前は何を知っている? 何者だ? いや……それ以前に、お前は本当にリヴァイなのか?」
「今更てめぇに答える義理はねぇが、エレンも聞きたがってることだろうから答えてやるよ」
 未だエレンの両頬に手を添えたままリヴァイが視線だけをこちらに向ける。彼らしくない喜びと優越感を露わにした表情だった。
「俺はてめぇが地下街から連れ出したリヴァイで間違いない。疑うなら俺が最初の壁外調査でしでかしたことについて語ってやってもいいぞ。雨の中で俺がてめぇにしたことをな」
「……いや、そこまでは必要ない。では問い直そう。お前は一体何≠ネんだ」
「もう予想はついてんだろうが」
「お前の口から聞く必要がある。そうでなければエレンも理解せんだろう」
 エルヴィンはじっとリヴァイの一挙手一投足に目を凝らす。警戒されていることが解っているであろうリヴァイは、しかし気負った様子も何もない。ただエレンに触れて嬉しそうに笑っている。一方、エレンは上官の異様な様子に固まっており、しかも話に追いつけないとあって動くことを忘れてしまっているようだった。
「俺は――」
「エルヴィン団長! いい加減にして頂きたい!」
「この訳の分からない状況は何だ」
「我々を騙していたのか!」
「あの言い方ではまるで、エレン・イェーガーどころかリヴァイ兵士長ですら化け物ということに」
 この状況に耐えきれなくなった憲兵達が声を荒らげた。一度は放そうとした立体機動装置のグリップをしっかり掴み、その先にブレードを装着して。いつでも飛びかかれると言わんばかりの体勢で憲兵達はエルヴィンとリヴァイ達を睨みつけている。
 彼らとて状況など全く理解できていないだろう。それゆえに恐れている。自分達の目の前にいるのは巨人になれる兵士で、しかもそれを殺すべき人類最強の兵士は様子がおかしい。まるで全てを恐れて牙を剥く子犬だ。身体の震えを隠してキャンキャンと喚き立てる無力な者。
 理解はできるが共感はできない。しかもこの場でそんなことを喚き立てても理解と解決には程遠い。エルヴィンは背後の者達にもう一度声をかけようと口を開き――

「ギャーギャーうるせぇんだよクズ共が」

 エルヴィンが言葉を発するより早くリヴァイが舌打ちをした。直後、エルヴィンの背後で引き攣ったような悲鳴と水音が響く。振り返ったエルヴィンの視界の端を掠めたのは赤い飛沫。そして、どさりという音と共に見張り役兼見届け役としてついてきた憲兵達が全員地面に倒れ伏した。心臓を突き破られたその姿は一瞬で絶命したことを示している。
 その彼らの胸を突き破って顔を見せているのは地面から伸びた太い木の根のような物。見た目で判るものではなかったが、それはリヴァイのすぐ傍に生えている林檎の古木から伸びた根だった。
 根はまるで兵士の絶命を確認するかのようにその身を震わせた後、するすると土の中に戻っていく。残されたのは穴の開いた兵士と穴の開いた地面のみ。一瞬にしてこの場にいた人間≠ヘたった一人になってしまった。
「これは……」
「俺の一部だ」
 しっかりとエルヴィンの方――その背後に倒れ伏した憲兵達へと視線を向けてリヴァイは答える。
「この木は俺で、俺はこの木だ。そこの奴らはうるせぇから排除させてもらった。そもそもこのめでたい席≠ノ部外者は必要ねぇ。エルヴィン、てめぇも部外者ではあるがエレンと出会わせてくれた恩義があるからな、殺さないでおいてやる」
「兵長が、この木?」
 エルヴィンと同じく――否、位置的にエルヴィンよりもはっきりと今の出来事を目撃していたであろうエレンがリヴァイの台詞に反応する。すると当然のようにリヴァイの視線はエレンに戻され、「ああ」と慈しむように口元を緩めて人間のフリをやめた兵士長は頷いた。
「エレン、俺がやった林檎は美味かっただろう?」
「!」
 思い当たる節があるのか、エレンがぴくりと反応する。これまでの話から推測するに、この木以外の林檎を不味いと感じていたエレンに美味い林檎を唯一与えられるのがリヴァイだった……ということなのだろう。
 しかしながら、
「この木がお前、だと?」
 ひとまず無残に殺される可能性は無いようだが、人が木であるとはどういうことか。エルヴィンが林檎の古木に視線を向けて訝るように眉根を寄せれば、リヴァイは先程エレンに告げたのと同じ台詞を繰り返した。
「人間本位の間違った常識は捨てろ、エルヴィン。てめぇならそれくらいの頭の柔らかさはあると思ったんだが」
「……わかった。まだお前の言う人間本位の常識が邪魔をして納得したとは言い難いが、まずは話を続けよう」
「ふん、まぁいい」
「リヴァイ、これがお前だと言うならば、人型のお前はなぜ王都の地下街にいたんだ」
「伴侶を探すために。片割れを見つけて子をなすのは生き物全てに共通する行動だろう?」
 リヴァイはエルヴィンから視線を外し、再びエレンを見つめ直して続けた。
「木の姿だとここから動けねぇからな。まぁわざわざ人型を作ってシーナにまで行ってみたが、欲しいヤツはここにいたってわけだ。巨人が攻めてこなけりゃあのまま成長したお前を取り込んでやったんだが……結果的に人型を作ったのは成功だったってことだな、エレンよ。お前の傍でお前を守り、今はこうしてお前が十分成長した瞬間に立ち会えたんだから」
「へ、ちょう……その成長って、さっき言った時期って何ですか。オレ、どうなっちゃうんですか」
 何とか絞り出したような掠れ声でエレンが尋ねた。リヴァイの視線は一層柔らかくなり、不安に下がった眦を親指でそっと擦る。
「心配するなエレン、お前は俺と同じものになるだけだ」
「おなじもの? 兵長は人間じゃないんですか? オレも人間じゃなくなるんですか?」
「エレン」
 甘い声で名を呼び、リヴァイはうっそりと笑う。
「すまない、言い方が悪かったな」
「へ、……ちょ」
「お前はもう人間じゃねぇ。俺と同じものになった。俺とつがうために、俺だけの伴侶になったんだよ」
「人じゃ、ない?」
「お前は巨人化する前から俺と同じものになり始め、さっき完全に俺と同じものになった。ほら、花が降ってるだろう? これは俺が初めてお前に与えた実が十分成長したしるしで、お前とやっとつがえるって教えてくれるものなんだ」
 ずっと待っていた、とリヴァイは甘く囁く。
「俺の伴侶。俺の唯一。俺の片翼。お前に手を出そうとしてきたヤツの排除にも上手く対処したみてぇだからな、お前は清いままだ。クソ汚ねぇ人間に穢されちゃいねぇ」
「はい、じょ? へいちょう、オレは何かしたんですか。対処したって、一体何が」
 混乱するエレンを見つめるリヴァイからは相変わらず笑みが消えない。しかしその双眸がすっと細まり、エルヴィンの斜め後方へと向けられた。
「こういうことだ」
 全ては一瞬。
 エルヴィンの頬を掠める距離で何かがリヴァイの腕から伸びた。それは影からこちらを窺っていた誰かにまで真っ直ぐ伸び、先程の憲兵達と良く似た現象を引き起こす。
 呻き声と水音。今度はその直前に悲鳴のようなものも聞こえたが、その場にくずおれた一角獣の紋章を背負う男は明らかに絶命していた。
「……まだ見張りがいたのか」
 自分に知らされていなかった憲兵の存在にエルヴィンは独りごちる。そうして再びリヴァイ達に視線を向けた時には、もう青灰色の瞳は憲兵など見ていなかった。
「エレンよ、お前も同じことができる。少なくとも一度はやったはずだ。お前を殺そうとして古城に入り込んだ馬鹿をお前がこうやって殺したんだぞ?」
「お、覚えて、ないです。そんな、の。オレは……」
「覚えていないのはお前が力を完全に制御しきっていなかったからだ。お前が上手く力を使えねぇから身体が勝手にお前を守ったんだろう」
 リヴァイは目を細めて更に続ける。
「あの時はガラにもなく興奮した。お前の身体が着実に俺と同じものになってきてるんだって判ったからな」
 己の部下であるはずのリヴァイが言っていることにエルヴィンは全く心当たりが無かった。これがリヴァイの妄言でないとしたら、彼はエレンに関する異常事態を握り潰したことになる。古城には彼の他に四人の人間≠ェいたはずなのだが、その彼らが何も言ってこなかったということはリヴァイが四人に箝口令を敷いたのか、はたまたリヴァイに対する兵士達の信頼の厚さによるものか、その両方が要因になっているのか……。
 どちらにせよ確かめる術はない。当人であるエレンには記憶がなく、リヴァイが真偽を証明できるものではなく、口を噤んだであろう四人はそのまま永遠に口を開くことができなくなってしまったのだから。
 今はただ目の前に提示された事実から真実を推測することしかできない。そしてその結果、エルヴィンはリヴァイの言った言葉は嘘ではないのだろうという結論に至った。『真実』ではないかもしれない。しかし言葉を含めてそれらは『事実』であるのだろう。それを認めたエルヴィンが次に考えるべきなのは、リヴァイの目的とその手段、そして目的が果たされた後に何が起こるのか――ということだ。
 リヴァイの言動を見聞きする限りでは、彼の目的はエレンとつがう≠アと。そのためにエレンを自分と同じ、巨人とはまた異なる化け物に仕立て上げた。ではつがう≠ニは具体的にどういう行為を示すのか。子をなす≠ニいう発言もあったが、それは人間の常識で考えて良いものなのだろうか。それに取り込む≠ニいう表現も不穏な気配がするので放置できない。
「リヴァイ」
 それを確認するために、エルヴィンは己が最早彼らにとって完全な外野であることを理解しつつも当事者の名を呼んだ。
「お前は一体何をする気だ。憲兵を殺したのだからもう兵団には戻らないんだろう? お前はエレンを手放すことなくここで生きて行くのか? それとももっと外へ行くことを望むのか?」
 エレンが壁の外の世界に強い憧れを抱いていたことはエルヴィンも知っている。当然、近くにいたリヴァイも知っているだろう。
 今でさえ必要とあらばエルヴィンはリヴァイとエレンに追手がかからないよう、内地の人間には彼らが死んだと証言してやってもいいと思っている。処刑直前にエレンが抵抗を示して自分だけが命からがら生き延びたと言えば、怪しまれるだろうが完全に無理なわけではない。たとえ人間ではなかったとしても目の前の男は人類解放のためにその身を削ってきた英雄だ。それくらいの報酬はあって然るべきだろう。
 エルヴィンに問われたリヴァイがついと視線を向けてくる。
「なあ、エルヴィン。お前ならなんとなく想像はついているんじゃないか?」
 くっと口の端を持ち上げてリヴァイは答えた。
「俺は言ったよな。木の姿じゃここから動けねぇ。ついでに巨人の襲来が無けりゃこの姿のままエレンを取り込むつもりだったと」
「じゃあ……!」
 エレンの意志に反してリヴァイは彼をこの場に縛り付けるつもりなのか。樹木が異物を取り込んだまま成長するという事例は決して少なくない。エレンが何かに変わってしまったらしいことは解ったが、それでもエルヴィンの脳裏には彼の少年がその姿のまま木の中に取り込まれてしまった姿がよぎる。リヴァイはそれを自らの意志でやろうとしているのか。
 話を聞いていたエレンも同じ考えが浮かんだらしく、びくりと身を震わせた。リヴァイが触れているためその場を動くことはできなかったが、もし一人であったなら木から一歩でも離れようとしたかもしれない。
 そんなエレンの反応にリヴァイは顔をしかめるかと思いきや、意外にも苦笑を漏らしていた。エレンの頬を撫で、「怖がらせたか」と囁く。
「お前は意識の化け物だ。そのお前が外に行きたいって言ってんのに、捻じ曲げてこの場に留まらせるってのはちと骨が折れるだろう?」
「でも兵長はオレを逃がしてくれなくて」
「それはお前が一人で行こうとしたからだ」
「え?」
「行くなら俺を連れて行けって言ってんだよ」
 リヴァイがエレンの前に立ちはだかったのはたったそれだけが理由だった。折角傍に置いた唯一をこの手から逃がしてしまわないように。一人で飛び立ってしまおうとした子供に多少の意趣返しを込めて。
「エレン、お前は俺が嫌いか?」
 あっけらかんと真実を明かしたリヴァイは問いを重ねる。
「お前を勝手に人ではないものにした俺が憎いか?」
 その問いにエレンはきつく唇を噛み締めた。ぎゅっと眉根を寄せた顔は彼の心中で大きな葛藤が渦巻いているのだと示している。が、その葛藤はリヴァイが「エレン」と名を呼んだことで終わりを告げた。
 リヴァイの声で名を呼ばれて噛み締めていた唇を開き、エレンの出した答えは――
「ずるい、ですっ! あなたはオレの憧れで、ずっと一緒にいた上官で、それで……」
「それだけ聞けりゃあ満足だ」
 するりとエレンの頬を撫でてリヴァイが微笑む。
「エレンよ、俺の目を見ろ」
「へい、ちょ……ぅ?」
 リヴァイに言われて改めてエレンが青灰色の瞳を見つめた直後、少年の身体はがくりと力を失った。その双眸はかつてエルヴィンが勘違いだと思って記憶の彼方に追いやっていたものと同じ――とろりと恍惚に溶けた黄金。エレンを調査兵団に引き入れるため審議所で一芝居打った後に見たそれもまた、エレンとリヴァイの視線が交差した瞬間の出来事だった。
「リヴァイ……お前、エレンに何をした」
 エルヴィンは問う。
 エレンを抱きかかえてリヴァイはうっそりと微笑みながら、最早エルヴィンには視線を向けることすらなく口を開いた。
「契約は俺の意志だけじゃ成立しない。だからこいつに俺への好意を改めて認識させただけだ。俺に取り込まれるなんて聞いてちょっとビビっちまったらしいからな」
「エレンを外に連れて行かないのか」
「行かねぇよ。俺の本体はあくまでこれだ」
 言って、リヴァイは傍らに立つ林檎の古木を一瞥する。
 エルヴィンが最初に想像した通りの事態が起ころうとしていた。リヴァイは――この林檎の古木は、伴侶と決めたエレンをその身に取り込もうとしている。エレンの身体から意志が抜けたようになっているのはおそらくリヴァイが少年の身体を作り変えたことに由来するものなのだろう。そこに多少エレンの意志や感情が反映されるとは言え、僅かに思い出した好意のみでその心身の主導権をリヴァイが支配してしまえるほどに。
「炎の水、氷の大地、砂の雪原、それに海だったか。こいつの見たいものはおそらくどれも俺が生きられない土地にある」
 独り言なのか説明しているのか判らないくらいの声音で告げながら、リヴァイはエレンを横抱きにして立ち上がった。そのまま、とん、と古木に背中を預ける。
「折角手に入れた唯一の伴侶だ。可哀想だとは思うが俺もようやく開花≠オたこいつを逃がしてやるわけにはいかねぇんでな」
 黄金の目から意志を失くしたエレンの周囲には未だ白い花が降り注いでいる。リヴァイはエレンの髪についたその花の一つを唇でそっと食んだあとエルヴィンに視線を向け、
「じゃあな」
 直後、木が二人を飲み込んだ。
 人間二人分の体積を飲み込んだ林檎の古木はその分だけ大きくなったように見える。一回り大きくなった幹は節くれ立っているものの、人の形など見当たらず、瞬きの間に起こった出来事がエルヴィンのただの目の錯覚であるようにすら思われた。
 しかし、
「花が……」
 エルヴィンが見上げた先で、まだ固い蕾しかつけていなかったはずの古木が真っ白な花を満開にしていた。喜びを樹木全体で表現するかのように花々は咲き誇り、その場の空気が一瞬にして林檎の甘い香りに満たされる。
 変化はそれだけでは終わらない。満開の花は虫が受粉させたわけでもないのに見る間に花びらを落として実を結び、本来ならば秋につけるはずの真っ赤な実をその枝にたわわに実らせた。熟した林檎はぼとりと地面に落ちて瞬時に腐敗する。茶色くなったその場所からはあっと言う間に新しい林檎の木が芽吹き、目を瞠るスピードで成長して赤い実を付けた。あとはその繰り返しだ。林檎の木々はリヴァイとエレンを取り込んだ古木を中心にして同心円状に広がり、ついにはエルヴィンの立っている場所を通り越して広場の隅にまで到達した。
 己の前後左右に立つ林檎の若木を見回してエルヴィンは口を開く。
「これがお前の子をなす≠ニ言うことか」
 まるでエレンを贄か養分とでもするように爆発的な成長と増加を成し遂げた林檎の木。エルヴィンを通り過ぎて拡大し続けるその範囲は一体どこまで行くのだろう。
 やがてその場に一人佇んでいたエルヴィンの目の前に一本の枝が伸びてきた。エルヴィンに向かって伸びたと言うよりは、伸びた先にエルヴィンがいたと表現した方が正しいのだろうが。
 その枝には真っ赤な林檎がなっている。ぼとりと自然に枝から離れたその実をエルヴィンは咄嗟に左手で受け取っていた。
「エレンが食べたのは金色だったらしいが……」
 呟くエルヴィンの手にあるのは真っ赤な林檎。おそらくこのまま地面に落としてしまえば中の種が芽吹いてこれも一本の木に育つのだろう。しかしエルヴィンはふと思い立ち、その表面を上着の裾で拭ってからしゃくりと歯を立てた。
 瑞々しい林檎の味は――
「……ははっ、これは食べられたもんじゃないな」
 甘みが一切無く、酸味ばかりの酷いものだった。
「私は戻れと言うことか」
 エルヴィンは一口だけ齧った林檎を放り投げて踵を返す。林檎は地面に落ちた瞬間、他の実と同じように腐敗を始めて、その場から小さな芽が顔を出した。その様を確認することなく、エルヴィンはシガンシナ区内側の扉を目指す。自分達が乗ってきた馬車が無事ならば良いが、この木々の成長速度だと、ひょっとすると馬車は木々に貫かれて壊れてしまっているかもしれない。せめて馬だけは無事でいてくれればと思いながら、エルヴィンは自分が兵団に戻って次にすべきことを考え始める。
 事実上、この世界の『英雄』と『用無しになった希望』は死んだ。見張りの憲兵が戻って来ないことに中央の者達は訝るだろうが、それを黙らせる手はいくらでもある。
「さあ、どの方法を使おうかな」







2014.01.22 pixivにて初出