かつてウォール・ローゼと呼ばれる壁に囲まれていた地域の河沿いの町に一軒の家がある。およそ十年前に建てられたそこには少し変わった一家が住んでいた。
 家主の名はアルミン・アルレルト。柔らかな印象を持つ金髪碧眼の美しい男で、調査兵団に属し、団長補佐を務めている頭脳派である。彼には妻がおり、名はミカサ。旧姓はアッカーマン。こちらも調査兵団に所属する一人で、黒髪黒目の神秘的な美しさを持つ彼女は十代の頃から手練れの兵士として有名だった。
 二十代後半である夫婦の間には子供が一人。今年で十歳になる少年は黒髪と金眼を持っており、髪はともかく瞳の色は両親のどちらにも似ていないのだが、夫婦は澄ました顔で隔世遺伝だと言ってのけるため周囲の人々もそういうものかと気にしなくなって久しい。それに少年が父親のアルミンと楽しそうに人類未踏の世界の話をする姿は本当に仲の良い親子そのものであり、彼らの間にある親愛や夫婦の仲を疑う者は現れなかった。
 さて、これだけならば普通の一家に見えただろう。両親とも現役の調査兵団――巨人が駆逐されたため今ではその名の通り壁の外の世界に対して『調査』を行う組織となっている――の兵士であり、定期的に隊を組んで人類が持つ地図の空白を埋めるため長旅に出ることはあるが、そういった職業関連のことを除けば、アルレルト一家は実に普通の家族である。しかしその家にはエレンが生まれたその日からもう一人住人が加わっていた。
 四十半ばの小柄な黒髪の男で、名はリヴァイ。人類の解放に大きく貢献した『人類最強の兵士』リヴァイ元兵士長である。今は調査兵団を引退し、時折乞われて訓練兵や新兵の臨時教官を務めることもあるが、基本的にはいつも家にいてまだ幼いアルレルト家の長男の世話をしていた。アルレルト家の長男もリヴァイには父親と同等かそれ以上に懐いており、そのため周辺住民も変わった家族ではあるが楽しそうな一家だと穏やかな顔をするばかり。
 また、時折アルレルト家に調査兵団の実力者達――元団長のエルヴィン・スミス、現在も分隊長を務めつつ巨人研究からシフトして未知の世界の研究に余念がないハンジ・ゾエ、エルヴィンの跡を継いだ団長のジャン・キルシュタイン、分隊長のコニー・スプリンガーやサシャ・ブラウス等々――が顔を出しても、四人の住人のうち三人が調査兵団関係者ならば当然のことだろうと思っている。
 そう、誰も思うまい。ある人物に殊更深い関わりを持つ彼らがどうしてアルレルト家を頻繁に、それも楽しそうな顔で訪ねるのか。また調査兵団関係者が四人中三人ではなく、四人全員であるなどと。たとえアルレルト家の長男の名前が『エレン』だと知っていたとしても、周辺住民達は――そして町から遠く離れた王都の王侯貴族や憲兵達も――想像だにしていなかった。
 まだ十歳の幼い子供がかつて調査兵団に属して人類解放のために大きな働きをし、そして最後には『英霊』にさせられたエレン・イェーガーであることを。
 エレンが二度と人類のエゴのための生贄にならないよう、限られた人間達のみが知る秘密は十年経っても固く守られ続けている。
 その秘密を誰よりも深く詳細に、そして早く……もう三十年近く前に知っていた人物であるリヴァイ元兵士長は――。



今日も今日とて子守に勤しむ(※対外的には)

「あら、こんにちはリヴァイさん! 今日もエレン君とお出かけですか?」
「ええ。少し掃除道具を買いに」
「でしたら角の雑貨屋が今日から在庫セールだそうですよ」
「ありがとうございます。行ってみます」
「いってらっしゃい」
 リヴァイの目つきの悪さなど慣れたもので、アルレルト家の近所に住んでいるご婦人はそう言ってにこにこと去って行った。彼女を見送ってから歩みを再開するリヴァイの腕の中にはちょこんとエレンが納まっている。
 十年前、エレンの誕生に合わせていきなりリヴァイがこの町に住みついた時には色々と訝られたものの、今ではすっかり住民達に受け入れられていた。エレンの両親であるアルレルト夫妻もといアルミンとミカサは現役の調査兵であり、家を空けることが少なくない。よってその間、リヴァイが幼いエレンの世話をするという形式は住民達にとって納得できることだったのだろう。
 今さっき言葉を交わした婦人やエレンによくケーキを焼いてくれる三軒隣の老婆、それにこれから向かうことにした雑貨屋の主人や上手い紅茶を出してくれるケーキ屋のウエイトレス、その他大勢のリヴァイ達を知る人々の目には、巨人を狩るという役目を終えた最強の兵士が引退し、次代を担う若人の手伝いをしているという風に映っているのかもしれない。
「俺が子守、か……」
「まぁ世間一般にはそう見えてるだろうな。ってか見えてくれないとちょっと困る」
 腕の中のエレンがリヴァイの呟きを聞き取って小さく苦笑を漏らす。
「人の目のない所で何をしてるか知られたらリヴァイが完全に犯罪者じゃん」
「兵士の時からそうだろう?」
「今のオレ達の方が余計に、ってこと」
 双方とも調査兵団に属していた時の年齢差は一回りと少しだったが、今は更にその差が大きくなって完全に親子レベルだ。わざわざ指を折って数える気にもなれないし、そもそも両手両足の指を使っても数が足りない。
 けれどそれがどうした。犯罪だ犯罪だと自分自身をからかいながらも二人はそう思う。誰が何を見てどう思ったとしても今の関係を変える気はなく、繋いだ手を離す予定はなく、触れ合う体温から離れる未来もない。ただしやはり犯罪者呼ばわりされると面倒な部分もあるため、二人は外で世間一般に受け入れられる形を装う。
 エレンは大人の庇護を要する幼い子供。
 リヴァイはそんなエレンを忙しい両親に代わって慈しむ大人。
 その裏側でエレンはリヴァイを慈しみ、リヴァイはエレンに甘え、そして二人は今日も今日とて互いを精一杯に愛するのだ。



元上司が来たので舌打ちをした

「……オイ」
 地を這うような低い声でリヴァイは唸った。
「何故てめぇがそこにいるんだ。……ああ?」
 エレンの喉を潤そうと茶を淹れに席を外したのはほんの数分。その間に作られてしまった光景を三白眼で容赦なく睨み付ける。
「エルヴィン・スミス総統閣下さんよぉ……!」
「ははは。リヴァイ、兵士を辞めてもまだまだ眼力は衰えないな」
「黙れ幼児性愛者」
「お前にだけは言われたくない」
 如才ない爽やかな笑みから瞬時に真顔となり、家主不在のアルレルト家を訪ねていたエルヴィンはきっぱりと言い切った。
 しかしながらそんなエルヴィン元調査兵団団長・現三兵団のトップたる総統閣下の膝の上に抱えられているのは、リヴァイの大切な大切な子供。四捨五入して五十になる金髪男性の太腿を跨ぐようにして座っている黒髪の幼い少年という図が何やらいけないもののように感じるのはリヴァイだけだろうか。
 ちなみにエルヴィンがこの家を訪ねてきたのはリヴァイが席を外す前のことだ。繰り返すが、リヴァイが茶を淹れたのは元上司のためではなくエレンのためである。エルヴィンの分のカップまでトレーに乗っているのは本当にただのオマケでしかない。と言うか、出さなければエレンに小言をもらうことが目に見えているため(※経験則)渋々やっただけだ。そして今、リヴァイは来客用のカップを目の前の男の顔面に叩きつけたくてしょうがなかった。むしろそのために三つ目のカップを用意したのではと自分で思ってしまう。実際にやるとエレンに熱い茶がかかってしまうため、なんとかその衝動を押し留めてはいるが。
「俺はペドフィリアじゃねぇ。エレンだけだ」
「私も親交のあった元部下を可愛がっているだけだよ」
 互いに自身の幼児性愛者疑惑を否定しながら、リヴァイはカップをローテーブルに置き、エルヴィンがその中の一つを引き寄せる。手ぶらになったリヴァイはその隙にエレンを奪還してエルヴィンの向かいのソファに腰を降ろした。当然、膝の上には小さな愛し子を乗せて。
「エレン、熱いから気を付けろ」
「ん。ありがとう」
 自分の分はさて置き、リヴァイはいそいそとカップを持ち上げて膝の上にいるエレンへと手渡す。エレンがそれをしっかり受け取り、尚且つ一口目を飲んで「リヴァイのお茶はいつも美味いよな」と微笑んでくれるまで自分のカップには触らない。そんなリヴァイの様子を見て半眼になっている元上司のことも気にならない。
 そうしてエレンを愛でつつ自分のカップの中身が半分ほどになった頃、ようやくリヴァイはエルヴィンに視線を向け直した。
「で、てめぇ一体何の用で来た?」
 やっとか、と思っているのかどうか知らないが、エルヴィンは苦笑を浮かべてそれに応える。
「何も。本当にただ二人に会いに来ただけだ。アルミンとミカサには時々会えているが、一般人として暮らしているお前達には滅多に会えないからね」
「ちっ……暇人め」
「それくらい平和ということさ」
 リヴァイの舌打ちにも気にした風は無く、実に優雅な仕草でカップを傾けてエルヴィンはもう一言付け足した。
「お前達二人が、そして我々が獲得した平和だ」
 目尻に皺を寄せて青い双眸を細める。
 巨人がいた頃、エルヴィンのこんなにも穏やかな笑みは見られなかった。笑っていてもどこか緊張や、時には狂気さえ孕んでいたが、今はそんな過去など微塵も滲ませていない。
 リヴァイはそんな微笑を前にして僅かに息を呑み、その腕に抱かれているエレンは嬉しそうに口の端をゆっくりと持ち上げた。
「……ふむ。そろそろ頃合かな」
 唐突に呟いたエルヴィンの手には懐中時計が握られている。それから彼は残りの紅茶を一気に飲み干し、「ごちそうさま」と言って腰を上げた。
「エルヴィン?」
「エルヴィンさん?」
 玄関へと向かう背中を視線で追えば、彼はくるりとリヴァイ達に振り向いて微笑みかける。ただし今度の笑みは過去に見たことがある何か企んでいるような、けれど昔には見られなかったどこか楽しそうな、なんとも表現しがたいものだ。
「じゃあ、エレン、リヴァイ。今日はこの辺で。また来るよ」
「来なくていい」
 リヴァイは反射的にそう返した。エレンとの時間を邪魔されるのは真っ平ごめんである。
 だがエルヴィンは気にしないらしい。「はははっ」と胡散臭いくらいに爽やかな笑い声を残してエルヴィン・スミス総統閣下はアルレルト家を去って行った。
 その数分後。
 コッコッコンッ、と焦っているようなテンポの速いノックが聞こえてきた。今度は何だと思いながらリヴァイは玄関先へと向かう。そしてあまりよろしくない目つきのまま扉を開ければ――
「……憲兵が何の用だ」
 立っていたのは憲兵団の制服を着込んだ男。年はアルミン達と同じくらいだろうか。
 見知らぬ顔の見知った制服に警戒心を抱くリヴァイだったが、当の憲兵は自分を睨みつける男の目つきの悪さに怯みつつも、己の使命を思い出して背筋を伸ばした。
「突然申し訳ございません! わたくし、エルヴィン・スミス総統の補佐をしておりますマルロ・フロイデンベルクと申します! こちらに総統はいらっしゃいませんか?」
「エルヴィンが?」
「はい。王都から持ち込まれた未決済の書類が大量に……いえ、何でもありません。とにかく至急憲兵団支部に戻っていただきたくて」
「……そうか。あいつならさっきまでここにいたが、ちょっと前に出て行ったぞ」
「そうですか……」
 マルロと名乗った憲兵は肩を落とし、「失礼致しました、アルレルトさん」と言ってエルヴィンの後を追いかけていった。リヴァイが「自分はアルミン・アルレルトではない」と訂正する間もない。
 その背を見送った後、リヴァイは影からこっそり様子を窺っていたエレンと視線を合わせ、
「エルヴィンの野郎、サボりか」
「そうらしい」
 時間を確認していたのも自分の補佐役が追いかけてくるのを予期していたからなのだろう。
 リヴァイは肩を竦めて部屋へと戻る。そしてエレンの身体を抱き上げながら苦笑を浮かべて小さく呟いた。
「ま、それができるくらい平和ってこったな」



そして、

「なぁエレンよ、精通はまだか」
「それミカサの前で言ったらぶっ飛ばされるぞ」
 対峙するは四十半ばの男と今年で十歳を迎える少年。親子ほどの年の差で片やリビングのソファにゆったりと腰掛け、もう一方がその膝の上に乗り上げるという格好は、ともすれば穏やかな午後のひと時を演出できたかもしれない。しかし実際に二人の口から飛び出した言葉は他人が聞けば耳を疑うほどのものである。
 更に詳しく現状を説明するならば、その発言がなされる直前まで二人は唇をぴったりと互いにくっ付け合っていた。否、『くっ付ける』などという表現では到底足りない。唇を擦り合せ、開いた隙間から舌をねじ込み、男――リヴァイはエレンの小さな口の中を丹念に弄っていたのだから。
 リヴァイはエレンと己の唇を繋ぐ銀糸を指で拭い、それすらペロリと舌で舐め取る。その一連の仕草の中でエレンに向けられた視線は、もし他の人間が受けたならば一瞬で腰砕けになる色気を漂わせていた。が、残念ながら当のエレン本人は途中十六年と一年のブランクがあるとはいえ、四十年以上に亘りそれを受け止めてきたある種の猛者である。まだあどけない容姿のままくすりと微かに笑ってリヴァイの顔を小さな手で包み込んだ。
「いつもオヤツの摂取方法はこれだよな。やっぱり血は怖いか? オレはもう巨人化しねぇし、リヴァイが良いなら自分で傷作るけど」
「それはいらん。濃い方はちゃんとお前の身体が出来上がるまで待つ」
 そう答えながらリヴァイは己の頬を包む小さな熱に手を重ねる。
 かつてリヴァイは自分より年上だったエレンを母と呼び、彼の血を啜って育った。その時はエレンが自身の指に傷を作ることも、その指の傷に舌をねじ込んでリヴァイが傷口を広げることも、全く忌避感なくやってのけていたのだが、十四歳のあの時からそれがガラリと変わってしまった。
 リヴァイはエレンに傷がつくことを恐れ、特に自分が加害者となることを厭う。また再会したエレンは巨人化のトリガーとなる自傷行為を安易にしてはならないと禁じられていた。おかげでエレンを傷つけるなど以ての外と考えるリヴァイが花の蜜のように甘いエレンの血を口にすることはなくなった。
 そして今。再び生まれ直したエレンは最早どんなに自傷行為をしようとも巨人になどならない。よってリヴァイが望めば、エレンは自ら傷を作って血を提供しようと言ってくる。しかし今のリヴァイはそれも歓迎できない状態となっていた。
 必要なことであり、決して永遠の別れではないと知っていたけれども、リヴァイは十一年前に世界で一番大切な人の首を己の手で切り落とした。死んだ『かあさん』の胸を裂いたのではない。生きているエレンの首に自ら刃を振り下ろしたのだ。
 だから、
「もうお前の血は見たくない」
「うん……。うん、そうだな」
 金色の双眸を優しげに細め、エレンがこつりと額を合わせてくる。
 リヴァイもそれに応えるように鼻を擦り寄せ、
「だからキスで我慢する。そしてお前に精通が来たら遠慮なくこっちからもらう」
「おいこら尻を撫でるなそっちからは何も出ねぇよ、っていや前を握り込んでくれとは誰も言ってねぇぞ!」
 ガバッ! とエレンが身を離した。
 とは言っても、所詮はリヴァイの膝の上だ。両腕を最大まで突っ張ってみたものの、リヴァイが腰を抱いて引き寄せればあっという間にその腕の中へと収まってしまう。
 そして一度リヴァイに抱きしめられたエレンが激しく抵抗することはない。
「リヴァイ」
「ん?」
「もうちょっとだけ待ってくれよ、な?」
「ああ。待つ。いくらでも待ってやるよ」
 隙間を無くすように二人はぴったりと身を寄せ合う。
 リヴァイはエレンからもたらされる甘いあの味が好きだ。それに身体からふわりと香る匂いも。ただし『安堵するもの』がどれかと問われたならば、今のリヴァイは迷うことなく触れ合った時の体温だと答えるだろう。
 二度もリヴァイの手から零れ落ちた命が今ここでこうして生きている証。リヴァイにとってはそれが何よりも尊く、大切なものだった。
「エレン、エレン……」
 幼い子供の体温は自分が抱きしめられる側だった時の記憶よりも少し高い。それでも胸に耳を押し当てれば変わらぬ鼓動が聞こえて、とくりとくりとエレンの全身に熱を巡らせている。
「いくらでも待つ。いくらでも待ってやれる。もうお前が俺から離れることなんて無いんだからな」
「うん。もう絶対にオレはリヴァイから離れていかないよ」
 窓から入る暖かな陽光に照らされながら、抱きしめ合う二人はまどろむようにそっと瞼を降ろした。




幸せで仕方がないと微笑んだ







2013.11.11 pixivにて初出