【1】

「次の壁外調査では君を囮にして巨人側に味方する人間を捕獲する。了承してくれるかい?」
 第57回壁外調査の準備が着々と進む中、分隊長のミケと共に古城へとやって来たエルヴィンは、リヴァイとエレンそして実験のため古城に滞在していたハンジを呼び出して秘密裏に行われる作戦について明かし、そう締めくくった。
 先日被験体の巨人二体が何者かに殺害された事件について、調査兵団の上層部は巨人側に組する人間が兵団におり、その者が巨人の謎の解明を阻止するために被験体を屠ったのだと推測している。またその者はおそらくエレンと同じく、巨人になれる力を有していると推測される。だがどこの誰かは判らない。よって次に行われる壁外調査でわざと壁内にいる時よりもエレンの警護が手薄になる状況を作り、被験体殺害の犯人をあぶり出そうというつもりなのだ。
 なお、壁外で犯人に巨人化されることを想定し、それ用の新装備も準備しているとミケから補足説明があった。
 躊躇なくエレンに『囮』という単語を使ったエルヴィンは目を逸らすことなく真っ直ぐに金色の双眸を見つめる。
 元々外に会話の内容が漏れないよう設計されているらしいこの応接室にはソファが向かい合う形で二つ設置されている。その一方にエルヴィンが腰掛け、対面する側にエレンと、そしてリヴァイが腰掛けていた。ミケとハンジはそれぞれ壁に背を預けて話の行く末を見守っている。
 エルヴィンが「エレン、どうだい」と再び尋ねてきた。直後、エレンの腰に加わる力が強くなる。ぴったりと密着するように座っている隣のリヴァイがエレンの腰に巻きつけた腕に力を込めたのだ。
 事情を知らない者が見れば、兵団内でもたびたび見かける男色の気がリヴァイ兵士長にもあり、お気に入りの新兵の腰を抱いて悦に入っているのかと勘違いすることだろう。しかし幸いにも――もしくは、残念ながら――真実はそうではない。リヴァイがエレンの隣に座ったのは先日彼の肩に手を乗せて必要以上に密着したエルヴィンに『かあさん』を盗られまいとする警戒心からであり、腕の力を強めたのはその大事な母を決して安全とは言えない囮役にするという作戦内容に反感を覚えたからだ。
 そんなリヴァイの心情を正確に読み取りつつも、エレンは囮役を拒絶する以外の言葉を吐き出す。
「団長は何故オレが囮になり得ると判断されたんですか」
 拒否でも了承でもなく、まず理由から尋ねるエレンにエルヴィンは満足そうな顔で鷹揚に頷いた。
「トロスト区での戦闘から私はそう判断した」
「トロスト区、ですか」
 エレンはオウム返しに人類が初めて巨人から奪還した地域の名を口にする。
 あの場所で超大型巨人が五年ぶりに出現し、ウォール・マリア側の壁に穴を開けた。侵入してきた巨人によって駐屯兵団もエレンの同期達も大勢死亡したが、しかしエレンの巨人化能力が発露したことにより何とかトロスト区奪還作戦を成功させることができた。調査兵団の兵士達はちょうどそのころ壁外調査に出ており、帰還と事態の収拾はほぼ同タイミングであったが、エルヴィンはその情報を可能な限り集め、慎重に吟味したのだろう。
「超大型巨人の出現によってトロスト区の壁は破壊されたね、五年前のシガンシナ区と同じように。だがシガンシナとトロストでは違いがある。エレン、君には分かるかい?」
「……超大型に続いて鎧の巨人が出現したか否か、ですか?」
「そうだ」
 エルヴィンは頷く。
「まず頭に留めておくべきポイントは、ヤツらが強固な壁の唯一の弱点である扉を狙って破壊した……つまり知性があると推測されること。突然現れ、突然消えること。この二つは超大型巨人と鎧の巨人に共通している。そしてエレンが変じた姿も我々から見れば知性を持った巨人であり、突如としてその場に現れる存在だ。このことから私は壁内に君と同じ性質を備え、けれども人類に敵対する者達がいると判断した。ここまでは君も推測していただろう? だから被験体が殺されたあの場で君は犯人について、ただ腕の立つ人間などではなく、巨人化の力を有する者ではないかと私に語ってくれた」
「はい」
「さて、ではその者達を捕獲するにあたって何故エレン・イェーガーという巨人化する兵士が囮になり得るのかという話だが。トロスト区での戦闘の際、人類の敵対者達は巨人化して内地へ続く門を破壊することだってできたはずだ。むしろシガンシナ区の時と同じように我々調査兵団がいないタイミングを狙ったのだから、最初はそのつもりだったんだろう。しかし実際にはそうならなかった。何故か。君というイレギュラーが発生したからだ。きっと彼らにとって君の存在は今後の行動に迷うくらい重要な件だったんだろう。ならば君の周囲を手薄にすることで、話をしに来るにしろ、身柄を捕えに来るにしろ、はたまた殺しに来るにしろ、君に対して何らかの意図をもって接触してくるはずだと私は考えた。ゆえに我々はそれを利用し、君を囮にして逆にその者達を捕まえる」
「何の目的があるにせよ、ヤツらはオレを無視できないということですか。……もし捕獲が実現すれば、人類の解放に大きく貢献できるかもしれませんね」
「ああ、そうだ」
 エルヴィンが肯定するのを確認し、エレンは「なるほど」と小さく呟いた。何かを察したリヴァイが隣で身を固くしたが、それでもエレンは口を開く。どうせ次の壁外調査で憲兵団やその他の人間を黙らせることができるような功績を上げなければ、エレンの身柄はあちら側に引き渡されてしまうのだから。ならば多少の危険は冒さねばなるまい。
「わかりました。その件、お受けします」
「ありがとう」
 謝辞と共に伸ばされた手をエレンは握り返し、「こちらこそよろしくお願いします」と告げた。
 この作戦を知るのは五年前から調査兵団に属している兵士と、エルヴィンの質問にエレンと同じく答えを出せた少数の者達のみ。それ以外には情報を伏せ、第57回壁外調査は開始される。万全を期すつもりだが、それでもどんな結果になるのかは誰にも分からない。


 ……そう、誰にも分からなかった。
 エルヴィンにも、ハンジにも、ミケにも、リヴァイにも、勿論エレンにも。
 壁外調査で予想通り現れた特殊な巨人――女型の巨人を捕獲しようとして数多の仲間を失い、更にはその巨人の捕獲に失敗するなど。そして失われた命の中にリヴァイが自ら選んで部下にした四人の精鋭達が含まれていたことを。


 一時は女型の巨人に攫われかけ、リヴァイとミカサによって何とか救い出されたエレン。その身柄は今回の作戦失敗により憲兵団への引き渡しが決定している。
 現在はウォール・シーナへの移送準備を整えるための待機中だった。否、正確には決定してしまった身柄引き渡しをひっくり返すためにエルヴィン達が時間を稼ぎ、策を練っている途中である。
 ついこの間まではいつも六人――ハンジ達が滞在中の場合はそれ以上――の気配があった食堂に、今はエレンとリヴァイの二人しかいない。四人分の気配も話し声も熱も視線も欠けた空間は酷く寒々しく、エレンはぶるりと身を震わせた。が、ここにはエレンよりも寒さを感じている人がいる。
「リヴァイ」
 椅子から腰を上げてエレンはその人物の名を呼んだ。青灰色の双眸がこちらを見上げる。その瞳は乾いたままだが、顔色がいつもよりずっと悪い。目の下のクマも濃く、ひどくやつれて見えた。
「かあ、さん……」
「おいで」
 両腕を広げてその三文字を発した直後、ガタンッと椅子が音を立てて倒れ、エレンの身体に強い衝撃が走った。音はリヴァイが勢いよく立ち上がったためのもので、それに続く衝撃は彼に押し倒されたからだとエレンが気付くのに数秒の時間を要した。
「リヴァイ」
 こちらの両手首を掴んで馬乗りになった男はくしゃりと顔を歪め、「かあさん」と繰り返しエレンを呼ぶ。その身が腰を折ったかと思うと、唇でそっと首筋に触れられた。くちづけると言うよりは脈を計っているようにも思える。
「お前はまだ生きてるんだよな」
「生きてるよ。生きてリヴァイに触れている」
 両手首の拘束が緩み、そのまま指が絡められた。唇は皮膚の上から血管を辿るように移動し、エレンの耳の後ろに鼻筋を擦り付ける。まるで動物が甘えるような仕草だが、ただの甘えにしては悲痛さと必死さが強すぎた。
 きっと≠竍おそらく≠ニいう推測の単語が必要ないほどに、リヴァイはエレンに執着している。それはエレンがリヴァイを育てた過去があるからだろうし、まだ幼かったリヴァイにナイフを握らせてこの胸を開かせたという衝撃的過ぎる経験があるからだろうし、そしてエレンだけは死んでもまた生まれ直してリヴァイの傍に居続けることができるという特殊性を備えているからだろう。
 恋だとか愛だとか、そんな名前のつくものより強くリヴァイはエレンを欲している。四人の部下を失い、リヴァイの中のそれが今ここで許容量を超えてしまった。決して放しはしないとでも言うように強く握りしめられた手がその証。そして耳の後ろにチクリと走った痛みもまた、リヴァイにとっては恋情よりもなお深い執着の証なのだろう。
「かあさん……かあさん……」
 赤い鬱血を花弁のようにエレンの肌へと散らすリヴァイ。まるでキスマークの一つ一つが拘束になり得ると言わんばかりのその熱心過ぎる様子にエレンは微笑む。
 エレンに甘えてばかりのリヴァイだが、彼はもう立派な大人だ。そして込める意味が何であれ、大人の男がこの行為の先に何をするのか、エレンにも解らないわけがなかったし、拒絶するつもりも毛頭なかった。
「リヴァイ、こういうことをするなら名前で呼んだ方が良いんじゃないか」
 さすがに「かあさん」などという呼称はこれから致そうとしていることにミスマッチすぎるだろう。苦笑交じりにそう告げると、リヴァイは顔を上げて「エレン」と名を口にする。兵士長として彼の口からエレンの名が紡がれることは何度もあったが、こんなにも感情を込めた呼ばれ方をしたのはきっと初めてだった。
「エレン、エレン……。お願いだ。お前だけは俺から離れていかないでくれ」
 床にエレンの身体を押し付けたままリヴァイは顔にも、首筋にも、鎖骨にも、指を絡ませた手にも、際限なくキスの雨を降らせる。その一つ一つに万感の思いが込められているようで、エレンの人間とは異なる心臓が常より速い鼓動を刻む。それと同時に思った。せめて自分だけはこの男から離れるようなことがあってはいけない、と。
 世間では人類最強と呼ばれ、完全無欠の英雄として扱われるリヴァイ。だがその内面はこんなにも優しくて、甘ったれで、そして脆い。にもかかわらず、彼が身を置くこの場所は沢山の人が死んでいく。誰も彼もリヴァイにその思いを託し、悲しみを残し、彼から去って行ってしまうのだ。
(だからこそ、何度だって生まれ変われるオレくらいはお前の傍にいなくちゃ)
「リヴァイ、手を」
 エレンは絡めていた指を解き、代わりにリヴァイの首に腕を回す。
 密着した分だけリヴァイがキスを落とせる面積は減ったが、彼は自由になった両腕でエレンの身体をまさぐり始めた。その形と生きている証としての体温を確かめるように、指先で繊細に、手のひらで大胆に、服の上から、裾から侵入して直接、リヴァイの手はエレンの身体の上を滑る。
「ずっと俺の傍にいてくれ」
「いるよ。ずっとお前の傍にいる。絶対にリヴァイを一人になんかしない」
「エレン……」
 ――お前がいれば俺は生きていける。
 吐息に混ぜてリヴァイはそう囁き、エレンの唇を己のそれで覆った。侵入してきた熱をエレンは積極的に受け入れ、思いを交わすように舌を絡ませる。
 多くの人間がリヴァイに託してばかりなら、せめて自分はリヴァイの全てを受け止めよう。熱を欲するなら熱を分け与え、鼓動に耳を澄ませたいならその頭を抱きしめ、一人にするなと乞うのならずっとその手を握っていよう。
「エレン……エレン……。お前が欲しい」
「いいよ、リヴァイ。オレの全部をお前にあげる。決してお前から離れない、お前のものになってあげる」
 そうしてその夜、リヴァイはエレンの血と同じくらい甘い蜜がその細い身体から与えられることを知った。



【閑話】

 巨大樹の森で女型の巨人にエレンが拉致されたと知った時、リヴァイの中で何かがブツリと音を立てて切れた。
 エレンが奪われる。リヴァイの元から連れ去られてしまう。仲間を殺しただけでなく、あの笑顔も、美しい金色の瞳も、温かな腕も、極上の甘さも、この巨人はリヴァイから奪っていくのだ。――そんなこと、許せるはずがない。
「俺がヤツを削る。お前はヤツの注意を引け」
 エレンを助けようと焦っていたミカサへの指示は勿論実力差も考慮しての役割分担だが、それよりもリヴァイは己の手でこの女型の巨人を傷つけてやりたくて仕方なかった。
 己の元から大事な『かあさん』を奪う者に制裁を。痛みを。恐怖を。
 巨人の痛みに対する感度に個体差があることはすでにハンジの研究から明らかになっている。だがこの巨人には知性がある。そして知能を持つ生き物は傷つくことに敏感だ。もし巨人体の時には痛みの感度が鈍くとも、その頭脳は人間体でいる時に感じる痛みを覚えているだろう。ならばそれで十分。刃で傷つけられる恐怖を、筋を切断されて手足が動かなくなる恐怖を、その身でしっかり味わえばいい。
「……まぁ、それなりに痛覚があれば言うことはねぇが」
 ニィと口を歪ませてリヴァイは呟いた。
 その次の瞬間には、ミカサの動きに気を取られた女型の巨人の死角から強襲し、遅れてこちらの動きに気付いた巨人が振り下ろそうとしていた右腕を手の甲から肩に向かって切り裂く。顔にまで辿り着いたリヴァイは素早く巨人の両目に超硬質スチールのブレードを突き立て、刃を眼球に残したまま離脱。空中で柄に新しい刃をセットし、硬化すらさせないスピードで更に斬撃を加えていった。
 そしてついにうなじを守っていた腕が腱を切られて落ちる。露わになった弱点にミカサが早まって攻撃を仕掛けた。しかしアンカーを打ち込んだ場所が巨人の肉体そのものだったため、意図に気付かれた彼女はあわや巨大な手に叩き落とされそうになる。その瞬間、リヴァイはミカサを襲おうとしていた手を手首から切り落とすという荒業によって彼女を救った。
 もしリヴァイがもっとミカサの身の安全を重視していたならば巨人の手との間に入る形で彼女を庇っていただろう。だが今のリヴァイの一番の目的は女型の巨人に制裁を与えること。ゆえにリヴァイはミカサが巨人の攻撃を受ける可能性が高くなるにもかかわらず、その腕を切り落とすという方法を取ったのだ。
「はっ」
 鋭く息を吐き出しながら切断面を晒す手首を蹴って女型の巨人の側頭部に回る。更に勢いを増すよう立体機動装置を操りながらリヴァイは巨人の頬から口にかけての肉を切り裂いた。大きく開いた口の中から唾液まみれの気絶したエレンの身体が覗く。それを回収し、リヴァイはこの戦場から離脱――……するのではなく。
「リヴァイ兵長……?」
 ミカサが目を見開いて名を呼んだ。
 エレンを抱えたままリヴァイが足をつけたのは女型の巨人の頭。先程一度捕獲した時にもそうしたように、リヴァイは巨人の頭髪を踏みしめて語り掛ける。ただし先程と異なるのは巨人に向ける表情だ。
 抱えたエレンが唾液まみれなのも気にせず、ぺちゃりと頬を摺り寄せながら口元には弧すら描いて、異様なほどギラついた視線は巨人へ。
 大笑いするのを堪えるように掠れ気味の声でリヴァイは告げた。
「なぁ……てめぇ、もう一度こいつを攫いに来いよ。そん時は今以上にどこもかしこもズダズダに引き裂いて殺してやる。一度捕獲し損ねた程の相手なら俺が実力不足でうっかり殺しちまっても£Nも文句は言わねぇだろうしな」
 エレンを抱えたままリヴァイはキシッと歯の隙間から息を零すようにして嗤う。
 この壁外調査で団長であるエルヴィンが目的としていたのは、エレンを狙って現われるであろう知性を持った巨人の捕獲だ。ゆえに今リヴァイが捕獲対象であるこの巨人を殺してしまうのは立場上あまりよろしくない。だがここで一度取り逃したならばどうか。あれだけの準備をし、あのリヴァイ兵士長が挑んだにもかかわらず捕獲できなかった巨人≠次の機会に殺してしまったとしても、誰も大っぴらにリヴァイを責めることはできないはず。リヴァイは大手を振ってこの巨人を殺すことができるのだ。
 ただしここで女型の巨人を取り逃せば、エレンにとっても調査兵団にとっても不利な状況が訪れるだろう。リヴァイはそれを十分に理解している。が、もしそうなったとしても己の上官であるエルヴィンがただで引き下がるはずなど無いことを知っていたし、また想定し得る最悪の状況になった場合でも、それはリヴァイからエレンを奪う存在が巨人ではなく人間に変わるだけのこと。ならばリヴァイにとってやること≠ノ大きな違いはない。
 なあ? とリヴァイは足元の巨人に向けて猫撫で声を出す。
 巨人の瞼がピクリと動いた。大きな二つの眼球は半刃刀身を突き刺して潰したが、耳はまだ正常に音を拾っている。リヴァイの声もしっかり聞き取れたことだろう。
 その反応にリヴァイは喉の奥で押し殺すような笑い声を漏らしながら、青灰色の双眸をミカサに向けた。
「お前もやるか?」
「え」
「次にこいつが、」とんとん、とリヴァイは巨人の頭を踏みつける。「エレン・イェーガーを攫いに来たら、その時は捕獲じゃなくて殺してやろうって言ってんだ」
 お前も殺りたいだろ? と、エレンを奪われて我を失っていたミカサを思い出し、リヴァイは語り掛ける。
 ミカサの頭がこくりと縦に動いた。
「じゃあ、その時を楽しみにするか」
 パシュッとガスの音と共にアンカーを巨木に突き刺し、リヴァイが巨人の頭部から離れる。リヴァイの案に同意したミカサもまた少々名残惜しそうではあったがその後に続いた。
「さっさとこいつを綺麗にしてやらねぇとな」



【2】

 女型の巨人の正体はエレンと同じく第104期訓練兵のアニ・レオンハートだった。ウォール・シーナ東側のストヘス区にて彼女の捕獲作戦が実施されたものの、しかし彼女は捕獲される寸前に硬質な水晶で全身を覆うことによって殺害も尋問もされることなく眠りについた。
 得られたものは少ない。特にリヴァイとミカサは決して成功とはいえない結果に対して――と本人達以外は思っている――酷く憤っていた。
 だが第57回壁外調査でとある人物が女型の巨人に対して取った行動やその出身地に関する情報を統合し、エルヴィンやアルミンを主軸に調査兵団は超大型巨人や鎧の巨人の正体を知る。それを皮切りに、人類は調査兵団を中心として巨人の正体へと迫り始めた。


 ――時は流れ。
「……まあ、オレが処刑されるってのは当然の帰結だよな」
 そう告げたエレンが脳裏に描き出したのは、ここに軟禁される前に見た巨大な壁。しかし記憶の中の門は開け放たれ、一部では夜間を中心に解体作業が始まっている。今夜もまたどこかで壁が少しずつ削られているはずだ。
 壁で防ぐべき巨人はもうどこにもいない。活動できる巨人はたった一体を残し、全て駆逐された。百年以上の時間をかけてついに人類は巨人に勝ったのだ。
 そのたった一体残された巨人ことエレンは明後日に王都への召喚が決定している。目的は明白だ。エレンは王都に赴き、そこで処刑される。人類は最後の巨人という爆弾を抱えたままで安心して生活を送ることはできないらしい。だからこそそんな一般市民のために、これまで最前線で戦ってきた調査兵団や知り合い達の懇願を切り捨てて、世界はエレンを『英霊』とすることに決めた。
 エレンの実家があるシガンシナ区にはすでに住民が戻り始めており、昔には程遠いものの徐々に活気が戻り始めていると聞く。だがエレン本人はそんな話をただ耳にするのみであり、王政府からの命令によって今もウォール・ローゼの旧調査兵団本部で軟禁状態にあった。寝床も相変わらず古城の地下室であり、見張りとしてリヴァイを筆頭に常時数名から十名程度の兵士が寝食を共にしている。唯一救いなのは、その見張りの兵士らがエレンに好意的であることだろう。
 未だエレンの暴走を恐れるエレンを知らない人間≠ヘそもそも彼の傍に近寄りたがらない。よってエレンをよく知る調査兵団の面々が見張り役を務めている。時折憲兵がやって来て嫌味を落として行ったりもするが、概ね平和な軟禁生活だった。
 しかしそれももう終わる。召喚の命令が届けられたのは本日正午。随分急な話だが、おそらくお偉方はエレンの逃亡を危惧してなるべく早く片をつけたいのだろう。おかげで政府の動きとしては格段に早い最短三日という期間でエレンの処刑は実行される。
「エレン……」
 けろりとした表情で己の死を語るエレンをリヴァイが若干恨めし気な声で呼んだ。
 調査兵団特別作戦班の四人が死んだ後のあの時∴ネ降、リヴァイはエレンを『かあさん』と呼ばなくなった。エレンがリヴァイを育てた過去は変わらないし、エレンとリヴァイのどちらもそれを否定するつもりは全く無かったが、リヴァイ曰く「母親とはこんなことしねぇだろ。でも俺はまたお前とこういうことがしたいと思った。だからこれからも名前で呼ぶ」とのことらしい。そして正に有言実行。リヴァイとエレンがそういう行為に及んだ回数は多くもないが、少なくもなく。とっくの昔に両手の指の数を超えている。
 またいつの頃からか、行為の最中にリヴァイは睦言に混ぜて「俺のエレン」とはっきり口にするようになった。最初の夜にエレンは己の全てをリヴァイに与えると言ったので、リヴァイのその言葉をエレンが否定したことは一度もない。決してリヴァイから離れないと誓い、エレンはリヴァイのものになった。
 しかし。
「なぁリヴァイ、十ヶ月だけお別れしようか」
 ランプの灯りに横顔を照らされながら、地下室のベッドに腰掛けたままエレンは告げる。その隣に座っていたリヴァイは眉間に深い谷を刻み、「ああ?」と低い声で唸った。しかしその程度で怯むエレンではない。むしろ相手の勘違いを察してくすくすと笑い声を漏らす。
「王政府の命令を無視して逃げ回るってのもアリっちゃアリだけどさ、そんなの面倒じゃねえか。だったらオレにしかできない裏技を使って、ちょっと時間はかかるけど王都のお偉方を欺いてやればいい」
 とん、とエレンは己の胸を拳で叩いた。その手の下には人とは異なる心臓が脈打っている。何度も生を繰り返すための核の存在を思い出したリヴァイがはっと目を見開いた。
「……首を切られたら頭じゃなくて身体の方を確保しなきゃなんねえな。何があっても」
「おう。何があってもこっちだけは回収してくれよ」
 察しの良い相手にエレンは口の端を持ち上げる。リヴァイがこの作戦に賛成してくれるなら、あとはそれを実行するために必要な人員を確保するだけだ。そして今生のエレンには、事情を話せば絶対に手を貸してくれる人間がいる。
 ランプの灯りを消し、リヴァイと二人で一つのベッドに横になりながらエレンは密事を話すように小さな声で囁いた。
「明日になったらミカサとアルミンを呼ぼう。これを実行に移すにはあいつらの協力が必要だ」

* * *

 ミカサ・アッカーマンにとってエレン・イェーガーという人間は何よりも特別な存在である。目の前で家族を奪われ、自身も暴力をふるわれ、世界の残酷さをその身でもって知った幼い彼女にエレンは再びぬくもりを与えてくれた。命を与えられたと言っても過言ではない。
 ゆえに彼女はエレンのためなら何でもしようと決めている。それがたとえ彼の意に沿わぬことであっても彼の益になるならば為し、もし彼のためになり彼の意にも沿うことであるなら喜んで自分が持てる全てを惜しみなく出し切ろう。ミカサはエレンに救われたあの日からずっとそう思い続けてきた。
 しかし巨人の脅威を全て取り払った後、ミカサの何より大切な人はその存在自体を多くの人間から忌避され、ウォール・ローゼの古城に軟禁された。彼女ができたことなどほとんどない。外の世界を望んでいたはずのエレンは少しだけ寂しそうな顔をした後にミカサが余計なことをしないよう言い含めて城に籠もった。
 その言葉すらエレンがミカサの身の安全を守るためのものだったことに彼女はちゃんと気付いている。エレンを助けようとしてミカサが反乱を起こせば、きっと憲兵らが彼女を拘束しに来るだろう。並の兵士に負けるつもりなど無かったが、数で攻められれば無事でいることはできない。彼女は巨人ではないのだから。そしてミカサが傷つけばエレンは酷く悲しむだろうし、そもそもたった一人が何かしたところで彼の軟禁が解かれることもないだろう。
 そういった現実を熟慮し、ミカサは身の裡で荒れ狂う怒りをギリギリのところで収めて王政府からの命令に従った。
 またミカサと同じくエレンに対して特別な思い入れを持つアルミンも同様に、反抗心を懸命に抑えて今に至っている。彼も外の世界に憧れて異端視されていた幼い自分に賛同してくれたエレンを殊更大切に思い、その幼馴染のためなら力を惜しまないつもりだった。事実、アルミンはエレンのために死ぬ覚悟も人間性を失う覚悟もずっと前からしている。それほど大切な相手だからこそ、逆に感情に任せ無駄な反逆を起こしてエレンに心配をかけさせるわけにはいかないと思っていた。
「エレン、どういうこと」
「今のは僕の聞き違いだよね? そんな……君が」
 処刑される、なんて。
 続くはずだった言葉が音を伴ってアルミンの口から出ることはない。しかし古城に呼ばれたミカサもアルミンも、その無音の言葉がどれ程おぞましいものか知っている。
 古城に招かれ久々に顔を合わせた大切な人とその監視者――エレンとリヴァイから聞かされた突然の王都召喚の話は、その淡々とした語り口に似合わず、ミカサとアルミンの心臓を止めかねない威力を持っていた。
「……ぇない」
 食堂のテーブルに両手をついて幽鬼のように椅子から腰を上げ、ミカサは言う。
「そんなこと、させない。エレンは殺させない」
「僕もミカサと同じだよ。軟禁ならまだギリギリ我慢できた。でもそれは駄目だ。どうしてエレンが死ななきゃいけない。そんなこと認められるはずがない!」
 アルミンもこのまま王都に突撃しかねない勢いでテーブルが揺れるほど強く手のひらを叩きつけ、椅子すら倒して立ち上がる。
 そんな二人の正面には、彼らと対照的な態度で座ったままのエレンとリヴァイ。これまでの関わりから倍近く年の離れた彼らが特別な関係にあることはミカサもアルミンも察している。ゆえにエレンの処刑が決まった今、リヴァイの平然とした態度は実に不可解で不愉快だった。
「リヴァイ兵長、あなたはそれでいいんですか」
「アルミン、エレンの処刑を平然と告げた男に期待なんてしてもだめ」
 元々ミカサはリヴァイが――必要な演出だったとは言え――エレンに暴力をふるったことも、その後でエレンの特別になったことも気に入らなかった。それが今ここに来て、大切なはずのエレンの死を平然と受け入れようとしている目の前の人物の態度に、最早怒りも憎悪も通り越して諦めしか抱けない。
 一方、ここまで侮蔑したような態度を取られても当のリヴァイは欠片も気にした様子がない。眉間にくっきりと皺を寄せることもなく、話している間に冷めてしまった紅茶を一口飲む。そして青灰色の三白眼をゆったりとエレンに向け、
「さっさと核心を話さねぇからお前の幼馴染共がうるさくてかなわん」
「ごめんって。ちゃんと話すよ。……二人とも、とりあえずもう一回座ってくれるか?」
 眉尻を下げて笑うエレン。だがその表情よりもミカサとアルミンは彼の口調の方に違和感を覚えた。
 今、エレンは上官であるリヴァイに対し、まるで同年代か己の方が年上であるかのような話し方をしなかっただろうか。
「エレン?」
 ミカサが名を呼んだ。
「二人は一体……」
 そしてアルミンがリヴァイとエレンの、自分達が察したつもりでいて、その実、全く知らなかった関係について尋ねる。
「うん。そっちのことも話すから、まずは座ってくれ」
 死への焦りも恐怖も含まない穏やかな声音に、今度こそ二人の少年少女は力が抜けたようにすとんと着席した。
 なんとか精神を落ち着かせて話を聞こうとする幼馴染達。それを前にしてエレンは「ありがとう」と告げた後、ゆっくりと言葉を続ける。
「二人にはまだ話してなかったけど、オレはもう何度も死んで何度も生まれてきたんだ」


 そうしてミカサとアルミンは知った。
 リヴァイとエレンの出会い。関係。エレンの甘い香りと体液について。それから、幾枚もの真っ白な花弁をもつ心臓≠ニ黄金の種子≠フこと。
「……だからエレンは僕達を呼んだんだね」
 エレンとリヴァイが全てを話し終えた後、アルミンは静かにそう言った。青い双眸はエレン達からミカサに向けられ、その表情から彼女もまた事情を察したことを知る。
 アルミンと視線が合ったミカサは一度小さく頷いた。
「ミカサはそれで構わない?」
「構うも何も、その役目は誰にも譲りたくない」
 そう答え、ミカサは次いでエレンを見た。
「今度は私がエレンを産む。あなたの母になって、今のあなたを取り巻く全てのしがらみから解き放ってみせる」
「僕も勿論協力するよ。今度は幼馴染としてだけじゃなく、父親としても君の助けになりたいんだ」
「……ありがとう。ミカサ、アルミン」
「礼なんて必要ない。むしろ私の方がエレンとその体質に感謝してる。おかげで私は……私達は、エレンを失わずに済む。それが何よりも嬉しい」
「そうだよ、エレン。僕達に秘密を教えてくれてありがとう。君の親になる人間として選んでくれて、本当にありがとう。今度生まれてきたら約束通り壁の外に行こうよ。もう君を壁の中に縛り付ける人間なんていなくなるんだから」
 アルミンがテーブルの上に軽く身を乗り出して手を伸ばし、エレンの手にそっと重ねる。「私も一緒に」とミカサもまた二人の上から優しく包み込むように手を乗せた。エレンは重なった手を見つめ、その手の持ち主達を見つめ、ふっと金色の双眸を和らげて口元に弧を描く。
「ああ、行こう。今度こそ一緒に壁の外へ」
「俺もついて行くが、構わないな?」
 三人の少年少女に割って入ったのはリヴァイ。それに対し、エレンは「もちろん! 嫌がっても連れてくぜ」と歯を見せて笑い、ミカサは隠すつもりもなく舌打ちをし、アルミンは苦笑を浮かべた。三者三様ではあるが、誰もリヴァイの同行を否定したりはしない。ミカサでさえ舌打ちをすると言うことは、そもそもリヴァイの同行を認め、その上で気に入らないという意思表示をしているにすぎないのだから。
「じゃあ先の目的も決まったところで」
 この場で一番頭の回るアルミンがその言葉と共に着席し直し、テーブルの上で手を組んだ。
「話を詰めていこうか。エレンが王都に召喚されるのは明日で、おそらく処刑も近日中に行われる。……リヴァイ兵長、処刑後のエレンの身体は無事に手に入れられますか?」
「それなんだが、エレンの王都召喚が知らされた日にエルヴィンからも連絡があった。あいつの推測じゃ俺がこいつの首を刎ねる役目を仰せつかるらしい。ま、巨人になれる人間をおいそれと普通のヤツが殺そうなんて思わねぇよな」
「でしたら好都合です。どんな理由をつけてもいいのでエレンの身体は確実に取り戻します。最悪、切り落とした頭は諦めましょう。何よりもエレンの心臓を確保することを最優先とします」
「異論はない」
 リヴァイが頷けば、アルミンがその隣のエレンに視線を移す。
「じゃあ次だ。あのさ、エレン」
「何だ?」
「確認させてほしいんだけど、エレンの心臓からできるって言う種子を飲んだ女の人は処女か否かにかかわらず妊娠するのかい?」
「ああ。だから処女受胎した母親から生まれたこともあったぜ」
「期間は? 普通の妊娠、出産と同じ?」
「特別早かったとか遅かったって話は聞いたことねぇから、妊娠してない状態ならたぶん十ヶ月強で生まれてくると思う。お腹に子供がいるなら、その分期間は短くなるはずだけど」
「わかった」
 頷き、アルミンは己の考えを告げた。
「ミカサがエレンの種子を飲む時期だけど、エレンが死んですぐっていうのは止めておいた方がいいと思う。たとえ僕とミカサが籍を入れて書類上は夫婦になったとしても、ミカサとエレンが親しいことは誰にも隠されていないから、憲兵団や王政府の人間に妙な勘繰りをされてミカサの孕んだ子がエレンの血を継いでいると思われたら厄介だし。入籍だけじゃカモフラージュには弱い。それなら最低でも二〜三ヶ月くらい間を置いてエレンが死んだ後に孕んだ子≠セと思わせる方が安全だ」
「さすがアルミン」
 エレンは感心したように目を瞬かせた。
「そうだな、そっちの方がいい。巨人になれる人間の血を引いた子供≠セなんて思われたら、オレもだけど、ミカサだって何をされるか分かったもんじゃねえ」
 次いでエレンは正面のアルミンから隣のリヴァイに顔を向ける。
「リヴァイもそれでいいよな? 再会できる時期はちょっと伸びちまうけど」
「構わない。お前を奪われたら今度こそ俺も何をするかわかったもんじゃないからな」
 かつて女型の巨人にエレンを拉致された際のリヴァイを知るのは本人とミカサのみ。よってエレンにその言葉の真意が伝わることはない。テーブルの向こうに座るミカサだけがはっとし、そして同意するようにひっそりと瞬いた。
「じゃあミカサが種子を飲むタイミングはそういうことで。ミカサもいい?」
「問題ない」
「よし。ミカサが種子を飲むのに合わせて、僕とミカサも籍を入れることにするよ」
「頼むぜ」
「まかせて」
 アルミンはエレンをまっすぐに見つめて頷く。
「絶対にエレンとエレンの自由を取り戻すから」

* * *

 雲一つない真っ青な空が広がる正午。ウォール・シーナの内地、王都の広場には沢山の人々が詰めかけていた。
 彼らが見据える先には突貫工事ながらもそれなりに立派な見た目をした処刑台。周囲に憲兵らが配されているものの、台の上にいるのはたった二人――今日ここで首を落とされる本人と、首を落とす役目を担う人間だけだ。
 その二人のことを集まった民衆の誰もが知っていた。『人類の希望』エレン・イェーガーと、『人類最強の兵士』リヴァイ兵士長。巨人の殲滅に誰よりも貢献したこの二人だったが、今日、巨人になる能力を持つエレンはその役目を終えたことで『英霊』となり、彼の監視者であり数年来の上司でもあったリヴァイが人間代表としてエレンの命を奪う。
 皮肉だとか惨いだとか、そう思う人がいないわけではない。だが民衆はそれ以上に恐れているのだ。最後の巨人たるエレンがもし今度こそ巨人ではなく自分達に牙を剥いたらどうなるのか、と。ならばエレンが大人しく王政府の命令に従っているうちに彼を無力化してしまいたい。もう彼の力など必要ないのだから。
 エレンと言葉すら交わしたことも無い大多数の人間の思考などその程度のものだった。誰もが名前と顔くらいしか知らない子供より、自分やその家族、親しい友人達の心の安寧の方が大切なのだ。
(どうとでも思えばいい)
 処刑台の上に立ち、半刃刀身を構えながらリヴァイは胸中で独りごちる。こちらを見上げる民衆の目は誰もがエレンの死を望んでいた。お前らが安穏としていられるのはエレン達のおかげなんだぞ――と叫ぶつもりなどない。馬鹿な民衆も、憲兵も、王や貴族も、勝手にエレンが死んだと思って喜んでいればいいのだ。そいつらが馬鹿騒ぎをしている間にリヴァイは本当に大切なものを取り戻す。
 刃を握る手は、実はまだ少し恐怖に震えている。十四の時に見た光景は今でもリヴァイの中で鮮明に残っており、あの時とは似て非なるものの、今度は自分の手がエレンを殺すということに対して忌避感を抱かないわけにはいかなかった。
 しかしこれは必要なことであり、未来へと繋がる行為だ。真っ赤な血の色と噎せ返るような甘い香りの後、一年だけ我慢すれば、今度こそ誰にも邪魔されることなくリヴァイはエレンの傍にいることができるようになる。気に食わない女と妙に頭が良く敵に回すと厄介な男がエレンの両親というポジションを得てしまうが、そこは我慢するしかないだろう。
 ゴーン……と低く重い鐘の音が広場の空気を震わせる。時間だ。
 リヴァイは一瞬で首を落とせるよう慎重に刃を振り上げた。視線の先にはこちらに背を向け、拘束具の一つもないのに大人しく両膝をついて俯く愛しい人。
 これから『英霊』となる彼はリヴァイと同じく華美な装飾が施された衣服をまとっている。その飾り一つすら傷つけることなく、リヴァイは晒された首筋に刃を振り下ろした。
 首の断面から噴き上がる血にわっと民衆が湧く。歓喜か、それとも赤い色を見たことによる興奮か。どちらであっても知ったことかとリヴァイは彼らに目もくれず、転がったエレンの首を拾い上げる。回収すべきは頭部ではなく心臓の方だが、叶うならば全て攫って行ってしまいたい。
 エレンの頭部を拾い上げたリヴァイは次いで力なく処刑台の上に倒れ伏したエレンの身体に近付き、丁寧な手つきで仰向けにする。その頃になってようやく憲兵が「リヴァイ兵士長! 何をする気だ!」と声を荒らげた。
「エレン・イェーガーの遺体は我々憲兵が回収する!」
「はあ? こいつは調査兵団所属だ。だったら俺が連れ帰って、こっちで弔わせてもらう」
 土壇場どころか事が終わってから放たれる憲兵団の我侭にリヴァイは顔をしかめた。だがここで問答をやっても意味がない。本当は全て持ち帰りたいと思う気持ちを抑えつけ、リヴァイは「だったら」とエレンの胸部に刃を突き立てた。
「! リヴァ、」
「俺達調査兵団は壁外で死人が出てそいつの身体そのものを運べなかった場合、代わりに紋章や身体の一部を持ち帰る。それすら拒否するってんなら、俺が今ここでお前ら全員削いでやろう」
 刃が皮膚を突き破り、骨の接ぎ目を切り裂き、ぱっくりと中身を露出させたエレンの胸部からリヴァイは真っ赤な血に濡れた塊を取り出す。それが人々の目にきちんと触れぬうちにハンカチでそっと包み隠し、こちらの目的など知らずリヴァイのそれが突然の凶行としか見えなかったであろう民衆や憲兵達に向けて、
「エレン・イェーガーは死んだ。もう王や人類に捧げる心臓は動かない。だから」
 殊更ゆったりと口の端を吊り上げてみせた。

「こいつの心臓はここで返してもらう」

 リヴァイは反論など聞かぬとばかりに、ハンカチに包まれた心臓だけを持って処刑台を去る。その背を追える者など、安寧に浸かり切った人間達の中には誰一人としていなかった。






 一年後。
 ウォール・ローゼのとある河沿いの町で、十代後半だという若い夫婦の間に黒髪金眼の男児が生まれた。
 その子供の名をエレンと言う。
 アルミン・アルレルトとミカサ・アルレルトの間に生まれた子、エレン・アルレルト。両親のどちらにもない美しい金色の目を持つ子供は、生まれたその日に若夫婦の家を訪ねてきた黒髪の小柄な男に抱き上げられ、彼の顔を見上げてそれはもう幸せそうに笑ってみせた。







2013.10.14 pixivにて初出