【1】
審議所での一件を終え、エレンの身柄は旧調査兵団の古城に移された。 エレンを監視するという名目で結成された特別作戦班はリヴァイを長とし、調査兵団の中でも精鋭とされるエルド・ジン、グンタ・シュルツ、オルオ・ボザド、ペトラ・ラル、そして監視対象たるエレンの計六人で構成されている。 六人が到着した古城は長年使われていなかったために少々荒れていた。と言う訳で、早急に一斉清掃開始である。各人に最初の清掃場所が与えられ、それが済めばリヴァイに報告し、次の担当場所へと移る。エレンは上の階の担当になり、布で口元を覆うと慣れた様子で取り掛かった。 今生ではないが、エレンには元々掃除夫として何年も働いてきた経験がある。古城という少々特殊な施設であってもその経験は十分過ぎる程に発揮された。それにここは地下街よりも掃除道具が揃っている。リヴァイが指示して持ち込んだ道具の充実っぷりにエレンは少々苦笑しながらも、手早くかつ美しく清掃が完了した部屋を見回し、「よし」と呟いた。 ちなみに後程判明することだが、エレンが最初に掃除を終えたこの部屋はリヴァイの自室となる。 閑話休題。 六人が使うには古城があまりにも広すぎるため、今日はひとまず自分達が使うエリアだけ清掃することになっている。最初に部屋を綺麗にし終えたエレンはそこから出て、次に部屋の前から下へ降りる階段までの通路を磨き上げ始めた。 しばらく続けていると、誰かが階下から上がってくる。足音を聞いてエレンがそちらに顔を向けると同時に、共にこの古城へとやって来たメンバーの一人が顔を出した。 「エルドさん?」 「よ、エレン。そっちに余ってる雑巾って無いか」 現れたのは若干色の薄い金髪を後ろで団子にしたエルド・ジン。話しかけるには少々距離が空きすぎている気もするが、それはこちらの身の上を考えれば仕方のないことだと納得してエレンは口元に弧を描いた。 「はい、雑巾ですね。……少し待ってください」 言って、エレンは道具を置いているところまで数歩後退する。背を向けると、エルドのほっとした気配が伝わってきた。 やはり精鋭と言えども皆、巨人が怖いのだろう。リヴァイやハンジ、それにエルヴィンとミケがおかしいだけなのだ。だと言うのに、リヴァイによって集められたエルド達四人は表向きエレンの監視だが、本当はエレンを守るために配されている。困惑は如何程のものかと、エレンはついつい同情してしまいそうになった。 それに(記憶としての)年齢差も影響しているのだろう。脅えを見せないよう気を張るエルド達は、どこか微笑ましく感じられる。それでもいずれは慣れて欲しいと思いながら、エレンは余っていた雑巾を持ってエルドへと近付いた。 「これで大丈夫ですか?」 「あ、ああ。すまないな」 物を受け渡すため必然的にエレン達の距離はだいぶ近いものになる。距離は一メートルもない。相手の身体が強張るのは仕方のないことだ。しかしその時、雑巾を受け取ったエルドは僅かだが顔に表れていた緊張を消し去り、すん、と鼻を鳴らして軽く目を見開いた。 「あれ? なんか甘い匂いが……」 それは掃除で少々汗をかいたエレンから漂う体臭に間違いない。近付いたことで花の蜜を思わせる甘い香りがエルドの鼻に届いたのだろう。 「エレン?」 エルドは首を傾げた。 甘い香りは確かにエレンから漂ってくるのに、そのエレン本人と甘い香りが脳内で上手く結びつかないらしい。普通、ただの体臭が甘いなどと考えるはずもないので、香水か何かを付けているのかと思ったのだろう。しかし特殊な境遇にあると言えども兵士たるエレンが香水をつけるはずもなく、エルドの首の曲がり具合に繋がったというわけだ。 匂いの問題は遅かれ早かれ共同生活を送るメンバーの知るところとなる。訓練兵の頃もそうだったように、エレンは「体質です」と言い切って終わらせようとしたのだが―― 「おい、エレンよ」 割って入った第三者の声。 怒ってなどいないはずなのに背筋が強制的に伸ばされる声音に、エレンとエルドの視線がそちらへ向けられる。 「兵長!」 「リヴァイ、兵長」 エルドの呼びかけは慣れたもので実にスムーズに発せられたが、エレンはそうもいかない。新たに現れたリヴァイ兵士長その人のことをエレンは長らく「リヴァイ」と呼んでいたのだから。ただしそれとは反対にリヴァイは淀みなくエレンの名を呼べていた。プライベートな空間や切羽詰まった時などは「かあさん」と口を突いて出てしまうようだが、平時や人の目がある場所では立場に相応しくエレンを名前で呼ぶようにしている。この差は兵士や役職者として過ごしてきた期間の違いによるものだろうか。 青灰色の三白眼が順に二人を見据えた。 「エルド、お前はここに何の用だ?」 「はい! 掃除に使う雑巾が足らなくなったため、エレンの所で余っている分をもらいに来た次第です」 「そうか。……エレン、お前、掃除は?」 「この階は間もなく終了です。なお、指示された部屋の方はすでに完了しております」 「わかった。まぁお前がやったなら確認する必要もねぇか」 リヴァイはかつてのエレンの仕事も家の様子も知っている。ゆえに清掃後のチェックは必要ないと判断した。 だがエルドの考えは違っていたようだ。リヴァイがチェックもなしに再び階下へ降りようとしていることに気付き、言葉には出さないが驚きで口をぽかんと開けている。 それを横目で見たエレンは、ひょっとして今の態度をおかしな贔屓と受け取られたのかと危惧して「兵長」とリヴァイを呼び止めた。 「お手数をおかけして申し訳ないのですが、念のため確認をお願いしても構いませんでしょうか。完璧に仕上げたつもりですが、やはり兵長にも確かめて頂きたいので」 「ああ」 簡潔に頷き、踵を返そうとしていたリヴァイの足が清掃済みの部屋へと向かう。その背が完全に見えなくなった後でエレンが黙したまま待っていると、エルドがゆっくり口を開いた。 「なぁエレン、兵長が物凄い綺麗好きだって話は知ってるか」 「最初に兵長が清掃後のチェックを直々にすると仰っていましたから、たぶんそうなんじゃないかなぁとは思ってましたが……。よっぽどなんですか?」 掃除を仕事とするエレンが特に気を付けて家の中を綺麗にしていたため、その空間で育ったリヴァイが地下街育ちであるにもかかわらず綺麗好きだということは十分納得できる。しかしエルドの口調はただの綺麗好きでは収まらないように聞こえた。 先程の言葉も出ないような驚き方は、贔屓云々ではなく、それに由来するものだったのだろう。 エレンはほっとしつつ、その一方でどうやら過剰らしいリヴァイの綺麗好き加減を不思議に思った。 「まぁな。あれはもう単なる綺麗好きって言うより潔癖症だ」 本人がいないためか、なかなかにスバッとエルドが言ってのける。更に話を聞くと、どうやら巨人との戦闘中であっても手についた巨人の血をハンカチで拭うほどらしい。エレンが「本当によっぽどですね」と唖然とした口調で返せば、この階に上がっていた時は固かったはずのエルドの表情が崩れ、同意と共に薄い笑みを浮かべた。 「ああ。だけど凄い人だよ、兵長は。強くて、仲間思いで……。ペトラから聞いた話じゃ、潔癖症なのに仲間を看取った際には血まみれの手をしっかり握ってくれたらしい。あの人にならついて行ける。公に捧げたはずの心臓だって、いつの間にかあの人に捧げちまってるんだからな」 そう言い切った後でエルドは「あ、今のは内緒な」とウインクしてみせる。一緒にリヴァイの鋭い視線に晒されたり、その後で初めてまともな会話ができたりしたことで、エルドの中にあったエレンに対する壁が一つ壊せたのかもしれない。 エレンは「わかりました」と頷いて、度を越した綺麗好きの理由はさて置き、このような部下が今のリヴァイの下にいることを純粋に嬉しく思った。 エルドが去った後、部屋のチェックを終えたリヴァイがエレンの所まで戻ってきた。「何にこにこ笑ってやがる」と睨まれたが、さすがにエレンもエルドとの約束を破ってリヴァイが部下に好かれているようで嬉しいからだ≠ニ答えるわけにもいかず、「そう?」と笑って誤魔化す。 リヴァイもエレンが負の感情を出しているならまだしも、笑っていることに関して一々根掘り葉掘り聞くつもりは無いのだろう。話題を切り替え、「部屋は問題なかったぞ」と告げた。 「手間を取らせて悪かったな」 「いや……お前が今後この班で動くことを考えれば、俺の行動が軽率だった。以後、気を付けよう」 リヴァイはエレンの掃除が上手いことを知っているため部屋をチェックする必要はないと判断したが、その事情を知らない者の前でそれをしてしまえば、エレンが反感を買いかねない。何せリヴァイは多くの人が憧れや尊敬を抱く英雄である一方、エレンは異端視され恐れられる化け物なのだから、小さなことでもどんな問題に発展するか。エレンの人となりに触れた後ならばそれも大丈夫だろうが、まだエレンとエルド達は出会って半日も経っていない。 リヴァイもそれに気付いて一切反論することなく首を縦に振ってくれたのだろう。エレンが「ありがとう」と告げれば、照れたように小さく鼻を鳴らした。 「かあさん」 「ん?」 周囲に他人の気配が無いのを確認してから唐突にリヴァイが抱きついてくる。エレンの肩口に鼻先を押し付けて「いつもより匂いが強い」と人類最強の兵士は呟いた。 「そりゃまぁ一生懸命掃除したからな。汗もかいたよ」 だから平時よりは甘い香りが強くなっている。「嫌か?」と尋ねれば、即座に「そんなはずないだろう」と答えが返された。 ぎゅう、と抱きつく腕の力を強めながらリヴァイは言う。 「お前のこの匂いが一番好きだ。まぁ、お前以外の体臭なんぞ好き好んで嗅ぎたくはねぇけどな」 「ふふ。ありがとう。そっかそっか、リヴァイにとってオレの一番好きなところは匂いなのか」 「……いや、少し違う」 「へ?」 未だエレンの首筋に鼻を押し付けつつ、リヴァイは僅かな逡巡の後にそう告げた。それから一度腕の力が緩められ、リヴァイの手がエレンの頬を覆う。 「リヴァイ?」 「お前の匂いは勿論好ましいが、こっちも同じかそれ以上に――」 言い切るよりも早くリヴァイの唇がエレンのそれに重なった。 最初は挨拶代わりに戯れ合うようなバードキス。それからエレンの薄く開いた唇の合間を縫ってリヴァイが侵入を果たす。恋情や性的なものを含むと言うより、ただ唾液の分泌を促す意図をもってリヴァイの舌がエレンの中を動き回った。エレンもされるがままリヴァイの舌の動きに応える。 時折絡め合い、離れて、またくっ付いて。リヴァイの喉がごくりと鳴ったのは唇を合わせてから数十秒後か、はたまた数分後か。ゆっくり離された二人の唇を銀糸が繋ぎ、それすら勿体無いとばかりにリヴァイは最後にもう一度エレンに軽いキスを贈った。 ついでにエレンの眦に浮かんだ涙を左右共に舐め取って、青灰色の双眸が満足したネコ科の肉食獣のように細められる。 「――これも、悪くない。間食にはこれが一番だ」 「たぶん何より他人に見られちゃいけないオヤツの摂取方法だな」 「キス一つで真っ赤になるお前を誰かに見られるわけにもいかねぇし、人前では自重してやるよ」 「そりゃどうも」 巨人化の関係で自傷行為は厳禁となったため、エレンが自ら傷を作ってリヴァイに血を与えるわけにはいかない。それにリヴァイ自身も過去にエレンを失った経験と相まって『かあさん』に傷をつけることを嫌がった。だがリヴァイにエレンの体液摂取そのもの止めるという選択肢はないらしく、おかげで血ほどは濃くなくとも、こうしてくちづけをして唾液を与えることが多くなっている。 隙あらば今のような深いキスを仕掛けてくる元・養い子で現・人類最強の兵士にエレンは肩を小さく震わせて苦笑を零した。リヴァイは余裕ぶっているけれども、顔を見れば判る。リヴァイはエレンとのくちづけを好きだと言ったが、やはり血を摂取した時と比べると満足度が足りないらしい。 実は血と同じくらい甘さの濃い体液もあるのだが、さすがにそれをリヴァイが摂取するはずもないだろうとエレンは思っており、教える気は毛頭ない。それに教えたら教えたで、一体いつどういう経緯でそれを知ったのかと問い詰められそうだ。 (まさか精液も甘いんだって……言えねぇよな) この身体で確かめたことは無いが、今までがそうだったのだからきっと今回もそうなのだろう。 不足している甘さを補うように再び抱きついてきたリヴァイを抱き返しながら、エレンはひっそりとそう思った。 【閑話】 かあさんいがいはぜんぶきたない。 当時まだ十四歳だったリヴァイは血だまりの中でそう思った。気付いた≠ニ言ってもいい。 それまでリヴァイにとって血液とは甘く芳しいもので、好んで体内に取り入れたいものだった。『かあさん』から与えられるそれによりリヴァイは生き永らえ、ここにいる。まさに命の水だ。 しかし偶然口の中に飛び込んできた『かあさん』を殺したクズ共の血は、『かあさん』の神聖なそれに似ても似つかない。臭くて、不味くて、反吐が出そうだった。 ゆえにリヴァイは思った。 ああ、人間とはなんて汚いものなのだろう。芳しいのは、美味しいのは、美しいのは、正しいのは、清いのは、リヴァイを育てた『かあさん』だけだ。その恩恵にあやかり、母の血を飲んで育ったリヴァイに、今、この汚らわしいものが触れている。なんて不快な事実だろう。 リヴァイは自分が特別だとか綺麗だとか、そういったことは一切思っていない。しかし『かあさん』の血で育った身体≠ェ穢れたものに触れるのは我慢ならなかった。 元々『かあさん』が地下街らしからぬ清潔な空間で育ててくれたため、リヴァイは綺麗好きの部類に入る。しかしこの時点を境目にしてリヴァイはただの綺麗好きから『症』とつくほどの綺麗好き――潔癖症へと変わっていった。 全ては失われた『かあさん』の残滓が存在するこの身を汚さないために。 ただしリヴァイは知っていた。地下街でどこかの貴族が馬鹿をやったのか、禁書とされる壁ができる前の古い本を手にする機会があったのだが、それによると人間の身体を構成する成分は約一年で九割入れ替わってしまうらしい。二年経てば、身体の構成成分上、完全に別人だ。 ゆえに『かあさん』を失って二年間は人どころか物にすらろくに触れないような異常すぎる潔癖症を患っていたが、それ以降は徐々に人や物にも触れられるようになっていった。ただし『かあさん』に与えられたものが完全に身体から抜けた後、二年間続いた病気が一気に解消されることはなく、一度ついてしまった癖はその後もリヴァイにずっとついて回っている。巨人の血をわざわざ拭くほどの潔癖症である一方で、死ぬ間際の兵士の手を握ることを躊躇いなくやれたのはその所為だ。 エレンという名で再び生を受けた『かあさん』と再会したリヴァイは、再びその甘く芳しい蜜を己の身体に取り込む生活を始めた。しかし相変わらず(清潔であれば)他人や物に触れることを忌避したりはしていない。 それは『かあさん』を失ってからの二年間の自分ではなく、『かあさん』が傍にいる十四歳以前の自分に戻ったからだろうと、リヴァイは推測している。あの頃、幼いリヴァイは綺麗好きではあったが潔癖症ではなかった。過度の潔癖症を発症したのはエレンを失ったからだ。『かあさん』が唯一残してくれたこの身体の中の残滓を決して穢されまいと、リヴァイは過敏になっていた。 「なあなあ、リヴァイって潔癖症なのか?」 そうとは知らずにエレンは尋ねる。 リヴァイは掃除の手を止めて小休憩中のエレンを見た。 「あ? まぁそうかもな。掃除は好きだが」 「それってやっぱオレの所為だったりする?」 「否定はしねぇよ。お前が綺麗にしてたから俺もそうなったし……それにまぁ、掃除してるとお前を思い出せたしな」 そっかー、とエレンは嬉しそうに、また恥ずかしそうに頭を掻いた。 緩んだ顔をみてリヴァイは真実を胸の奥に仕舞う。きっとリヴァイが潔癖症になった本当の理由を知ってもエレンは喜ばないだろう。それどころか自身を責めるかもしれない。ならば秘しておくべき事実だとリヴァイは判断した。 (それに掃除してたらかあさんを思い出すってのも嘘じゃねえしな) 嘘をついているわけではないから問題ない。 作業を再開させながらリヴァイはもう一度だけ今も変わらぬ母の美しい金眼を眺めた。 【2】 エレン達が古城に到着し、なんとか最低限の掃除を終えた日の夜。遅れて古城の扉を叩いたのは巨人研究の第一人者とも言えるハンジ・ゾエ分隊長だった。 三十日後には大規模な壁外調査が予定されているとのことだったが、現在特別作戦班には待機命令が出ており、また壁外に行くとしても三十日間それの準備だけをしているわけではない。よって、この空いた期間を利用してハンジがエレンを対象とした実験を行うため、こちらに出向いてきたのだ。 夕食後の団欒とミーティングが合わさったような席に途中参加してきたハンジは早速エレンに実験の申し出をしてくる。しかし立場上、エレンの行動は全て監視者たるリヴァイが管理していた。それを伝えれば、即座に眼鏡の奥の双眸がリヴァイを向く。 「リヴァイ? 明日のエレンの予定は?」 「……。庭の掃除だ」 憮然と答えるリヴァイ。その心情を班の精鋭四人は正確に把握できなかっただろうが、審議所の一件の後でリヴァイとエレンの関係について聞いていたハンジは含み笑いのような表情を浮かべ、次いでリヴァイの目の前でエレンの手を握って「明日はよろしく!」と笑みを浮かべた。 「こちらこそよろしくお願いします。しかし巨人の実験とはどういうものなんですか?」 ハンジに握られた手を解き、エレンはそう尋ねた。途端、隣に座っていたオルオが強めに身体をぶつけてくる。巨人狂のハンジに巨人の話題を振ることがどれ程タブーか知っているための行動だったが、説明もないままエレンにそれが伝わるはずもない。 さあ長話が始まるぞ、と察した班員達は巻き込まれたくない一心でぞろぞろと一言も発さずに席を立つ。何も知らないエレンはこのまま今回の生贄になるのだと、エルド、グンタ、オルオ、ペトラの四人には疑う余地もなかった。 しかし―― 「おい、ハンジ。こいつにお前の無駄話を聞かせてやってる時間はねぇんだよ。……エレン、行くぞ。ついて来い」 「え? あ、はい! すみません、ハンジさん。お話はまたの機会にお願いします」 一番ハンジから遠く、そして扉に近く。つまるところ最も逃げやすいポジションにいたはずのリヴァイが長話を聞かされるという危険も顧みず、エレンの腕を引っ張り上げた。ずんずんと進んで行く上官にエレンは目を白黒させながら――ましてや己が窮地から救われたことなど知る由もなく――慌ててついて行く。 唖然と見送る五人の姿。 が、最も早くハンジが呆けた状態から抜け出し、「あ、君達は私の話聞いて行くかい?」と目を輝かせたため、残る四人は慌ててその場を辞すこととなった。 リヴァイがエレンを伴ったまま食堂から引き揚げてきた先は、巨人になれる新兵を繋いでおくための地下室ではなく、古城の上層階に用意された自室だった。 ガチャリとリヴァイが扉の鍵を閉めたところでエレンは口を開く。 「どうしたんだよ、リヴァイ」 「っとに、なんも解ってねぇ顔しやがって」 エレンの手を引きながらリヴァイはベッドに腰掛けた。それに倣いエレンも隣に腰を下ろす。と同時にリヴァイが抱きついてくるのは半ば予想済みのことであり、そのまま押し倒される格好になったエレンは背中をシーツの海に預けながらポンポンと相手の背中を優しく叩いた。 リヴァイはエレンの心臓の真上に己の耳をぴたりとくっ付けて低く唸るように喋る。 「あのままハンジに捕まってたら朝まで巨人の説明コースだぞ。しかも訓練兵団で習ったばっかのやつだ」 「え。マジで」 「冗談なんかでお前をここまで連れ出せるか。ったく、危うく俺との時間が無くなるところだったじゃねえか」 そう言ってエレンに抱き着いたまま心地よさそうに目を閉じる兵士長の姿を一体誰が想像できただろう。「助けてくれてありがとな」と言おうとしていたエレンはそのまま口を閉じ、今夜は与えられた地下室に戻ることも無いのだろうと察しながら胸の上の黒髪を梳く。 リヴァイはしばらくその行為を甘受していたが、やがてのそりと動きだし、エレンをベッドに押し倒したまま視線を合わせた。 「かあさん」 「ん?」 金色の双眸でエレンはそれを見返す。 リヴァイは数度口を開閉させて逡巡する様子を見せた。だがそれもすぐに終わり、エレンが予想した通りの願望を口にする。 「今夜はこの部屋に泊まっていってくれ」 それを聞いてエレンは穏やかな微笑みを浮かべた。「もちろん」と返し、再びリヴァイの背中に腕を回す。 「リヴァイと一緒の布団にくるまって寝るのは何年ぶりかな」 「今度はもうどこにも行くなよ」 「ああ、わかってる。リヴァイが望んでくれるなら、オレはここにいるよ」 「約束だからな」 囁くようにそう告げたリヴァイが顔を近付ける。エレンは拒むことなく、触れるだけのそれを受け入れた。 唇が離れた後、エレンは吐息が感じられる距離でリヴァイに尋ねる。 「甘いのはもういいのか?」 「それはまた明日もらう。明日も、明後日も、その次も……ずっとお前は俺の傍にいてくれるんだからな」 「うん。その通りだ」 ここにいる。ずっといるよ。と繰り返して、エレンは金色の目を細めた。 そうして夜は穏やかに過ぎていく。 しかし次の日、古城の住人達を叩き起こしたのはカーテン越しの優しい陽光でも鳥の可愛らしい鳴き声でもなく、緊急事態を告げに来たハンジの部下の大声だった。 「ハンジ分隊長はいますか!? 被験体が……巨人が二体とも殺されました!!」 本部に向かったエレン達が見たものは、トロスト区で捕獲した巨人二体が何者かに殺されてその身をほとんど蒸発させてしまった亡骸だった。 死体の傍で嘆くハンジの姿を多くの兵士達の中に紛れて見つめるエレンや班員達に「行くぞ」とリヴァイが声をかける。 「後は憲兵団の仕事だ」 朝、エレンと共にベッドでまどろむ暇もなく城を出発したリヴァイの機嫌は最低と言っていい。ピリピリした空気に誰も逆らう気などなく、踵を返したその背に続こうとするが―― 「エレン」 「団長?」 近付いてきたエルヴィン・スミスに呼び止められ、エレンがそちらを向く。あまり大きな声を出さなかったため、それに気付いたのは先行する五人のうちリヴァイだけだ。残る四人はリヴァイの不興を買う前に早足でこの場から去って行った。 エルヴィンは呼び止めたエレンの両肩に手を置き、己の前に立たせる格好で未だ蒸気を上げる巨人の死体へとエレンの顔を向けさせる。 「君には何が見える? 敵は何だと思う?」 「……」 エレンは黙って示された方向を見た。 やがておもむろに口が開かれると、傍にいるエルヴィンだけに聞き取れるような小さい声で告げる。 「何の根拠も示せないただの憶測で申し訳ないのですが」 「構わないよ」 「被験体の殺害は巨人に恨みのある者の犯行ではなく、巨人の謎を解明されては困る者の犯行ではないかと」 「ほう。続けて」 「困る、と言うのは当然のことながら巨人側に属する者だと思われます。ですがただの人間が巨人の側に付くとは考えづらい。どうしたって人間は巨人に襲われますから。ならば犯人は巨人か、通常の巨人に襲われても対抗できる手段を持つ者。そしてここには我々が知るような巨人などいません。つまり」 エレンは首を動かして背後のエルヴィンを見た。こちらを見定めるような青い目から視線を逸らすことなく、重ねてきた経験と今生のエレンを取り巻く現状から推測を口にする。 「オレと同じで巨人になれる人間……それも人類に敵対する側の者が兵団内に紛れ込んでいる可能性があります」 「……わかった」 思案するように青い目が狭められた。 「団長はこの件をどうなさるおつもりで?」 「そうだな。それに関しては後で君にも話を聞いてもらうことにしよう」 「話、ですか」 「ああ。次の壁外調査にも絡んでくる話だ」 そっとエレンに顔を近付けて耳打ちするようにエルヴィンは囁いた。次の壁外調査にも絡んでくるとは一体どういうことかとエレンが問い返そうとした、その時。 「かあさ……っエレンにあまり近付くな、エルヴィン」 ぐいっと腕を引かれる。 エレンの身体をエルヴィンから引き離したのは不機嫌さを隠そうともしないリヴァイ兵士長その人だ。余程焦っていたのか、公衆の面前でエレンを『かあさん』と呼びかける始末である。 「もういいだろう。俺達は戻る。話があるならまた伝令を寄越せ」 「わかったよ、リヴァイ。十分わかったからそう睨まないでくれ」 小さくホールドアップしてエルヴィンが苦笑を零した。 それをひと睨みし、リヴァイはさっさとエレンの手を引いて班員達が向かったのと同じ方向へ足を向ける。 二人が去って行った後、 「さすがにリヴァイのいるところでエレンは良い匂いがしたなんて言った日には……削がれるな」 エルヴィンが落としたその呟きは、幸いなことに誰にも拾われることなく兵士達のざわめきの中に溶けた。 【3】 被験体の巨人が何者かに殺害されたり、その犯人探しとして第104期訓練兵に疑いがかかったりと想定外のハプニングは起こったものの、訓練兵の所属兵科選択まで無事に終わって、エレン達は古城へと戻った。 新兵勧誘式等の関係で本部に滞在していた間、巨人化したエレンが暴走した際に彼を殺さず鎮圧する方法についてリヴァイから案が出されている。これは実験の担当者でもあるハンジにとっては朗報であり――何せエレンが暴走した場合の殺害を気にせずに実験ができる――、古城に戻ってすぐ彼女主導による実験が開始された。 まずは単純に巨人になるというところから。涸れ井戸を使用し、その底でエレンが巨人化する。もし自我が無い状態で巨人化したとしても、これならば特別作戦班およびハンジやその部下の手で容易に拘束とエレンの救出ができる。しかし実験は思うようにいかず、エレンがいくら自傷行為を繰り返しても巨人化することはできなかった。 班内にどこかほっとした空気が流れたまま休憩に入る。エレンはハンジの残念そうな顔を見て申し訳なく思ったが、それよりもまずリヴァイの様子が気にかかった。平静を装っているように見えるが、涸れ井戸の底で血まみれになっているエレンを見た時、青灰色の双眸がぎゅっと瞳孔を縮め、リヴァイが極度に緊張したのが分かったからだ。 今は血を拭って傷口には包帯を巻いているので赤いものは見えなくなっている。しかしリヴァイが他の班員とは違って席につかず――つまり落ち着いていないのだ――、それどころか背を向けて去って行ったのを眺めながら、エレンは「さてどうしようか」と頭を悩ませた。 他者の目があるため『兵長と新兵』として振る舞っているエレンがリヴァイの背中を追いかけ、あまつさえ抱きしめてやることなど到底不可能。さっさと実験を終わらせて人目のない所に引き上げてから――……という案も、そもそもエレンが巨人化できない所為で実験が長引いているので意味がない。きちんと巨人化できていれば、リヴァイに血を見せずに済んだし、実験も長引かないはずだった。 はあ、と一つ溜息を吐く。それを微妙に勘違いされ、エルドから気を落とすなと慰めの言葉を受けた。同席しているグンタとオルオからも同様に慰められる。彼らがエレンの巨人化失敗に失望せず、むしろほっとしているような空気を醸し出しているのは、事実、ほっとしているからなのだろう。やはり精鋭と言えどもこんな至近距離に巨人(になれる人間)がいるというのはきっと恐ろしいものなのだ。もしくはエレンという新しい手段を前にしたために生まれた現状が変化することへの恐れ≠ゥ。本来、人間とは急激な変化を恐れるものである。特にそこそこ安定した状況が続いた後では。 ぼんやりとそんなことを考えながらエレンはティースプーンを手に取った。が、涸れ井戸で散々つけた噛み傷が痛み、スプーンを地面に落としてしまう。それを拾おうとエレンは腕を伸ばし―― 爆発が、起こった。 閃光と共に鼓膜を突き破らんばかりの爆音と衝撃。 (なんで、今頃……!) 胸中で毒づいた時にはすでに剥き出しの骨と筋肉で作られた巨大な腕が出現している。論じるまでもなく、エレンの右手に癒着する形で。 爆発に巻き込まれた椅子とテーブルは粉々になってもう使い物にならない。これだけの衝撃から、近くにいたグンタ達は無事に身を守ることができただろうか。彼らはリヴァイを大切に思ってくれる人々だ。そんな彼らに自分の不注意で怪我などさせられない。 焦る脳みその片隅でそんな心配を抱えるエレンだったが、予想外に近い所からリヴァイの声が聞こえてはっと息を呑んだ。 「落ち着け」 「リヴァ、」 最初は混乱する自分に語り掛けているのだと思った。だが違う。 「落ち着けと言っているんだ。――お前ら」 リヴァイの声はエレンの背後から。振り返れば、すぐ傍にリヴァイが立っていた。それもこちらに背を向け、半刃刀身を構えた班員達からエレンを庇う体勢を取っている。 向けられた刃を視界に入れてエレンは一気に頭が冷えると共に「嗚呼」と、とても小さな声で呟いた。「マズいな」 エレンの位置からリヴァイの表情を伺うことはできないが、落ち着いた声音に相応しく怒りも焦りも戸惑いもない顔をしているのだろう。しかしそれはそう取り繕っているだけだ。今、エレンは複数の人間から攻撃の意志を持って刃を向けられている。その状態がリヴァイの中のどんな記憶をフラッシュバックさせるのか、エレンに分からないはずもない。 どうする? と僅かな逡巡の間に半刃刀身を構えた四人がエレンを取り囲むように展開する。いくら敬愛するリヴァイに制止されたと言っても、この状況でハイ分かりましたと刃を降ろせる兵士など一握りどころか一つまみいるかどうか。 四人は口々に怒鳴り、エレンへと問いかける。そうやって問いを発する一方でエレンの言葉には一切耳を傾けない。突然の巨人化の理由を詰問し、エレンに人間への敵意が無いことを証明しろと叫び、動きを禁じ、エレンを敵・リヴァイを味方と区別した上でリヴァイにその場から離れることを望み――。 化け物と呼ばれ、複数の人間から刃を向けられるのはこの人生で二回目だ。そして過去の経験も併せれば、完全に平気とまではいかずとも慣れもあり冷静に状況を見ることができる。しかしリヴァイはどうか。かつてエレンを他者によって失ったリヴァイがこんな状況のエレンを見るのは初めてなはず。 審議所でも銃で狙われたことはあったが、銃というのは意外と当たらないものである。しかし精鋭と呼ばれる兵士が構えた半刃刀身は違う。彼らがその気になればエレンの首など簡単に跳ね飛ぶだろう。特別作戦班が結成された本当の理由――エレンを護衛すること――を知っていたとしても、彼らがエレンを殺せるという事実は変わらない。ゆえにこの状況が長く続くことは非常に有り難くないのだ。 そうは思っても、この場にいる者のうちリヴァイは配慮すべき方の人間で、オルオ達四人はエレンの話を聞きもしない。エレンは聞いてもらえないのだから何もできず、また下手に身体の方を動かせば、ぴんと張った緊張の糸が一瞬で切れてしまうだろう。 (どうする) 再三頭の中で繰り返すが、妙案など浮かばない。エレンのこめかみを汗が一滴滑り落ちた。と、その時。 「エレぇン! その腕触っていいぃぃぃ!?」 ちょうどオルオとグンタの間を割るようにしてハンジが駆け寄ってきた。先程までの意気消沈していた姿勢はどこへやら。口はだらしなく緩んで涎が飛び散り、ゴーグルの下の両目は興奮でギラギラと輝いている。 さすがのエレンもこの勢いには引いた。実際に巨人化した部分を動かすわけにはいかなかったが、その上に乗る形となっている自分の身体は若干仰け反ってしまう。 そんなエレンの態度などお構いなしでハンジは大興奮のまま巨人化した腕に触れ、そのあまりの高温に一瞬で手を離した。ジュゥゥゥと肉の焼ける音がしたのだが、彼女の両手は無事なのだろうか。ハンジに「生き急ぎすぎです!」と叫んだ彼女の部下の言葉にエレンも胸中で同意する。 そしてエレンははっと気付いた。ハンジの一連の奇行により緊迫していたはずの場の空気が一瞬でしらけてしまったことに。まだ四人の両手には半刃刀身が握られているものの、視線はハンジに向けられており、その目や口元には呆れが滲んでいた。 「奇行種もたまには役に立つな」 ボソッと呟いたリヴァイの声は小さく、エレンにしか聞こえていない。ひょっとしなくても奇行種とはハンジのことを示しているのだろうか。同僚を巨人に例えちゃだめだろ、と思う一方で、妙に納得してしまうのが実に申し訳ない。 (……とりあえずこの手を引っこ抜くか) エレンはそう考えながら生成された肉と癒着している右手に視線を落とした。 巨人の肉体からエレンが離れれば、この肉の塊は甘い芳香を放ちながら崩れていくだろう。ハンジが非常に残念がるのは目に見えていたが、しらけた空気が続いている間にさっさとこの場を収束させてしまいたい。 ぐっと全身に力を入れると、それを察したオルオから妙なことをするなと叫ばれたものの、構わずエレンは右腕を引っこ抜く。勢い余ってひっくり返りそうになったが、そこはリヴァイが上手く受け止めてくれた。 巨人の身体は甘い花の蜜の匂いを放ちながら蒸発していく。 「エレン」 リヴァイが耳元で囁いた。 「気分はどうだ」 「良くはありませんが……」 一応言葉使いに気を付けつつエレンはそう答える。巨人の肉体を生成するにはかなりのエネルギーが必要らしく、解いた途端にどっと疲れが押し寄せてくるのだ。しかしそんなことよりも今のエレンは己を後ろから抱えるリヴァイの手がかすかに震えていることに気が気でない。濁した言葉の後には「お前の方こそどうなんだ」と心配する台詞が無音で続いていた。 「かあさん」 指を絡めるようにして繋いだ手には痛いくらいの力が込められている。それを非難することなく、エレンもまた呼びかけに応えるようにリヴァイの手を握る力を強くした。 古城に戻った一行のうち、ハンジは実験の責任者としてエレンの突然の巨人化について上の者へ報告しに行っており、エレン達を除く残りのメンバーは食堂にて待機。そして当のエレン本人と監視者であるリヴァイは城の一角に設けられていた牢屋のあるエリアにて、ハンジが報告を終えて戻ってくるのを待っていた。 鉄格子の嵌っていない階段付近の壁にエレンとリヴァイは背中を預けて立っている。ここに降りてきた当初、エレンは階段に座っていたのだが、壁に背を預けて立つリヴァイが小さな声で「かあさん」と呼んだのを機に立ち上がり、彼の隣で同じように壁に背中を預けてその手を握り締めた。再び「かあさん」と呼ばれると共に痛いくらいの力で握り返されたのはその直後だ。 「見たくないモン見せちまって悪かった。許してくれ、リヴァイ」 「いや……。あいつらがああいう行動をすると解った上で選んだのは俺だ。常に最悪を想定し、迅速に行動できる奴らだからこそ、あいつらはこれまで生き残って来られたし、俺も巨人になれる兵士を監視する兵士長≠ニしてあいつらを選んだ。だが――」 握り締めたエレンの手をリヴァイは己の口元に持っていく。 かつてリヴァイはこの指先から命を得ていた。今は怪我を自粛する必要がある関係で不用意にここへ刃を滑らせることも歯を立てることもないが、その代わりとでも言うようにエレンの指先へそっと唇を押し当てる。 「――いざああいう状況になってみると、思った以上にクるもんだな」 「リヴァイ……」 名を呼びながらエレンはリヴァイの顔にもう一方の手を伸ばす。が、その指が固くなった頬に触れるよりも前に誰かがこちらへ降りてくる足音が聞こえた。 「リヴァイ兵長、ハンジ分隊長がお呼びです」 上の階から現れたのはハンジの部下の一人だ。彼が現れたことによりエレン達の手も離れ、リヴァイがいつもの『リヴァイ兵士長』へと変わる。 「あのクソメガネ、待たせやがって」 毒づきつつリヴァイは階段を上る。エレンもまたそれに続き、皆が待つ食堂へと向かった。 着いた先ではハンジより今回のエレンの突然の巨人化についての説明がなされた。 エレンが巨人化するには自傷行為だけでなく明確な目的意識も必要であること。また今回は落としたティースプーンを拾うという目的意識が巨人化のトリガーの一つに設定されてしまっただけで、エレンに反逆の意図があったわけではないこと。 それを聞いたペトラ、オルオ、グンタ、エルドは強張っていた顔の緊張を解き、顔を見合わせてから一斉に己の手を噛んだ。驚くエレンに彼らは、この行為と痛みがエレンに対する判断を間違えたことへの代償であると告げる。と同時に、今ここで初めて彼らはエレンを自分達の属する組織の一員――仲間として認めたのだ。 「私達はあなたを頼るし、私達を頼ってほしい」 ペトラの真摯な瞳と言葉がその証拠。仲間だからこそペトラ達はエレンを頼ることに決めたし、エレンにも頼ってもらいたいと願うのである。今後も彼らがエレンの暴走時にはそれを抑える役目を担っていることに変わりはないが、エレンへの印象が『巨人になれる正体不明の少年』から『巨人となって共に戦ってくれる仲間』に変わった瞬間だった。 それを嬉しくないと思うほどエレンは捻くれてなどいない。本心から「はい。よろしくお願いします」と頷けば、ペトラ達の間に流れる空気が緩み、これまでエレンを前にした時に表れていた警戒心も完全に霧散していく。 この日からようやく特別作戦班は信頼し合う仲間としての一歩を踏み出したのだ。 2013.10.06 pixivにて初出 |