エレンが意識を取り戻した時、開いた両目に映り込んだのは暗い石の天井だった。
 背中には固いベッド。両手首には生温くなった金属の感触――おそらく手枷だろう。パチッと松明の小さく爆ぜる音が聞こえる。そして足らない光量に相応しく、空気は重く湿っていた。
 目覚めたばかりでぼんやりとした頭をなんとか働かせながら状況の整理に努めれば、自然と気絶する前の記憶がよみがえってくる。ああそうだ、と声に出さず胸中で呟いてエレンは自分を見下ろしていた青灰色の双眸をひときわ強く思い出した。
「……リヴァ、イ」
「かあさんっ!」
 ガシャン、と鉄製の何かが揺れる音。そして聞き慣れた発音だが聞き慣れない低さの声が同時に耳へと届く。
 何事かとエレンが驚いて身を起こせば、鉄格子の外側――そう、エレンがいるのは鉄格子の内側≠セ――に見知った姿。
 普段、壁外調査へ出発する際に民衆が羨望の眼差しを向ける冷静な姿勢はどこへやら。慌てたような、ほっとしているような。様々な感情が溢れかえりそうになっているリヴァイ兵士長が鉄格子を両手で掴み、1ミリでもエレンに近付こうと必死になっていた。
「リヴァイ」
 気を失う前にも耳にしたはずなのだが、こうして改めて声を聞いてみると、離れていた間にエレンの元養い子は随分と成長したらしいことが分かる。身長は伸び悩んでしまったようであるものの、立派な大人の男の姿だ。しかしその表情は自分が世話をしていた頃の甘ったれ小僧のままであり、エレンがリヴァイを呼ぶ声は憧れの兵士長に向けるものではなく、とても甘い音をしていた。
「ひさしぶりだな。また会えて嬉しいよ」
「俺はもっと早くお前に会いたかった」
 眉間に深い皺を刻みながらリヴァイはそう吐き出す。
「遅くなったのはオレだけの所為じゃねえぞ?」
「確かにそうだが……」
 納得がいかない、という顔をするリヴァイ。
 王都の地下街に住んでいた彼がエレンの核と言える『種子』をわざわざウォール・マリアの住人である女に飲ませてしまったからこそ、今のエレン・イェーガーがあり、また十六年という長い間隙が生まれてしまった。それはリヴァイ自身がよく理解していることだろう。
「だがお前がその気になればもう少しくらい早く会えていたはずだ」
「まぁそっちは『人類最強の兵士』だもんな」
 リヴァイがその二つ名で呼ばれるほど有名になったのは何もここ最近のことではない。よってリヴァイがエレンを見つけられずとも、エレンはリヴァイを見つけることが比較的容易にできたはずである。しかし現実として、エレンはリヴァイの存在を知りながらも彼に会いに行こうとはしなかった。
 そのことを責めるように青灰色の双眸がエレンを射る。しかしこちらにも言い分はあるのだと、エレンは苦笑を滲ませて言い返した。
「オレはただお前の世話をしただけだ。しかも最後までちゃんと一緒にいてやれなかった。そんな中途半端な人間にリヴァイがもう一度会いたいと思ってくれてるかどうか自信が無かったんだよ」
「っ、会いたかったに決まっているだろう!」
 エレンの言葉をリヴァイが強く否定する。「俺が、どんな思いで……ッ」と掠れた声で続け、鉄格子を握る手は力が籠もり過ぎて白くなっていた。
 そんな元養い子の様子にエレンはそっと金色の目を眇める。場合によってはずっと接触せずにこのまま彼の記憶から消えるのも己が取るべき道の一つだと思っていたから、こんなリヴァイを見てしまうと本当に申し訳なく思えてくる。この身をベッドの上に拘束している手枷と鎖が無ければ、白くなった手を握って謝罪の一言でも囁いてやりたかった。
 身じろぎするたびに耳障りな音を立てる鎖を意識したエレンは、しかしふとあることに気付く。
 エレンを拘束したのはリヴァイら調査兵団ではなく、巨人になれる人間を警戒した駐屯兵団か憲兵団だろう。しかしエレンが閉じ込められている牢屋の外側にそれらしき兵士達の気配は感じられない。今、鉄格子の外側にいるのはリヴァイともう一人の調査兵だけだ。
 リヴァイが己を取り繕うことなく鉄格子にしがみ付いてエレンを母と呼んでいる事実から、そんな状態を目撃されると不都合な人物がいないことは確かであり、つまるところもう一人の調査兵はエレンとリヴァイの関係を知っていても不都合ではない人物≠ニいうことになる。
(……まぁ、それでもこんなリヴァイを見るのは初めてだったみたいだけど)
 人類最強の兵士であるはずの男の向こう側からこちらを眺めている人物に視線をやり、エレンは淡く微笑んだ。
「リヴァイ、お前の上司が驚いていらっしゃるようだからちょっと落ち着こうか? 申し訳ありません、エルヴィン団長」
 前半の台詞は未だエレンを親だと思ってくれているらしいリヴァイに向けて。そして後半の台詞は彼の後ろでゆったりと椅子に腰掛け、余裕と冷静さを保ちながらもやはり少し驚きを隠せないままでいたエルヴィン・スミスに向けて。
 エレンに突然話しかけられたエルヴィンは片方の眉を僅かに上げた後、「いや……」と低く落ち着いた声と共に首を横に振った。
「折角の『家族』の再会を邪魔する気はないよ」
「ですが見張りの兵士を離席させていられる時間も限られているでしょうし。わざわざオレの所へ来てくださった理由も、ただ部下に家族との再会をさせるためだけとは思えません。ご用件をお伺いします」
「……十五歳とは思えない落ち着きようだね」
「そりゃあまぁ正確な十五歳じゃありませんから」
 身体の年齢は十五歳だがエレンにはリヴァイを育てていた頃の記憶も、更にそのずっと前の記憶もある。多少身体の年齢に引き摺られるとは言え、精神的な年齢はエルヴィンを軽く超えていた。
「ああ、そうだ。具体的なご用件を伺う前に一つだけ質問させてください」
 リヴァイを通り越してエルヴィンに視線を合わせながらエレンは願う。「構わないよ」との返答に礼を告げ、とても重要な質問を口にした。

「オレは巨人として殺されますか? それとも兵士として生かされますか?」

 あまりにも直球で、また己の状況を理解した問いかけに対し、エルヴィンが感心したように「ほう」と吐息を零す。
 一方、リヴァイは顔を真っ青にして「かあさん!」と声を荒らげた。そんな彼にエレンは微笑みかける。
「そんな顔すんなよ。もし殺されることになっても、またお前がオレを生まれ直し≠ウせてくれるんだろう?」
 今度は最初からリヴァイの傍で。
「それでも最低十カ月は待たなきゃなんねえだろうが」
「それすら我慢できないって?」
「待つのはこの十六年だけで十分だ」
 リヴァイの台詞にエレンは「そっか」と返す。確かに長く待たせてしまったのだから、また更に待たせるというのは酷かもしれない。
 それにここでエレンが一度命を絶って再び生まれ直したとして、その時には巨人の力を失っている可能性が高い。否、前の人生で持っていなかった能力なのだから、次もこんな忌まわしい能力を持って生まれることは百パーセントないだろう。
 ――そう、この忌まわしく、けれども恐ろしいほど使える#\力は。
 エルヴィンもそれを解っているらしく、エレンとリヴァイの会話が落ち着いたタイミングを見計らって口を開いた。
「今のところ君を生かす方向で考えている。その力は人類が進撃するために必要不可欠となるだろう」
「でしょうね。何せ今まで敵だった巨人の力が一人分とは言え味方になるんですから」
「その言葉、君自身には人類の敵に回るつもりが無いという意味で捉えても?」
「勿論です。オレは巨人を駆逐する。人類の敵にはなりません」
 会話と共にエルヴィンへと視線を向けていたエレンはちらりとリヴァイを一瞥し、金色の双眸を緩ませた。
「ならば君を生かす方法を具体的に考えないといけないな」
「おや? あなたのことですから、もう考えていらっしゃるんじゃないですか」
「ははっ、まぁそうだね。今日ここへ来たのはその打ち合わせのためでもある」
 ためでも≠る、ということは、それ以外の目的もあったということ。おそらくはエレン・イェーガーという人物をエルヴィン自身の目で見極めるためだろう。いくらかはリヴァイから情報開示があったのかもしれないが、それでもエレンには目の前の男が他人の言葉を鵜呑みにするような人物だとは思えない。
 そしてエレンはたった今、このキレ者に使える人間(戦力)≠ニして認められた。
「でしたら早速あなたがここにいらっしゃった用件――オレを生かしてくださるための作戦をお伺いします。オレは一体どうすれば良いですか」


 鉄格子越しにリヴァイとエルヴィンに会ってから幾日かが過ぎた。
 太陽の光が無い地下街のようなここでは正確な日数を数えることも難しく、時の流れを意識させてくれるのは見張りの兵士が持ってくる粗末な食事くらいなものだ。それも日に三度なのか二度なのか、はたまた一度なのか、それすら判らないため、日数を数える手段としてはあまりにも不確かなものだった。
 今頃、外の世界はどうなっているのだろう。
 あの後エルヴィンから聞いた話によると、トロスト区に侵入した巨人は全て駆逐し終えたらしい。また二体を生け捕りにし、今後の研究のための実験に使うそうだ。
 一方、共に戦闘に参加した同期達の安否は不明。ミカサとアルミンは意識を失う寸前まで無事なことを確認できているが、それ以外のメンバーとははぐれてしまったので本当にどうしているのか判らない。無論、死者は多く出ただろう。成績上位十名の中にも――考えたくはないが――巨人に食われた者がいるかもしれない。事実、エレンとて訓練兵団では五位の成績を残しながらも一度は巨人に食われた。巨人の身体を生成できる特別な能力が無ければ、今頃疫病対策のため死体は火にくべられていたことだろう。
(でもオレは生きてここから出て、巨人を駆逐する方法を手に入れる)
 その作戦についても大雑把にだがエルヴィンから聞かされている。エレンはエルヴィンが考えた方法で近々この牢を出て調査兵団の一員となり、巨人の力を使って父グリシャ・イェーガーが残した秘密を己の生家まで暴きに行くのだ。
(強くなければ生きていけない。生きたいならば戦わなくちゃいけない)
 それこそエレンが前の人生で学んだことだ。生きて大切な人を守り、また泣かせないために、己という存在が侵されないために、強くなって他者と戦わなくてはならない。たとえその『他者』が人類の天敵である巨人だとしても。エレン・イェーガーの自由を妨げるのであれば、何者であってもエレンはそれと戦い、命を奪ってでも勝たなければならないのだ。
 エレンがじっと腹の底にその時のための力を溜めるように沈黙を保っていると、ギィィイイと耳障りな金属の擦れる音が地下牢のある空間に響いた。
 何事かと思って顔を上げれば、背中にユニコーンや薔薇ではなく自由の象徴たる重ね翼を背負った二人の人物が姿を見せる。
「あなた方は……」
「ごめんねエレン、待たせてしまって。でもやっとここから出られそうなんだ」
 そう言ったのは男か女か見分けの付きにくい容姿と声を持つ人物。彼もしくは彼女は見張りの兵士に言ってエレンを牢から出させた後、共に廊下を進みながら自らをハンジ・ゾエと名乗った。調査兵団で分隊長をしているとのことで、エレンはそう言えば壁外調査に出発する兵士達の中にその姿を見たことがあるような……と思った。
 ハンジと共にエレンを迎えに来ていたもう一人はミケ・ザカリアス。こちらも分隊長であり、以下同文。おそらくどちらも古参の兵士の一人なのだろう。
 ミケと呼ばれた男はエレンに視線を向けると、すんと鼻を鳴らして首を傾げた。「変わった匂いがするな」と言われたので、エレンは素直に首肯する。
「香水か?」
「そういったものを身に着けた記憶はありませんが」
「あーでも確かにエレンってなんだか甘い匂いがするよね」
 口を挟んできたのはハンジだ。エレンの体臭は運動して汗でもかかない限り強く香るものではないのだが、ひょっとしたら牢屋に入れられている期間は身体を洗うことができなかったので、匂いが強くなっているのかもしれない。臭くないのはありがたいが、それでも匂いが強くなるのは素直に喜べなかった。
「そんなに匂います?」
「一応ね。ひょっとして巨人化と何か関係が?」
「いえ、ありません。こっちは元からの体質です」
「ふーん、そっかぁ」
 ハンジの返答がいささか残念そうに聞こえるのは何故だろうか。
 気にはなったがあまりその辺のことを深く追及してはいけないような気がして、エレンは話題を逸らすように「今どこへ向かっているんですか?」と尋ねた。
「審議所だよ。これから君の今後についてエラぁい人達が決定を下す」
「ああ、そうですか。でしたら先日エルヴィン団長達から話は伺っています」
「そう。じゃあ私からの説明は不要かな。……まぁ必要だと言われてももう着いちゃったんだけど」
 苦笑して、足を止めたハンジが目前の扉に手をかける。
「君にも色々と複雑な事情はあるようだけれども、それでも私達は君を信じてその力に頼るしかない。勝手だとは解ってる。でも上手くいくことを願っているよ」
「いえ、オレもこの力の必要性は感じていますから……。行ってきます」
 ハンジとミケに小さく笑みを向け、エレンは開かれた扉の向こうへと歩を進める。彼が審議所に入室し、憲兵団の兵士に促されてその中央まで歩く背中を見送った後、ハンジは同伴していたミケを振り返ることなく囁いた。
「不思議だね」
「ハンジ?」
「あの子、エルヴィンとも話をして自分が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされてるって知っているはずなのに」
 眼鏡の奥の双眸をすっと細めながら、エレンに関して詳細を知らされていないハンジはまだ自分と同程度の情報しか持ち合わせていないミケに告げる。
「死にたくないとは言わなかったよ」
 これからこの場でエレンを生かすためにエルヴィンが知恵を絞っていたのは知っているだろう。しかしそれが成功するかどうかはまだ誰にも分からない。
 にもかかわらず、エレンは巨人化の力にのみ注視し、自分の生死そのものに関してはさほど重要視していないような口ぶりだった。
「うちの英雄殿が執心しているのは中々に特別な人物らしい」
「……そのようだな」
 ミケもハンジ以外には聞こえないよう小さな声で返答し、頷く。
 そんな彼らも見守る中で異例の兵法会議が始まった。


 兵法会議はエレン・イェーガーを調査兵団預かりとすることで閉会した。ただし次に行われる壁外調査で何の成果も得られなかった場合、エレンの身柄は再び審議所に戻ることとなるが。
 ともあれ第一の難所は過ぎたということで調査兵団の代表達はほっとしつつエレンを伴って控室へと入る。ここでリヴァイから受けたエレンの傷に応急処置を施し、調査兵団本部へと向かう予定だ。
 部屋に入ったのはエレンの他にエルヴィン、ミケ、ハンジ、そしてリヴァイ。ミケは外の様子に気を配るためか窓際に立ち、エルヴィンがエレンを促してソファに座らせる。
「痛むかい?」
「ええ、まぁ。痛くないと言えば嘘になりますが」
 大丈夫ですよ、これくらい。とエレンは笑みを浮かべてみせた。
 ザックレー総統や有力者達に調査兵団の要望を呑ませるための演技とは言え、リヴァイがエレンに与えた痛みは本物だ。顔の骨が折れたり脳に障害が残るような蹴り方ではなかったが、奥歯は一本飛ばしてしまったし、下手をすると肋骨にはひびが入っているかもしれない。またもし骨に異常はなくとも打撲痕は物凄いことになっているだろう。
 こめかみ、鼻、口から垂れていた血を渡されたハンカチで拭き取りながらエレンは告げる。
「エルヴィン団長の希望通りに話が進んで良かったです。怪我のことは気にしないでください。必要なことでしたし、それにもっと酷い怪我を負ったこともありますから」
 エレンの言葉を聞き、正面に立っていたエルヴィンは「そうか」と表情を和らげた。しかし対照的に、彼の背後――壁に寄りかかって話を聞いていたリヴァイがびくりと肩を揺らす。
 決して小さくなかったその動作にエレンが気付き、「リヴァイ?」と名を呼んだ。
「おい、どうしたんだよ。そんな場所に突っ立って黙り込んでるなんて――……っうお!」
「え、なに。リヴァイご乱心?」
 エレンの怪我の治療のため控えていたはずのハンジが驚愕半分揶揄半分の声を出す。眼鏡越しでその双眸が見つめる先では、先程まで無言を貫いていたはずの兵士長がソファに座るエレンの腹に突撃……もとい抱きついていた。
 年上であり今後上官となるはずのリヴァイを敬称なしで呼ぶエレンの行動にも密かに驚いていたが、それよりもこちらだ。あのリヴァイが自分の半分ほどの年齢しかない子供に抱き着き、縋るようにして腹に顔を押し付けている。一体何事だ、というのはハンジだけでなくこの場にいるリヴァイ以外の大人全員の心情だっただろう。
 一方、大人達が混乱する傍らでエレンは非常に落ち着いていた。
 腹に縋りついてきた大人は、一見して判らないがカタカタと小さく震えていた。エレンはそんなリヴァイの髪を手で梳きながら、酷なことをさせたなぁと反省する。
 リヴァイにとってエレンは自分が想像していた以上に大切な存在であるらしい。しかし今回、必要に迫られたとは言え、リヴァイにはエレンに暴行するという役目が与えられてしまった。――かつて、地下街で暴行の末に命を失ったエレンを、である。
 これはトラウマ確定だろう。暴行されている場面そのものを見られていないとは言っても、その後ぼろぼろになったエレンを看取ったのは今のエレンの年齢よりも幼かったリヴァイだ。あの噎せ返るような甘い血の香りが満ちた室内でエレンはリヴァイに看取られ、そしてその手でナイフを握らせ初めて人を斬らせた。
 暴力という現象そのものも、飛び散った赤も、それと共に漂ってきたであろう甘い香りも、全てリヴァイの嫌な記憶をよみがえらせるスイッチだったに違いない。
 リヴァイの髪を梳いていたエレンは手を離し、代わりに清潔な黒髪へとそっと唇を落とした。指とは違う感触にリヴァイの震えが止まる。
「ごめんな、リヴァイ。オレは大丈夫だから」
「か、ぁさ」
「オレを生かすために@ヌく頑張ってくれたよな、ありがとう」
「……っ」
 言葉は無かったが、リヴァイの腕の力が強くなる。床に両膝をついて必死に抱きついてくる大きな子供を見下ろしてエレンは微笑み、逞しくなったその背をぽんぽんと優しく叩いた。
「えーっと。ごめんエルヴィン、私にはこの状況が良く呑み込めないんだけど」
 リヴァイを知る者にとっては奇妙この上ない抱擁シーンを眺めながら尋ねたのはハンジ。「エレンは聖母か何かなの?」と冗談交じりに重ねて問う。
 が、冗談半分どころか九割五分冗談のそれに対し、エルヴィンは真面目くさった顔で首肯してみせた。
「ある意味ではそうなのかもしれない」
「はあ?」
「エルヴィン?」
 ハンジだけでなく、これにはミケも無言を貫けなかったようで、外を見ていた視線が思わずエルヴィンを向く。しかし当のエルヴィンは抱擁するエレンとリヴァイの二人を一瞥した後、肩を竦めて言った。
「地下街で生まれたリヴァイを十四まで育てたのがエレンなんだそうだ。男であるエレンが処女受胎で腹を痛めてリヴァイを産んだわけではないらしいがね」
「え? いやでもエレンってまだ十五歳で」
「色々あって生まれ直したと聞いている。ちなみに手順を守れば何度でも生まれ直せるらしい。……彼が厳密には死を恐れないのもその所為だよ」
「あー……んー、まぁ納得できるような。うー」
 審議所に入る前後でハンジ自身がエレンに対して抱いた違和感を解消できるような、できないような。なんとも言えない表情でハンジは顎を撫でさする。それを見てエルヴィンは苦笑を浮かべた。
「詳しい話はリヴァイ達から改めて聞けばいい。……ほら、リヴァイ。取込み中に悪いが、先にエレンの怪我をハンジに見させてやってくれ」
 エルヴィンの声に合わせてまずエレンが抱擁を解き、少し遅れてリヴァイも緩慢な動作で立ち上がる。そしてリヴァイと入れ替わるようにハンジがエレンの前に片膝をついた。
「まぁエルヴィンの言うとおり、詳しい話は後で聞かせてね。それじゃあまずは口を開けて。リヴァイが蹴った所為で歯が折れちゃってたよね?」
「はい、お願いします」
 リヴァイと話している時とは打って変わって、エレンはハンジに対してきちんと目上の者への態度を示す。エレンの返答にまたもや肩を揺らした人類最強の男(だったはず)を一瞥したハンジは二人の特殊な関係を慮りつつ、自分の仕事に取り掛かった。が、歯が一本見事に吹っ飛んだはずのエレンの口腔を覗き込んで我が目を疑う。
「歯が生えてる」
「え?」
 ハンジの呟きにエレンも驚き、一度口を閉じて舌でもごもごと口の中を探り出した。そしてややもしないうちにハンジの言葉が事実だと理解し、「本当ですね……」と半笑のような表情を浮かべる。
「怪我が治りやすくなってるみたいです」
「元々そういう体質だった?」
「いいえ、普通でしたよ。永久歯が生え変わるなんて初めての経験です。……なんだか本当に化け物じみてますね」
 審議所で受けた罵りを思い出しつつ己を卑下して眉尻を下げるエレンだったが、その隣にリヴァイがどさりと腰掛けた。エレンが隣に視線を向けると青灰色の瞳がじっと見つめ返してくる。
「リヴァイ?」
「前より死ににくくなってんだったら、化け物だろうが何だろうが構うもんか。それにお前は元々化け物みてぇなもんだろ」
 節くれだった歴戦の兵士の指がトンとエレンの胸を指す。そんなリヴァイの仕草にエレンは一瞬驚いたような顔をし、次いで「そうだな。構うようなことじゃないか」と甘やかな笑みを浮かべた。







2013.09.10 pixivにて初出