【1】
地上で生きられない人間はそのまま地上で命を絶つか、でなければ地下に降りてくる。壁に囲まれた人類生存圏の中央ウォール・シーナの地下街に住む少年は、後者の道を選んだ者達の一人だった。 陽の光が決して差さない地下街の奥の奥。廃屋との区別もつかない娼館の一室で少年は女の言葉に耳を傾ける。 「この子はね、あの人と私を繋げてくれるたった一つの希望なのよ」 薄汚れた小さなこの部屋の主が腕に抱くのは生まれて数日程度の赤ん坊。僅かに生えた髪は黒で、女の赤茶色とは似ても似つかない。きっと相手の男の髪の色なのだろう。 女は愛しげに赤子の頬を撫で、うっそりと笑みを浮かべる。たとえ彼女の想う相手がこの十ヵ月間まったく姿を現していなかったとしても。 「昔ね、学者さん……だったのかしら。とにかく物知りな客がいてね、その人が教えてくれたのよ。『繋がっている』っていう意味の言葉を。『リヴァイ』って言うんですって。だからこの子の名前はリヴァイ。私とあの人の、リヴァイ」 生まれたばかりの子供が愛おしいと女は全身で表現していた。しかしそう語る女は現在、粗末なベッドの上でなんとか起き上がっているという状態であり、赤子を抱く腕は骨に皮が張り付いているだけのもの。この地下の世界で稼げない者に与えられる食料など無く、身籠ったために娼婦としての仕事を失っていた女の栄養状態など火を見るよりも明らかだった。現に女は自分の赤子を抱きしめるだけで、その子に乳を与えることすら満足にできていない。赤子が無事に生まれたことがすでに奇跡だった。 そんな女の部屋にいる幼い少年は彼女の客というわけではなく、住み込みでこのボロ娼館の掃除をして各部屋の住人(娼婦)から賃金をもらう仕事をしている。ただし女が身重になってからは好意――と言うよりも気まぐれと表現した方が適切かもしれない――で無償にて時折簡単な清掃を行ってはいたが。 「ふぅん」 そう答える少年は今だけ掃除のためでなく、もうすぐ死ぬであろうたった二人の親子を看取るつもりでこの部屋を訪れていた。 きっと彼女の想い人であり赤子の父親である男は二度とここを訪れない。女はそれを解っていないのか、はたまた解ろうとしていないのか。前者はただの馬鹿であるし、また後者も馬鹿には違いないだろう。 せっかく生まれてきた赤子だが、母親が死ねば彼女以外に育ててくれる人間もいないため、その先は嫌になるくらいはっきりと見えている。こんな腐った世界で馬鹿な親の元に生まれてきたことがこの赤子の運命を決定づけてしまった。赤子に非はないが、どうしようもないことだ。 少年はそんな赤子に対して「可哀想に」とは思う。しかしながら赤子に何かをしてやるつもりは無い。少年も己を食わせるだけで精一杯だからだ。 どれくらい精一杯かと言えば、少年がこの女を看取ろうと思ったのは彼女に愛情を抱いていたからではなく彼女が死んだ後にその持ち物を売って金にしようと考えているから、というレベルである。心を寄せた男に捨てられ、満足に働くこともできず、現在唯一のよすが≠ナある赤子すらきっと育てられない女ではあるが、それでも彼女自身の身体を含めたこの部屋にある物を売れば少年の何日分かの食費にはなるはずだった。 少年の思惑になど気付く様子もなく、女はやつれた顔で幸せそうに微笑んでいる。それを少年は不思議な心地で眺めた。親に愛された記憶というものを少年は持っておらず、むしろこの地下街に住んでいるのと同じ理由によって気味悪がられていたので、微笑む彼女が赤子に向ける愛情というものを正しく理解することができなかったのだ。 それに愛情を与えられなかった少年はこれからも生きる一方で、実の母親から愛情を与えられても生きる糧を与えられない赤子は死ぬ。つまり、どうせ愛情というものを理解しても、得ても、生きることには何の役にも立たない。 少年がそう結論付けた時、女は赤子の頬を撫でていた手を止め、「そうそう。あなたに頼みがあるの」と告げてベッドの下に手を伸ばした。 厄介事は勘弁願いたいなぁと思う少年の前に女が差し出したのは、この粗末な部屋に似つかわしくないベルベットの箱。女が骨と皮だけの腕で取り出したそれを開けると、中にはガーネットをあしらった首飾りが眠っていた。驚きを隠すことなく少年は視線を箱から女へと向ける。 母親となった女は相変わらず淡く微笑んでいた。しかし青灰色の瞳には強い決意が宿っている。 「これをあなたに託すわ。だからお願い。私の代わりにこの子を……リヴァイを育てて」 はく、と少年は声もなく口を開閉させた。 少年は理解する。どうやら自分は大変な勘違いをしていたらしい。この女は決して馬鹿ではなかった。自分が男に捨てられたことも、産んだ子供を育ててやれないことも、彼女はきちんと理解していたのだ。それもきっと、この赤子が生まれる前から。だから女は何らかの理由で手に入れた首飾りを換金するでもなくずっと大事に仕舞っていて、今初めて少年に託したのだろう。 「これじゃあ弱って働けない私と赤ちゃんのリヴァイが生きていくには不十分。でもね、あなたにリヴァイの世話をお願いするくらいはできるはずよ。……さあ、受け取って。この首飾りと、リヴァイの命を」 女はベルベットの箱を差し出す。室内の照明を受けて赤い宝石がきらりと輝いた。 宝飾品の専門家ではないため正確なことは言えないが、それでもおそらくこの首飾りと彼女が死んだ後に身ぐるみを全て剥いだ分を合わせたならば、赤子が自活できるようになるまで少年が世話をするには十分な金額となるだろう。そして女もそれを了承済みであると、理性の宿った青灰色を見て分かった。 ならば仕方ない、と少年は思う。 この地下世界では死者が残したものを生者が利用することを悪だと少年は考えていない。地上の常識がどうであれ、郷に入れば郷に従え。それが生きる方法だ。ゆえに女と赤子が死者になったその時には、彼女らが残したものを生者である少年が十分に活用する気だった。ただし未だ生者である女と赤子から何かを奪うつもりはない。それは人間として超えてはいけないラインだと、少年の中では明確に区別されていた。 だから、まだ生者である女に生きている赤子と首飾りを託されようとしている少年は仕方がないと思うのだ。 これは掃除の仕事と同じ。依頼を受け、その報酬として金を受け取る。 依頼内容は赤子の世話であり、報酬は目の前に差し出された首飾りから赤子の世話に必要な分を引いた金額。やつれた女とは違ってしっかり働ける少年はそっと金色の双眸を細め、ベルベットの箱を受け取った。 「いいよ。その仕事、引き受ける」 時には愛情が誰かを生かすことを知りながら。 指の腹にナイフを滑らせて浅い傷をつける。そうして滲み出た赤が滴る前に、少年の指先は彼よりも更に幼い子供の唇に吸い付かれた。 まるで母の乳を吸うようにひたすら指先を吸う赤子を眺めながら、少年は金色の双眸と口元を僅かに緩ませる。 この赤子に母はいない。赤茶色の髪と青灰色の目をした彼女は少年に赤子を託した翌日、眠るように死んでしまった。少年は彼女から受け取った首飾りと彼女の部屋にあった物を全て売り払って得た分を合わせ、それと共に赤子を引き取って二人での生活をこうして送っている。 なお、当初は彼女の死体ですら金に換えるつもりでいたのだが、人の命を生かす愛情というものに触れた少年はそれを思いとどまり、彼女の死体を丁寧に埋葬した。自分の取り分を減らす結果となったが、そうしたのはたぶん、己よりも子供を生かすことを選んだ母親に対する敬意だとかそういうものからだったのだろう。 母を失い、まだ歯すら生えていない赤子には専用の食べ物が必要だった。ゆえに少年が赤子に提供したのは己の乳――など出るはずがないので、その代わりとなるもの。今も赤子が懸命に吸い付いている血液だった。 リヴァイと名付けられた赤子の口の端から零れ落ちた赤い雫を反対の指で拭い取り、少年は口に含む。本来ならば鉄錆の匂いと塩の味がするはずのそれは、しかし全くその匂いも味も伝えてこない。それどころか少年が口に含んだ己の血は地上に咲く花の蜜のように甘い味と香りを持ち合わせていた。 母の甘い乳の代わりにリヴァイは少年の甘い血を啜る。そもそも母乳が母親の血液からできていることもあって栄養価には問題ないらしく、母親がその腕に抱いていた時よりも今のリヴァイの方がふくよかで毛艶も良い。 「ぁ……ぅ、ぃ」 指先の傷から血が出なくなってしまった途端、リヴァイはまだ満腹でないことを訴えるように母譲りの青灰色の瞳を少年に向ける。少年はそれに「はいはい」と返し、再び新しい傷を――今度はもう少し深く――つけた。 溢れ出る赤にリヴァイは目を輝かせて食らいつく。小さな命は口の周りを赤く染めて、本能のまま生きることに懸命だ。 この甘い甘い血液は、かつて気味が悪いと実の親にすら忌み嫌われ少年をこの地下街に追いやった原因でもある。 少年は普通の家庭で普通の子供として生まれた。しかし少年の普通ではない部分に両親は気付いてしまった。自分達の子供は血と言わず、唾液と言わず、涙と言わず、汗と言わず、全ての体液が花の蜜のように甘いことを。 当時はまだ両手の指の本数にすら追いついていない年齢だったが、甘い体液とは別の理由≠ナ年齢に不相応な思考を獲得していた少年は母親の「気持ち悪い」という言葉も、父親の蔑むような目の意味もしっかりと理解していた。ゆえに手を引かれて地下街の入り口に連れて来られた時も彼らが偽りの笑みを浮かべて「私達も後で行くから、先に入っていなさい」と告げた言葉に従った。当然、両親が言葉通りに後から来るはずもなく、少年は一人で地下街の奥へと身を沈めることとなった。 死にそうな目にはいくらでも遭遇した。それでも少年は生きている。そして今は一つの命を育てている。 「けぷっ」 ぼんやりと少年が過去を思い出している間に赤子の腹も満たされたらしい。満足そうな顔で小さなげっぷを一つした赤子はゆるゆると青灰色の瞳を瞼の裏に隠した。食べたら寝る。これが赤子の仕事だ。 少年は早々に眠りに落ちた赤子の身体を抱き上げて、その子のために用意した小さなベッドへと運ぶ。ベッドとは言っても自分が使っていた粗末な部屋の隅に設けた寝床の上に大きめの籠を置き、その中に毛布を敷き詰めただけの代物ではあるが。そして少年もまた籠に占領されていない範囲に身体を滑り込ませて目を閉じる。 家主の金眼が瞼の奥に隠れた後、部屋にはかすかな花の蜜の匂いが漂っていた。 【2】 「かあさん、腹減った」 「食べ物ならそこにあるだろう?」 「かあさんのが良い」 「……しょうがないな」 そう言って苦笑と共に差し出された指へ、リヴァイはぱくりと食いついた。あらかじめナイフで傷をつけた指からはだらだらと真っ赤な血が溢れ出している。それを一滴たりとも零さないよう慎重にリヴァイは啜る。 母と死別して他人に育てられたリヴァイは今年で十歳を迎えた。陽の光が当たらない地下街である所為か、それとも血筋なのか、年齢の割に小さな身体については少しばかり気にかかるが、自分を育ててくれる『かあさん』に縋りつくにはちょうど良いサイズだったので文句を言うことは無い。 そんなリヴァイの『かあさん』は呼び名に反してどこから見ても少年の姿――否、少年の姿をようよう脱した青年の姿をしていた。年の頃は十代後半。少々身長の低いリヴァイと並べてみても親子になど見えるはずもなく、やや年の離れた兄弟と言ったところだ。しかし物心ついた頃から母の代わりに自分を育ててくれるこの人をリヴァイは母と呼んでいた。……青年の名をリヴァイが未だ知らないというのがその最大の理由であるのだが。 リヴァイの『かあさん』の血は甘い。当然のことながら他人のものなど口にしたことがないリヴァイにとって血液というものは甘い味と香りを持ち、己を育ててくれるものである。その甘さは極上で、歯が生えて普通の食べ物が食べられるようになってからもずっと摂取し続けていた。 ちゅるちゅると血を啜りながら、出が悪くなれば傷口に歯を立てて更に啜る。「歯が生えた途端にこれか。余計なこと覚えやがって」と『かあさん』である青年――当時は少年――が呟いたのはもうずっと前の話であり、リヴァイも幼すぎて正確には覚えていない。しかしそういった台詞を言われつつも十年近く叱られていないということは、青年がリヴァイのこの行為を許しているという証明である。よってやめるはずがない。 ただし傷はそう深いものではなく、しばらくして血は止まった。それを確認するとリヴァイは青年の指先から口を離し、最後にもう一舐めして綺麗に拭う。 「かあさん、もっと」 「これから晩御飯の支度だから傷つくんのは嫌だ」 「じゃあこっちで我慢してやる」 金色の目が眇められ拒否を示したため、リヴァイは伸びあがって青年の頬に手を伸ばす。両手でしっかり固定した後、足らない身長を補うため爪先立ちになりながら、リヴァイは青年の口を己の口で覆った。 唇を触れ合せるだけのキスではない。相手の口に舌を突っ込んでぐちゅぐちゅと唾液腺を刺激する。溢れ出る唾液を舌でかき集めて口内に取り込み、血よりは薄いがそれでも十分甘い蜜をリヴァイはごくりと飲み込んだ。 「ふ、ぁ……」 「かあさん、顔真っ赤だな」 「うるせー」 羞恥ではないものによって涙に潤んだ金眼。それで睨まれても、怖くもなんともない。むしろ目尻に溜まった甘い蜜の存在にリヴァイの喉がぐるると獣のように鳴る。 「とりあえずこれで終わるから」 囁くように告げてリヴァイは己が望むまま、青年の目尻に舌を這わせた。唾液と同じ程度の甘さを備えた涙を左右共に舐めとり、リヴァイは青灰色の双眸を満足げに細める。 「ごちそうさま」 「……夕飯もちゃんと食えよ」 「もちろん」 そう答えて、食事を作るためこちらに背を向けた青年を眺めやった。 二人が住んでいるのはボロ娼館のボロ部屋で、リヴァイはここの二階に住んでいた女から生まれたらしい。実の母親の墓はこの建物の裏手にあり、幼少期から墓参りを日課としている。十歳でも理解できるこんなロクでもない環境でよくぞ死人に墓なんて作ったもんだとは思ったが、それを育ての親の青年に尋ねれば、彼女は特別だという言葉が返ってきた。ついでに「お前が生きているのはあの人の愛情のおかげだからな」とも付け足して。 青年がこの地下街に適した生き方――哀悼よりも何よりも、死者の持ち物は生者が奪って生きる糧とする――をしていることは、すでに知っている。ゆえに本来ならばリヴァイの母からもそれを看取ったという青年が全て奪ってしまうべきだった。しかし実際、そうはなっていない。 まさかと思って「お前、俺の母親に惚れてたのか。だからあんな丁寧な扱いなのか」と尋ねたこともあったが、「はあ?」と盛大に不機嫌を買ってしまったので再度尋ねることはしていない。だがおそらく惚れていたわけではないのだろうと、その時の表情や時折ぽろぽろ零す過去の話からリヴァイは推測している。 では何故、青年は惚れたわけでもない女の子供を世話しているのだろうか。これについてはまだリヴァイは青年に問えていない。この地下街で百パーセント善意による行為などあるはずがないので、おそらくは青年に何らかの企みか、もしくはすでに支払われた対価があるのだろう。 後者ならばリヴァイの実の母親が払ったのかもしれない。だが前者ならば――……。 (いつか俺はどこかに売られんのか?) 単純に考えるならばそれだ。 必要とされるのがただの労働力であれ、内臓であれ、はたまたそれ以外のものであれ、リヴァイという個体を商品にするのが最も解りやすい利益の上げ方だ。 もしそうであるならば、この身をまるごと他人のものにされる事態だけは勘弁してほしいと思う。ここまで育ててもらったリヴァイにとって今後青年の財産を増やす行いができるならば、それを悪いことだとは思わない。ただし青年から離れてしまうのは嫌なのだ。どこに行ったって、いつでもここ≠ノ帰って来たい。金の目をした青年がいる、このボロ部屋に。かすかに青年の体臭が――甘い花の蜜の香りがするこの部屋に。 リヴァイはぼふんっと毛布を寄せ集めた寝床に横たわり、こちらに背を向けたまま夕餉の支度をする青年を眺め続ける。地下街から出たことがないため時折青年がぼやく「もう何年も太陽の匂いってのを嗅いでねえなぁ」という言葉を実感したことは無いが、青年と共有している毛布からは太陽の匂いとやらの代わりに甘い匂いがした。鼻を押し付けて、すん、と空気を吸い込めば、感じ取れる甘さがほんの少し強くなる。 太陽の匂いとはこの甘い香りよりも素晴らしいものなのだろうか。 地下街の奥の奥に位置するここで生まれたリヴァイは未だに地上の世界というものを知らない。太陽の下で開く花というのも実物を見たことはなく、ただ青年や時折顔を合わせる娼婦らから、青年の体臭が花の蜜の香りだと聞いているだけだった。ちなみに青年の体臭が甘いのは同じ館に住む娼婦達も知るところだが、きっと彼女らはそれを香水か何かだと思っているに違いない。体臭が香水でないことや青年の体液すら甘いことは青年とリヴァイしか知らず、また他者に知られれば厄介事に巻き込まれるということを二人とも理解しているからだ。 黄金色の美しい瞳は一見の価値があったが、容姿が優れた者など探せばいくらでもいる。ただし蜜の味がするというのはダメだ。この地下街でも聞いたことのない特性はすぐに知れ渡り、商品として家畜以下の扱いを受けるに決まっている。 (かあさんの役に立って、かあさんから離れずに済む方法は……喧嘩の腕でも磨くか?) 用心棒として雇ってもらえるくらい強くなればその金を青年に渡すことができるし、また青年を外敵から守ることもできる。一石二鳥だとリヴァイはその案に我ながら感心した。 強くなろう。リヴァイはそう決意する。 誰よりも強くなって、何人たりともこのポジションを侵させない。 目を閉じ、甘い香りを胸いっぱいに吸い込んでリヴァイは心中で呟いた。 (この人の隣は俺のものだ) 十四歳になったリヴァイは十歳の時に決意した通り、力をつけて他者を如何様にも退けられる強者の側に立っていた。勿論、上には上がいるが、そういった者達は滅多に手出ししてこないので気にする程のことではない。 ただし身体的には相変わらず小柄な部類に入っており、すでに成人して成長が止まっているはずの『かあさん』の背を未だに抜けていなかった。男の成長期はこれからだ、とは思うものの、それが十歳の時の決意と同じく現実になるかどうかは誰にも判らないことである。 ともあれ地下街という世界においては立派に成長したと言えるだろう。 これで『かあさん』を守れる。 当時、突然身体を鍛え始めたリヴァイに育ての親である青年は驚いていたが、ややもしないうちに協力の立場をとってくれるようになった。逃げるならまだしも相手に立ち向かう格闘術等は修めていないとのことで、青年からの支援は喧嘩の方法の伝授ではなく、もっぱら食事に関することだったけれど。 しかしそんな青年が一つだけ形に残る物を与えてくれたことがある。基本的に拳と足技で戦う――特に身長的な問題で発生するリーチの差を補うために足技が多い――リヴァイであるが、それだけでは対処しきれない事態になった場合に備えてということで、青年は大ぶりのナイフを調達してきたのだ。 手や足よりもひと一人の命を簡単に奪えてしまうそれを初めて与えられた時、リヴァイは顔に出さないながらも大層驚いていた。何故ならリヴァイの育ての親は生者から奪うことを良しとしていない。ゆえにその人が持つ最大の価値のもの――つまり『命』を呆気なく奪える道具を、まさか青年が用意してくるとは思ってもみなかったのだ。 またリヴァイ自身もそんな青年に育てられたため、生きている人間から何かを奪うという行為を進んですることは無い(ただし相手が勝手に献上≠オてくる物は別だ)。もし『かあさん』の隣を穢す輩が現れたならその時はどう対処するか分からないが、それでも生きている人間の命を奪った際に発生するリスクの存在には気付いていたため、常に足と拳のみを使って致命傷を負わせないようにだけはしていた。おかげで良く研がれたナイフは未だに日の目を見ていない。……ひょっとして『かあさん』はそれを見越して容易にナイフを与えたのだろうか。 「かあさん、ただいま」 最近始めた用心棒もどきの仕事を終えてリヴァイは自宅に帰りつく。 十四年間住んでいる娼館は老朽化がますます進み、外見は倒壊一歩手前と言ったところだ。ここが地下街ではなく地上であったなら、雨風が侵入し放題でとても住んでいられるものではなかっただろう。 だがその一方で部屋の中は適度に清潔さが保たれている。『かあさん』の仕事が元々掃除夫だったこともあり、掃除は苦手ではなかったようだし、また赤子だったリヴァイを引き取ったのをきっかけとして更に気を使うようになったからだった。おかげでリヴァイは地下街の住人であるわりにかなりの綺麗好きへと育っている。 そんな青年とリヴァイの二人が住む部屋は年月により多少壁紙が黄ばんでいたりフローリングに隠しきれない傷が入っていたりするものの、地下街にありながらそこそこ明るい色調の綺麗な場所だったのだが……。帰宅したリヴァイが扉を開けて中を見た時、そこには地獄が広がっていた。 「……ぁ」 ぶわりと鼻腔に届く濃厚な花の蜜の香り。リヴァイには慣れ親しんだそれが床一面に広がり、壁にも派手に飛び散っている。 赤黒い液体の中央に身体を横たえているのは、同じ液体を腹から大量に零している青年。しかも一番大きな怪我は腹部だが、腕や足にも切り付けられた跡や殴られた跡が広がっていた。 顔も大きく腫れ上がり、金色の双眸がきちんと見えない。右目だけが僅かに開いて天井に向けられているのみだ。 ボロいながらも綺麗に保たれていたはずの部屋は酷い有様だった。今夜の夕食になるはずだったものは鍋ごと床に転がっているし、数少ない家具類も滅茶苦茶に引き倒されていた。 押し入り強盗でないのは床に散らばった硬貨が証明している。金品目的ならそういうものも奪われていたはずだ。と言うよりも、そもそもこんなボロボロの娼館の一室だけを狙って強盗がやって来るはずなどない。 「か、ぁさ……」 折れそうになる膝を叱咤してリヴァイはふらふらと育ての親に歩み寄る。リヴァイの声に反応して青年の金色の目が少しだけ動いた。 「かあ、さ、ん」 「……ぃ、ぁ、ぃ」 リヴァイ、と青年は名を呼んだのだろう。しかし口を満足に開くこともできずに不明瞭な音だけが零れ落ちる。 「なぜ、誰が……こんな」 青年の傍らに膝をつき、リヴァイは掠れた声を出した。掠れた声を出しながら、何故と問いながら、しかし混乱する頭の片隅で僅かに残った冷静な部分が一つの答えを弾き出す。 金品目的の強盗ではなく、またこの一室のみが襲われたならば、狙いはこの部屋に住む人間――リヴァイか青年のどちらかでしかない。だが青年は別段有名でもないし、リヴァイと暮らしてきた十四年間でこのように襲撃されたことはなかった。対してリヴァイはここ最近有名になってきており、用心棒として働くことで誰かの恨みを買っていた可能性もある。 「はっ……」 単純な答えに反吐が出そうだった。 正しいと信じて頑張ってきた結果がこれだ。大切な人を守りたくて、その隣に居続けたくて、選び取った未来がこんな有様だなんて。 「はははっ」 甘い香りがする血だまりに膝をついてリヴァイは乾いた笑いを零す。 金の目が美しい容姿でもなく、甘い香りがするという特異性でもなく、有名になったリヴァイと暮していたというだけでこの人は害されてしまった。 「ははっ」 ぽたり、と血だまりに透明な雫が落ちて赤色と混ざり合う。その一滴を皮切りに雫はぽたぽたぼたぼたと際限無くリヴァイの両目から溢れ出し、頬を伝って青年の血の中に落ちていった。 「かあさん……かあさん、いやだ。おれを、ひとりにするな」 青年へと覆い被さるようにリヴァイは血だまりに両手をついて顔を覗き込む。血の中に落ちていた雫は青年の頬へと着地点を変え、腫れ上がった顔を濡らしていく。 「お前がいなけりゃ、おれは生きていけない」 虫の息でまだ生きているのがおかしいとしか言えない『かあさん』はもう間もなく息絶えるだろう。リヴァイを一人、この地下街に残して。 それが嫌だとリヴァイは繰り返す。お前がいなくては生きていけないのだと。 「り、ぁ……」 「かあ、さん……?」 ぼろぼろと泣いて鼻水すら垂れ流すリヴァイに声が届いた。それを欠片も聞き逃してなるものかとリヴァイは耳を澄ませる。 リヴァイの育ての親は僅かに微笑んだようだった。そして見られたものではない酷い顔で聞き取りづらい声を出す。 「り、ぁ、ぃ……。おれ、しんぞ……えぐ、て」 ――リヴァイ、オレの心臓を抉って。 「は? かあさん……何を、言って」 「そ、れ……おんな、ひと。のま…ぇ、て」 ――それを女の人に飲ませて。 「おい、かあさん!」 さすがにこれは無視できない。リヴァイが『かあさん』の言葉を聞き違えるはずもなく、驚きと困惑で思わず呼びかけが叫びに近くなる。 しかし青年は口を開くことを止めない。 「、ぉ、ぃた、ら」 ――そしたら。 「かあさん、待って。待ってくれかあさん」 「また、あ、え……ぁ、ら」 ――また、会えるから。 「え……?」 驚きに目を瞠るリヴァイの視線の先でついに青年は口を閉じた。僅かに開かれていた右目も瞼の裏に隠され、元々あまり動いていなかった胸の上下運動が完全に停止する。 「……かあさん?」 傷だらけで苦しいはずなのに、リヴァイに呼ばれた青年の死に顔は実に穏やかなものだった。 その晩、リヴァイは初めて青年からもらったナイフで他人の皮膚を裂いた。 世界で一番大切だった人の胸に刃を突き立て、託された言葉通りにもう動かない心臓を抉り出す。 抉り出した心臓は、それを初めてみるリヴァイでさえ奇妙としか思えない形態――握り拳と同じ大きさの花の蕾のような形をしていた。肉の塊ではなく、これでは完全に植物だ。 リヴァイがその蕾を手にして驚いたまま固まっていると、蕾は息つく暇もなく次の変化へと移った。 固く閉じていたそれがふわりと緩み、赤い血に濡れながらも真っ白な花を咲かせる。幾重にも重なった花びらの中央は黄色と言うより黄金に近く、青年の瞳を連想させる。 開き切った花は数秒だけリヴァイにその姿を見せつけると、今度ははらはらと花びらを散らし始めた。慌てるリヴァイなど知ったことではないという風に、完全に花びらを散らせた花はリヴァイの手のひらに一つだけ塊を残す。 「たね、か?」 濃い金色の輝きは植物に似つかわしくない色だが、リヴァイにはそれが種子に見えた。花の大きさの割には小さく、直径一センチくらいの球状で、表面がつるりとした種子。 青年が言うには、これを女に飲ませればいいらしい。そうすればまた会える。しかし一体どこのどんな女に飲ませればいいのだろう。 「わかんねぇよ、かあさん……」 金色の種子を握り締めてリヴァイは胸を切り裂いた青年の上に倒れ込む。冷たくなった血がべちゃりと頬に付いたが、それはやはりとても甘い匂いを放っていた。 舌を伸ばして赤い液体を舐め取る。そのままリヴァイは目を閉じて眠りについた。 初めてナイフを使った相手は己を育ててくれた世界で一番大切な人。 その次が必死になって捜し出したクズ野郎共――大切な人を害した者達。ひょっとすると関係のない人間も交じっていたかもしれなが、リヴァイにその分別をつけることはできなかった。 次々と人間を刺して、切り裂いて、命を奪って。その果てに生み出された巨大な血だまりの中でリヴァイは一つの事実を知った。 「まっず……。しかも生臭ぇ」 血液とはとても不味くて、食えたものではないことを。 顔についた他人の血を拭ってリヴァイは眉をひそめる。誤って少しばかり口に入ってしまったそれはリヴァイを育ててくれた青年の血と似ても似つかない。なんて不味く、汚いのだろうと感じる。不快感を隠すことなく唾を吐き出せば、僅かに赤が混じったそれが床の血だまりに落ちて同化した。 「チッ」 舌打ちを一つしてリヴァイは踵を返す。 ズボンのポケットの中には青年の胸から取り出した金色の種子が一つ。青年は女に飲ませろと言っていたが、その辺の娼婦に飲ませるのは何となく嫌な気がして、リヴァイはこの数日間、青年の言葉を実行に移せないままでいた。 復讐は果たした。虚しいだけで得られるものなど何もないが、リヴァイの大切な人を害した報いは受けさせた。だから次はこの種子をどうにかしなくてはならない。たとえ戯れてあったとしても、もう一度青年に会いたいリヴァイはその言葉に従うしかないのだから。 「……外に出てみるか」 地下街よりも地上の方がまだこの種子を飲むに相応しい質≠フ良い女がいるはずだ。 初めて目にした地上の世界は残念ながら曇っていて、リヴァイが青空というものを見ることは叶わなかった。空気はキンと澄んだ音がしそうなくらいに冷えており、街を歩く誰も彼もが厚手のコートを身にまとっている。 その服装や持ち物を見て、リヴァイはやはり地下街よりも地上の人間を選んだ方が良さそうだと感じた。地上の人間達の方が断然清潔にしているし、食べ物や衣類に困っていなさそうだったからだ。 リヴァイは地上をふらふらと彷徨い歩きながらポケットの中の種子を飲み込ませるのに相応しい人物を探す。 しばらく歩いていると、前方で一軒家のドアが開いた。そこから出て来たのは男女の二人組。年は二十代から三十代といったところだろう。男の方は眼鏡をして、重そうな鞄を下げている。女は濃い茶色の髪を耳の下でひとまとめにして、別の荷物を持っていた。 一瞬ただの旅行者かとも思ったが、玄関扉の影に隠れていたもう一人の人物――おそらく家主だろう――が男のことを「先生」と呼んだり、身体の調子がどうこうと話しているのが聞こえたので、リヴァイは認識を改める。どうやら男の方は医者らしい。女はそれに付き添う看護婦だろう。 「医者、か」 呟くリヴァイの視線の先で、家主に腕を引かれた男が再び屋内に入っていくのが見えた。女の方は苦笑してそれを見送っている。「ここで待ってるから」と彼女が告げると、男が「すまないカルラ! すぐ戻る!」と叫ぶのが聞こえた。そしてパタンと音を立てて閉じるドア。 リヴァイはその隙を見逃さない。鍛え抜かれた身体で素早くカルラと呼ばれた女性に向かって走り出し、彼女が気付く前に当て身をくらわせる。そのまま気絶させ、倒れ込む女を抱きとめて即座にポケットの中のものを口に突っ込んだ。 金色の小さな種子を口内に含ませた後は鼻と口を押えて息をできなくさせる。すると本能的に女の喉が動いて金色の種子はその腹の中へと落ちていった。 「……これで俺はまたお前に会えるんだよな」 しっかりと種子が飲み込まれたことを確認したリヴァイは女を丁寧な動作で家の壁に寄りかからせ、この場から姿を消す。 だがリヴァイの行為には一つの誤算があった。この医者夫婦が王都の住人ではなく、ウォール・シーナの向こう側の住人であったのだ。 おかげで壁の関所を越える許可を持たないリヴァイは彼らを追いかけることができず、その後何年も『かあさん』を見失うこととなる。 【3】 「その辺の娼婦にでも飲ませておけば生まれた時から傍に居られたのに……。ああでも、ちゃんと人を選んでくれたおかげで今のオレの安定した生活があると言えなくもないのか」 「エレン? 何か言った?」 「ううん。なんでもねーよ」 地下街を抱くウォール・シーナから遠く離れたウォール・マリアの南端――シガンシナ区。そこに住まうエレン・イェーガーは青空から視線を逸らし、金色の目に血の繋がらない家族を映して首を横に振った。 「さっさと薪集めに行こうぜ」 「そう言いながらエレンはいつも目を離した隙にサボる」 「まぁいいからいいから!」 図星を突かれたエレンは苦笑いをしながら黒髪黒目の少女の背を押して歩き始める。 少女の名はミカサ・アッカーマン。両親が人攫いに襲われて彼女だけが生き残ったという経緯を持つ。年齢の割に物静かな佇まいや笑顔の少ない表情はその経験があるからだろう。 両親を殺されて自身は売り払われそうになっていたミカサを助けたのは、当時まだたったの九歳だったエレンだ。エレンはミカサが囚われている小屋へと単身乗り込み、大人二人を殺害し、また同い年のミカサにも殺人を教唆した。 生きている者から命を奪うことは決して良いことではない。それはエレンも解っているし、あの場所≠ノいた頃でさえ生者から何かを奪うことは無かった。 しかしエレンはあの場所≠ナ最期に気付いたのだ。たとえ生きているものが相手であっても奪わなければならない時があることを。かつてのエレンはそれを解っていなかったからこそ奪われたものや泣かせてしまった人がいる。――ならば今度は剣を取ろう。刃を振りかざそう。己を害そうとする者から己の大切なものを奪われないために。 それがたとえ、陽の光が燦々と降り注ぐこの地上の世界でのことであっても。 「お前はまだあの場所にいんのかな、それとも……」 「エレン?」 「だから何でもねえって!」 ニカッと白い歯を見せて笑い、エレンはぐいぐいとミカサの背を押して歩く。脳裏に青灰色の目をした子供を思い浮かべながら。 エレンは生まれてからこの十年間、それなりに穏やかで満たされた生活を送ってきた。あの場所≠ナ生きていた頃よりも笑顔を浮かべる回数は格段に多いだろう。足らない人はいるが、それなりに幸せだったのだ。 しかしその数日後、エレンは再び大切なものを奪われた。 巨人という人類の天敵によって。 人類最強の兵士、リヴァイ。 その名が有名になり、己の耳に届いた時、訓練兵になったばかりのエレンはただ名前が同じだけで自分が知る人物とは別人だろうと思った。エレンの知るリヴァイは小柄で甘ったれで、地下街ではそこそこ有名なゴロツキに成長したが決して兵士になりたがるような人物ではない。 エレンは――今生で親友となったアルミンが話してくれた壁の外の世界への憧れも理由の一つだが――大切なものを奪った巨人を殺し尽くすために兵士を目指している。しかしあの青灰色の瞳をしたリヴァイはどうか。内地の地下街に住んでいるリヴァイが大切なものを巨人に奪われたとは考えづらい。つまり彼個人としては巨人に恨みなどあるはずがないのだ。 ゆえに人類最強を冠するリヴァイと地下街のリヴァイは別の人間。 リヴァイという名の最強の兵士には調査兵を目指す者として強く憧れつつも、その想いは地下街のリヴァイへと向けるものとは一片たりとも重ならなかった。 しかしそれは『リヴァイ兵士長』という人物の名を知ったばかりの頃の話であり、訓練兵団での生活にもすっかり順応したエレンは、ある時、壁外調査に出発する調査兵団の行進の中からその人物を見つけてしまった。 父親譲りの黒髪と、母親譲りの青灰色の瞳。相変わらず小柄で、しかしそうとは感じさせない威圧感を放つ人物。その顔を見てエレンは人ごみの中でこっそりと目を瞠る。 リヴァイ兵士長はあのリヴァイだった。同名ではなく、同一人物。 どうしてリヴァイが地下街から出てきたのか今のエレンには分からない。元々地下街にも大した愛着は無く、ちょっとしたきっかけで地上に出ただけなのかも知れない。――実のところリヴァイの愛着≠フ拠り所とは『かあさん』であるエレンだったのだが、当の本人はそこまで思考が至らず、ぼんやりと考えながら調査兵団の行進を見送った。 以降、エレンは調査兵団の出撃のたびに可能な限りその姿を見送るようになった。理由は今生のエレン・イェーガーとしての憧れが半分、彼を十四歳まで育てた者としての親心がもう半分といったところだろう。ちなみに、こちらが人ごみに紛れているのとあちらが群衆に対して無関心――むしろ周りに集まる人ごみにうんざりしているように見える――所為でリヴァイがエレンの存在に気付くことはない。 訓練兵団の全課程を修了してあとは解散式と配属先の決定だけという頃になってもエレンのその習慣は続いており、その日もエレンはローゼの壁の上で砲台の整備に当たる前に、朝から出発する調査兵団を見送った。 だがその日は今までと違い、超大型巨人の再来という五年前の悪夢がよみがえる日となった。 あれから十五年……否、十六年が経っている。地下街から出て地上に居場所を見つけた彼は、それでもまだ自分に会いたいと思ってくれているだろうか。 もし会いたいと思ってくれているなら会いに行こう。けれどそうでないならば、エレンはただの一般兵として過ごすつもりでいる。年齢も容姿も変わってしまった今のエレンがかつての自分と重なる要素は金色の目と甘い体液と記憶だけであり、そんな状態ですれ違うことがあってもきっとリヴァイは気付かない。一兵卒が兵士長と関わりを持つ時間などあったとしても一瞬だ。それこそエレンから動かない限り、言葉を交わすことすら難しいだろう。 そもそもエレンがリヴァイの世話をするのは彼が自活できるようになるまでという契約だった。ゆえにエレンがとっくの昔に成人した彼を構う権利も理由もない。十四年も一緒にいた所為で情が湧いてしまったのは事実だが、向こうが望まないのならこのまま知らぬふりをするというのが曲がりなりにも育ての親だった自分の務めだろうとエレンは思っていた。 ……ので、これは誤算過ぎる。 ウォール・ローゼの南端、トロスト区。その壁に開けられた穴を塞ぐため、エレンは大岩を運ぶ役目を全うした。人間の力では到底運べないそれをどのような方法で成し遂げたのかと言えば、巨人になって、としか言い様がない。 元々血液をはじめとする体液が甘いことや死んでも種となって生を繰り返せるということ自体人間離れしていたが、エレンもまさか今更自分の特異性がもう一つ追加されるとは思ってもみなかった。 何の因果か今のエレンは人類の天敵であるはずの巨人になることができる。その力でもって大岩を運び、穴を塞いで、人類初の巨人からの防衛を成し遂げたのである。 岩を運び終えたエレンは扉の前で力尽き、アルミンの手により巨人の身体から引き剥がしてもらった。手足に力が入らず、自分よりも身長の低いアルミンに全体重を預けてしまう。 その足元ではエレンという本体を失った巨人の身体が大量の蒸気を上げて消滅し始めていた。熱い蒸気はかすかに甘い花の蜜の香りがして、それを感じ取ったアルミンが「やっぱりエレンが作った身体なんだね」と呟き、立体機動で駆けつけてきたミカサと共に何とも言えない顔をする。 昔から一緒にいる所為でアルミンもミカサもエレンの体臭が甘いことを知っている。さすがに血や涙を舐められたことは無いので、彼らもエレンの体液が全て甘いことは知る由もなかったが。 そんな甘い香りがする蒸気の中で三人に大きな影が差した。トロスト区に侵入後、まだ討たれていなかった巨人だ。動けないエレンとそれを放っておけないアルミン達を狙って巨大な手がこちらに伸びてくる。 しかしもう駄目かと思ったその瞬間、巨体は何者かによって項を削がれ、エレン達を覆う蒸気の一部となった。三人が見上げた先で小柄な人影がこちらを振り返る。 三白眼の双眸がすっと細められ、壁外にいるはずのその人物は「なつかしい匂いだ」と嬉しそうに呟いた。 「十六年待ったぞ」 青灰色の瞳が迷うことなくエレンの金の双眸を射る。 「やっと会えたな、かあさん」 【おまけ】 (ハンジ視点でリヴァエレ再会直前) リヴァイ兵士長は甘い香りのものによく反応する――というのは、彼に近しい人々にとって比較的有名な話であった。 貴族の女達がつけるキツい香水等ではなく、ふとした瞬間に香る花だとか、どこからともなくふわりと漂ってくる菓子の匂いだとか。そういったものにリヴァイは反応を示した。 とは言っても、普段のしかめっ面が周囲を探ろうと僅かに崩れる程度の、つまりほとんどの人が気付けない変化であったが。 そしてリヴァイは匂いの元を見つけると、落胆したように中断していた作業へと戻るのだ。 顔や地位に似合わないそれに対し、彼をよく知る人間の一人であるハンジ・ゾエは大いに興味をそそられた。 最初のうちは単に甘いものが好きなのかと思って、面白い反応を見学させてもらうついでに菓子の差し入れをしてみた。リヴァイは不審そうな表情を浮かべつつも受け取り、甘い匂いを放つクッキーを口に入れる。しかし彼はクッキーを咀嚼して飲み込んだものの、決して嬉しそうな顔はしなかった。ハンジに″キし入れをもらって気に食わないのではない。菓子そのものに、彼の真に求めるものと差異があったからだった。 一体リヴァイは何を求めているのだろう。 エルヴィンにスカウトされて入団した当時は酷く荒れていたが――たとえば彼が表情を変えずに削ぐのは巨人ではなく人だった――、それも年月と共に落ち着いて、今や立派な兵士長様だ。しかし彼の中には今もなお、昔から変わらず求めてやまないものがある。 いつだって甘い香りに敏感で、何をしていても作業の手を止めてしまうほどに。 「……ああ、これだったのか。あなたが欲していたのは」 ウォール・ローゼの壁上に立ち、聞こえないと知っていてもハンジはたった今ここから飛び出して行った同僚の背に語り掛ける。 壁外調査に赴いていた調査兵団は巨人が一斉に北を目指し始めたことを察し、エルヴィン団長の指示でトロスト区へと急いで引き返してきた。そんな彼らを出迎えたのはトロスト区の住民達の歓声や嘲りではなく、一度破られ、再び塞がれたローゼの扉。 立体機動装置で壁上へと登れば、そこに地獄が広がっていた。しかし壁に空いた穴は塞がれているため、これ以上酷くはならないだろう。あとは中にいる巨人を狩るだけだ。――そう思った矢先、風に乗って場違いな甘い香りが調査兵達にまで届いた。 それを嗅いだ瞬間、リヴァイは大きく目を見開いた後、「見つけた」と呟いて壁上から大岩で塞がれた扉の方向へと飛び出して行ったのだ。 「さぁて。あのリヴァイが求めてやまなかったモノってのは……。一体何なんだろうね」 これから面白くなりそうだ、と。 調査兵団一の変人であり、また同時にキレ者でもあるハンジは、ゴーグルの内側の両目を愉しげに細めた。 2013.09.04 pixivにて初出 |