開拓地にいた頃、重い風邪にかかったアルミンにこの能力を使わなかったのは家族である少女と親友である少年に己の力の本当の姿を知られて不安にさせてはいけないからというのが理由の一つであったが、それよりもまずエレンは大切な人間であるアルミンによく解らない力を使うということ自体に躊躇してしまった。何かおかしなことが起こってしまうよりも、単純に花を咲かせてそれを売り、薬を手に入れた方が安全度はずっと高い、と。
ゆえにエレンが初めて自身の奇妙な能力を使った『人間』は、エレンを襲おうとした『害獣』だった。害獣ならば死のうが何しようが構わない。選択肢が限られていたというのもあるが。 ともあれ、そういうわけでエレンは己の大切な人に対して時間をやりとりする能力を使ったことはなかった。 ……なかった、けれど。 (たすけなきゃ) 初めての壁外調査。そこでエレン達はこれまで見たことも無いほど俊敏で更には思考能力を持ち合わせた巨人――女型の巨人の強襲を受けた。巨大樹の森に逃げ込んだものの、追ってきた女型の巨人によって、エレンに心を開きまたエレンも心を開いた先輩兵士達が次々と命を散らしていく。 目の前で容易く、そして暴力的に失われていく命達。 けれど。 (みんなの身体を回収して時間を戻せば……) 生き返るかもしれない。かつて息を吹き返した猫のように。 トロスト区で死亡した訓練兵団の同期達はエレンが監禁されている間に焼かれて灰となり、もう手出しすることはできないが、ペトラ達はまだ身体がきちんと残っている。 力を使ってどんな結果が待っているのか、きちんと生き返るのか、確証なんてものはどこにもない。あるのはたった一度だけ猫で試した実験だけだ。しかしもう迷う理由はなかった。 アルミンの時は他のもっと安全な手段があったからそれを選べた。しかし今はそうではないのだ。エレンが選べる選択肢はペトラ達の死を受け入れるか、それとも一か八かで彼らが生き返るか試すこと。ならばもう後者を選ぶしかないだろう。 今この場に最も頼りになる兵士――リヴァイはいない。いるのは巨人化できるエレンと、どうやらエレンを狙っているらしい女型の巨人のみ。 ゆえにエレンは一人で四人の班員の身体を回収し、女型の巨人の攻撃を避け、力を使っている間の安全が保障される場所に逃げなくてはならない。 女型の巨人と戦って倒すという選択肢も無いわけではないが、それは非常に危うい賭けである。この巨人はおそらくエルヴィン達が仕掛けた罠を切り抜けてここまでやって来た輩だ。いくら巨人化できるエレンであっても一人で対処するのは無謀と言えるだろう。 失われた命を取り戻すことができる可能性を持っているからこそエレンは冷静にそう判断し、激情に駆られて特攻するという選択肢を捨てた。 操縦桿のレバーを握ってアンカーを射出。これまで逃走方向に打ち出していたそれを女型の巨人側に向け、進路を百八十度反転させる。ただし馬鹿正直に女型の巨人へ突撃するのではなく、その脇を抜けて班員達の所へ。巨大な手がエレンを捕まえようと迫ってきたが、寸でのところでエレンは己の親指の付け根に歯を立て、巨人化する勢いでその手を弾き飛ばした。 ただしそのまま戦うことはしない。小回りの利く立体機動で女型の巨人をすり抜けた後は巨人化により増した速力であっと言う間にまずはオルオの元へ。走りながら彼の身体を回収し、続いてペトラ、エルドも。エルドは身体の左側を大きく欠損していたが、そちらまでは回収する余裕がない。仕方なく頭部と両足が残っている方を拾い上げ、左腕は諦める。最後に項をすっぱりと斬られて絶命したグンタの身体を掬い上げて、エレンは自分達がやって来た方向――つまりリヴァイやエルヴィンがいる方向へ全力で走り出した。 一人で戦ってはいけない。ならばエレンができるのは、このまま人類最強の兵士を筆頭とする手練れ達の助けを借りることだ。そうすれば助けられる。自分を信じてくれた人達を。自分が信じた人達を。 「ガァァアアアアアア!!!」 自身がここにいると示すようにエレンは叫んだ。この声を聞いてリヴァイ達から近付いてくれれば女型の巨人を退けられる可能性はぐんと上がる。 「エレン!」 「エレンッ!」 巨人の速力と叫んだことが功を奏したのか、幾度か危ない場面はあったものの、エレンは早々にリヴァイと、それにミカサにも合流することができた。 エレンが巨人化して両手で抱えるものが何か察した二人――特にリヴァイの方――は、硬い表情で僅かに逡巡したものの、それを手放すようエレンに命じる。死人はもう戻ってこない。けれど自分達はまだ生きているのだから、それを放して戦わなくてはならないのだと。 「エレン! そいつらは生き返ったりしねぇ!」 壁外という厳しすぎる環境下では、はっきり言って死者を庇うというのは自殺行為に等しい。死人など捨て置かなければ、次の瞬間に自分がその仲間入りを果たしているのだ。 死を選ぶな。生を選べ。生き抜け。 ただしそれは本当にその死者達が生き返らないという事実がある場合のみであり、今のエレンには適用されない。確実ではないが、エレンにはこの手の中の人達を生き返らせることができる。その可能性がある。 走りながら確認すれば、リヴァイとミカサに続いて他の精鋭達の姿もちらほらと確認できた。その各人が高速で木々の合間を縫い、翻る白銀の刃。彼らにより女型の巨人が足止めされたのを確認してようやく、エレンは逃走をやめて手の中の四人をそっと地面に降ろす。 その姿を一瞥した者はようやくエレンが死者よりも生者を選んだのだと思ったのだろうが、それは違う。これからエレンがするのは四人を生き返らせる安全な場所を確保するための行為。 冷静に一時の逃走を選んだおかげでエレンは一人ではなくなった。壁の外であるここには女型の巨人以外の巨人が多く存在しているが、まだそいつらはエレン達の前に現れていない。今がチャンスなのだ。 (……やろう。やるしかない) 女型の巨人がエレンを前に取った格闘の姿勢に重なる面影があった。しかし構わずエレンは右腕を振りかぶる。信じてくれた人達を助けられる可能性がそこに少しでもあるならば、と。 女型の巨人の項から回収した彼女≠ヘ、捕えて尋問にかける間もなく硬質な水晶のようなものに覆われて手出しできなくなってしまった。調査兵団の面々はその彼女を遮光状態で拘束し、今回の壁外調査唯一の成果として帰還の途についた。 エレンは身体に負担がかかるのを承知で巨人化したままペトラ達の死体を抱え、帰還する兵団に追随する。何よりもエレンを優先するミカサは決して良い顔をしなかったが、四人の上司であるリヴァイが何も言わないのでエレンもその意志を曲げる気はない。本当は今回の調査で死亡した人間をなるべく多く回収したかったのだが、それは通常の巨人達が再び現れたので叶わなかった。 ウォール・ローゼ内に入る直前にエレンは巨人化を解き、四人の死体と共にくたくたになった身体を馬車で運ばれながら拠点である古城へ。無論、リヴァイも一緒だ。 女型の巨人だった彼女≠ヘエルヴィン率いる主メンバーと共に内地へと向かう。ミカサやアルミン、その他エレンが知る者達もそちらへついて行くことになった。 帰還したエレンは倦怠感が強い身体を無理やりに動かして四人の先輩兵士達を城の中庭へと丁寧に寝かせる。その様をリヴァイは黙って眺めていた。どうやらエレンの行為を弔いだと思っているらしく、余計な手出しは無用と判断したようだ。 上官の視線を感じながら四人の身体を運び終えたエレンはぺたりとその場に座り込む。 リヴァイはまだエレンを見ている。これからエレンがすることもきっとその目に映すだろう。以前なんとか誤魔化したことだったが、もういいやとエレンは思う。 この力が他者に知られればきっとエレンは不自由な目に合う。しかしそれで得る対価は確かにあるのだ。 「……いきます」 独りごちて左手を緑が覆う地面に、右手をグンタの身体に触れさせる。そしてただ願うだけ。グンタの身体の時間を戻すことを。この地面から生えている周囲の草花の時間を進めることを。 そうしてエレンの目の前で起こったのは、かつて死んだ猫に起こったことと全く同じ現象だった。グンタの傷が修復され、じわじわと血色が戻っていく。そして最後にはどこも見ていなかった目に光が戻り――…… 「え、れん?」 「よかった。成功した」 グンタがエレンの名を呼び、エレンはそんなグンタの姿にほっと安堵の吐息を零す。少し離れた所ではリヴァイが驚きに目を見開いていた。 エレンの周囲半径一メートルほどだけが緑一色ではなく、花を咲かせている。グンタが死亡したのは本日のことだが、余裕を見て少し多めに時間を移したのでたくさんの花が開いたのだろう。 成功を確認したエレンは次々と先輩兵士達の身体に触れていった。ペトラが「あれ? わたし、しんだはずじゃ……」と呟いたのを聞き、どうやら身体の時間が巻き戻っても記憶はそれに当てはまらないらしいとエレンは今更ながらに知る。 四人全員が息を吹き返した時、エレンと彼らの周囲は数多の花で溢れていた。彼らにとってはまさに棺桶から起き上がった感覚に近かったかもしれない。 状況が飲み込めずに困惑する四人を見てエレンはただ笑った。全員、成功だ。 リヴァイはたった今目の前で起こったことが信じられずに絶句していた。唯一生き残ったはずの新兵が死亡した部下達に触れただけで彼らが息を吹き返したのだ。 一人の致命傷が治り、心臓の動きを取り戻して起き上がるたびにエレンの周囲では花が開く。欠けていた顔の一部や腕も瞬く間に修復され、数日前と全く同じ姿でリヴァイ班の面々は咲き誇る花に囲まれて目を白黒させていた。 そんな彼らを全て理解した様子で見つめる、唯一の生還者だったはずのリヴァイの部下――エレン・イェーガー。今リヴァイに背を向けている彼は一体どんな表情をしているのだろう。穏やかな声で「おはようございます」と言っている辺りから察するに、意外と先輩兵士達の困惑を面白そうに眺めているのかもしれない。 「お前が、これを……?」 一番目に息を吹き返したグンタが他の三人を順に眺めた後、最後にエレンを見つめて尋ねる。エレンは素直に「はい」と頷いた。 「なんだこれ……俺は、俺達は巨人の力でも手に入れたのか?」 身体を大きく損傷してもこうして生きている現実からそう推測したのだろう。加えて四人に何かをしたのは巨人化能力を持つエレンである。 しかしグンタのその呟きにエレンは首を横に振った。 「みなさんは人間ですよ」 「じゃあこの状況は一体」 「見たとおり、そのままです。みなさんの身体の時間が少しだけ――死ぬ前まで戻ったんです」 「冗談、だろう?」 「幸いなことに冗談なんかじゃありません。みなさんちゃんと生き返ってます」 オレも成功するかどうかは不安だったんですが、と付け足すエレン。 話を聞いていた四名はエレンを凝視し、未だに信じられないという顔をしている。それはそうだろうと、少し離れた所でその様子を眺めていたリヴァイも思った。 人間が巨人化できるというのもついこの間までは信じられない――それどころか思いつきもしない――ことだったのに、ここにきて『死者をよみがえらせる力』だ。話が突然すぎて理解が追い付かない。 だが現実としてそれは目の前にある。死んだはずのグンタ、エルド、ペトラ、オルオの四人は花畑の中で身体を起こし、息をし、言葉を話し、その瞳に映る光景をきちんと見ている。公に捧げた心臓も拍動を取り戻し、その左胸で脈を打っているのだ。 「この花は……?」 「それはみなさんの時間を戻した際の副産物と言うか。みなさんの身体の時間が戻った分、この花達の時間が進んだ結果です」 先輩兵士達の問いにエレンはすらすらとそう答える。 この話が本当なら、以前エレンがリヴァイに語った『花を咲かせる能力』はただ花を咲かせるだけの能力ではなかったということだ。嘘を吐かれたわけではないが上手く誤魔化されてしまった。目の前で起こった現象にびっくりしすぎて、その誤魔化しについて怒りなど最早湧いて来ないけれども。 むしろ何の益もない能力であるとリヴァイに思わせたのは、エレンなりに自分の身を守るためだったのだろうと思う。もしあの時点でエレンの能力がこんなにも魅力的なもの――生き物の時間を操れるらしいと知られれば、それこそ誰だって利用したくなる――だと判明していたなら、一体どれほど不自由な生活を強いられることになっただろう。不老不死を望む馬鹿な王族や貴族の玩具にされる? 三兵団の中で死者蘇生装置として機械のように扱われる? それとも巨人化能力のことも考慮され、やっぱり人間じゃないと糾弾されて殺される? 考えられる未来は色々あるが、どれであってもエレンの望むものではないだろう。 リヴァイを誤魔化したのはエレンがその程度の利口さを持っていただけのこと。しかし現在、エレンは大きなリスクを承知の上で四人の人間をよみがえらせた。それがリスクに相応しい対価であるとエレンは判断したのだろう。 生き返ったことに未だ戸惑っている部下達と背中だけでも穏やかな雰囲気を感じさせるエレンを眺めてリヴァイはそう考える。思考できるだけの冷静さを早く取り戻すことができたのは、きっと事前にエレンの『花を咲かせる能力』を知っていたからだ。その能力の真相に納得することでリヴァイは生き返った四人よりまともに頭を働かせられる。もっとも、この場で一番冷静なのは全てを心得ているエレンなのだろうが。 そのエレンは次々に繰り出される先輩兵士達からの質問を一旦遮り、「グンタさん、エルドさん、ペトラさん、オルオさん」と四人の名前を呼んだ。 「オレから説明を聞くことなんていつでも、いくらでもできます。でも今はまず、そんなことよりすべきことがあるんじゃないですか?」 告げると共にエレンの手が小さく動く。揃えられた指先が指し示すのはエレンの背後。そう、リヴァイだ。 自分が話題に上ったと気付いてリヴァイは片方の眉をわずかに持ち上げる。と同時に四対の瞳がエレンから逸れてしっかりとリヴァイを捉えた。オルオの眉間の皺が取れる。ペトラが足を縺れさせながら立ち上がる。それを支えるようにエルドも一歩踏み出した。そして駆け出す彼らの後ろに少し遅れてグンタも続く。 「「「「リヴァイ兵長ッ!」」」」 「……だいの大人がなんて顔してやがる。お前らはガキか」 この手から零れ落ちたはずの四つの熱が再びリヴァイに触れた。折角傷も綺麗に治った顔を涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃにして、へいちょう、リヴァイへいちょう、と見っともなく泣き喚く。 なんて汚い光景だろう。でもリヴァイがそれを嫌だと思うことなど絶対にない。 死にゆく部下の血に濡れた手を握るより、その希望を託されたまま看取るより、ずっとずっと幸せで、心が軽かった。今なら一人ずつ抱きしめて服に鼻水を付けられたって構わない。むしろ歓迎してやろうと、リヴァイの口の端が小さく笑みの形に持ち上がる。 そうして小さな笑みを浮かべたまま、リヴァイはふと四人の向こうに佇むエレンの姿を視界に入れた。 金色の双眸は太陽の光の下でしっかりとこちらを見据えている。地下牢でギラギラと輝いていたその二つの黄金は泣きじゃくる四人とそれに囲まれるリヴァイを眺めてやわらかく細められていた。 (嗚呼) みつけた。 太陽と月の違いはあれど、あの子供≠ヘ今も狂い咲いた花畑の中央で優しく微笑む。かつて誰かに向けられていたその笑みを今度はリヴァイ達に向けて。 リヴァイは手を伸ばした。離れた所からこちらを見守るエレンに。 「エレンよ、お前も来い」 ずっとずっと欲していた子供はそこにいる。 慈悲の微笑みと餓えた獣のようにギラつく黄金。魅力的なそのどちらをも持ち合わせた特別な子供は差し出されたリヴァイの手を驚いた様子で見つめ、それからふらふらと歩み寄ってきた。 一歩二歩と近付きながら子供は言う。 「オレは化け物ですよ」 「俺が殺せる程度のな」 「おまけに厄介な別の能力まで持っています」 「面倒だが、まぁなんとかしてやる」 「オレ、自由を奪われるのは嫌ですから」 「んなもんは最初から解ってる」 「触れるだけで若返らせることも老いさせることもできちゃいますよ」 「だがお前は俺に何かする気なんて無ぇだろう?」 「ははっ。凄い自信ですね」 笑ってエレンはリヴァイの手を取った。触れ合った指を多少強引に絡ませてリヴァイはエレンの身体を引き寄せる。そうして四人の部下達が見る真ん中で目を丸くする新兵に至近距離からニヤリと笑いかけた。 「だってお前は俺に触れたあの時、何もしなかったからな」 エレンが花ではなく生き物の時間そのものを操れるなら、以前リヴァイがエレンを押し倒した時点で何らかの変化があってもおかしくは無かった。老いるなり、若返るなり。しかしそれは起こっていない。つまりエレンにはリヴァイに力を使う気など無いのだ。 エレンは丸い目を更に丸くさせ、しかしすぐに驚きは微笑みに変わる。 「そうですね」 時間を操る手でリヴァイに触れたままエレンは告げた。 「あなたを死なせるより、あなたがこうして仲間に囲まれて笑う姿を見る方がオレはずっと好きみたいですから」 少し恥ずかしそうに、とても幸せそうに。 キラキラ輝く黄金の瞳でエレンは笑う。 その笑みを真正面から受け止めてリヴァイは思った。巨人化するより、時間を操るより、自分にはこの笑みの方が比べようもなく価値あるものなのだと。 2013.08.03 pixivにて初出 |