物心ついた頃にはもう、その能力はあった。
目の前には枯れた花。一輪だけ花瓶に生けられて水はきちんと毎日取り換えられていたけれども、時が経ち元気を失くしてしまった花だ。 濃桃の花びらは所々茶色に変色し、くたりと頭を下げている。 その花に少年はそっと手を伸ばした。指先で優しく花びらの先端をなぞると、まるで早戻しでも行われているかのようにたちまち花は元気を取り戻し、ぴんと伸びた茎の先端には濃桃の花びらを付けた花が開く。 少年がその花の姿を満足そうな顔で眺めていると、台所で作業をしていた母が振り返り、「あなたまたやってるのね」と呆れたような声で言われた。きっと初めの頃は息子の普通ではない力に彼女も戸惑ったのだろうが、今では人前で行わなければ怒ることもない。また少年には母親に力のことで気味悪がられた記憶もなく、生まれながらに授かった奇妙な能力の割には普通の子供と同じ環境で暮らしていると言える。 テーブルの上の一輪挿しを目にした母は「きれいな色」と呟いて微笑む。その顔が見たかったのだと少年が言ったならば母は信じてくれるだろうか。……恥ずかしいのできっと言わないだろうけども。 母の反応を見て機嫌を良くした少年はにこりと母譲りの金色の双眸を細め、それから「外で遊んでくるー!」と元気よく家を飛び出した。 上機嫌のまま出ていく息子に母親は苦笑を零しつつ、「夕飯までには帰ってくるのよ、エレン」とその背に語りかける。「はーい」という返事はドアが閉まる音とほぼ同時。それは、少年――エレン・イェーガーの家にまだエレンしか子供がいなかった頃の風景の一つだった。 それまでエレンの不思議な力は母を喜ばせるためだけに使われていた。しかも家の枯れかけた花に元気を取り戻させるという、本当に些細な行為にだけ。 エレンの力を知っているのは父と母、それからエレンの親友であり尊敬する人間でもあるアルミン・アルレルトという少年のみ。しかし先日、とある事情によりイェーガー家にもう一人の住人がやってきた。エレンの力を知らない少女、ミカサ・アッカーマンが新たな家族となったのだ。 家族なんだからオレの力を教えてもいい? とエレンが母に尋ねたのは、ミカサがやってきたその日の夜。憲兵団やら何やらと色々忙しく、夜になって随分と瞼が重かったのだが、それでも新たな家族に関してエレンは尋ねる。すると母は少し考えた後で「いいわよ」と返した。 「それでエレン、あなた一体何をするつもりかしら?」 母が微笑みながらエレンに問う。その視線がちらりと見た隣の子供部屋ではミカサが寝る準備をしているはずだ。 恐ろしい目に遭った少女は表情を大きく欠落させ、受け答えも単調。感情表現が豊かなエレンとは対照的である。エレンもまた扉の向こうにいるミカサを一瞥した後、「ふふふ」と含み笑いをしてから、後ろ手に持っていたものを母の前に差し出した。 「あら。そういうことね」 エレンが持っていたのはまだ小さく堅い蕾を付けているだけの小さな花束。きっと庭でとってきたものだろう。本来、花開くのはもう少し後になる花ばかりだ。 「女の人って花が好きなんだろ?」 「そうね。女の人なら大人でも子供でもきれいなお花が大好きよ」 「よし! じゃあこれ、ミカサにやる」 「ええ。お上げなさい」 母が頷けば、エレンは金の目を輝かせて隣の部屋へと突撃していった。 彼なりに表情の乏しいミカサを心配しているのだと知って、母親は目尻にしわを寄せる。 そして、エレンが突撃していった部屋では、この部屋の本来の主であるエレンの登場にミカサが顔を上げていた。「エレン?」と小首を傾げながらミカサが視線を向けた先では、同い年の少年が後ろ手に何かを持っている。 「どうかした?」 「ミカサ、お前にこれやるよ」 そう言ってエレンが差し出したのは、蕾だらけの花束。その意味が理解できずミカサは目を瞬かせる。が、変化はすぐに訪れた。 エレンが花束を持つのとは逆の手でそっと花の蕾を撫でた。するとどうだろうか。ミカサの目の前で数多の蕾が一斉に膨らみ、そして色鮮やかな花を咲かせたのだ。 「……っ、きれい」 「ほら、ミカサ」 言われて、ミカサはエレンから花束を受け取る。先程まで緑だけで構成されていた花束は、今や黄、白、赤、紫、橙、桃、とたくさんの色に溢れていた。 「えれ、ん」 「ミカサのために咲かせたんだぜ」 「私の、ため?」 「おう! ミカサも今日からオレの家族だからな!」 美しい金色の目で太陽のような笑みを浮かべるエレン。その顔と花束を交互に見つめていると、ミカサの胸にじんわりと暖かいものが溢れてきた。 ふっと頬の筋肉が緩む。その変化に気付いたエレンが「あはっ」と声を出して笑った。 「ミカサが笑った。よかったー」 「ありがとう、エレン」 「どういたしまして」 エレンに指摘されて頬の緩みはすぐに戻ってしまったけれども、胸の暖かさだけは変わらずにミカサの中に残っている。 その日、エレン・イェーガーの秘密を知る者は五人になった。 一年後、五人はまた四人になってしまったけれども。 住んでいたシガンシナ区が巨人の襲来を受け、ウォール・マリアが放棄された後、エレン、ミカサ、アルミンの三人はウォール・ローゼに難民として受け入れられ、そして開拓民として厳しい労働環境に置かれることとなった。 やせた土地を耕して食料の生産につとめる。けれど、働けど働けど生活はちっとも楽にならず、特に幼い彼らは食料すら満足に得られない日々が続いた。 痛いほどの太陽が照りつける夏や身も凍る冬などは誰々が死んだという話も日常のこととなる。そんなある寒い冬の日、アルミンが重い風邪にかかって倒れてしまった。 この開拓地では「働かざる者食うべからず」で、倒れた者に施しや慈悲など一切ない。また貧しい生活を送るエレン達に薬を買うような金などなく、それどころか弱っているアルミンに栄養のある食べ物さえ食わせてやれなかった。 エレンがこの地を監視している憲兵にかけあったものの相手にされず、状況は絶望的だった。 薬がない。食べ物もない。金は勿論ない。少し離れたところにある街に行けば薬も食べ物も溢れているのに、金を持たないだけでエレン達はそれを手に入れられない。 「金があれば……!」 何の成果も得られず憲兵の詰め所から自分達の寝場所に帰ってきたエレンは、扉を開ける前にふと足下を見た。 屋根のおかげで夕方に降った雪をかぶらずに済んでいるそこには花開く気配など全くない雑草のような花が冷たい地面で身を縮めている。が、その花が開けば大層美しいことをエレンは知っていた。 そういえば、とエレンは花を見て連鎖的に思い出す。三軒隣のエレン達より少し年上の女性は金を得るために街で花を売ったという話を以前聞いたことがある。 「花、か」 呟き、エレンはしゃがみ込んだ。そして根本に近いところから花を摘む。 「確か畑の近くに綺麗な花が咲くところがあったよな……」 そして冴え冴えと満月が輝く空を見上げた後、エレンは躊躇わずに走り出した。 冬に咲かないはずの花を街で売れば少しは金になるはずだ。そう思ったエレンの目論見は成功し、なんとか一番安い薬を買うだけの額を得ることができた。あとはカゴに残っている少量の花を売りきってしまったら、薬の他にちょっとだが食べ物も買って二人のところへ帰ろうと決める。 「おや、こんな寒い中で花売りかい」 声をかけてきたのは暖かそうなコートに身を包んだ老人に近い年頃の男性。白っぽい灰色の口髭と、帽子の下から覗く同色の髪が人の良さそうな雰囲気を醸し出している。 この人なら残りの花も買ってくれるかもしれないと思い、エレンは寒さで頬を真っ赤にしながら「うん」と頷いた。 「おじさん、花はどう? きれいに咲いてるよ」 「ほほう。確かに美しい花だな」 カゴの中を覗き込んだ男性は、しかしエレンに視線を向けてからそう答えた。エレンの頭からつま先まで舐めるような男の視線の動きに違和感を感じる。だが花が売れるという喜びにエレンは深く考えることをしなかった。 「買ってくれる?」 「そうだねぇ。いくらだい?」 「んー。売れ残りだからこんくらい?」 言って、エレンは三本の指を立ててみせる。すると男性は頷き、「よし、買おう」と財布を出した。 「ありがとう、おじさん」 「いやいや、それじゃあこっちにおいで」 「? うん」 どうして移動なんてするのだろう。そうは思ったが、支払いの意志を明確に示す客を無碍にするわけにもいかない。 エレンが手を引かれて連れて来られたのは、自分が立っていた大通りから少し入っただけの、けれども人気がぱったりとなくなった路地。 「おじさん? どうしてこんな所に……」 「さすがに私も人の目があるところでコトに及ぶつもりはないさ」 男の言っていることがさっぱり解らない。 首を傾げるエレンに男は「そんな初な反応もいいねぇ」と嬉しそうにしている。けれどその笑みは花を買って嬉しそうにしていたこれまでの客とは違い、エレンに生理的な嫌悪を抱かせた。 「おじ、さん……? 一体なに、する気」 「そりゃあもちろん君の売っている花を買うのさ」 肥え太った指がエレンの痩せた腕を掴む。花を入れたカゴが地面に転がり、美しく咲いた花が無惨に地面に散らばった。それを革靴で躊躇うことなく踏み潰し、男はエレンに覆い被さる。 「や……!」 「金は払うんだ。おとなしくしろ!」 子供の抵抗などあっさりと押さえつけ、男はエレンの服の下に手を入れた。撫でさする感触が気持ち悪い。興奮し始めた男の荒い鼻息がエレンの顔にかかる。 「オレが売ってるのは花だ! オレじゃない!」 「街で花を売るとはこういことなんだよ。よく覚えておきなさい」 にたにたといやらしく笑いながら男はエレンの折れそうな首に口を寄せる。ぞわりと鳥肌が立った。 「ひ!」 「ああ、やっぱり子供はいい」 「や、めろっ」 ばたばたと暴れるエレンの一方の手が偶然、姿勢を変えようとした男の首に触れる。もう片方の手は地面に散らばった花に触れている。その瞬間、エレンは決意した。己が助かるために今からすることを。 話は少し変わるが、花を咲かせる自身の能力について、エレンは原理など全く解らない。けれどその能力を使う際に必要とされる対価が何かを知っていた。昔は小さなことにしか使わなかったから自分も周りも気付かなかったが、成長するにつれて、また回数を重ねるにつれて、また時折一人で実験もしながら、エレンは徐々に対価についての理解を深めていった。 枯れた花を元気にする時には「この花の時間が戻りますように」、蕾を開かせる時には「早く咲きますように」と願う。そうすれば時間を早戻しするように、また早送りするように、望む変化が訪れた。そして回を重ねる中で、エレンは気付いた。枯れた花の時間を巻き戻す時、己の身体が少し大きくなる――自分の身体の時間が進む――ことを。また、堅い蕾を花開かせる時はその逆。己の身体がほんの少しだけ若返り、まるでその分の時間が植物の方に移ったかのように、花が開くのだ。 否、「ように」ではない。本当にエレンと花の間で時間のやり取りがされていた。 これこそがエレンの不思議な力の仕組みであり、対価。ある対象の時間を進めるために己の時間を渡し、また対象の時間を戻すために己が時間をもらい受ける。 では、その対象となるのは花だけなのだろうか。 最初は花よりも大きな木で試した。結果は成功。立派な実が生っていた木に力を使って花の状態に戻した時、エレンの身体は約半年分成長していた。 次は割れたコップに力を使ってみた。結果は失敗。どうやら無機物には効かないらしい。 最後に挑戦したのは動物。死んだばかりであろう猫を偶然みかけて、その猫からそっと時間をもらい受けた。すると猫は元気を取り戻し、エレンを一瞥した後にどこかへと走り去った。 もらい受けた時間は周辺の草木に分け与え、季節外れの花が咲いたとしばらくは開拓地の中で不思議に思う人も現れたものの、狂い咲きの一種だろうと大した問題にはならなかった。 ともあれ、エレンは自分の中だけで己の能力について理解を深めていった。花を咲かせる力だと思っていたが、実際にはこの身を介して時間のやり取りをする能力だったのだ。 話は戻る。 一方の手を花に、もう一方の手を男の首に触れさせて、エレンは願った。目の前の獣に向かって「老いろ!」と。その瞬間、触れていた花が種子の状態にまで戻り、その分の時間が男の中へと流れ込む。花が持つ時間だけでは足りず、エレンも目に見えて己の肉体の年齢を若返らせながら、目の前の獣が干からびるように老いていく姿を睨みつけた。 弱った筋肉ではエレンを捕らえ続けることができず、力が緩んだのを感じてエレンは獣の下から這い出した。 足下に転がっているのはよぼよぼの老人。立派なコートが不釣り合いな程みすぼらしい姿の男がいる。 「な、にを……」 帽子の下でぎょろりと目を動かして老人は掠れた声を出す。 本来の年齢よりも幼くなったエレンは冷たい目でよぼよぼになった老人を一瞥し、「さて」と呟いた。周囲を見渡せば、ありがたいことに数メートル先の庭から木が生えている。エレンは動くことすら困難になった老人をそのままにし、木に近付いてざらざらした幹に手を触れさせる。時間をちょうだい、と願えば、エレンの身体は実年齢よりも十年以上成長する。 元々余裕があったはずの服は随分ぴっちりとして格好悪かったが、あと数分の我慢だと内心で呟き、再び老人の元へ。そして恐怖に身を震わせる老人に躊躇なくその手を触れさせた。 「ばいばい。ゲス野郎」 エレンの中にある時間が老人へと流れ込む。 かつて母や少女を喜ばせるために使った力は男の身体に過剰な時間を流し込み、そうして男は骨と皮だけの醜い姿となって死亡した。 未だ二十歳前後の身体を保っていたエレンは死亡した害獣を路地裏のゴミ箱に詰め込み、木からもらい過ぎた時間を返そうときびすを返す。が、その方向から人の気配がしたため、慌てて逆の路地へ逃げ込んだ。 しばらく進むといきなり景色が変わる。家々の壁は途切れ、エレンの目の前に月光に照らされた雪原が広がった。 足を踏み入れてよく見ると、そこが春になれば花畑になるであろうことが予想された。しかも面積は随分広い。これならば、と思い、エレンはその場で目を閉じる。 (オレの時間を、この花達に) 月光を浴びたエレンの足下から、雪などもろともせず花が咲き始める。 白い雪を割って顔を覗かせるたくさんの花、花、花。冷たい風が吹いても舞い上がるのは雪ではなく、極彩色の花びら。 エレンが再び目を開けると、そこは月光に照らされた一面の花畑になっていた。その中心で身体の時間を元に戻し終えたエレンは微笑む。 「はやく、帰らなきゃな」 さっきの件でお金をもらい損ねたから、買えるのは薬だけになってしまったけれども。 そうしてエレンは狂い咲いた花々の中央から外に出る。その姿を、自分が避けたはずの足音の人物に目撃されていたとも知らず。 リヴァイがその街を訪れていたのは偶然だった。 こちらの方面にある訓練兵団の練習場に人類最強の兵士として招かれ、しかもその招いた人物が前調査兵団団長であったため、断りきれずに訪ねていたのだ。しかし不運なことに、本部に帰還しようとすれば雪の所為で思うように馬が進まず、本来ならば素通りするはずのこの街で一泊することになってしまった。 雪は止んだが夜間に馬を走らせるわけにもいかず、適当に取った宿屋で時間を潰していたリヴァイだったが、ふと胸に何かの予感を感じてベッドから起き上がる。 悪い予感なのか、それとも良い予感なのか、区別が付かない。しかしこういう時の直感をリヴァイは信じることにしていた。ゆえに己の第六感が導くまま、リヴァイは夜の街へと足を踏み出す。 大通りではなく、人気のない路地に何かを感じながら、そちらばかり選んで足を動かした。道に迷うことはない。自然と己の二本の足は向かう先を決め、リヴァイを導いてくれる。 しばらく進んでいると、前方から不審な物音が聞こえてきた。大きな物が投げ捨てられる音だと判断し、リヴァイは歩調を速めて近付いていく。しかしリヴァイの接近を感じたのか、物音を立てた犯人は足音と共に去ってしまう。 「ふん。追いかけっこか」 呟き、リヴァイは足音を追いかける。決して犯人がこちらの接近に気付かないように、足音を殺して。 巨人を狩るのとはまた違った高揚をわずかに感じながらリヴァイは進み、そして、目撃した。 家々の壁が途切れたその先で、冬だというのに咲き誇った花々を。そして、その中央で微笑む金眼の子供の姿を。 追いかけていた足音は大人のものだったから、この子供ではないのだろう。しかしもうリヴァイの中に足音の犯人に対する関心は欠片も残っていなかった。 思考の全てが視線の先で微笑む子供に持っていかれる。 リヴァイの青灰色の瞳に映るのは、咲き誇った美しい花の中央で月光を浴びながら微笑む少年。 その姿はまさに息を呑むという表現がふさわしい。 黄金の瞳が月光を受けてきらきらと輝いていた。淡い微笑みを浮かべた顔は慈しみに溢れていて、少年であるはずなのにどこか聖母を思わせる。 少年がその場を去った後もリヴァイは追いかけることができなかった。浮き世離れした光景に心奪われ、しばらく動くことができなかったのだ。 気付いた時にはもう遅く、少年の痕跡はどこにもない。ただ目の前に狂い咲いた花畑が広がるだけだった。 2013.07.14 pixivにて初出 |