異物嘔吐症という病がある。
 それが壁の中で初めて発生したものなのか、それとも人類がまだ世界中に住んでいた頃からあったものなのか、詳細な記録は無く誰にも判らない。ただその現象だけは、発症者は非常に少ないものの特異的な症例として医者などの専門職につく人々以外にも広く知られている。
 ある者は宝石を吐き出し。
 またある者は金や銀を吐き出し。
 一般的に価値があるとされるものばかりではなく、石ころを吐き出す者や雑草を吐き出す者もいた。
 だがそんな異物嘔吐症の発症者達は何を吐き出そうとも皆一様に重要視されていた。なぜならばその吐瀉物は須らく万能の薬になったからである。
 たとえどんな形態であっても異物嘔吐症の者から吐き出された物質はあらゆる病や怪我を癒してしまう。宝石を粉にして飲んだ病弱な貴族の少女は一週間も経たぬうちに見事な乗馬を見せる程にまで体力を回復させた。不治の病に侵され保って半年と言われていた男は異物嘔吐症発症者が吐き出した雑草を煎じて飲んだだけで延命し、曾孫の顔を見て往生した。また吐き出された金のコインをお守り代わりにして肌身離さず持っていたある下町の老人は、それだけで背筋もしっかり伸びて未だバリバリと働いているだとか。眉唾物としか思えないような現象すら多々発生している。
 しかし異物嘔吐症に少しでも詳しい者はそれを当然だと言っていた。理由は単純。異物嘔吐症の発症者らが吐き出すそれら異物は、発症者達の生命力そのものだったからだ。
 彼らは皆、自らの生命力を様々な形の異物として吐き出している。吐き出された異物は命の欠片であり、それを取り込んだ者は命そのものを取り込むことになる。ゆえに病も怪我も癒され、それどころか不老長寿の薬として主に王族や貴族間で高値の売買をされることも少なくない。
 だが残念なことに異物嘔吐症の発症者らは自ら吐き出した異物――命の欠片――を再度取り込むことができなかった。そのため発症者達は誰もが短命で、どんなに環境が良くても四十まで生きられれば御の字と言われている。発症が早ければ二十歳を迎えられない者もいた。加えてそんな珍しく高価な人材であるがゆえに、吐き出された物だけではなく発症者本人が裏社会で商品としてやり取りされる場合もあり、無理を強いられた不幸な人間は元々短い命を更に儚く散らすこともあった。


 さて、ここに一人の幼い少年がいる。
 少年の名はエレン・イェーガーと言い、出身は最外壁であるウォール・マリアの突出区、シガンシナ。まだ五歳になったばかりの幼い少年は、しかしながら現在、シガンシナから遠く離れた地――最内壁であるウォール・シーナの地下街にいた。勿論自力で来たわけではないし、更に望んでやって来たわけでもない。
 金色の瞳で周囲の大人達を睨み付ける少年の足元には先程嘔吐したばかりの♂ヤが転がっていた。
 まだ五歳でしかないエレン・イェーガーは不幸にもすでに異物嘔吐症を発症しているのである。そしてその価値ゆえにこうして遠く離れた地にまで誘拐されてしまったのだ。
 エレンが異物嘔吐症を発症したのは三歳の時。自ら吐き出した命の欠片を取り込むことができないため、その時点でエレンの短命は確定していた。だが己の命は救えずとも、吐き出された異物――『花』で他の誰かの命を救うことはできる。更にはエレンの父・グリシャが医者であることも幸いし、エレンが吐き出した花は無償で多くの人々の命を救う材料になった。
 そんな噂を聞きつけた心無い人間がエレンを誘拐したのが、今。しかも吐き出された花を売り物にするのではなく、エレン本人を売り物にしようとしているらしい。幼い子供だからと隠すことなく喋り続ける悪人達の会話からエレンはそう悟っていた。
 わざわざ遠いウォール・シーナの地下街に連れて来られたのは、ここが一番高値でエレンを買う人間が現れるからである。事実上の無法地帯であり、身分がある者も顔を隠して降りてくる場所。ゆえにここは壁内で最も金が動く場所でもあった。
「にしても『花』ってのがまた良いよなぁ。石ころや雑草じゃ格好はつかねぇが、この見た目でぼろぼろ花ぁ吐いてりゃあ観賞用としての価値もつくだろ」
 エレンの周囲に散らばった鮮やかな色の花を見て誘拐犯が口角を上げる。
 艶のある黒髪に、幼さゆえ性別の判断がつけにくい容姿、そして黄金色に輝く双眸。特定の好事家にはそれだけで垂涎の代物だろう。そこに加え、メインである希少な異物嘔吐症も絡めば、この幼い子供に付く価値は如何程のものか。すでに頭の中で此度の儲けを計算しているらしい悪人達の顔は実に醜い笑顔で彩られていた。
 今のところ商品の価値を下げるわけにはいかないからと傷がつくような真似はされていないエレンだったが、この先、誰かに売られてからどうなるか分かったものではない。エレンはそう幼いながらに自分の危機的状況を理解している。しかしこの状況から抜け出す術を幼い少年は持ち合わせていなかった。
 エレンが唯一できるのは虚勢を張り、悪人達を睨み付けることのみ。それすら大人達にとっては可愛らしい児戯として見られていたが、だからと言って止めるつもりもなかった。ここで死んだ目をして従順になってしまえば、その時点でエレンは死ぬ。物理的ではなく精神的に。それをエレンは己に許さない。先が見える短い命だからこそ、他人に屈することは絶対に嫌だった。短くとも己の命は己だけのものだ。
 シガンシナまでエレンを攫いに来たグループと地下街でそれを出迎えた者達が顔を合わせ、しばらくエレンの品定めを行っていたが、それが終了すると小さな身体は簡単に抱え上げられ、抵抗も空しく外から鍵のかかる部屋に放り込まれた。とは言ってもこの部屋に閉じこめられるのはせいぜい半日といったところだろう。見目も悪くない花吐き≠ェ万が一にも逃げ出したり、はたまた他者に横取りされるのを避けるため、今夜零時から行われる闇オークションに出品される予定だからだ。
 オークションには地下街の有名どころも顔と名前を伏せた貴族や王族も参加するらしい。しかも今回は貴重な異物嘔吐症の発症者――つまりエレンだ――も出品されることが一部の実力者達にはすでに知らされていた。むしろ彼らにとってはエレンこそが今夜のメインと言える。
 そんな内容もぺらぺらと喋る悪人達の会話から察しており、エレンは狭い部屋で残り僅かな猶予をどうすべきか必死に頭を巡らせていた。

「ほほう。これが今夜の主役か」

 声は扉の方から。エレンが視線を上げると、頑丈な扉につけられた覗き窓から濁った目がこちらを見ていた。値踏みするその薄茶色の双眸はねっとりと粘度をもって小さな身体を這う。それが気持ち悪くて身を震わせると、覗き窓の向こうの目がいやらしく細められた。
「中に入ってよく見ても構わないかね?」
「ええ、勿論です。ですが今夜のオークションに出品する商品ですので、申し訳ないですが傷が付くような真似はご遠慮願えますかい」
「ふむ。まぁ仕方がないか」
 薄茶色の目の男に答えたのはエレンを攫ってきた男の一人だろう。声からそう判断していると、ややもせず扉が開いた。エレンが逃げ出さないように誘拐犯の一人がしっかりと見張りについている。
 しかしそうでなくとも、エレンはこのチャンスを活かすことができなかっただろう。何故なら部屋に入ってきた壮年の男の服装に大きな失望を覚え、それどころではなかったから。
「けんぺい、だん……?」
 呟くエレンの視線の先、薄茶色の目の男は背中にユニコーンを背負ったカーキ色のジャケットを身につけていた。それはこの壁の中の世界の秩序を守るべき憲兵団の証。人身売買等の犯罪を取り締まるべき者が、今はそれをしようとしている男達と仲良さげに喋っていたのだ。
 シガンシナ区でよく見かける駐屯兵団の者達も緩んだ空気をまとっていたが、こうまで腐敗していなかったように思う。
 憲兵団の兵士はエレンに近付き、ざらついた指先で滑らかで小さな顎をくいと持ち上げる。その感触にエレンは鳥肌を立てたが、大人と子供では抵抗もままならない。
「これはこれは美しい金色だ。確か吐き出すのは『花』だったか? 見てみたいものだな」
「だ、れが。おまえなんかに」
「生意気な口を。だがまぁこれを飼い慣らすのも一興か」
 エレンの抵抗などものともせず、憲兵団の兵士は唇を舌で湿らせる。まるで獲物を前にした獣だ。ぞわぞわとした嫌悪感を覚えながら、それでもエレンは屈したくないと金色の瞳で壮年の男を睨み付ける。
 男はニヤリと下卑た笑みを浮かべた後、振り返って誘拐犯を見た。
「これは随分と高値が付きそうだな」
「ええ。ですからxxx様のお名前が最後に残ることを我々も期待しております」
「ははっ。他の客にも同じことを言っているのだろう? が、まぁいい。落札し甲斐のある商品だからな」
 ざらついた指先でエレンの頬をひと撫でし、男は立ち上がる。商品の見定めは終了らしい。おぞけが走る視線を最後に向けてから憲兵は部屋を去った。頑丈な扉が音を立てて閉まる。
 あんなヤツに買われてたまるか。
 憲兵という生き物への失望と共にエレンは強くそう思う。しかしそんな思いとは裏腹に、以降もエレンに興味を持つ者達が決して互いに顔を合わせぬよう時間差でこの部屋を訪れた。最初の兵士と同じようにユニコーンを背負う者もいれば、貴族か王族だろう者も。勿論この地下街で幅を利かせているであろう風体の者も。それぞれが品定めをし、運良く<Gレンが花を嘔吐する瞬間に立ち会った者などは特に目を輝かせて名残惜しげに部屋を去り、そして意気揚々とオークション会場へと向かう。
 刻一刻と出品≠ウれる時間が迫る中、必死で狭い室内を捜索すれば、小さな手が一本のフォークを捜し当てた。思い切り突き刺したとしても子供の腕力で大人の身体を傷つけられるかどうか分からない。しかし徒手よりはずっとマシだとエレンは服の中に銀色のそれをそっと隠す。
 おそらくもうそろそろオークション会場に移動させられるであろう時間になった頃、エレンは外が少し騒がしいことに気付いた。だが喧嘩やそれに類するものではなく、意外そうな声で「まさかお前がこんな所に顔出すなんてな」と誘拐犯の一人が言っているのが聞こえた。
 二人分の足音がこの部屋に近付いてくる。もう一人の方は「うるせぇ」と短く答えた後、口を開いていないらしい。ただひたすら誘拐犯の方がエレンの価値について得意げに語っている。
 そして扉の前で足音が止む。この半日で聞き慣れた錆びた開閉音と共に扉が開いた先には、おそらくこれまでの訪問者の中で最も身長の低い男が立っていた。とは言っても幼いエレンと比べれば十分大きいのだが。
 小柄で目つきの悪い黒髪のその男は青灰色の瞳でエレンをねめつけ、振り返った誘拐犯に「これが異物嘔吐症の子供か?」と訪ねる。
「ああ。しかも吐き出すのは『花』だ。お前でもそう簡単には買えねぇだろうよ。つーかお前が興味を持ったことに俺らは全員驚いちゃいるがな」
「ふん」
 気に食わなさそうに小柄な青年は鼻を鳴らす。それから再びエレンに視線を戻し、不機嫌そうな顔で口を開いた。
「おい、クソガキ。お前は自分の状況を理解しているか?」
 突然の問いかけにエレンは一瞬答えるのが遅れた。しかしすぐに頭を動かして是と返す。
「誘拐されて、これから売り物にされる」
「そうだ。お前はそれを受け入れるのか?」
「受け入れる?」
 オウム返しにエレンは告げ、それから有り得ないと黄金の双眸に怒りをたぎらせた。
「誰が! オレは売り物じゃない! オレはオレのものだ!!」
 相手の背が小さいから抗えると思ったわけではない。しかしそう問われて肯定するつもりもなかった。たとえどんなに不利な状況であってもエレンはエレンのものであり、こんな不条理に唯々諾々と流されて良いはずがないのだ。そんなことは決して認められない。
 幼さの中にそんな激情を秘めてエレンは叫ぶ。下手をすれば、いくら商品であっても拳や蹴りの一発くらいもらうかもしれない。けれども止まらなかった。止められなかった。
 が、エレンが叫び終わった後、向けられたのは暴力でも叱責でもなく、「悪くない」という小さく、けれども満足そうな呟き。
「え」
 その呟きを耳にしたエレンが呆気に取られる。しかし事態はそこで終わらず、次の瞬間、「おい、そろそろ時間だぞ」と小柄な青年に声をかけた誘拐犯が強烈な裏拳を受けてぶっ倒れた。
「は……?」
 エレンは目を点にする。正面に立つ青年は未だしかめっ面のままだが、どことなく楽しそうな雰囲気を滲ませていた。裏拳を放った右手を真っ白なハンカチで拭いながら青年はエレンに告げる。
「おい、早くしろグズ。ここから出たくねぇのか」
「で、出る!」
 慌ててエレンは立ち上がり、颯爽と部屋を出る背中に続く。正義のヒーローなんているはずがない。民を守るべき憲兵団ですら腐敗しているのだから。それにこの青年は決してヒーローに相応しい見目でもない。顔は悪くないのだろうが目つきは最悪で、背も大きくない。口も悪ければ、異常事態を察して現れた誘拐犯達を次々と過剰防衛で血祭りに上げていく。
 強烈な蹴りを顔面に受けて鼻の骨どころか顔の骨格そのものがアウトになった血塗れの男をエレンが一瞥すると、青年は青灰色の双眸を歪めて「ただの害獣だろうが。気にするようなモンじゃねぇ」と吐き捨てた。
 なるほど確かにこれは害獣だ。ゆえにこの行為は正当。
 半日とはいえ異常事態にどっぷりと浸からされたエレンの思考はこの青年の言葉をそのまま受け入れた。エレンの自由を、エレンの存在を侵す者など害獣で十分。そしてエレンには己を守るためにそれを狩る権利がある。
「てめぇ! 無事に帰れると思うなよ!!」
 ダミ声と共に襲いかかってきたのは体格のいい男。エレンの記憶が正しければ誘拐犯のリーダー格だった男である。まさに力で集団のトップに立ったと言わんばかりの相手に青年も応戦する。しかしその隙を狙って横合いから別の人間が飛び込んできた。
 青年からは死角で、気付くのが遅れた。横合いからのナイフによる攻撃は青年の頬をかすめ、真っ赤な線を描き出す。小さな舌打ち。だが青年は怯むことなく、リーダーを相手にしながらも新たな敵を左足一本で転ばせてそのまま胸部を踏みつける。ぐえ、とカエルが潰れるような声を出して相手は沈黙した。
 その後は間もなくリーダーである男も倒し、青年はエレンを振り返る。その背後で胸部を踏みつけられたはずの男がゆっくりと起き上がっていた。未だナイフは手の中にあり、青年を傷つけようと狙っている。
 エレンは隠し持っていたフォークを手に駆け出す。そしてナイフの切っ先が青年に届くよりも先に、その男の中で最も柔らかいであろうパーツ――目へとフォークを突き刺した。
 ぎゃあああ! と耳をつんざく叫び声。それを聞きながらエレンは告げる。
「オレはここを出て家に帰るんだ。誰にもジャマはさせない……!」
「いい心構えだ。生きたいなら戦え。俺達は自由で、誰にもそれを侵す権利なんてない」
 エレンの凶行に驚くでもなく、青年は口の端で僅かな笑みすら見せた。
 そして二人は揃って地下街を出る。
「あの」
 夜になっても賑やかな街の影でエレンは己の服に引っかかっていた小さなカスミソウを摘まみ上げた。青年の青灰色の瞳が訝しげに眇められる。
「ほっぺた、怪我してます」
 だからこの花で治してはどうかとエレンは白く小さなカスミソウを差し出す。
 青年は己の頬を撫で、指先に赤い血が付いたのを確認すると、無言でその花を受け取った。そのまま躊躇いもなくぱくりと口に含む。
 異物嘔吐症発症者が吐き出した命の欠片の効果は絶大で、青年の喉が花を飲み込んだ途端に頬の傷は修復されてしまった。もう一度手で擦って血を拭えば、最早そこに傷があったことすら判らない。
 花の効果は知っているはずなのに何故か僅かばかり驚きに目を瞠る青年ときれいに戻ったその肌を確認し、エレンは「よかった」と胸を撫で下ろす。
「あなたはこれからどうするんですか」
 尋ねたのは、誘拐犯の一人が「こんなことして、お前がこれから地下街で生きていけると思うなよ!」と言っていたのを聞いたからだ。何故この目つきの悪い青年がエレンを助けてくれたのか知らないが、ともかく恩人である彼がエレンの所為で不都合を被ったことは理解できた。
 エレンに問われた青年はふと夜空を見上げて逡巡した後、
「そうだな。ま、ちょうどいい頃合なのかもしれん」
 と独りごちる。
「調査兵団に来ないかと誘いを受けていた。それに応えるのも一興だろ」
 真の自由を求めて壁の外へ。危険が満ちる世界へ飛び立つのもアリだと、青年は薄く薄く笑った。

* * *

 シガンシナ区が巨人の襲撃を受け、ウォール・マリアが放棄されてから五年後。
 エレン・イェーガーは想定外の経緯ではあったものの、かねてより志願していた調査兵団に配属されることが決定した。正確には巨人化できる人間として一時調査兵団預かりになっているだけではあるのだが――しかも次の壁外調査で成果が得られなければ憲兵団に身柄を引き渡され、散々研究された後に処刑される――、それでも壁の外へ行けることに変わりはない。
 しかも配属先は人類最強と称されエレンの憧れの兵士でもあるリヴァイ兵士長の下である。それはもしエレンが人類に有害だと判断された際、確実にその場で仕留めることができる存在としてリヴァイ以上の適任者がいなかったからという理由によるのだけれども。
 尚、エレンが異物嘔吐症を発症していることが兵法会議内で明かされることはなかった。エレンの吐き出した花が多くの人の命を救ったという記録は巨人の侵攻により消失しており、またそれを記憶している人間自体も開拓地への移住やウォール・マリア奪還作戦への参加で失われてしまっている。それでもエレンが異物嘔吐症の発症者であることを自ら明かすのも己を生かす手段の一つと言えたが、かつて誘拐された記憶が安易に話すことを躊躇わせた。
(それに巨人になれるヤツの『花』をわざわざ身体の中に入れたいって思う物好きもいないだろうし……)
 審議所での一件の後、調査兵団の一員として旧調査兵団本部の古城へと移り、そこでの生活にも慣れ始めてから数日。エレンはハタキで空き部屋の壁の埃を落としながらこれまでの経緯を思い出していた。
 最初から短いと決まっている人生を、悔いの無いように、己の望むままに使う。多々イレギュラーに見舞われたが、これはその第一歩だ。
「……ああ、でも。さすがにこれはマズいなぁ」
 誰もいない部屋でぽつりと呟く。喉の奥からは何かがせり上がってくる感覚があり、ややもしないうちにエレンは口元を覆っていた三角巾をむしり取った。
「ぅ、……ぇ」
 小さな呻き声を伴って吐き出されたのはシロツメクサ、クロッカス、ムラサキツユクサ。白と黄と青紫がぽろぽろとまだ拭き終わっていない床に落ちる。
 エレンが花を吐く頻度はそう高くないが、巨人化できる人間として見張られている以上、いつこんなシーンを目撃されるか分かったものではない。今は幸いにも一人で部屋の掃除を任されていたが、もし食堂などの広い空間で二人以上での作業を命じられている時だったら――。どう弁解すればいいのか思いつかなかった。
 ただでさえ巨人化のことで周囲がごちゃごちゃとしているのだ。これ以上問題を持ち込みたくはない。それに万が一、いや億が一、まだこの口から零れ落ちる花に価値を認め、エレンを兵士ではなく異物嘔吐症発症者――ぶっちゃけてしまえば万能薬の製造機――として囲う案が出てしまったら、エレンの最大の望みである巨人の駆逐すらできなくなってしまう。
 エレンは己の意志を曲げられることが何よりも嫌いだ。例え地面に這いつくばってでも、ぼろぼろにされようとも、己の意志を貫き通す以外にエレン・イェーガーという存在が生きる術はないと思っている。自分は自分だけのものであり、他者に侵されていいものではない。それは幼少期に都の地下街へ誘拐された時にはすでに持っていて、そしてあの時の青年の言葉で更に強くなった考えだった。
 強すぎる意思は生来のものなのか。もしくは短命だからこそ生まれたものなのか。それはエレン自身にも判らないが、ともあれその意思を侵されないためにも床に散らばった花を誰かに見られるわけにはいかない。
 幸いにも掃除中と言うことで、ごみを入れる麻袋は部屋の隅に置いたままだ。エレンは散らばった花を回収し、さっさとそれを袋の中に放り込む……はず、だったのだが。
「……何をしている」
「え、あ……そうじ、です。……兵長」
 気配無くやってきた上官が扉の所に立っていた。ちなみにエレンが担当しているこの部屋は掃除中であるからして窓も扉も全開である。ゆえに扉をノックすることも蝶番が錆びた音を立てることもなく、ただ単に廊下を通っただけで外の人間が中の様子を見ることができた。
 現れた上官――リヴァイ兵士長の三白眼がエレンの顔を見、未だ掃除が終わっていない部屋をぐるりと一周し、そして最後にエレンが両手で抱える花を見た。訝しげに細い眉が持ち上がり、再度確認するようにエレンの金眼と視線を合わせる。
「おい、エレンよ」
「は、はい!」
 反射的に敬礼のポーズをとれば、持っていた花が再び床へと落ちた。人類最強の肩書を持つ男は緊張した新兵の敬礼を眺めるのではなく、落ちた花を追って視線を下げる。あ、マズい。とエレンは心の中で思った。この部屋に今しがた咲いたような瑞々しい花があるのは異様だ。よって花が元々この部屋に飾られていたなどという見え透いた嘘を吐くこともできない。ならばこの花はどこから来たのかと問われるのが当然の流れと言うもので――。
 どきどきと嫌な鼓動を刻みながらエレンは黙って上官の行動を見守る。潔癖症の気があるリヴァイは床に落ちた花を拾おうとはしない。しかし青灰色の瞳はしばらくの間それらを見つめ、やがて納得したように「ああ」と零した。
 そしてリヴァイはエレンと視線を合わせ、

「やっぱりお前、あの時のガキか」

 僅かに口の端を持ち上げた。
「あ……」
 その笑い方をエレンは知っている。幼い頃に一度だけ見た、あの目つきの悪い青年がエレンに向けてくれた笑みだ。「まさか」と思わずエレンが呟けば、リヴァイも少しばかり驚いたように「覚えていたのか」と告げる。
「化け物みてぇに意志の強い金眼とその花、該当するなんざお前くらいしかいないだろう。しかし、まさかあの時のガキが俺の部下になるなんてな」
「っ、あ、あの時は助けてくださってありがとうございました!」
「礼はいらん。俺も人間の売り買いに浮足立ったヤツらがウゼェんで躾に行っただけだ」
 リヴァイが調査兵団に来る前は都の地下街で有名なゴロツキだったことは、エレンもすでに先輩兵士のペトラから聞いて知っている。だがこんな偶然があるとは思ってもみなかった。
 花を見られたことに対する心配よりもあの時の青年に出会えた高揚がエレンの中を駆け廻る。彼はエレンの意志を貫く手助けをしてくれた英雄だ。それがまさか兵士として憧れる人でもあったなんて。
「そうだったんですか。あ、そう言えばあの時、兵長ってばよくオレの吐き出した花を食えましたね。あの頃はまだ……その、綺麗好きではなかったんですか?」
 潔癖症の今のリヴァイがいくら異物嘔吐症発症者のものであれ他人の口から出たものに触れ、あまつさえ口にできるとは思えない。まさか十年前はまだ潔癖症ではなかったのかと遠回しに問えば、リヴァイは少し考えるそぶりを見せた。
 てっきり即答されるものだと思っていたエレンは、おや、と内心で小首を傾げる。ただしそんな暢気な状態は残念ながら長く続かず、再び襲ってきた嘔吐感にエレンは口を塞ぐ。
(やばっ。さっき吐き足らなかったか!?)
 先述したとおり、エレンはそれほど嘔吐の頻度が高くない。しかし例外はあるらしく、それが今来てしまったようだ。
 口を押さえて屈み込んだ新兵の様子にリヴァイも事情を察したのだろう。ひとまず他者に目撃されぬよう扉を閉め、部屋の中に二人で閉じ籠る。
 直後、エレンの唇を割って零れてきたのはあの時エレンがリヴァイに渡した花と同じ、真っ白で小さなカスミソウ。それを手のひらで受け止めて、エレンはリヴァイに「失礼しました。お見苦しいものを」と謝罪した。
「さっきの答えだが……」
 告げたのはリヴァイ。
 歴戦の兵士らしい武骨な手がエレンの手のひらの上のカスミソウに伸ばされる。「へいちょう?」とエレンが呼んだ。しかしそれには応えず、リヴァイの指がカスミソウを一つ摘まみ上げて、あろうことか己の口に放り込んだではないか。
「え」
「他人が吐いた物を口にするなんざ死んでもごめんだと思っていた」
 小さな花を咀嚼し飲み込んで、「だが」と人類最強の兵士はニヤリと笑みを浮かべた。
「お前のコレだけは例外らしい」
 呆気に取られるエレンを余所に、リヴァイは更に話を続ける。
「そう言えばお前は知っていたか? 異物嘔吐症発症者は自分で吐いた物を食って延命することはできないが、他の発症者が吐き出したものはそれに当てはまらないってことを。まぁ俺も十年前に偶然知ったんだが」
「え、え?」
 この上官が何をして何を言っているのか、全然頭が追い付かない。混乱するエレンにリヴァイは次いでポケットから何かを取り出した。それは透明でキラキラ光る小さな欠片――水晶だ。
「今までは見つかっても面倒だし捨ててきたが……止めた。エレンよ、お前が食え」
「は?」
「言っただろう? 命を削って吐き出す異物嘔吐症の人間も、同じ病気の他人が吐き出したものなら食えるんだって」
「え、あ。うそ」
「嘘じゃねぇ。現にお前は十年前、お前の花で俺の傷を治したじゃねーか」
 ぽかんと開いたエレンの口に無理やり水晶を放り込みながらリヴァイは不敵に笑った。


「お前の命は俺が繋いでやる。だからお前は俺のためにお前の命を差し出せ」







2013.07.06 pixivにて初出