安堵していた。
あいつを殺すのは俺だと周囲にも本人にも宣言していたから、あいつが不要だと上に判断された場合も、あいつが自分の力を上手く扱えなくなった場合も、全ての巨人を駆逐して最後の一匹になったあいつを処分することになった場合も、きっと俺がこの手を部下の血で赤く染めることになるのだろうと思っていた。けれども現実はアホらしいくらいあっさりと、あいつより俺を先に殺してしまった。 だから、安堵した。 ああ俺はあいつを殺さずに済んだのだ、と。 それどころか俺の死因はあいつを庇って巨人の攻撃を受けたことによるもの。公に心臓を捧げたが、最後の最後はあいつのためにこの命を使うことができたんだと、俺は死へと導く痛みの中で笑うことさえできたのだ。 殺さずに済んだ。守って死ねた。 だから何の因果か、『死んだはずの俺の意識がまだこの世界にあって、けれども俺を知覚できる人間がどこにもおらず、また俺自身も物や人に触れられない存在』として目を覚ました時、俺は心から自身の行動に賛辞を送った。酷いことばかりの世界だったが、俺の最期は決して悪いものじゃなかったんだ。あいつに未来を渡すことができた。生きられなかったのは残念だが、それでも十分じゃないかと思って……いた。 その瞬間までは。 死んだはずの俺が意識を取り戻したのは調査兵団の旧本部である例の古城だった。 巨人化の能力を持つ人間を飼うには「周囲に人がいない」「地下室がある」という点で実に使い勝手が良かったため、平時はそこをあいつやそれを監視する俺の班の活動拠点にしている。ゆえに俺は目が覚めた時、自分はうっかり助かってしまったのだと思ったほどだ。 しかしその勘違いは早々に正された。 まず意識を取り戻してすぐ、開きっ放しになっていたドアを通って執務室を出て廊下を歩いていると、城の中が妙に暗く沈んでいるように感じられた。 あいつが巨人化の能力を使いながら戦績を重ねる中、それなりに城に常駐する――つまるところあいつと共闘する――メンバーが増え、なかなか賑やかになっていったのだが、今はそれが感じられない。 これは大規模な壁外調査などを実施した後によく見られる光景で、つまるところは死者を悼んでいる空気だ。よって肌に感じる空気の種類からして、俺が眠っていたのは長くとも数日程度だろうと予想する。調査兵団の人間はどの兵団の兵士よりも死を身近に感じているからこそ、仲間の死を悼みつつも長期に亘ってそれを引き摺ったりはしない。一応。表面上は。 ひっそりとした城の中を進み、まずは俺に次ぐこの城内での責任者であるハンジの元へ。もしここが本部ならエルヴィンへの報告が必要なのだが、生憎あの男は本部で豚共と頭脳戦を繰り広げているはずだ。おそらく俺の負傷のことは伝わっているだろうから、目覚めたこともあとで早馬か鳩で連絡する必要があるだろう。 石の床の上を歩いているのに足音がしないまま(そして俺はそのことに気付かないまま)、辿り着いたのはハンジに与えられた執務室兼研究室。運が良ければハンジと一緒にあいつもいるかもしれない。俺が助けた命と早々に再会できる可能性に少しばかり口元を緩めながら、俺はドアをノックしようとし―― 「あ゛ー、つっかれたー。リヴァイっていつもあの量こなしてたんだねぇ」 部屋の主は室内ではなく、廊下側から現れた。 コキコキと肩を鳴らしながら眼鏡の奥にうっすらと隈を作っている。そして俺の横をすり抜けてさっさと部屋に入ってしまった。 おい、無視するとはいい度胸だな……。と思わなくもなかったが、俺が眠っている間、必要な書類関係の仕事をハンジが代行していてくれたのだと知ってその怒りを収める。ただし拳も蹴りも繰り出さないが、一言くらい言っておくべきだろうとハンジに続いて入室し、ガッと勢いよく椅子に腰かけた相手を見下ろした。 「おい、クソメガネ」 「……」 反応なし。 クソメガネは机に両肘をついて頭を抱え込むような格好をしている。余程疲れがたまっているのだろうか。だが本部にいる時ならまだしも、こちらにいる時に回ってくる書類はここまで疲れる程の量ではないはずなんだが……。慣れない仕事というやつか。それに壁外調査から帰って来たばかりというのもあるだろうしな。 俺は珍しく仏心を出しながら――きっと苛立ちが少ないのは命がけであいつを守れたことに起因している――頭を抱えたまま重い息を吐き出すハンジを眺める。 ただし眺めると言ってもそう長い時間じゃない。たっぷり十秒待った後、もう一度「おい」と声をかけてみたのだが無反応だったので、俺はハンジが座る椅子の脚を蹴りつけた。 が。 「あ?」 足の裏に木製の椅子の感触は無く、すかっと通り抜ける。ハンジは頭を抱えたままで、転ぶどころか振動を感じた様子も見られなかった。 正確に椅子の脚を狙ったはずなのに。なんだこれ、と思いながらもう一度踏み抜くように椅子の脚を狙う。だが結果は同じ。俺の蹴りは木製の椅子をすり抜けた。 いやいやちょっと待ってくれ。なんだこれは。焦って思わずハンジの肩を掴もうとするが、その手もまた相手をすり抜ける。ハンジの肩を貫通した自分の手を見て、俺は血の気が引くのを感じた。 無言で己の手を見やる。透けてはいない。また自身の両手を触れ合わせるようにすると、その感覚はきちんとあった。しかし他者に触れることは叶わず、また意識して物に触れたり持ち上げたりすることができなくなっている。 現状の理解に頭が追いつき切っていない状況で、背後の入り口から新たな人物が現れた。「ハンジ分隊長」と静かな声でクソメガネを呼んだのは、こいつの部下。たしかモブリットとか言ったはずだ。 いつもは巨人に対して無防備に近付きすぎるハンジの名を叫びながらストッパー役を務めるテンションの高いヤツだと思っていたのだが、今はそんな気配を微塵もさせていない。 「……ん? ああ、君か。どうしたの?」 俺が何度呼びかけても応えなかったハンジがモブリットの呼びかけに応じて顔を上げる。 「エルヴィン団長が到着されました」 「そう。わかった」 すぐに行くよ、と答えて腰を上げるハンジ。そして俺より十センチばかり高い身長は俺を視界に収めることなく、この身をすり抜けて部下と共に部屋を出て行った。 一瞬遅れてハンジ達について行けば、談話室にエルヴィンとそれに付き添う部下達の姿があった。そこで奴らが交わした内容は多くなく、単純だ。つまり、俺が死んだということ。 死人が誰にも知覚されず意識だけ持つと言う状況については、以前何かで見たか聞いたかしたことがある。しかしその時は馬鹿らしいと一笑に付した。死んだらそこで終わりだ。先なんてあるわけがないと。 しかしその認識は改めねばならないらしい。現にハンジとエルヴィンの間で死亡が語られる俺は、こうして二人の姿を見、そして会話を聞いている。 二人とも沈んだ顔をしているのでそれに関しては少しばかり悪いと思うものの、俺は俺の判断を誤りだったとは思わない。だってあいつを殺すはずだった俺はあいつを守れたんだから。この手をあいつの血で染めずに済むという事実に、俺は肩に負った大きな荷物が降ろされていくのを感じていた。 ああ、そうだ。この軽くなった身であいつに会いに行こう。どうせ俺は認識されないだろうが、それでも俺自身が元気にしているあいつを見たい。 死んで脳みそも大分軽くなったのか、理性よりも若干本能が勝ちつつある思考回路でもって俺は踵を返す。この時ようやく気付いたのだが、俺が歩いても足音は全くしない。試しに壁へ手を押し付けてみれば、手のひらは石の感触を伝える前にずぼりと壁にめり込んだ。きっとその気になれば壁抜けだってできるだろう。その姿を自分で想像するとあまりにもあんまりだったので、きっとやらないのだろうが。 時間帯的に食堂ではない。また先程、談話室に行った時にその姿は見当たらなかった。ならばあいつがいるのは城の地下に設けた自室だろうと見当をつけて階下へ向かう。 果たして、あいつの姿はそこにあった。就寝時ではないから手枷は嵌めていないが、ベッドの上で膝を抱えている。顔を伏せており、表情は窺えない。だがその姿を見て俺はようやく気付いた。生き延びたこいつが何の気兼ねも気負いもなくヘラヘラしていられるはずがなかったのだと。きっとこいつのことだから、俺を犠牲にして生き延びてしまったとでも考えているに違いない。 俺の班になったばかりの頃ならまだしも、こうしてあいつを認める人間が増えた今、俺がいなくなっただけですぐに巨人化の危険性がどうこう言って身柄を憲兵団に奪われるようなことはないだろう。俺がこうしてふわふわした思考でいられるのもその所為だ。きっとエルヴィンの野郎を筆頭に上手くやってくれるはず。だからこいつの身柄について俺が心配することはない。考慮すべきはこいつの心の方だった。 俺はそっと奴がうずくまるベッドの脇に腰を下ろす。当然のことながらベッドは軋むどころかマットを沈み込ませることすらしない。それでも俺は伏せられた顔に手を伸ばし、黒髪に触れるように動かした。毛筋一本すら持ち上げることは叶わないが、それでも俺は語り掛ける。 「どうしたよ。お前は巨人を一匹残らず駆逐してやるんだろう? そうやってガキみてぇにうずくまってたって何にもならねぇだろうが」 声もやはり届くことは無い。しかし――神様なんてものは信じちゃいねぇが――俺がこうして再びこいつを目にすることができた奇跡と同様に、もう一度だけ不思議なことは起こった。 眠りから覚めたように小さなうめき声をあげ、そいつは顔を上げる。茫洋とした金の瞳は数度の瞬きの後、かつて鉄格子を挟んで見つめた目と同じ強さを宿していた。 「そうだ。オレが、巨人を、殺すんだ」 まるでこちらの声に応えるように。顔を上げ、真っ直ぐ前を見つめて、意志の再確認をする。 それは俺が初めてこいつを見て悪くないと思った時の姿だった。巨人になれるだとかそういう意味ではなく、こいつは化け物だ。意識の化け物。何者もこいつの意志を妨げることはできない。屈服させ、言うことをきかせるなんて論外だ。こいつが俺の躾を受け入れていたのもそれがただ必要なことだと理解していたからであり、もし俺が理不尽な暴力に出ていれば、この意識の化け物はすぐさま反撃してきただろう。 嗚呼……悪くない。 その目は悪くないぜ。それでこそお前だ。 俺が助けた命でもってその意志を貫いて見せろ。 語り掛ける俺に呼応するかのごとくそいつの目は爛々と輝きを増す。熱して溶けた黄金のように。 俺が死んでから何度目かの壁外調査が行われた。まだ新しい兵士長が選任されていなかった頃はエルヴィンと他数名が分担して俺がこなしていた仕事を処理していたものの、それももう随分と前のことになっている。 一時期は人類最強の兵士が失われたとあって暗い雰囲気が古城やら本部やらを覆っていたが、それも時間と共に薄れていった。それでこそ人間ってもんだと思う。引き摺って止まってるだけじゃ意味がねぇ。前に進んでこそ、壁の外を目指す人間――調査兵団だ。 なんてまぁ生きてる時じゃ絶対口にしないようなことを考えていられるのは、俺が死んでからのあいつが目覚ましい働きを示すようになったからだと思う。 ベッドの上で膝を抱えていたあいつが再び前を向いたその時から、あいつはより強くなった。その宣言通り一匹たりとも巨人を逃しはしないとばかりに圧倒的な人類の守護者として力を揮っている。 そしてまだ存在している俺の意識はあいつの隣で常にそんな姿を見つめ続けてきた。 俺につけられた呼称が「人類最強」であったように、いつしかあいつのことを「人類の希望」と呼ぶ人間が人類の大部分を占めるようになっていた。そうやって安易に分かりやすい名前を付けるのは、人々がなるべく容易に絶望から目を逸らし希望を見つめたいと願ってのことだろう。今更そんな人間の弱さをどうこう言うつもりはないが、巨人化の能力が公表された当初から徐々に広がっていた呼び名は、今やまさしくあいつを示すもう一つの名前になっている。 ただ俺の場合と違っていたのはその呼称の半分に恐れが混じっていることだ。いくら巨人を屠っても、やはりその能力自体に人間は恐れを抱かざるを得ない。特にあいつがどういう人間が知らない奴は。『知らない奴』に含まれるのは何も兵役についていない一般人だけでなく、同じ兵士――更には調査兵団の中にだって該当者はいる。 だからまぁこういうこともあるわけで。 「化け物め」 背中に重ね翼を抱いた兵士の一人が吐き捨てた。俺の隣にいる金眼を睨み付けながら。 それはこいつが何度も言われ続けてきた蔑称だ。でも今更そんな程度でこいつの心が折れるはずもない。現に今も困ったように眉尻を下げるだけで、怒りもしないし喚きもしない。もう少し放っておけば「それでもオレは巨人を駆逐すると決めたんです」と穏やかな声に強い意志を込めて言い返しただろう。 だが、この時ばかりは違っていた。 「化け物、化け物め!」 相手は口汚く罵り続ける。そして、 「リヴァイ兵長を殺した化け物の癖に、なんでのうのうと生きていられるんだ!」 それがどうした。顔も知らない兵士が吐き捨てた言葉に対して俺の心情はそんなものだった。俺は俺のために命を使って、こいつを生かしただけだ。それを赤の他人にとやかく言われる筋合いはない。 ふん、と鼻を鳴らして隣を見やり――……そして、俺は言葉を失う。 視線を向けた先には完全な無表情があったから。 「はっ! 今更だんまりかよ。でも本当のことだろう? 公にはされてねーが、お前を庇ってリヴァイ兵長が亡くなったってのは調査兵団じゃ有名な話だ。あの人を、人類の希望を、お前が死なせたんだ。化け物の、お前が!」 ああ、ああ。この時ほど俺は自分が物に触れられないという事実を恨んだことは無い。 口汚く「化け物」と連呼し続ける兵士なんざどうでもいい。殴る価値もない。俺はただ隣にいるこいつの黒髪をはたいて「何バカな妄想を真に受けてやがる」と一言言ってやりたかった。俺は俺の意志で死んだんだ。お前が死なせたわけじゃねぇよ。うぬぼれんな、って。だからそんな妄想野郎の戯言になんか耳を貸すな。 声すら届かないもどかしさに、知らず、唇を噛む。血の味がするってのが逆に滑稽だ。 隣に立つグズは拳を握りしめて視線を地面に向けた。それを見て俺は、この馬鹿が、と呻く。だがこちらがチッと舌打ちをしたその直後、握りしめられていた拳がほどけて金眼が再び前を見た。さぁ言い返してやれと俺は思ったのだが―― 「十分理解してますよ。オレが兵長を殺した化け物だってことくらい。だから壁の外の巨人を駆逐し終えたら、最後の巨人として無残に殺されてやりますとも。あんたがぎゃあぎゃあ喚かなくてもね。……まぁ巨人化したオレよりあんたの方が巨人を沢山殺してくれるって言うんなら、今ここで死んでやってもいいんだけど」 でもできないだろう? と、俺の隣のこいつは笑う。それはそれは穏やかに。 その笑みを見て俺はぞっとした。 おい、お前は一体何を言っている? お前は自分が俺を殺したと思ってんのか? 違うだろ? 俺は俺の意志で死んだんだ。お前に殺されてやったわけじゃねぇ。それに最後の巨人として殺されてやるって何だよ。お前、今までどれほど人間のために戦ってきたと思ってんだ。お前はもう名実共に「人類の希望」なんだぞ? そうまで呼ばれてるくせして、なんで自分から殺されてやるなんて言うんだ。 こいつに暴言を吐いていた妄想野郎はそんな返答に気圧されたのか、何事かをほざいてどこかへと去って行った。何を言ったのかなんて今の俺にはどうでもいい。ただこいつのおかしな言動にだけ意識が向かっていた。 まさかお前、今までずっとそう思ってきたのか。お前が俺を死なせたって。だから最後は巨人として自分が守ってきた人間に殺されてやるって。なぁおい、お前、馬鹿だろう? 俺はお前がそんな最期を迎えるために未来を託したんじゃねぇ。そんな……そんな業を背負わせるために生かしたんじゃ。 去って行った兵士の背を見送ってこいつは笑う。その笑いは徐々に大きくなり、微笑から肩を震わすものへ、そして腹を抱えて爆笑し始めた。 「くくっ……あはっ、はは、あははははっ!!!」 天を見上げた金色の双眸がギラギラと歪に光る。 「オレはあの人を死なせた! 本当の『人類の希望』を殺してしまった! だから生きるんだ! その人が本来なすべきだった分まで!! 殺してやるよ! 巨人を全部!! 背負ってやるよ! 人類の希望ってやつを!! ……だから、お願いだから」 「全部終わったら、どうかオレに償わせて(死なせて)ください。リヴァイ兵長」 震える声と共に空を見つめる金色の瞳からぽろりと水が零れ落ちた。 違う。違う違う違う!! 俺はそんな思いをさせるためにお前を生かしたわけじゃない。お前を死なせるために生かしたわけじゃない。俺は―― ……ああ、くそっ。そういうことかよ。 俺はこれまでのこいつの様子を思い出しながら苦々しく呻く。 嗚呼どうして気付かなかった。こいつの強さが技術面によるものだけじゃなかったってことに。あの日を境にあいつがどうして強くなっていったのか、目覚ましい戦績を上げるようになっていったのか、それは単純にあいつが傷つくことも死ぬことも恐れなくなっていったからだった。俺が救った命を使い切るために。巨人を全て駆逐し終えた後の世界のことなんて考えちゃいなかったんだ。その先の未来にこいつ本人が生きてるつもりなんて微塵もなかったのだから。 後悔したってもう遅い。 俺が死んだその瞬間にそれは始まっていて、そして俺の声はこいつにはもう届かないのだから。 本当の馬鹿でグズは俺だった。そして気付いた俺はやっぱり消えることもできずに、ただ最期の瞬間まで己を消費し続けるこいつを隣で見続けることになる。 もうそれならいっそ、俺がこいつを殺しておくんだった。 死にたがりの化け物
「ああ、やっと死ねる」 壁の外の巨人を全て駆逐し終えた後。 最大の功労者にして「人類の希望」とまで言われたとある青年が残した最期の言葉は、安堵に満ちたその呟きだった。 To be continued...? 2013.05.20 pixivにて初出 救済編を追加してオフ本になりました。詳細はoffページをご覧くださいませ。 |