リヴァイが子供を連れてきた。
 845年。壁の中で安穏と暮らしていた人類が再び巨人の脅威を思い出したその日、調査兵団の本部に帰還したハンジ・ゾエが見たものは、人類最強の男に手を引かれて廊下を歩く幼子の姿だった。
 金色の目の利発そうな少年である。キース団長とエルヴィン副団長の部屋がある方向から歩いてきたリヴァイはハンジを一瞥すると、足を止めて口を開いた。
「今日から俺が預かる、シガンシナの生き残りだ」
「へ?」
 シガンシナ区は今回、巨人が最初に侵攻してきたエリアである。ゆえに被害も一番大きい。ハンジもリヴァイも主にそこで戦闘を繰り広げた。
 その生き残りを何故リヴァイが連れているのか、しかも預かるとはどういうことなのか。シガンシナを含むウォール・マリアからの難民はウォール・ローゼで引き受けることになっている。それらの管理は駐屯兵団や憲兵団が担当しており、調査兵団はそういった難民引き受けに一切関与していないはず。
 リヴァイが子供を預かることと、その子供がシガンシナ区出身であることの繋がりが見えず、目を点にするハンジだが、それを一切気にかけることなくリヴァイは傍らの子供に告げる。
「エレン、こいつはハンジだ。うちの巨人研究の責任者でもある。敵を倒すにはまずそれを知ることからとも言うし、今後何かと関わりを持つかもしんねぇから挨拶だけはしとけ」
「はい」
 悪夢のような世界から逃げ出してきただけの人間とは思えない熱を瞳に宿し、子供はリヴァイに頷く。そして真っ直ぐに金色の目でハンジを射た。
「エレン・イェーガーです。これからリヴァイ兵士長……調査兵団でお世話になります」
「さっき団長とエルヴィンに許可を取った。こいつは俺が鍛えて将来的には調査兵団の兵士にする」
「……ふうん」
 団長達が許可したならばその部下であるハンジに反対するつもりはない。それに潔癖症のきらいがある男の左手と繋がれている小さな手を見て、ハンジはいつもの調子を取り戻しながらニコリともニヤリともつかぬ笑みを浮かべる。
「面白そうだし、いいんじゃない? 私も協力させてもらうよ。これからよろしくね、エレン」
「はい」
 孤高ながらも沢山の兵士から憧憬のまなざしを受けるリヴァイが手ずから育てると決めた兵士の卵。おそらくエレンには今後色々な不条理が襲い掛かる。けれどもきっとそれに負けないであろう金の瞳を見返してハンジはもう一度小さく笑みを浮かべた。
 直後、リヴァイから「なに気持ち悪い顔で笑ってやがる」と、足技と言うとんだ不条理に自分自身が晒されたのは納得いかなかったが。

* * *

 847年。
 十二歳と言う若さで調査兵団に正式入団した少年がいる。おそらくそれは歴代最年少となるだろう。
 調査兵団本部の廊下を歩きながらペトラ・ラルは考える。
 すごい、という感情はない。何故ならまだその少年の実力をペトラは直接見たことが無いから。
 有り得ない、とは思わない。彼の後見人が自分の所属する組織の現団長であり、また育てたのが人類最強と称される男だと知っているから。
 ただ、妬ましい、と思う。
 調査兵団に属する兵士の多くは数多の巨人を屠ってきたリヴァイと言う男に憧憬の念を抱いている。下手をすればもっと強烈な感情を持つ者もいるだろう。そんな者達がいくら望んでも手に入らないものを、その子供は易々と手に入れてしまっているのだから。
 二年前のシガンシナ区の戦闘でたまたまリヴァイに命を助けられたというだけで。
 しかも拾われた子供の容姿がそこそこ見られるものであったため、リヴァイが幼子に性的な意味で執心しているなどという、彼を尊敬する者には耐えられない醜聞まで囁かれる始末。
 己もまたリヴァイを尊敬する人間の一人であるからこそ、まだよく知らぬ子供への憎しみにも似た苛立ちはペトラの中で日に日に大きくなっていた。
 そんな子供にこれからペトラは対面する。
 約一ヶ月後に控えた第28回壁外調査。ペトラはこの調査でリヴァイと同じ班に選出された。そして彼の少年も同様にメンバーの一人として選ばれており、ペトラがもう間もなく辿り着くミーティングルームで顔合わせとなるのだ。
 目的地の扉まで辿り着いたペトラは一度深呼吸してドアを叩く。そしてノックの後、応答があったので彼女はドアノブを握った。
「ペトラ・ラル、入ります」
 両開きの扉を開けたそこには幾人かのメンバーが集まっていた。
 今回リヴァイが率いる班は本人を含めて六名の少数精鋭となっているため、部屋自体あまり広くない。少し大きめのテーブルと椅子があり、上座にはすでにリヴァイが腰掛けている。
 そしてペトラは見た。そのリヴァイの斜め後ろに控える、兵士に不釣り合いな幼さを持つ少年を。
 背後の窓からは薄曇りの空から零れる光が差し込み、まだシャープになり切れていない少年の輪郭を淡く縁取っている。
 やや伏せられた金色の双眸は一見静謐だが、人形のような硬さはなく、生命に溢れていた。きっとその目が真っ直ぐにこちらを見た瞬間、自分はその躍動感を否応なしに感じ取ってしまうだろう。
 すらりと伸びた手足はまだ細く、筋肉の発達が追い付いていない。しなやかな若木のような肢体はこれからもまだ伸びるだろうことを予想させた。
「……、」
 ペトラは瞬きを数度繰り返す。
 美しい少年だった。彫刻のような『美』や女性的なものとはまた違い、生命そのものを体現したような。
 無意識に呼吸を止めていたペトラは、しかしすでに着席していたメンバーの一人が小さく咳払いをしたことではっとする。音の方に視線を向けると、あごひげを生やした男――確かエルド・ジンと言う名だ――がかすかな苦笑を浮かべていた。まるでペトラが受けた衝撃に理解を示すかのごとく。ひょっとしたらこの男も自分と同じような体験をしたのかもしれない。
 エルドに目礼し、ペトラもまた席に着く。
 そうして、後からやって来ては自分とほぼ同じ反応をするメンバーを幾人か見届け、きっと彼らも着席している自分と同じことを思ってしまったのだろうと考えた。
 リヴァイ兵士長とエレン・イェーガーに関するそういう¥X聞は有り得ないことではないのかも、と。
 無論、その後すぐにかぶりを振って、人類最強の男に限ってそれはない、と強く否定したが。
(けれどエレン・イェーガーに兵士としての実力が無ければ……本当に噂は事実だったってことになってしまう)
 もし今度の壁外調査でエレンがリヴァイに守られるだけのような人間であったと証明されたならば。その瞬間、己の中にある憧憬は穢されてしまう。ペトラは、またエレンとリヴァイを除くここに集められた者達は、それを許しはしないだろう。そして大事なものが穢されたことを否定するため、エレンに何をするか分かったものではない。
 まさか巨人ではなく同族に刃を向けるなんてことが起こらないよう頭の片隅で祈りながら、ペトラは静かにミーティングの開始を待った。


 ペトラを含めた多くの者が抱いていた嫉妬交じりの不安は杞憂に終わる。
 壁外調査に向けて訓練が開始された途端、エレン・イェーガーはリヴァイがその傍に置いている慰め用の人形ではなく、正しく彼が育てた立派な兵士であったのだと、人々は知ることとなった。
 最初は知識面。
 長距離索敵陣形を含む今回の作戦についての説明はほぼ全てエレンの口からなされた。当初の予定ではエルヴィン団長の補佐役だったらしいのだが、エルヴィンが一言声をかけると逡巡することなく頷き、彼に代わって講堂に集められた兵士達に淀みなく説明を行ったのだ。無論、その後の質疑応答にも一度たりとも詰まることなく答えていた。
 続いて戦闘面。
 第28回壁外調査には今年全訓練課程を修了した第101期訓練兵団の少年少女達――当然のように皆エレンより年上だ――も参加するため、彼らとまだ若い兵士達用に巨人との戦闘を想定した訓練が行われた。リヴァイとエレンがそれに手本≠ニして参加したのだが、披露された二人の動きはどちらも同じくらい見る者を圧倒するものだった。
 一度の攻撃で二体の巨人を屠ることができるのは今までリヴァイただ一人だけだったのだが、本物の巨人がいない訓練とは言え、エレンは大勢の目の前で人類最強と同じ技術を披露してみせたのである。
 リヴァイの方は人類最強≠ニいう肩書から凄いことは予想できていたのに対し、エレンの方は子供と言う見た目も手伝って、ひょっとすると驚愕の度合いはエレン側に大きく傾いていたかもしれない。
 エレンの能力の高さを知った者は誰もが理解せざるを得なかった。彼は人類最強の兵士が育てた傑作である、と。冗談でもリヴァイの稚児などとは言えない。
 個人で手本を見せた後、更に二人は協力して戦う際の型も披露した。声をかけず、目を合わせることもほとんどなく、それなのにリヴァイと阿吽の呼吸で巨人を模した目標のうなじを切り裂いていくのは、最早一から全て彼に仕込まれたエレン・イェーガーという兵士にしかできない芸当であろう。
 この一件のおかげでペトラのエレンに対する不安材料は払拭されたと言っていい。そしてまた兵士の一人として、エレンの実力には純粋に感服した。リヴァイに鍛えられて羨ましいという気持ちはまだ持っていたけれども。


 一日の訓練を終えて夕食時になると、ぞろぞろと兵士達が食堂に顔を見せ始めた。上級の兵士は宛がわれた自室で摂ることが多いのだが、例外はある。
 例えば、
「ハンジ分隊長?」
「やあ、君は確かリヴァイのとこの……」
「ペトラ・ラルです」
「そうそう。ペトラ、お疲れ様」
「分隊長こそお疲れ様です」
 リヴァイとは旧知の仲であるらしいハンジ・ゾエがペトラの斜め前に座る。
 ハンジは巨人好きの変わり者だが、その腕は分隊長と言う肩書に相応しいものだ。また巨人に関する知識も豊富で、リヴァイと度々話し合っている姿を目にする。
「訓練はどう? リヴァイのことだから変なところで厳しいんじゃない?」
「いえ、そんなことは。と言うより、今日は主に今回の調査の予定を説明したりだとか、新兵の訓練だとかで、あまり一緒にいる時間もありませんでしたし」
「あー、うん。そうだったね。午前の説明は、まぁ……団長も無茶ぶりするよねぇ。あと午後の訓練の件は私も聞いてるよ。新兵どころかそんじょそこらの兵士には無理すぎることをやって見せたんだって?」
「そんじょそこら≠ヌころか、あの二人以外にはできないと思います」
 ペトラが答えると、ハンジは苦笑を浮かべて「そうだねぇ」と相槌を打った。
 そしてどこか遠くを見るように眼鏡の奥の目を一瞬だけ眇め、
「ほんと……よくここまで育ってくれたよ。おかげで彼の悲しみも少しは和らぐだろう」
「……え?」
 食事の手を止めてペトラは小首を傾げる。
 彼? 悲しみ? 和らぐ?
 どういうことなのかと、斜め向かいの黒い瞳を見返せば、ハンジは苦笑を本当にかすかな微笑へと変えて「リヴァイがあのツンケンした態度で、実は結構部下思いだってことは知ってる?」と尋ねてきた。
「えっ?…… あ、はい。息を引き取る前の兵士に言葉をかけていたという話は耳にしています」
「うん。まぁそう言うわけで、リヴァイって人間は中々情に厚いところがある」
 でも、とハンジは続ける。
「彼は人類最強と称されるほど強い。だからこそ看取る部下も多い。大事にしてきた仲間のほとんどが彼の前から消えていったよ。彼に希望だけ託して、残酷なまでに呆気なく」
「……、」
 ハンジの言わんとしていることが何となく解ってきてペトラは無言で小さく頷いた。
「エレンは強い。リヴァイが手塩にかけて育てたからね。あの子は簡単には死なないだろう。つまりはさ、無責任に希望だけ託して、リヴァイの前から消えたりしない。きっと今までの兵士で一番彼を悲しませない存在として在り続けてくれるはずなんだ。あの子がいれば、リヴァイは……」
「悲しいばかりじゃなくなる、と?」
「うん。そういうこと」
 にこりと笑い、ハンジはスプーンを手にする。どうやらようよう食事を開始するらしい。
「勿論、悲しみ云々はリヴァイの配下についた君にも言えることだよ。……なるべく、エレンにも君にも死なないで欲しい。彼を悲しませることにならないよう。君の死もこれまでと同様にリヴァイはきっとあの鉄面皮の下で悲しむだろうから」
「はい」
 もちろんです、とペトラは付け足す。
 死を恐れて敵前逃亡などというのは兵士の風上にも置けないが、リヴァイを敬愛する者の一人ならば、その恐れを克服し、更には生き残って″トび彼の前で敬礼してみせるべきなのだ。そしてペトラには自分がそうできると思えるだけの実績と自信がある。
 自分は、死んではならない。それはエレン・イェーガーもまた同じく。敬愛するリヴァイのために。
 しっかりと頷いたペトラにハンジは「よろしくね」と告げ、それからスープを一口含んで眉根を寄せた。
「あ。これ、あんまり美味しくないや」

* * *

「ハンジ、余計なことはするな。あんなことを頼んだ覚えはねぇぞ」
 夜。
 リヴァイから珍しく酒に誘われて彼の部屋に赴けば、注がれた琥珀色の液体を一口含んだ途端にそんな非難を浴びせられた。
 ハンジは肩を竦めてグラスの中の氷をカラリと揺らす。
「もう耳に入ってたか。でもあれは別にあなたのためにしたことじゃない。私はエレンのためにちょっとばかり夕食の時間を割いただけだよ」
 カラカラとグラスの中で氷を回しながらハンジは微笑み、次いでふと気付いたように言葉を続ける。
「と言うか、お礼かな」
「礼だぁ?」
「ほら、以前エレンが私のために巨人を捕獲してくれたじゃないか」
 三ヶ月程前、まだ調査兵団に正式入団していなかったエレン、ハンジが信用している部下数名及び本人、そしてリヴァイで、ウォール・ローゼの外に出た。それはエレンの実戦訓練の一つだったのだが、戦果は3m級の討伐2、7m級の捕獲1と討伐2、10m級の討伐1――しかも捕獲以外はほぼエレンが一人で行ったという恐ろしいものとなっている。
 エルヴィンの許可の下で公にされず行われため、それを知る者は当人達くらいだ。
「私に巨人ともっと解り合うための機会を与えてくれたあの子に対するお礼」
 最初の一口以降酒を口にせず、氷を回して遊びながら、ハンジは今日の夕食時のことを思い出す。あの時、ペトラと会話をしつつも、こちらの話に耳を傾ける他の兵士が大勢いたことをハンジは知っている。
「ああやって他人の目があるところで切々とあなたの人情っぽいところを説いて、その上でエレンの必要性を付け加えておけば、ようやく表舞台に立ったあの子にとっての追い風になるじゃない? どうせ今度の壁外調査で一緒に動くなら、敵よりは味方を作っておいた方がいい」
「……ふん」
 リヴァイが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
 けれど明確な否定をしないのは、今のハンジの発言を十分理解しているからだ。
 ハンジはくすくすと小さな笑い声を零し、ようやく二口目の酒を呷(あお)った。氷が溶けて若干薄められた今くらいのがちょうどいい。それなりのアルコール度数を持つこの酒を水で割るどころかリヴァイのように氷も入れずストレートで飲むのは、ハンジの好みではなかった。
 しかしながらリヴァイが持つグラスに目をとめて、ハンジは少しだけ氷を入れたことを後悔する。ランプの明かりに照らされたそのグラスは茶色い液体を黄金色に光らせていた。とろりと濃厚な金色。それはまるで可愛いあの子の瞳のようではないか。
(嗚呼、エレンの瞳がリヴァイに飲み込まれていく)
 ひょっとしてこの男はそれを意図してこの酒を選び、そしてこの飲み方を選んだのだろうか。
「ねぇリヴァイ、次は私もストレートにするよ」
 思わずそう告げた途端、リヴァイの眉間に深い皺が寄る。それを見てハンジは再び肩を揺らした。
 どうやら推測は正解だったらしい。己が育てた愛し子の一時的代替品を目の前で他人にも飲まれるのが嫌なのだろう。それならば最初から酒など出さなければ良かったのにと思うものの、リヴァイがそうしなかったのは今回のことを彼なりに感謝しているから――……と言う風に解釈しておく。もしその解釈が正しいならば、物凄く遠回しな感謝の仕方ではあるけれど。
「いいよね?」
「……今回だけだ」
 その答えに「ありがとう」とは返さない。
 苦虫を噛み潰したような知人の顔を眺めてハンジは薄まった琥珀色の液体を呷った。






アウルム アキエース

(845・847年)







2013.05.08 pixivにて初出