正十字騎士團日本支部の支部長メフィスト・フェレスには常に彼につき従う少年がいる。青みを帯びた黒髪、深い海を思わせる青眼、傷や肌荒れなど知らぬ肌理の細かい白い肌を持つその少年をメフィストは「燐」と呼んでいた。
ファミリーネームは不明。そもそも「燐」が愛称であるのか本名であるのかすらメフィストとその少年以外誰も知らない。 青い目を持つその少年はいつもメフィストの傍らにいるだけで仕事らしい仕事をしている様子もなく、無表情で突っ立っているかメフィストがいる理事長室内のソファに腰掛けているかのどちらかだった。仕事でメフィストの元を訪れる祓魔師達が燐に興味を持っても話しかけるタイミングなどほとんどなく、また運良く機会に恵まれたとしても燐からの返答はハイかイイエの二択しかないため、本当に彼が何のために同席しているのか理解している者はいなかった。 その弊害と言うべきか、一部の口さがない祓魔師達は少年をメフィストの稚児だとか愛人だとか影で嘲笑している。篠原康孝が祓魔師資格を得てさほどもしないうちに理事長といつも行動を共にしている少年の名を知ったのも、そんな同僚達の噂話からだった。 メフィスト・フェレスのお気に入り。 燐という名前よりも先に少年を示すのはそんな言葉になっている。悪意が籠もった呼び方に、最初、篠原はあまり良い印象を抱いていなかった。だが数々の過酷な任務をこなしてはその報告のたびにメフィストの傍らで何の苦労も知らなさそうな少年を見かけていると、徐々にその悪意が籠もった呼び方への嫌悪感も薄れていった。 蔑称を自ら進んで使うことはなかったが、他人が使っても不快と感じることはない。むしろこうやって日々頑張っている自分達とは真逆の、きっと甘やかされて楽をしているだろう少年にはそんな蔑称がお似合いだとすら思った。 が、しかし。 「平気か、メフィスト」 「ええ、君のおかげで汚れ一つありませんよ」 「ならいい」 頬の筋肉をゆるめて淡い笑みを形作る青い瞳の少年は、シミ一つない白い服をまとうメフィストとは裏腹に全身を紫がかった体液(血液)で染めていた。 その手に握るのはひと振りの刀。鋼の部分に梵字を刻んで退魔の力を付加したそれもまた、全身に浴びた悪魔の血と同じ色に染まっている。 篠原がこの場に居合わせたのは偶然だった。そして篠原はこれまで自分が持っていた燐へのイメージが事実からかけ離れた勝手な妄想であることを知った。 普段メフィストは正十字学園内で仕事をしている。正十字学園は中級以上の悪魔が進入できない強力な結界が張られており、敷地内にいる限りは悪魔の襲撃に警戒する必要もない。が、何事にも例外はある。手騎士などが召喚すれば敷地内に高レベルの悪魔を引き入れることができるのだ。 今回はおそらくその例外に該当する。 悪魔と戦う祓魔師達の集団に属するメフィストだが、彼が悪魔であることは一定レベル以上の祓魔師達の間では暗黙の了解であった。またこの二百年間彼が正十字騎士團に不利益をもたらしたことはなく、メフィストが悪魔だと知っていながらもその指示に従う祓魔師達は大勢いる。しかし全ての祓魔師が何の不満も持たずメフィストの存在を許容しているわけもなく、「いつかは……」とよからぬことを考える者達もいた。そして今回、実際に行動して見せた者が出たのだ。しかも手騎士の才能を持つ者が。 「君がそんなにも血をかぶってしまうとは……なかなかの強敵じゃあないですか」 強敵、と言いつつもメフィストが口にしたその単語のニュアンスは完全に相手を侮っている。 「はっ。メフィスト、お前今度は面倒な奴に目ぇつけられたな。中級の中でも上位の悪魔なんだろうけど、そんなのほいほい召喚して直接理事長室(ここ)に送り込んでくるキチガイ野郎だ」 普段の無口はどこへやら。ケラケラと笑いながら燐は刀に付着している血を振り払う。雫が飛ぶその足下には数多の刀傷と急所への一撃が加えられた悪魔が虫の息で横たわっていた。 いやーまいったまいった、と笑う燐に篠原は息を呑む。 篠原の見立てでも突然己の報告中に襲撃してきたこの悪魔は中級以上。しかし燐はそれを無傷で倒してしまったのだ。急襲にも驚いたり焦ったりすることなく、飾りだと思われていた二つの棒状の袋の一方から抜刀し、悪魔の爪がメフィストに届く遙か手前で弾き返した。その後はまるで剣舞でもしているかのように攻撃を加え、最後には肉薄して悪魔の急所――隠れていたはずの心臓を正確に貫いた。 人間とは異なる色の血を全身に浴びたのはその時だ。剣を抜いて傷口から溢れだした血をかぶりながらも燐は一瞬でさえ怯むことなく、己より大きな巨体を絨毯の上へと放った。 誰だ。彼を無能と言ったのは。 誰だ。彼を支部長の稚児だとか愛人だとか言ったのは。 燐はそんなものではなかった。彼はきっとメフィスト・フェレスの懐刀。メフィストが手を煩わされる前にその芽を摘む者。その辺の祓魔師よりよっぽど腕が立ち、またメフィストには絶対に刃を向けない守護者にして従僕だった。 中級の中でも上位であろう悪魔を相手に接近戦を仕掛けて、被害と言えば血をかぶっただけ。自身の怪我は一つもなし。彼が傷を負う覚悟で、もしくは命を失う覚悟でメフィストの敵に向かった場合、一体どれほどの力を見せるのか……。 「とりあえずこいつが」と言って燐は虫の息の悪魔をつま先で蹴る。「死ぬ前に、誰に召喚されたかくらいは聞いとくわ」 そうして犯人を突き止めた後に燐がどうするのか篠原に教えられるはずもない。しかし予感があった。どこの誰かは知らないが、おそらくこの悪魔を送り込んできた手騎士はもう二度と日の目を見ることはないだろう。次に参加する任務で殉職するか、それとも私生活の方で事故≠ノ巻き込まれるか。 「そうですね。お願いします」 「おー。じゃあ俺は向こうでちょっと話し合ってくらぁ」 燐は悪魔の足を掴むとずるずる引き摺りながら廊下に繋がる扉の向こうへと消えていった。 理事長室に残されたのは部屋の主と来訪者である篠原の二人。燐の背を見送っていたメフィストの黄緑色の瞳がひたと篠原を捉えた。 「お騒がせして申し訳ありませんでした。ああ、報告の方はもう結構ですよ。大分お時間を取らせてしまいましたし、君が書いた報告書なら読むだけでも大体のことは把握できると分かっていますから。今日はもう帰ってゆっくり休んでください」 「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」 篠原を気遣うように思える一方、早くこの場から邪魔者に退室してほしがっているようにも思える。が、そんな感想などおくびにも出さず、篠原は一礼してメフィストの前から辞した。 そして部屋を出てすぐにはたと気付く。 燐の発言を思い返せば、おそらく襲撃は今回が初めてのことではない。過去にも幾度かあったはずだ。しかし支部長が襲撃されたなど大事件であるはずなのに、これまで一度もそんなニュースが篠原の耳に届いたことはなかった。一般の祓魔師には全く公開されていないのだ。 そして今、襲撃事件や燐の実力に関して他言無用などとは一言も言われてない。これは篠原が安易に他人に話すわけがないと信じられているのか、言ったとしても誰も信じないと思っているのか。それとも今回は支部長襲撃の件を公表するつもりであり、篠原がどう行動しようと関係ないのか。はたまた――。 篠原の意思がどうであれ、誰かに喋る前にその口を塞いでしまえばいい……と考えている、とか。 などとうっかり想像してまい、篠原はぞっとした。思わず足を止めれば、廊下に反響していた足音もぱたりと止んで辺りが嫌な静寂に包まれる。 「まさか、ね」 「なにが?」 「ッ!?」 独り言に返事があったので篠原は驚いて肩を揺らした。慌てて振り返れば未だ血みどろ――ただし悪魔はもう引き摺っていない――燐が立っている。さっそく手騎士の名前を入手してきたのだろうか。……一応、そんなに簡単に悪魔が口を割るとも思えないのだが。 「驚かせて悪かったって。そんな警戒すんなよ」 普段の人形然とした様子とは正反対の態度で燐は篠原に言葉をかける。 しかも、 「あ。さっきの件、できれば誰にも言わねえでくれよ。あんま大事にしたくねえんだ」 メフィストが言わなかったことをあっさりと言って燐は笑う。あまりにも表裏なくごくごく普通に言うものだから篠原が驚いた顔をすると「あれ? メフィストに言われてなかったか?」と燐もまた驚いてみせた。 「え、ああ。まぁ」 「あいつこんなことサボんなよ……」 燐はそう独りごちてから篠原の肩をぽんと叩く。 「まぁとにかくよろしくな。もし他人に言ったら……いや、言おうとしたら実行する前にメフィストが何かするから」 「わかりました。肝に銘じておきます」 「あー敬語はなしでいいぜ」 「……じゃあ次からはそうするよ」 「おう」 ニカッと歯を見せて笑い、燐は「またなー」と手を振って理事長室へと足を向けた。篠原は少しだけその背中を見つめた後、ひとまず今回のことを他人に口外しなければ問題ないらしいと理解してほっと一息つき、歩みを再開させた。 □■□ 「おい、メフィスト。お前なんであいつに口止めしなかった? まさかわざとじゃないだろうな」 燐は理事長室に戻ってきて開口一番、メフィストを問いただした。しかしながら何となくメフィストの回答とその理由を察していたため、声音には若干の呆れが入っている。 果たしてメフィストの答えは、 「もちろん、わざとです」 何ら悪びれることのない肯定。 燐は大げさに肩を落として「お前なぁ」と溜息をつく。 「確かにあのタイミング≠ナ任務の報告やら襲撃やらがあってイラっとしたのは解る。でも本来勤務時間中なんだから、悪いのは篠原じゃなくて完全にお前の方だろ」 「おや。勤務時間中であるにも拘わらず私の誘いに乗ったのは君自身ですよ、燐?」 「それとこれとは別の話だ」 メフィストの意味ありげな流し目と共に放たれた台詞をばっさりと切って捨て、燐は「ともかく」と腕を組んだ。 「いくら邪魔されて機嫌が悪くなったからって八つ当たりで若い祓魔師を怖がらせるのはやめてやれ。お前、自分が口止めしなけりゃ相手がどう考えるのか、ちゃんと相手の思考回路まで読んだ上で何も言わずに返そうとしやがって。あいつ、かなり怖がってたぞ」 「怖がらせるぐらいちょっとしたイタズラ心ではありませんか。そう怒らないでくださいよ」 「もしあいつが誰かに話そうとしたら、それを口実に手ぇ出すつもりだったくせに?」 「……君が私のことを良く理解してくださっているようでとても嬉しいですね」 「ぬかせ」 燐は再び溜息をつき、窓を背にして座るメフィストへと近付いていく。 その姿は未だ悪魔の血にまみれていたが、メフィストがドイツ語のカウントダウンと共に指を鳴らしただけで部屋も燐の姿も数刻前の状態へと戻る。 「さんきゅ」 「いいえ」 メフィストから数十センチと離れていないあまりにも近すぎる場所で立ち止まり、燐はそのまま相手の頬に手を添える。メフィストはされるに任せ、少しだけ加えられた力に従って上を向いた。 黄緑色の双眸と視線を合わせて燐は青い目を眇める。 「そう拗ねんなよ。続きは今からしてやっから、さ」 椅子に座っているメフィストの足の間に片膝を乗せて両腕は相手の首に回し、呼気が感じられる距離で燐はうっそりと笑ってみせた。 「それとももう冷めちまったか?」 「まさか」 メフィストは肩を竦めて燐の腰に手を這わせる。 「もし一度冷めたとしても今の君を前にして拒否するはずがありません」 「そりゃ良かった」 かすめるように触れ合わせた唇が美しい弧を描く。 「かわいい下僕≠ェ汚れずに済んで良かったのはいいが、一度上げられた熱を勝手に下げられて終わったんじゃたまんねーからな」 「フフフ、一体誰が想像するでしょうね。君が私のものではなく、私が君のものであるなどと」 「まぁバレちゃメンドーだし」 「ええ。さすがにこればかりは三賢者も動かざるを得ないでしょう……まさか虚無界の若君が物質界に現出しているなんて知ったら」 くくく、と肩を震わせるメフィスト。 「そうさせないために俺がお前の愛人だっつー噂話も放置してんじゃねーか」 下僕と称したメフィストの額、瞼、頬……と唇を落としながら燐もまた喉の奥を震わせる。 報告をしにメフィストを訪ねてきた者がいても燐としてはただの祓魔師の前で口を開く理由も笑顔を作る理由もないため、その通りに振る舞っていただけだった。メフィストも己の主人たる燐の振る舞いには何の口出しもしない。するはずがない。しかし燐の素性を知らない者からすれば、それは燐がメフィストに可愛がられている∞甘やかされている≠謔、に見えたのだろう。 稚児や愛人説を否定して「だったらお前は何者だ」と問いかける面倒な蠅を増やすよりは、下世話な噂話に花を咲かせてもらっていた方がいい。と言うわけで、燐もメフィストも自分達に関するゴシップを放置していたのだった。 また噂話の放置だけでなく、燐が戦えることを漏らさないようにもしている。諸事情により燐が所持する二振りの刀のうち一方を抜いてしまうと燐の正体が容易に知られてしまうので戦う際にはもう一方のダミーを使用しているが、それでも――本命を抜いた時とは月とスッポンほどの差があるものの――人並み以上の攻撃力は発揮される。やや戦闘狂の気がある燐に注目を集めさせないためにも目撃者に口止めは必須だった。 燐はメフィストの帽子を落として髪に手を梳き入れる。メフィストが「髪がグシャグシャになります」と苦言を呈しても全くやめようとしない。 「男前が上がっていいじゃねえか」 「先ほど勤務時間中と発した口で何を仰いますか」 「矛盾したことを言ってるもりはねーぜ?」 相手の太股に乗り上げながら燐は頭を傾けて嫣然と笑う。 そして服の下に隠していた尻尾を外に出し、メフィストの腕に巻き付けて、 「ご主人様の熱を発散させるのも下僕の大事な仕事だろ? 上手にできたらご褒美として俺がお前の熱を何とかしてやるよ」 メフィストが抱えた熱は先程から椅子に乗せた膝で感じていたし、己が抱えた熱は今こうしてメフィストに感じさせている。 あからさまな態度で己が迫るのは祓魔師が現れる前に目の前の男の手で上げられた熱が奥で燻っていたため……と、更に悪魔の血をかぶってその血臭に興奮しているからだろうか。 燐は赤い唇を舐め上げてメフィストに「なあ?」と回答を促す。 「り、ん……さま」 「サマエル」 真名で呼べば黄緑色の目が熱を孕ませてじわりと眇められた。 「……我が君のお望みのままに」
メフィスト・フェレスのお気に入り
2013.01.10 pixivにて初出 |