数百年後の魔王とNo.2



「メフィスト、あとは任せた。俺はもう休む」
「承知致しました」
 胸に手を当てて腰を折り、一礼した悪魔はすっと影のように王の間から去った。それを見届けるつもりも無いらしい青い瞳は眠そうに細められ、ふぁと小さな欠伸を零して玉座から腰を上げる。
 その動きに従って傍らに侍っていた女性型の悪魔が恭しく上着を差し出し、青い瞳の王は礼も言わずに受け取って王の間の奥にある彼の寝室――そこへと続く廊下へと姿を消した。
 主がいなくなった広い室内でその主に仕える悪魔達はひそひそと言葉を交わす。
「なあ、どうしてかのお方はサマエル様を本当のお名前で呼ばれないのだろうか」
「知らないのか? 昔、サマエル様はかのお方に大変な無礼を働いたらしいぞ」
 サマエルと言うのは先程、彼らの王から言葉を賜った上級悪魔の名前である。しかし王は彼を決して本当の名前で呼ばない。メフィストという呼称はずっと昔――まだ王が若く、王もサマエルも物質界にいた頃に、サマエルが名乗っていた人間の名前らしい。要は仮初の名だ。
 悪魔のような『物質界での実態を持たない類』の存在にとって名前というのは人間達よりも重要な意味を持つ。かつて王達が住んでいた世界(国)には「名は体を表す」という言葉があったそうだが、まさにそれがピッタリすぎるくらいピッタリ当て嵌まってしまうのだ。
 本当の名を呼ばれないのは本当の自分を相手に認めてもらっていないのと同義。
 つまり先代の魔王の頃から虚無界のNo.2の実力者であるサマエルは、それでもまだ今の魔王の懐には入っていないというわけだ。
「……サマエル様はあんなにもかのお方に尽くしていらっしゃるというのに」
「それほどまでに、かつて不敬をかったんだろう」
「一体何があったのやら……」
「さあ?」
 多少は事情を知っている方の悪魔が肩を竦めた。もうこの話はおしまいだ。自分達には自分達の仕事がある。
 だがその悪魔が王の間を出る際に、ふと何かを思い出したような仕草で「あ」と告げた。
「そう言えば、今の王には人間の弟君がいらっしゃったらしい」
 ――虚無界(こちら)へ来る時、サマエル様の手によって引き離されたとのことだが。
「……たかが人間なんだろ?」
「ああ。たかが人間だ」
「じゃあ有り得ないな」
 話を聞いた悪魔が陶酔の表情を浮かべて王の名を口にした。
「だって燐様は人間を酷く嫌っていらっしゃるのだから」







遠い昔の少年と悪魔



「サマエル」
 その呼び声は睦言に似ている。
 本人にそんな気は微塵もないだろうが、呼ばれる側にとっては一音一音に魔力でも籠もっているかのように甘い痺れが走った。
「なぁサマエル、いつかあの丘の向こうへ行こうぜ。つっても、外に行けるかなんてわかんねーんだけどな」
 苦笑に合わせて青い双眸を持つ顔がくしゃりと歪む。窓の外に見える小高い丘を指差す手には、親からの狂った愛情を示すかのごとく重い手枷が嵌められていた。
 ここはこの少年を守る城であり、また彼の自由を奪う牢獄でもある。サマエルと呼ばれた悪魔は彼が住まうこの部屋に足を踏み入れることができる数少ない悪魔の一人だった。
 少年の父にしてサマエルが唯一従うべき存在の名を青焔魔と言う。
 この世界――虚無界を統べる王の名だ。王の力は強大で、それに次ぐ実力を持つサマエルと比較しても天と地ほどの差があった。ゆえに王は孤独だった。しかしある時、王は自分の力を受け継ぐ分身――この少年を創り出した。青い瞳と、王と同じ青い炎の力を持つ少年。孤独な王は己が作り出した息子を愛し……愛しすぎるがゆえに閉じ込めた。おかげで彼が知っているのは父親であり創造主でもある青焔魔と己の世話をしてくれる悪魔・サマエル、そしてこの窓から見える景色くらいなものだった。
 名前すら、知らない。青い瞳の魔王の息子は自由を得る以前に名前すら持っていないのだ。他者と区別するための記号など不要という理由で。
 だからなのか。少年は自分の分を補うかのように頻繁にサマエルという名を口にする。そしてそのたびに呼ばれる側の胸には言い知れぬ満足感が広がった。
(満足感、か。この気持に名前を付けた途端、私は殺されてしまうのだろうな)
 苦笑して、こちらを見上げる青い瞳に微笑み返す。
「そうですね。いつか出かけましょう。あの丘の向こうと言わず、いっそのこと物質界へ行ってみませんか。きっと貴方を楽しませてくれるものが沢山ありますよ」
「物質界! そうだな! ぜってー行こうぜ!!」
「ええ」



* * *



「おーいメフィストー。って何やってんだ?」
「……ああ、奥村くんいらっしゃい。何でもありませんよ」
「そ?」
 奥村燐が青い瞳をぱちりと瞬かせた。
 もうあの名無しの青い瞳を持つ子供はいない。まだメフィストがこの名前を名乗るよりも前に愛され過ぎた彼は父の手により殺されてしまった。だがその死はメフィストにとって悲劇であり、また幸福でもあった。失われた子はこうして名前を得て、そしてメフィストの手の届くところに再び現れたのだから。
(たとえ、君にその記憶が無かったとしても)
 サマエル、と甘い声で呼ばれることはもう二度と無いだろう。その魂に遠い昔の記憶は刻まれているかもしれないが、思い出せる可能性はゼロに等しい。それに思い出したとしても監禁され続けた彼に楽しい記憶などほとんど無いだろう。だから思い出さなくてもいい。
「この前おまえが欲しいっつってたケーキ、作ってきてやったんだからありがたく受け取れ」
「おお! これはこれはありがとうございます! さすが奥村くん☆」
「男にウインクされても嬉しかねえよ」
 うんざりと顔をしかめる燐にメフィストは「つれないですねぇ」と苦笑する。
 燐はあの頃のように頻繁にメフィストの名を呼ばない。他人の名を滅多に呼ばないというのではなく、人並みに呼ぶということだが。昔は呼べる名前が「サマエル」しかなく、そればかりを口にしていたから、比べると今の方が少ないのは当然だった。
 かつての彼が自分の名前の分も呼んでいたように、メフィストが足らないと思う分だけ燐の名を口にできたら……とは思うものの、今の立場はあまりそれに適したものではない。
「……りん」
「? なんか言ったか?」
「いいえ。ケーキありがとうございます。紅茶を淹れますが、奥村くんもどうですか?」
「俺はいいよ。これから雪男達と一緒に食う約束してんだ」
「そうですか。残念です☆」
「だからウインクはやめろっつーの」
 じゃあ用は済んだから。そう言って燐はメフィストがいる理事長室を出る。
 楽しそうなその背を見送り、ここ200年程メフィストという名を名乗っている悪魔は瞼を閉じて今を精一杯生きている少年の姿を思い浮かべた。
「ねえ、燐。私が言った通り、物質界は貴方を楽しませてくれるものが沢山あるでしょう?」
 応える影はもういない。
 だが「そうだな!」と元気よく答えてくれる声がかすかに聞こえたような気がした。







今世を統べる王と従者



「サマエル、おイタが過ぎるぞ」
 嘲弄を含んだぞっとするほど冷たい声。あまりにも冷たく、またあまりにも普段の彼≠ニ違い過ぎて、それを耳にした者達は誰の発言か混乱してしまう。
 一同は声がした方に振り返って声を失った。
 彼らの視線の先に立っていたのは同じ祓魔塾に通う仲間――奥村燐。幽靈列車(ファントムトレイン)を一刀両断した姿のまま、青い炎を全身のいたるところに纏わせて口の端を持ち上げ笑っている。
 今回、祓魔塾に通う候補生達は幽靈列車の討伐のため、奥村雪男をはじめとする祓魔師達引率の元、今は使われていない地下鉄の駅に来ていた。手順を踏めば問題なく対処できる任務のはずだったのだが、こちらの不手際はなかったはずなのに突然列車が暴れだしたのである。
 それをたった今収束させたのが人に仇名す魔王の血を引きながらも人間に味方する悪魔、奥村燐。そう、彼は人間の味方だったはずなのだが……。
「申し訳ございません、若君」
 ふわり、と幻影のように現れたのは祓魔塾の塾長であり正十字学園の理事長、そして正十字騎士団の名誉騎士でもあるメフィスト・フェレス。いつものひょうひょうとした態度は抑えられ、燐の傍らに現れた彼は膝を折って燐の左手を捧げ持つ。そして、その上にうやうやしく落されたキス。
 平然とした顔でそれを受け入れて燐は「サマエル」と、この幽靈列車を眷属の一つとする『時の王』の名をもう一度口にする。
「今の幽靈列車の暴走、お前がやったな? 大人しくしてろって言ったのはお前の方なのに……それとも何だ。もうこの茶番には飽きたってことか?」
 青い瞳の奥に赤い光を滲ませて燐がニヤリと笑った。
 その笑みを受け、メフィストが顔を上げる。
「そうです、と答えた場合どうなります?」
「……いいぜ。俺もそろそろ飽きてきたところだ」
 言った直後、燐の纏う炎がひときわ大きく燃え上がる。「兄さん!」と雪男が燐を呼んだ。だが青い炎が収まった後、雪男や他のメンバーが知る人懐っこい性格の少年はいなかった。
 心臓を封印していたはずの剣は強すぎる力に耐えきれず折れてその役目を失っている。また抜刀時に額に灯る程度だった炎は固定化され、流麗なラインを描く青白い角を形成していた。
 そして炎と同じ輝きを宿しながらも凍土のような冷たさをたたえた青い瞳が周囲を睥睨する。
「気安く呼ぶな、人間」
「なっ」
「奥村先生、それに他の皆さん。彼の言葉には逆らわない方が身のためですよ」
 燐の傍らで立ち上がったメフィストがうっそりと笑みを浮かべて告げる。
「今、貴方達の前にいるのは私の主――。虚無界の新たなる神なのですから」







2012.10.08 pixivにて初出

燐様が冷たい目で「サマエル」って呼んだりだとか、逆に絶対そっちの名前(要は本名)で呼ばない燐様とかイイじゃない!とか呟いてる燐クラスタによる妄想でした。