君に、奇跡をあげよう。



* * *



 夢から覚めた燐は腕の下に真っ白な栞が挟まれているのを確認し、続いて寝る前と何ら変わらぬ寮の部屋を見回した。そして、小さな小さな溜息を一つ。
「……なんも変わらなかった」
 薄々勘付いてはいたけれど。
 燐は確かに過去へ行ったかもしれないが、メフィストは燐が訪れた過去の世界を“サブ”、今いるこの世界を“メイン”と称した。ゆえにおそらく、燐が所詮“サブ”でしかない世界で頑張っても“メイン”の今に敵うはずがないのだ。
 藤本獅郎は死んだ。
 彼の躯(むくろ)は冷たい土の中にあり、もう二度と燐に笑いかけてはくれない。栞もこうして真っ白になってしまったから、たとえ燐が望んだとしても過去へ行って言葉を交わすこともできない。
「……ッ」
 ジジィ、か。はたまた獅郎、か。自分でも分からぬままただ一人の名を呼ぶ。
 どうして世界はこんなにも残酷なのだろう。
 獅郎と一緒に生きたいなどとは言わないから、せめて燐の代わりに獅郎を生かして欲しかった。ひょっとしたら獅郎が死なずに済むかもしれないという希望を見せておいて、結局彼は死んだままだなんて酷すぎる。過去を変えることができないなら、わざわざ過去の世界に飛ばす必要もなかったはずだ。
 それとも―――
「これが俺への罰だって言うのか」
 悪魔として生まれ、慈しんでくれた養父を死なせて。
 この残酷な夢こそが、世界もしくは神が燐に与えた罰だとでも言うのだろうか。
 メフィストは自分が燐に栞を渡したことも必然だと言った。それはつまり、そういうことなのではないだろうか。
「し、ろう……。ジジィ……」
 燐を慕ってくれた子供の獅郎。燐に恋をしていた青年の獅郎。そして、燐にとって世界で一番カッコイイ父親でいてくれた藤本獅郎。
 どう足掻いても彼は帰ってこないのだと改めて思い知らされ、燐は痛む胸を右手で押さえつける。
 だが、その時。
「おい燐! 体調が悪いってホントか!?」
「…………へ?」
 ドバンッ! と602号室の扉を開けて入ってきたその人物に、燐は青い目をこれでもかと言うくらいに丸くした。
 ずかずかと入室したのは黒いカソックに身を包んだ壮年の神父。彼は丸眼鏡の奥の瞳を心配そうに歪めて燐のすぐ傍に立つ。
「ベッドで寝てなきゃ駄目だろうが! ほら、さっさと横になれ。なんなら父さんが子守歌でも歌ってやろうか?」
「…………え?」
「ん? どうした、燐。そんな死人が生き返ったような顔して」
(いやでも生き返ってるし!!)
 その叫びは流石の燐も声に出さない。
 だがとにもかくにも、目の前にいるのは間違いようもなく死んだはずの藤本獅郎だった。
「なん、で。ここに……」
「そりゃ雪男が心配して連絡くれたからに決まってるだろうが。兄思いの弟を持ってよかったなぁ、燐」
「いや、そうじゃなくて」

(なんであんたが生きてんだ)

「サタンに憑依されて、」
「はあ? 俺があんなヘボ魔神に乗っ取られるわけねーだろうが」
「でも俺、ジジィに酷いこと言ったし……!」
「ああ、そんなこともあったな」
 獅郎は軽くそう言って「でも」と続けた。
「お前が俺をどう思ってくれてるかなんてとっくの昔に“聞いて”たからなぁ。今更弾みで言っちまうことくれーで動揺なんかしねえよ」
「あっ……」
 燐は目を見開く。
 この藤本獅郎は燐が過去の世界で告げた言葉を知っている。そしてその言葉があったから、燐が突発的に放ってしまった暴言にも大きく揺れることはなかったと、そういうことなのか。
 だから、彼は生きているのか。
「ッ!」
 じわりと双眸に熱いものが滲む。
 その燐の表情を見て獅郎がはっと何かに気付いた。そして彼は燐の目尻を親指で優しく拭うと、感極まったように目を眇め、
「お前……昔の俺に会ったんだな?」
「し、ろ」
「やっと……やっと逢ってくれたのか」
 腰に腕が回され、強く抱きしめられる。
「お前が昔の俺と出会った燐なんだよな?」
 獅郎の問いかけに燐はうん、うん、と何度も頷いた。
 どうやら燐の最後の行いによって世界は書き換えられてしまったらしい。藤本獅郎が死んだ世界から、彼が生きている世界へと。その影響がどんな形で現れたのか燐にはまだ分からない。だが今はただこの人が生きていることを実感したかった。
 痛いくらいの抱擁に燐も腕を背に回して応える。
「いきて、た」
「おう。死んで欲しくないって燐が願ったから今の俺がいるんだぜ。お前のおかげで俺は生きてるんだ」
「うん」
「ずっと逢いたかった」
「うん」
「ったく、お前も待たせすぎなんだよ。俺もうジジィだぜ?」
「、うん」
「でも」
 腕を緩めて獅郎の視線が燐を捉える。
「まだ燐が好きだ。親父としてだけじゃねえ。あの時言ったみてえに、男としてもお前が好きなんだ」
 見つめる瞳はどこまでも真剣だった。
 親としての愛情もあるのに、同時に親子としてだけでは有り得ない熱がある。ああ青年の時の藤本獅郎の目だ、と燐は思った。
「俺にとってジジィはジジィだけど、良いのか?」
「良いも悪いも……仕方ねえだろ」
 獅郎はそう言って苦笑する。
 そして父親としてだけでは決して出せない甘い声で告げた。
「ずっと前からお前が好きだよ、燐」



□■□



 燐が目覚めたちょうどその頃。
 正十字学園の理事長室で長身の悪魔はティーカップを傾けながらうっそりと微笑む。
「サブがメインに影響を及ぼさないなどと、いつ、どこで、誰が言いましたか?」
 囁きは誰の耳にも入らない。だがその思いが目的の人物へ物理的な意味で届いているのを――もしくはもう間もなく届くのを――彼は知っていた。
「おめでとう、奥村くん! 君は見事、君の養父を取り戻した!」
 一度喪失し、それから過去に影響を与えて未来を変える。これこそがこの世界に与えられた必然。メフィストはその必然の中で己の役割をこなしただけにすぎない。
 だから燐が失った人物を取り戻すのも起こるべくして起こったことだ。しかしメフィストはそれを理解した上で今は寮の自室にいるだろう子供に告げる。おめでとう、と。
 ただし、
「ああでも君が取り戻した藤本ですが、今後ただの養父と言うには違った種類の愛情を表に出してくるかもしれませんけどね☆」
 そう付け足した悪魔の顔はイタズラが成功した子供のように実に楽しげだった。






END







2011.07.30 pixivにて初出