「タイムパラドックスという言葉をご存じですか?」
 真っ白になった栞を持って理事長室を訪ねると、メフィストが何もかも見透かしたような表情でそう言った。
 どうぞお座りくださいと言われたので執務机のすぐ近くのソファに腰掛けつつ、燐は答える。
「聞いたことは、ある」
 主な情報ソースは漫画であるが。
「ならば多少は理解しやすいかもしれませんね」
「どういうことだよ」
 燐がそう問いかけると、メフィストは机の上で組んだ手に顎を乗せてすっと双眸を細める。アルカイックスマイルに似た、感情の読み取れない顔で道化のような男は言った。
「奥村くん、君は過去の世界で藤本に自分を殺せと言いませんでしたか」
「……っ、なんでそれを」
「私と彼はいわゆる友人でしたから」
 どちらかと言うと悪友ですけどね、と付け足してメフィストは更に続ける。
「まあ私が君の言った言葉を知っているということから、君が訪れた過去とこの現在が一つの流れの上にあるという予想はつくでしょう。昔の映画で未来人が過去に行き歴史を変えると別の時間軸が派生するなんてネタもありましたが、君がいる『ここ』は最初から存在していた時間軸だと考えてください。ですから、」
 続けてメフィストは言った。
「藤本は君の願いを聞いても赤ん坊の君を殺しませんでした」
 残念でしたね、と嘘くさい笑みが向けられる。
 燐もそれは予想がついていたので無言で頷くに留めた。
「まあ当然の帰結でしょう。もし藤本が君の願いの通り『奥村燐』を殺したならば高校生になった君は存在せず、つまり君が過去へ行って若き日の藤本に赤ん坊の自分を殺してくれと告げるのは不可能だ。そして藤本も殺せと言われなければ絶対に赤ん坊の君を殺さない」
「……それがタイムパラドックスってやつか?」
「ええ。未来と過去が一本道である以上、未来人が過去の己の死を望み、それが叶えられるなど……そんな矛盾は存在しません。奥村くんが告げた願いは全くの無駄だったと言うわけですね。告げてもどうせ殺してもらえやしないのだから」
 メフィストの言葉に燐は顔をしかめる。解っていたが、その部分を改めて他人から指摘されると不快感がつきまとった。
 だが燐の歪んだ表情を眺めたメフィストは大仰な仕草で肩を竦め、「すみません」と謝罪する。
「意地悪はやめておきましょう」
「……はあ? 意地悪って何だよ」
 燐が険の籠もった声で告げると、メフィストは「何せ私は悪魔ですから」と理由になっているのかいないのかいまいち解らない答えを返した。
「先程の“全くの無駄”という表現は嘘です。君が過去へ行ったことは決して無駄ではありませんでした。むしろ必要なことだったんですよ」
「?」
「前に言ったでしょう。これは必然だと。起こるべくして起こったことなのです」
「でもこれはお前が変な栞を渡したからで」
「それこそが既に必然なんですよ」
 メフィストは窓の外を見やる。しかし鈍いイエローグリーンの双眸が見つめるのは晴れ渡った空ではなく、十五年前の過去。うっそりと笑い、メフィストは少しだけ道化の仮面を剥いで懐かしそうに呟いた。
「……私は君達が藤本に引き取られた時のことをよく存じていますからね」



□■□



 あの日、愛しい人は獅郎の腕の中から忽然と消えてしまった。三度目のくちづけは未遂に終わり、それから十四年間、獅郎は燐という存在に触れることができなかった。
 しかし。
「待ってたぞ、燐」
 赤ん坊を抱き上げ、獅郎は眼鏡の奥の双眸をゆるりと緩ませる。
 腕の中にいるのは黒髪に青い目をした子供。記憶の中に大切に保管してきたあの姿と全く同じ色合いが無垢な視線を獅郎に向けていた。名前は奥村燐。弟の雪男は少し緑がかった青い目だったため、双子であってもすぐに見分けがつく。
 今はすやすやとベビーベッドで眠っている弟の方も一瞥して、獅郎はそっと息を吐いた。
 ようやく過去の成長した燐が言った瞬間がやって来たのだ。
「…………、」
「彼が貴方を聖騎士にした男ですか」
 ひょい、と横合いから上級悪魔にして聖騎士の友人、メフィスト・フェレスが覗き込む。
 まだ獅郎が少年だった頃、燐を探して正十字学園の理事長であるメフィストにまで会いに行ったのがきっかけで、この悪魔との腐れ縁は今もなお続いていた。燐のこともそれなりに話しており、赤ん坊を眺める目も疑いではなく興味と関心を宿している。
「そして私の弟……」
「つまりお前が俺の兄貴になるってわけか。勘弁してくれ」
「……藤本、貴方はまだ父親としての自覚が足りないようだ。これからは奥村燐を親として愛すると誓ったはずでは? それに私も貴方のような弟なんて御免被ります。せめてこの子の千分の一でも可愛げというものをですね、」
「はいはい」
 意味のない説教など右から左へ聞き流し、獅郎はこうして再会するまでの時間を思い出す。
 奥村燐が現れたから藤本獅郎は祓魔師になった。燐の不在により荒れに荒れた十代半ばから二十代前半は獅郎が祓魔師として名を揚げるのに一役買っており、それこそメフィストの言葉の通り、燐こそが実質的に藤本獅郎を聖騎士にした男とも言える。
 祓魔師の黒いコートを翻して戦う姿はまさに凄惨で冷酷無比。才能と、約束と、燐の不在故に顕現した悪魔が好みそうな無慈悲さで、獅郎が最強の名を冠するまでそう時間はかからなかった。
 が、今の獅郎の顔を見て誰が冷酷などと言えるだろう。
 獅郎自身、ここまで来るのに随分時間がかかったように思う。
 燐達が生まれる正確な年月が判らなかったため、いつ来るとも知れぬ時を待つにはそれなりの忍耐力が必要となった。その所為で実は若い頃よりも、燐との最後の再会から『青い夜』までが最も藤本獅郎の凶暴さが発揮された時期だというのが、近くで獅郎を眺め続けたメフィストの言であり、また獅郎本人もそう思わなくはない程である。
 そうして魔神の子を孕んだ祓魔師がいると判明すると、その瞬間から獅郎の力は全てその子供(達)の生存へと注がれた。
 騎士團を騙してでも絶対にこの双子を生かす。そう決めて、燐の残した言葉から未来の片鱗を掴んでいた獅郎はいち早く双子の生存へと道を繋げたのである。
 きっと燐が過去を訪れ獅郎と出会わなければ、こんなにも迅速に双子の延命は行われなかっただろう。つまり燐が現れたのは偶然ではない。彼が生きている未来へと繋がる必然だったのだ。
 そしてまた、燐が最後に告げた言葉の数々のおかげで、今の獅郎は己の死を予期しつつも心はとても穏やかでいることができる。
(自分が死んでも俺には死んで欲しくないって思ってくれるくらいには俺のこと好きでいてくれたんだよな、燐)
 燐のそれはきっと家族愛だったのだろうけど。
 それでも燐が向けてくれた想いは獅郎にとって掛け替えの無いものであった。
(まあ、初恋の人が自分の息子とかどうよって思わなくもないが)
 獅郎は腕の中の赤子に苦笑を向ける。
「俺、ちゃんとお前らの親父になれっかなぁ?」
 自分はこの子達にとって立派な『父』でなくてはならない。
 しかし第三者からは過去の所業の影響で性格的に親というものを全うできるはずがないと評される上に、双子の一方は少年の頃からずっと特別に想ってきた相手だ。獅郎自身、並々ならぬ不安を持っている。
 しかし、
「心配せずともそれなりになると思いますよ」
 苦笑を浮かべる獅郎にそう告げたのはメフィストだ。
 悪魔はニヤニヤと(ある意味で)弱気な獅郎を笑いながら付け加えた。
「何せその証拠がわざわざ未来から来てくれたのですから」
「……そうだな」
 メフィストのからかい混じりの台詞に頷いて獅郎は燐を雪男の隣に寝かせる。今はまだまだ人の親らしくない自分であるが、きっと燐達が十五を迎える頃にはもう彼らにとって立派な父親になっているのだろう。
「でもその前に燐とちゅーしていいか?」
「やめろペドフィリア」
 寝かせたばかりの燐を再び抱きかかえようとする獅郎の手をメフィストが容赦なく叩いた。



□■□



「藤本は奥村くんが十五歳前後で悪魔として覚醒し、更には祓魔師になるという茨の道を歩み始めることを知っていました。だからいざと言う時に頼る対象を私にしたのでしょう」
 それに双子の弟である雪男に、将来彼の兄が恐ろしい目に遭うと予言したのも。
 獅郎が雪男にただ悪魔への対処法の知識を教えるだけでなく、歴代最年少での称号取得にまで至らせたのは、きっと長くは生きられない己の代わりに燐を守らせるためでもあった。雪男自身も兄が大切で大好きであったため、養父の意向に反論などあるはずもなく。そうして獅郎と雪男の望んだとおり雪男は今の道を歩いている。
「君が過去へと行ったのは君達双子が生きる上でも重要な出来事だったのです」
 ゆえにメフィストは青い栞を用意し、燐に与えたのだ。
「それに君の行動は君達だけでなく藤本をも救ったのだと知っていますか」
「え……?」
 燐が双眸を見開いた。
 メフィストは席を立ち、ゆっくりと燐に歩み寄る。こちらを見上げる青い目に笑みを返してそっと黒髪を撫でた。
「君が藤本を尊敬し大切に思っていたことは、きちんと彼に届いているんですよ。君にとってはそれが一番重要なことかもしれませんね」
「……、っあ」
 燐の想いはきちんと獅郎に届いていた。
 心ない一言でサタンに乗っ取られる隙を作ってしまったのは最早変えられない過去であるが、それでも想いが届いていたというのは、獅郎だけでなく、燐にとってもまた確かな救いだった。自分は養父を慕っていたのだと言葉で伝えることができていたのだと。
「メフィスト、」
「だからもう少し胸を張って生きなさい。悔やむ暇があるなら前を向いて進め、と。あの男なら言うでしょうね」
「……ああ」
 燐の顔に微笑が浮かぶ。
「そうだ。確かにそうだ」
 奥村燐に恋した藤本獅郎も、燐を愛した藤本神父も。どちらであってもきっとそう言うだろう。
「では、元気が出たなら寮に帰って奥村先生にも大丈夫なところを見せてあげなさい。ここ最近、お兄さんが不調で弟の方も気が気でなかったようですから」
「え、まじで?」
「……自分のことで手一杯なのは解りますが、もう少し周りも見ましょうね」
 メフィストは苦笑し、「ほら早く」と燐を急かす。
「あ、あのよっメフィスト!」
「なんです?」
 扉へと向かいながら振り返った燐にメフィストは小首を傾げる。すると燐はニカッと笑い、
「色々ありがとな!」
「どういたしまして」
 そう答え、メフィストは燐が出ていった扉をしばらく眺めていた。しかしやがて視線を逸らすと机の背後にある窓に近付き、外の景色へと視線を向ける。
 窓の向こうには雲一つない青空が広がっていた。
 そしてメフィストは、苦笑と称するには柔らかすぎる笑みを浮かべ―――。

「……まったく、世話の焼ける親子だ」













世界はたぶん優しくて、
たとえ人が立ち止まってしまっても「前を向いて歩け」とその背中を押すのです。
そういう風に、できているのです。





END







2011.07.22 pixivにて初出

変えられない過去があっても前に進めることを信じて。
これにて本編終了です。