あれから一週間が過ぎたが、燐の状態は酷いものだった。
夢見が悪く、いつも真夜中に飛び起きる。その所為で寝不足が重なり、体が丈夫なだけが取り柄の燐もダルさを誤魔化しきれなくなっていた。目の下には隈がはっきりと浮き出て、今日などはあの真面目な弟から学校を休んで寮にいるよう厳命されたほどだ。その際に不調の原因を聞かなかったのは弟なりの優しさだったのかもしれない。 「……なっさけねぇ」 ベッドで眠っても悪夢を見るだけなので、燐は自分の机に肘をついた格好で椅子に腰掛けている。窓の外を眺めながら眉尻を下げた表情で薄く笑い、時折ここ一週間の夢の断片を思い出しては口元を歪めた。 夢の内容はシチュエーションが違えども基本的に全て同じ―――。いつもいつもいつも、藤本獅郎が死ぬというものだ。しかも現実の獅郎は燐に恨み言一つ言わず「こいつは俺の息子だ」と言ってくれたのに、夢の中の彼は血だらけになりながら燐に告げる。お前の所為だ、と。藤本獅郎が死んだのは奥村燐の所為である、と。 「カンベンしてくれよ」 机の隅に置きっぱなしになっている青い栞に視線を落として独りごちる。 栞は今や淡い水色に変わっており、もう少しで過去へ行く力を完全に失うだろう。惜しいとは思わない。むしろ過去へ行っても獅郎に合わせる顔などなく、薄れゆく栞の効果に安堵さえ覚えていた。 窓から入る夏の風がふわりと燐の頬を撫でる。慢性的な睡眠不足に陥っている燐にはそれすら緩い眠りを誘うものでしかなく、いつしかとろとろと瞼が下がり始めていた。寝ればまた悪夢を見ると頭の片隅で思ったが、身体はそうもいかない。最早ベッドまで行く気力さえなく、燐はそのまま机に伏すようにして瞼を閉じた。 ―――風に煽られた水色の栞が、腕と机の間へ滑り込んだことにも気付かず。 * * * 「…………へ?」 第一声は酷く間の抜けたものだった。しかしそれも仕方のないことだろう。何故なら先刻まで部屋着のまま寮の部屋でうつらうつらしていたはずなのに、気が付くときっちり制服を纏った自分が正十字学園高等部男子寮旧館へと続く道の真ん中に突っ立っていたのだから。 「……え? あれ?」 盛大に疑問符を飛ばしながら燐は辺りを見回す。何度首を巡らせてもそこは燐と雪男が住んでいる寮へと繋がる道の途中だ。 しかし見上げた寮は――― 「なんか……あんまボロくねえ?」 幽霊ホテルのようだとも称された建物であるはずなのに、燐の瞳が捉えたそれはまだ築何年も経っていないだろう様相を呈していた。まるで時代を遡ったかのように。 「……ッ!」 サァっと血の気が引いていく。そんな馬鹿なとも思うが、また“戻った”とでも言うのか。 場所はあの修道院の近くではないけれど、寮の外観は確実に燐の生きている時代とこの場所が異なることを示している。人の気配があまり感じられないのは燐が住んでいる寮と共通しているが、今が夏休み中である――なにせかなり暑い――と考えればそれも当たり前のことだ。学生寮など、長期休暇に入れば打ち捨てられたかのように人気がなくなる。 「俺、あの栞使ってねえのに……!」 どうして、という自問自答こそが、燐がここを過去の世界であると認めている証拠だった。 早く戻らなければ。 何年前の過去であるのか正確なところは判らず、少年時代の藤本獅郎と出会う確率が高いのか低いのかすら不明だったが、“過去にいる=獅郎に会う”という認識を持つ燐はとにかく早く戻らなければと思った。獅郎には会えない。会っても言える言葉は一つしかない。だから早く―――と。 しかし運命はそんな燐の逃避を許さなかった。 呆然と寮を見つめていた燐の背中に知らないような知っているような声がかけられる。 「……燐?」 「ぁ……」 振り返った燐は声の主を見て絶句した。 その人物は燐もよく知る祓魔師のコートを羽織っていた。ただしこの暑さだ。前は留められておらず中のシャツを覗かせている。袖も捲り上げられ、銃火器を扱う雪男と同じかそれ以上にしっかりした二の腕を外気に晒していた。年は二十代の前半くらいだろうか。口に銜えているのは火の点いた煙草。そして、顔には丸いレンズの眼鏡をかけている。 とてもよく知る人物の、けれど燐が絶対に知るはずのない頃の姿がそこにあった。 「ふじ、もと……しろう」 父さん、とも違う。ジジィ、なんて言葉には程遠い。若き日の藤本獅郎が眼鏡の奥で驚愕に目を見開く。 「本当に燐なのか? やっぱ悪魔って年取らねえんだな。メフィストの奴がそれっぽかったから予想はしてたが……。なあ燐、お前、今までどこにいたんだ? お前が逢いに来てくれるの、俺ずっと待ってたんだぞ」 「し、ろ……」 獅郎は燐に歩み寄り、燐を見上げるのではなく見下ろす。小さかった少年はとっくに燐の身長を追い越していた。 驚愕の後に浮かべられた表情は心から喜んでいる笑みで、彼の言葉が嘘ではないことを証明している。 「たまには古巣も訪ねてみるもんだな。まさか……まさか今になって燐に逢えるなんてよ」 おそらく獅郎はかつて燐に言った通り、この正十字学園で学生生活を送ったのだろう。そして訓練生、候補生を経て祓魔師になった。 「なあ、燐。俺、十四で祓魔師になったんだ。歴代最年少だぜ、最年少。お前に褒めてほしくて頑張ったんだ。頑張ってればお前が逢いに来てくれるんじゃないかって……。でも、お前いっこうに来てくれねえし、じゃあもっとなのかって思って」 まるで小さな子供が親に学校で貰った賞状やメダルを見せるように、獅郎はコートの内ポケットから祓魔師の証明書を取り出して燐の正面に掲げた。白地のそこには獅郎がこれまで取得した称号と、そして、 「上一級祓魔師……?」 聖騎士、四大騎士、名誉騎士という特殊な役職を除く最も高い階級の名称が記載されていた。 獅郎の若い姿をもう一度見直して燐は驚愕に目を見開く。 今は燐に逢えた喜びで緩んだ表情を晒しているが、この陰にどれほどの努力とそれによって開花した才能があったのだろう。やはり彼は藤本獅郎。最強の祓魔師と呼ばれ、聖騎士になる男なのだ。 「上一級には十七でなった。いつまで経っても燐が来てくれなかったから、俺もうかなりヤケになっててそりゃあ周りから滅茶苦茶に言われたりもしたんだけどさ」 やっとだ、と言って獅郎は少年でも父親でもない、甘くとろけるような微笑みを浮かべた。 「俺が聖騎士候補筆頭になったから、やっと逢いに来てくれたんだよな?」 「しろ、う」 その甘い笑みに燐は愕然とする。 彼は待っていたのだ。燐との口約束を真摯に信じて、ただひたすら燐と逢えることを望んで。燐よりも先に聖騎士になるという言葉を守るためここまでやってきて、そして本当に約束を叶える一歩手前まで辿り着いた。全ては燐がいたから。 「お、れ……」 「りん?」 ふるふると首を横に振って後ずさる燐に獅郎は不思議そうな顔をする。 「燐、どうした」 「そんな、俺……俺には、そんな価値なんてない」 藤本獅郎がこんなにも心を傾けてくれるほどの価値が自分にはないのだ。 だって自分はこの人を死なせてしまう。たくさん愛してくれたのにたくさん迷惑をかけて、最後は燐を守って死んでしまって、死してなお一部の者達からは蔑まれている。たとえばかつてのシュラや、現聖騎士のアーサーのような者に。 燐も獅郎が守ってくれたことを無駄にすまいと聖騎士を目指しているが、それでも生きている彼の人生にこんなにも影響を与えてしまっているなんて想像だにしていなかった。世界一憧れている人に影響を与えられたと喜べるはずもない。ただひたすら申し訳なさと後悔が胸を占める。 「燐、お前なに言って」 「さわるな!」 伸ばされた手を強く弾いて燐は声を荒げた。獅郎が驚いて息を呑む。 「な……なんだよ燐。やっぱ候補じゃ駄目だったのか? 聖騎士になんなきゃ駄目なのかよ。それならもうちょっと待っててくれ。すぐだ。すぐ聖騎士になるから。そしたら昔みたいに触れてもいいんだよな?」 「だめ、だ」 「っ燐!!」 非難の籠もった声だった。しかし燐は何度も何度も首を横に振る。 「駄目なんだよ。お前はもうこれ上俺に関わっちゃいけねえんだ。だって、そうしなきゃ―――っ」 「……あんたが、しんでしまう」 「り、ん?」 突然変わった呼び方に獅郎は静かに首を傾げた。それはまるで身近な“年上の”人間を呼ぶようではないかと。それに「死んでしまう」とはあまりにも物騒だ。早くも最強と謳われ始めている獅郎がたった一人の悪魔――しかも心優しい――に関わっただけで死ぬなどと。 「そんなこと、あるわけが」 「あるんだよ。俺があんたを死なせちまうんだ」 燐はゆるゆると伸ばされた腕を今度は一歩下がって避けながら呟いた。 「でも俺は現に生きてるじゃねーか」 「未来の話さ」 薄く薄く、嘲弄を浮かべて燐は告げる。 「なあ獅郎、あんたさ、さっき自分が言ったとおりきっとすぐ聖騎士になるよ。そしてあんたは双子の赤ん坊と関わることになる。そうしたら……悪いことは言わねえ。その双子のうち、兄貴の方をすぐに殺せ」 「は……?」 「そいつは魔神の力を受け継いでる。トチ狂って騎士團の武器にしようなんて思うなよ。双子の兄貴の方は疫病神だ。あんたが育てる価値なんてない。さっさと殺して、双子の弟の方だけ育ててやってくれ。そっちはマジで才能がある。あんたの後を継がせるに十分だ」 「燐、なんだよそれ。未来予知か?」 歪な笑みを浮かべる獅郎からは彼が燐に「冗談だよ」と言って欲しくてたまらないという気持ちが伺えた。 しかし燐はそれを解った上であえて裏切る。 「未来予知じゃない。実際に起こることだ」 ―――だからその時がくれば確実に殺せ。殺してくれ。 燐は嘆願するように獅郎の目を見て告げた。 すると眼鏡の奥の瞳が徐々に歪められ、馬鹿なこと言うなよ、と口が動く。 「だって、燐……。その双子の兄貴ってお前のことじゃないのか?」 「……」 燐は諦めるように笑った。 獅郎も流石に気付いたのだろう。有り得ないと思う一方で、燐から零れる言葉の端々にはこの時代に生きる人間が知り得ない情報が詰まっていた。代表的なのが、獅郎が少年だった頃に言った『青い夜』について。まだ起こっていない出来事をうっかり既に起こったことのように話してしまったのは燐も覚えている。 微笑むだけで何も言わない燐に獅郎は「なんでだ」と問う。その声は酷く掠れていた。 「なんでっ、なんで俺が燐を殺さなくちゃいけねえんだ!」 「言っただろ。そうしないとあんたが死ぬんだ。……俺は十五で悪魔として覚醒する。だからその前に殺してくれ」 「燐っ!」 避難の籠もった声に燐は目を伏せた。 「頼む。俺はあんたに死んでほしくないんだ」 「それで赤ん坊のお前を殺せっつーのか!? こんなに……こんなに! 俺はお前に逢いたかったのに!!」 「分かってくれよ! 俺はあんたにずっと生きていて欲しいんだ! 俺のためなんかに死んで欲しくないんだよ!!」 「り、ん」 獅郎が目を見開く。 「だって俺はあんたが大事だった! マジで尊敬してた! あんたよりカッコイイ奴なんて見たことないくらい、あんたが一番だったんだ……っ!!」 それなのに燐は藤本獅郎を死なせてしまった。 養父が命と引き替えに助けてくれたこの生を価値あるものにしようと思ったけれど、やっぱりどうしようもなく足らないのだと頭の片隅で冷静な自分が告げている。本当に自分は生きていて良かったのだろうか。弟から銃を向けられ「死んでくれ」と言われた時に死んでしまえば、むしろ養父が自ら心臓を貫く前に燐自身が死か虚無界かを選んでいれば良かったのではないか。 燐は下を向き、両の瞼を強く閉じる。 すると、 「でも俺はまた……燐、お前に会いてぇよ」 ―――そして、大きくなったお前をもう一度こうやって抱きしめたい。 ふわり、と。獅郎がそう言ってそっと燐を抱き寄せた。 上向かせないよう後頭部に手を添えて、またお前に逢いたいんだ、と繰り返す。 「…………」 獅郎からの抱擁は燐が記憶しているものよりも力強く、けれどまだおおらかさや包み込むような暖かさが足らないように思えた。きっとそれは彼がまだ人の親ではないからで、燐が知っている藤本獅郎はこれからじっくりと時間をかけて形成されていくのだろう。 (ああ、ジジィだけどジジィじゃねーんだな) むしろあちらが子供の時に燐と出会った分、獅郎の方が燐に甘えている雰囲気がある。身体も実年齢も獅郎の方が大きくなってしまったが、彼にとって燐は未だに“燐兄ちゃん”であるのかもしれない。 「燐、もう一度俺と逢ってくれよ。それにちっせぇ頃の燐がどんなガキなのか見てみてえしな」 「……迷惑ばっかかけてんぞ」 「ガキなんてそんなもんだろ」 「あんたの肋骨折ったりもするけど」 「マジか」 「マジだ」 でも暴れる俺を止めてくれたあんたはすっげぇカッコよかった。 ぼそりとそう付け足すと、獅郎は燐を抱きしめながら「未来の自分に嫉妬するって俺は馬鹿か?」と呟く。 「馬鹿なんじゃねえの?」 「おまっ、未来の父親に向かってなんつーことを!」 「父親の自覚なんてねーくせに」 顔を上げて視線を合わせ、燐は青年姿の獅郎を視界一杯に映した。目が合うと、わざと怒ったような表情を作っていた獅郎がすっと真面目な顔になる。 「……自覚なんて、あるわけねえだろ」 「だよなー。今いくつ?」 「二十二」 「若っ! まあ、それじゃあ自覚も父性愛とやらもまだまだかー。だったらそれが目覚める前に俺を殺せよ」 「まだ言うか。嫌だっつってんだろ」 「でもあんただって死にたくないだろ」 燐の問いに獅郎はしばし黙り込む。だが数回瞬きした後、彼は穏やかに微笑んだ。 「子供のために親は死ねるか? 未来の俺の答えはイエスだったんだろうな」 「……っ」 それが記憶にある養父の姿と重なって燐は僅かに目を瞠る。ただし、 「そんで、今の俺は」 「し、ろう……?」 ゆっくりと顔が近付いて、唇をかすめるように何かが触れて、そっと離れていった。 青い目が零れ落ちそうなくらい大きく開かれる。 そんな燐の反応に獅郎は苦笑し、愛しそうに燐の黒髪を梳きながら言った。 「十年越しの片思いの相手に命を懸けられるか。……答えは、イエスだ」 「しろ、う」 「わりぃな。俺、お前の父親になる前に『男』でもあるからさ」 未だ燐を腕の中に捕らえながら獅郎は少しだけ申し訳なさそうに眉尻を下げる。 「燐が好きだ。お前がいなけりゃ俺は今こうして存在していなかった。祓魔師に関しても、それ以前に悪魔に喰われず生きていることに関しても。だったらこの命、お前のために使ってもいいじゃねえか」 「っ俺だってあんたが好きだ。でもそれは親子としてで、」 「わかってるよ。だから『わりぃ』って先に謝っただろ?」 突然の告白に戸惑う燐。そんな様子に獅郎は苦く笑いながら両手を燐の頬に添えた。 再び獅郎の顔が近付く。 「し、ろ―――」 「未来では父親として燐を愛するから。だから今は男としてお前を好きでいさせてくれ」 唇が触れる寸前、そう囁きが落とされ、燐は目を閉じることもできずに――― 「…………あ」 寮の机に顔を伏せた状態で目を覚ました。 2011.07.21 pixivにて初出 |