とりあえず今夜はメフィストが言ったことを確かめてみよう。そう思って燐は枕の下に青い栞を置いて眠りについた。
 そして―――


「燐!?」
 記憶にあるよりもいくらか成長した獅郎少年が扉を開いて目を丸くした。
「えっと……よっ! 久しぶり?」
 この年頃の子供がどのくらいの期間でどの程度成長するのか分からなかった燐は疑問符の混じった挨拶をしながら中に迎え入れられる。
「ほんっと久しぶりだっつの! 半年ぶりだぜ、半年ぶり! もうちっと早く来てくれてもいいじゃんかよー」
(うお、半年か)
 そう言えば妙に寒い。燐が寮に住んでいる今(現在)はまだ夏の盛りに入る前だったのに。
「わりぃわりぃ。こっちも色々あってさ」
 ホントごめん、と言って燐が両手を合わせれば、獅郎少年は僅かに頬を膨らませつつも「まぁいいけど」と一応許してくれたようだった。
 彼が未来の燐の養父、藤本獅郎。そう思って眺めれば、どことなく面影があるように見える。彼の子供っぽさはこの頃から大人になるまでずっと保たれてきたものであり、そして聖職者としての大らかさは彼を育てた神父の背を見て学んだのだろう。獅郎に手を引っ張られて中に入ってきた燐を認めた神父が「いらっしゃい」と微笑むのを見てそう思った。


「なあ、燐! 俺、祓魔師になることにしたんだ!!」
 早く早くと急かされながら獅郎の部屋に連れて来られ、放たれた第一声に燐は目を丸くする。
「……え?」
「だーかーらー祓魔師だよ、祓魔師! 燐と一緒!! 俺、ゼッテー燐より早く聖騎士になってやっからな! ちゃんと見てろよ!!」
「祓魔師に……?」
「そ! 来年から正十字学園と祓魔塾に通うんだ。目指せ最年少祓魔師ってな〜。試験の方はもう推薦で受かっててさ。だから俺、燐の後輩になるんだ。よろしくな、先輩」
 息が、止まるかと思った。
 理由なんて燐自身にも解らない。彼が自分の後輩になると言ったからか、それとも祓魔師を目指すと言ったからか。それとも本当にこの少年が『藤本獅郎』への道を歩み始めてしまったからか。奥村燐を育てて死んでしまう藤本獅郎に。
 だがとにかく固まっていても不審に思われるだけだと気付き、燐は慌てて表情を取り繕う。
「あ……ああ、そっか。おめでとう。俺の後輩になるんだな」
 自分が纏っている正十字学園の制服を見下ろして燐は精一杯の笑みを浮かべた。
 来年、獅郎が正十字学園に通うようになってもそこに燐はいない。奥村燐という存在はまだ生まれてすらいないからだ。その事実を目を輝かせる少年に告げる勇気が出ず、燐はただ笑う。嬉しいよ、待ってるからな、と嘘まで吐いて。
「来年から中等部ってことか?」
「おう! 燐は高等部だよな?」
「まあな。塾の方も高校と同じ時期に入ったし、他の奴等も同い年で……あ、でも塾自体は年齢とか関係ねえのかも」
 ふと弟の経歴を思い出して付け加える。彼が正確には何歳から祓魔塾に通っていたのか聞いたことはないが、少なくとも『訓練』は七歳から始めていたのだと言う。ひょっとすると本当に七歳から中学・高校くらいの人間に混じって塾の授業を受けていたのかもしれない。
 そんな燐の思考を読めるはずもなく、獅郎は実に楽しそうに笑う。
「正十字学園って広いんだよなー。そしたら昼休憩に燐のトコに遊びに行くのってやっぱり無理なのかなぁ」
「“鍵”を使えば学園内の好きな所に行けんじゃねえか」
「マジで!? 鍵ってどこで貰えんの!?」
「おいこら身を乗り出すな唾が飛ぶ……って、ああ、鍵? それならメフィストに頼めば良いと思うぜ」
「めふぃすと?」
「正十字学園の理事長だよ。ヨハン・ファウスト五世って名乗ってっけど本当はメフィスト・フェレスって言うらしい。ちなみに悪魔」
「へ?」
 あくま? と繰り返す獅郎を見て、未来から来た燐が過去の獅郎にここまで教えて良かったのかと一瞬思ったが――タイムスリップ系の漫画でもよく未来のことは喋っちゃいけないという話の流れが多かったのを思い出したので――、どうせこの少年は将来的にメフィストと友人になるらしいし、ならばいずれは悪魔と知るだろうと考え直して「そうそう」と肯定してみせる。
「日本にいる祓魔師のトップがそいつなんだ。日本支部長……だっけか。確かそんな肩書きだったと思う」
「ふーん。ま、燐が聖騎士を目指してるんだから悪魔が正十字学園の理事長ってのもアリなのか」
「かもな」
 まるで悪魔が祓魔師になることを当たり前のように受け止めている獅郎の姿に燐は苦笑し、またこんな彼だからこそ自分を実の息子のように育ててくれたのだろうと思った。
「あ、勿論燐が聖騎士を目指してても実際になるのは俺だけどな!」
「なんだよそれー。でも……そうだな」
 尊敬も嫉妬も羨望も集めていた最強の祓魔師、聖騎士だった養父の姿を思い出しながら燐は薄く微笑む。
「お前ならなれるよ。聖騎士に」
 かつて少年に告げた時とは込められた意味が違うけれども。燐はそう言って少年の頭を軽くぽんと叩いた。
「なれるよ、絶対」



□■□



 深夜。
 獅郎はなかなか寝付くことができず、もぞもぞとベッドから起き上がった。
 部屋の照明は既に消されており、今はカーテンの向こうから差し込む月明かりだけが唯一の光源になっている。冬の空に浮かぶ月は澄んだ空気と満月に近い月齢のおかげで随分と明るい。しかし眠っている燐の顔も数十センチの所まで近付かなければはっきり確認できないレベルだった。
「りん……」
 そろり、と。“相手の表情が確認できる距離”まで近付き、獅郎は吐息のように小さな声で燐の名前を呼ぶ。
「燐はさ、俺に『誰』を見てるんだ?」
 半年前には“何となくそんな気がする”程度だったのだが、今日久しぶりに会ってそれが勘違いなどではないと知った。燐は前よりも強く獅郎に誰かを重ねて見ている。そうして――本人は気付いていないだろうが――寂しそうに笑うのだ。
 燐が来てくれて嬉しい。でも自分ではない誰かを見ているのが悲しくて悔しい。
 そんな思いがぐちゃぐちゃに混ぜ合わさって獅郎は眠ることができないのに、原因である燐はすやすやと寝息を立てている。
「俺は燐しか見てないのに」
 悪魔から助けて貰った時、青い炎を見て心の底から美しいと思った。剣を抜き炎を纏った燐は本当に綺麗で、尻尾や耳で彼が悪魔だと瞬時に理解しつつもそこから離れるという選択肢など考え付きもしなかったのだ。
「燐になら魂を取られても良いって思ってんだぜ」
 知らないだろ? と年齢に似合わぬ大人びた苦笑を浮かべながら獅郎はまだまだ小さな手で眠る燐の前髪を梳いた。
 彼と出会う前から悪魔が見えていた獅郎だが、元々祓魔師になるつもりなどこれっぽっちも無かった。自分を育ててくれた神父の跡を継いでこの修道院で暮らしていくつもりだったのである。しかしあの日の黄昏時、燐に出逢い、獅郎は運命だと思った。叶うならば、美しい彼の隣に立てる程の人間になりたい。その願いを持つまでそう時間はかからなかった。
 そして今、獅郎は願いを叶えるために一歩ずつ歩み始めている。まずは祓魔師になるための訓練から。そしていつかは燐の傍らに祓魔師のコートを纏った自分が立つ。……だと言うのに。
「お前は誰を見てんだ? 俺が聖騎士になれるって言ったのはそいつがいるから? そいつ、聖騎士なのか?」
 返答などあるはずもない問いかけを繰り返す。
 獅郎が燐を想っても、燐の青い目は獅郎ではない遠くの誰かを見つめていて。それがどんなにもどかしいのか、切ないのか、燐は思い付きもしないのだろう。
「燐……俺を見てくれ。俺なら燐にそんな寂しそうな顔させねーから。今はまだ力もないし、悪魔に遭ったら逃げるか燐に守ってもらうっきゃないけど、いつか……いや、すぐに燐を守れるようになるよ。だからさ、」

(そんな奴やめて俺にしとけよ)

 最後の台詞は音にせず、胸の裡でだけ告げる。そして獅郎は眠る燐の頭のすぐ傍に手をついてゆっくりと身を屈めた。
「り、ん」
 小さく、小さく、名前を呼んで。
 初めて触れた他人の唇はあまり手入れもされておらず、少しだけカサついていた。



□■□



 昼前に獅郎達の修道院に別れを告げて、燐は己の世界で眠りから覚めた。枕から青い栞を取り出してそれを机の上に置く。
 過去という夢の中ではいつものように獅郎達へ「またな」と別れの挨拶をしたが、もうこの栞を使う気にはなれなかった。
(だって何を言えばいいってんだ)
 夢だと思っていたあの世界は過去であるというメフィストの言葉を信じようと信じまいと、燐はまだ子供の『獅郎』を己の養父の過去だと認識した。もうそれで十分なのだ。
 メフィストは会いたい人に会えると言ったが、燐を知らない子供の獅郎に会っても自分に何ができると言うのだろう。……何も、できない。ずっと燐を守ってくれていたのに最低な言葉をぶつけて傷つけ、彼を死なせてしまった。それを謝ろうにも、発言を撤回しようにも、まだ起こっていない事象に対する謝罪が獅郎に伝わるはずもない。意味もない。唯一彼のために何か言えるとするならば、「将来双子を育てることになったら兄の方をすぐに殺せ」と、それくらいでしかないだろう。
(むしろそれをきちんと言ってからサヨナラするべきだったか)
 そうは思っても、もう過去に行く気はないけれど。
 栞の色はこの一晩で大分薄くなっていた。まだ水色と称するよりも青色に近かったが、最初に手にした時とは明らかに違っている。
 つるりとした表面を指先で撫で、燐は唇を噛みしめながら淡く微笑んだ。
「じゃあな、ちっこい獅郎」



□■□



 燐が現れなくなった。
 いや、そうではない。正十字学園に入学した獅郎はこの学園に“燐がいないこと”を知った。理事長室のドアを叩き、(燐曰く)実は悪魔らしい長身の男に問いつめてまで確認したのだから確実だろう。
「っんだよ、それ」
 正十字学園の制服を着ていたのに。先輩後輩になると言ったのに。燐がここにいないならば、獅郎が彼の隣に立つこともまた不可能になってしまうではないか。
「見てろよって言ったじゃねーか」
 正十字学園中等部の制服を纏った獅郎は大きく舌打ちしながらそう毒づく。
 祓魔師になると決めたのは燐がいたからだ。彼がいたから受験だって頑張れたし、入学後も中学と祓魔塾の両方に必死の思いで取り組んできた。おかげで早くも一部の大人達からは『神童』や『天才』などと言われたりもするが、燐があの青い目で見つめてくれないならばその賞賛も塵芥と同じである。
「燐がいなきゃ意味ねえのに」
 影も形も見当たらない想い人に、獅郎の世界は急速に色を失くしていく。
 学園内だけではなく、世界中を捜せば見つかるのだろうか。しかし未だ学生の獅郎にとって世界は広く、また燐に関して知っているのは顔と名前と祓魔師を目指していること、そして青い炎を使う悪魔であるということだけだ。連絡先さえ知らない。
 炎については燐を捜す上で最も大きな手がかりになるかと思ったが、現在、物質界と虚無界の両方合わせて青い炎を使うとされているのは青焔魔ただ一人のみ。燐の存在は欠片も知られていない。理事長であり悪魔でもあるメフィストにそのことも話してみたが、彼でさえ聞いたことが無いと首を横に振った。
「どこにいんだよ」
 祓魔師になれば会いに来てくれるのだろうか? よく頑張ったな、と褒めるために。
 聖騎士になれば会いに来てくれるのだろうか? ふざけんなバカ俺が先になる予定だったのに、と怒るために。
 想像して、獅郎は歪んだ表情のまま小さな笑い声をあげる。
「有り得ねえって」
 自分がとても滑稽に思えた。今すぐ正十字学園も祓魔塾も辞めてしまいたい衝動に陥る。
 けれど、それができないのは―――
「……なっさけねぇ」
 縋っているからだ。万が一の可能性に。
 祓魔師を目指して頑張っていれば、いつか燐が笑顔で迎えに来てくれるのではないかと。
「俺って馬鹿だったんだな」
 自嘲に満ちた呟きは彼の人の瞳より薄い青の空に呆気なく溶けて消えた。







2011.07.20 pixivにて初出