「あれ?」
 祓魔塾の授業を終えて寮に帰ってきた雪男は、ふと兄のベッドに目をやり、枕の下に薄い物が挟まっていることに気付いた。
 何だろうと引っ張り出してみれば、それはラミネート加工された青い無地の栞。漫画以外の本をあまり読まない兄にしては珍しいと思いつつ、こんな所に放置していては失くしてしまうだろうという気遣いで、雪男は栞を兄の机の上に置く。
 その後は自分の席に腰掛けて高校の宿題を片付け始めた。これが終わる頃には食堂の厨房で既に夕食の準備に取りかかっている兄が料理を作り終え、雪男を呼びに来てくれるだろう。相変わらずプロ級の兄の料理に舌鼓を打った後は風呂で汗を流し、雪男が指導しつつ兄の課題(高校と塾の両方)を片付けさせ、兄の方は就寝。雪男は塾で使う教材の作成にとりかかる。
 カリカリとシャーペンをノートに走らせながら雪男は知らず眉間に皺を寄せる。問題が難しいのではない。ペンは淀み無く数式を書き出していた。
「…………、」
 小さな溜息を一つ。
 課題とは別に雪男の頭の半分以上を占めるのは兄のことだった。
 奥村燐としてではなくサタンの落胤として見られている兄への風当たりは厳しい。兄は普段からそんなものなど気にした風もなく明るく振る舞っているが、おそらく拒絶されるたびに一つずつ見えない傷を増やしているのだろう。先日、兄が己の悪魔の力を晒しても養父と同じ名前の人間に拒絶されない夢を見たというのがその証拠だ。いくら弟である雪男が兄を慈しんでも、周囲の悪意が大きすぎてカバーしきれない。だからきっと兄は死んだ人の面影まで求めてしまうのだろう。
 パキリ、とシャーペンの芯が折れた。
 兄を守ると誓ったのにその約束をちっとも果たせていない。雪男はもどかしさに唇を噛んだ。
 もう誰でもいい。誰でもいいから、早く優しい兄の心を救ってはくれまいか。
 雪男だけでは駄目なのだ。兄にとって雪男は今もなお守るべき弟であり、雪男の愛情だけでは慰めになっても完全な救いにはならない。もっと大きな、それこそ養父のような存在が必要なのである。
(どうして僕の方が先に生まれてこなかったんだろう)
 兄が兄ではなく、自分が兄であれば良かった。そうすれば無条件で兄を守れたはずなのに。兄が自分に縋って泣き喚くことに躊躇いがなくなるかもしれないのに。自分が兄のその心ごと抱きしめて慰め守ることだってできたかもしれないのに。
 どれほど身体が立派になったって、弟というポジションでは兄が雪男に全て投げ出すことはない。
(誰か、誰か、誰か……神父さん。兄さんを、助けて)



□■□



 その日の夜、いつも通りの時刻に就寝した燐は全く夢を見なかった。翌朝、ぱちりと目を開けて首を傾げる。
「……?」
 二度あることは三度あると言うし、その三度目があるなら四度目があってもおかしくないだろうと、今度もまたあの夢を見ると予想していたのだが、それは見事に外れてしまった。
 胸にあるのは半分安堵で半分失望。
 夢に縋らずに済みほっとする一方で、獅郎少年に会えなかったことを残念に思う自分がいた。そんな己に気付き、燐の気分は更に重くなる。俺はなんて弱いんだろう、と。
 こっそりと自嘲しつつ、燐は身を起こした。フローリングに足を下ろし、既に空になっている双子の弟のベッドを眺める。しかしその行為もさして長くは続かず、燐は立ち上がって己の机を見下ろした。
「あー……そういや今日の授業の用意やってなかったか」
 教科書やノートが開かれたままの机を見て若干うんざりした表情で呟く。昨夜、雪男に勉強を見てもらいながら片付けた代物だ。これを忘れて行っては、またもや弟から呆れた目を向けられるだろう。「兄さん……」と疲れたように溜息を吐き出す弟の姿が容易に想像できて、燐はぽりぽりと頬を掻いた。
 とりあえず鞄に放り込んでおこう。そう思い、机の上に広がるテキスト類を手に取る。そして、
「あ」
 燐は見つけた。
 広げたノートと机の間に青い栞が挟まっているのを。
「これ、メフィストからの……」
 そう思うのだが、なんとなく貰った時よりも色が薄くなっているような気がする。群青に近かったのが、朝日に照らされた今は普通の青色程度になっていた。
「あ、兄さん起きたんだ」
 ガチャリと廊下に通じるドアが開いて弟が顔を出す。最近早いね、と言いながら中に入って来た雪男は燐が机の上から摘み上げた物を見て何かを思い出したように眼鏡の奥の双眸を瞬かせた。
「それ、昨日言うの忘れてた。兄さんの枕の下に挟まってたやつだよ」
 どうやら栞を机の上に置いたのは雪男だったらしい。燐が課題を片付ける際、注視せずにノートを広げてしまったため今の今まで気付かなかったのだろう。
 そう言えばメフィストからそれを貰った日の夜、物は試しということで枕の下に入れたような気がする。夢のインパクトで燐本人もすっかり忘れていたが。
(……………………あれ?)
 青い栞、メフィストの言葉、三日連続で見た夢と昨夜だけ夢を見なかったという事実、枕の下に挟まっていなかった栞。それらから導き出された推測に燐の心臓が嫌な具合に脈を打つ。
(まさか)
「兄さん?」
 気遣わしげな弟の言葉に燐は何でもないとかぶりを振って、「顔洗ってくる」と部屋を出る。弟は物言いたげな顔をしていたが、燐の思考は青い栞を持ってきたメフィストに会いに行くことでいっぱいになっていた。



* * *



 高校の授業も塾も終えた後、燐は大慌てで塾の教室を飛び出した。授業態度が落ち着き無く、どちらのクラスでも教師から檄が飛んだが、それでも燐が一応授業に出ていたのはひとえに弟の教育の賜物だろう。燐は決して認めないだろうけども。
 ともあれ。燐はチャイムが鳴ると同時に塾を去り、理事長室に向かって―――
「そんなに急かずとも私自ら来てあげましたよ」
「ってうわ! メフィスト!?」
「はい。貴方がお探しのメフィスト・フェレスです」
 鍵を使って塾の教室がある空間から出た瞬間、正面に立っていた派手な服の長身にぶつかりそうになって燐は目を見開いた。
 パタン、と背後で扉が閉じる。しかしそんな音など気にもせず燐は制服のポケットから青い栞を取り出した。
「おや、それは」
「これ! 一体どうなってんだよ!!」
「どうと申されましても、色が薄くなっているということは既にお使いになられたんでしょう?」
「……っ」
 その通りであるため燐はひゅっと息を呑んだ。
 メフィストの口元が弧の形につり上がる。
「それで、私が言ったとおり会いたい人には会えましたか?」
「そ、れは……」
 養父ではなく養父と同じ名前の少年には会った。少年と彼を育てている神父は燐にとても優しくて、確かにああいう人間に会いたいと言えば会いたいかもしれない。しかし、
「でもあれはどうせ夢だろ!? お前がこれを渡してきた時にぐだぐだ言いやがった所為で俺の頭が勝手に見ちまった夢じゃねえか!」
「まったく……貴方は私を何だとお思いで?」
 くすりと笑ってメフィストは燐が握りしめている青い栞を指差した。
「私はメフィスト・フェレスですよ? 人間が縋る神よりも多くの人の望みを叶えることができる悪魔です。そんな私がちゃちな言葉遊びと暗示だけで終わらせるはずがないでしょう?」
「何が言いたい」
「いい加減理解しなさいな。つまり私はこう言っているんです。奥村くんが寝ている間に見た夢は本物であった、と」
「は……?」
「全てがリアルだったでしょう? 私の力で一時的に貴方を過去の世界に飛ばしているんですよ。ああ心配なさらないでください。既に奥村先生に確認したかもしれませんが、過去に飛んでいる間の貴方の身体はきちんとこちらにも存在しています。あくまでこちらがメイン、過去がサブですので」
「な、え……本物の過去、なのか?」
 夢じゃなく? 俺の頭が作り出した妄想でもなく?
 そう問う燐にメフィストは「ええ」と頷く。
「貴方が夢として体験したものは全て現実です。そして、貴方は過去の世界で会いたい人に会っているはずだ。思い当たる節はありませんか?」
「ちょっと待て。それじゃあ、あいつが……」
「ああ。もうちゃんと会っていたようですね」
 薄く笑うメフィスト。
 それを視界に入れながら燐は夢――いや、目の前の悪魔の言葉を信じるなら過去の世界か――で出会った少年の姿を思い出していた。あの少年が、彼が、まさか。
(本当にジジィだったってのか……?)
「良かったじゃないですか。自分を受け入れてくれた人が奥村くんの妄想ではなく現実だったのですから」
 全て見透かしたような顔でメフィストはそう言った。
「それ、先程も言いましたが、色が薄くなっているのが判るでしょう? 栞の色は過去に飛べる残り回数を表しています。色が抜けたらオシマイってことですね。まあ時間が経っても徐々に効力が無くなっていくのですが……」
 肩を竦め、メフィストは栞の色を確認しながら続ける。
「今夜から毎晩使っても残り三回か四回が精々でしょう。間を置いてしまえば二回、一回、そしてゼロ。ただ栞に溜めている魔力が薄くなる所為で、初めて使った日から時間が経つにつれ今の私達から見た世界は加速度的に早く過ぎてしまいます。ですので連続して三回使った場合は初回から一ヶ月後と一年後と数年後あたりの過去に飛べるでしょうね。もし間を置いて使用回数を二回もしくは一回に抑えれば、十年後くらいまで飛べるかもしれません。勿論二度と使用しないという選択肢もある。どうするかは貴方次第ですよ」
 ぺらぺらとよく回る口で説明を終えると、メフィストは唖然とする燐を放置してポケットから懐中時計を取り出した。古めかしいそれを確認して「おや、時間だ」と呟く。
「すみませんね、これでも忙しい身ですので……今日はこの辺で」
 そう言ってメフィストは踵を返した。
 置いて行かれそうになった燐ははっとしてメフィストを呼び止める。
「ちょ、おい待てよ!」
「……何です?」
「なんで俺にこんなモンを渡したんだ」
「言ったでしょう? ご褒美だと」
「んなもんホイホイ信じられるか」
「おやおや。後見人である私を信じられないときましたか」
 振り返ったメフィストは「仕方がないですねぇ」とわざとらしく溜息を一つ吐き出た。
「ならばこう答えましょう。私が貴方にそれを渡したのは必然だったと」
「必然?」
「意味はそのうち解りますよ。まあ解らなければいずれ私の口から説明して差し上げるのもいいかもしれませんね」
「何だよそれ! どうせ教えてくれんなら今ここで説明しろよ!」
「信じられないだとか教えろだとか、忙しい人だ。そう焦らずとも時が来れば解りますよ。……いえ、時が来なければ逆に理解などできないでしょう」
「はあ?」
 メフィストの言っていることは意味不明だった。そもそも『時』とはいつを指しているのだ。
 青い栞が眠っている間だけ燐を過去に導いているらしいこと、しかも過去の世界で出会ったのは養父の幼い頃であるということ。そんな信じ難い出来事に加えてあやふやな『時』などと言われても、燐の頭は混乱するばかりで何の解決策も導けない。
 燐が眉間に皺を寄せると、メフィストはふっと小さく笑ってその手を燐の頭に乗せる。反射的に文句を言おうと口を開く燐だが、しかしメフィストの浮かべた笑みが普段の他人をからかう類のものとは違っていることに気付いて口を噤んだ。
(メフィスト……?)
 声は出さずに様子のおかしい悪魔の名を呼ぶ。
 するとその声が聞こえたかのようにメフィストがぽんぽんと軽く叩くようにして燐の頭を撫でた。
「大丈夫ですよ。すぐに解りますから」
「え、……それってどういう」
「それじゃあ奥村くん、今日は本当にこれでお別れです。忙しいというのは嘘じゃないのでね」
「はっ、お、おい! メフィスト!?」
「さらばです☆」
 燐の頭から手をどけたメフィストはそのまま指を鳴らして煙と共に消えてしまう。残ったのは燐一人だけ。
「何なんだよ一体」
 口を尖らせて言ってみてもそれに答える者はいない。
 燐は受け取った時より若干色が薄くなった青い栞に視線を落としてぽつりと呟いた。
「……ジジィがまだ生きてる過去、か」







2011.07.20 pixivにて初出