目が覚めると朝で、正十字学園の旧男子寮で、そして夢の内容はぼやけることなく頭の中に残っていた。
 今回は森の外まで案内してくれた獅郎少年と別れ、彼の背中が再び木々の向こうへ消えていったところまで記憶がある。少年と別れ、さてどうしよう、と一歩踏み出した瞬間から一気に寮のベッドに寝そべる今の状況へと繋がっていた。
 もぞもぞと起き上がりながら燐は胸中で独りごちる。
(やっぱ夢なんだよな……?)
 だとしたら自分の頭はなんて都合のいい作りをしているのだろう。悪魔の力を見せても恐れられず、向けられるのは畏怖ではなく好意で、また会いたいとまで言われる。魔神の息子である燐にはそんな感情など最早向けられるはずもないのに。
 あの夢は厳しい現実を受けて燐が無意識に求めてしまった理想なのかもしれない。少年の名前が養父と一緒なのは、彼ならば燐を拒まないと確信しているからか。周囲からは恐れられ、憎まれ、実の弟にすら一度は銃を向けられたこの身を、絶対に最初から最後まで受け入れてくれるのが藤本獅郎であると。
(現実逃避しすぎだろ)
 死者に縋って癒されようなどとは、それこそ死者に申し訳が立たない。
 まだ朝日が昇りきる前の薄暗い室内で燐は膝を抱えて沈黙する。雪男はまだ眠っており、そんな燐の状態を注視する者はいない。
 おそらく今夜も眠りに落ちれば燐の意識はあの夢に辿り着くのだろう。そうして再び優しい二人に迎え入れられ、暖かな料理を振る舞われ、そして獅郎少年からは祓魔師の話をせがまれるかもしれない。
 考えて、それが全く嫌ではない自分に嫌気が差す。現実逃避だと理解しているのにそれを求めてしまう己が情けなかった。



* * *



 三度目の夢の世界では前回よりも少し時間が経っていたらしく、燐があの修道院を訪れると「一週間ぶりー!」と言って迎えられた。
 前回の時と同じく現実世界では半日しか経っていないというのに時間の流れる速度が速くなっている。そのことを不思議に思いつつも、燐は獅郎少年の笑顔を見てすぐ喜びと少しの後ろめたさに胸を支配されてしまった。
「りん?」
「ん、何でもない。あのさ、今日明日って休み取って来たんだ。だから今夜はここに泊まってもいいかな」
「おう! 勿論だ!!」
 やったー!と無邪気に笑いながら燐の手を引く獅郎少年に連れられて燐は中へと足を踏み入れる。神父には夕食の用意ができるまで獅郎少年の遊び相手を頼まれ、日も暮れているので外には行かず二人は少年の自室へと向かった。
「燐! 前の話の続きしてくれよ」
「お前ホントに祓魔師の話が好きだよなぁ」
「だってカッコイイじゃん」
 ヒーローに憧れる少年とはこういう顔をするのだろう。そう思わせるきらきらと輝く両目で獅郎少年は燐を見つめ、告げる。
「俺、将来は祓魔師になりたいんだ」
 少年のその言葉を聞いて燐の脳裏に浮かんだのは最強の祓魔師とされる藤本獅郎の姿だった。燐、と呼ぶその声を思い出しながら燐は口元に緩やかな弧を描く。
「ああ。お前なら聖騎士にだってなれるかもしれねえな」
「本当か!?」
「かも、だぜ! かも! 聖騎士なんて並大抵の努力でなれるもんじゃねーんだからな」
「わかってるよ! あー、聖騎士かぁ」
 あの養父にもこんな風に祓魔師や聖騎士に憧れる時期があったのだろうか。巨乳好きのエロジジイではあったが、子供の頃はこんな風に純粋な顔で。
 想像できねー、と胸中で呟き、次いで燐は冗談めかして言った。
「でもま、聖騎士は先に俺がなっちまうから、お前に順番が回ってくるのはずっと後になるだろうけどな」
「げー、何だよそれ」
 数多の祓魔師の中でたった一人しか選ばれない役職の席を狙っているのは燐も同じだ。たとえ悪魔と罵られようと目指すことに変わりはない。藤本獅郎の晩年の生き方を誰にも否定させないために燐は聖騎士になると誓った。
 ただしその覚悟をおくびにも出さない。
 すると少年はカラカラと笑い声をあげ、そして、

「燐ってば悪魔なんだから人間よりずっと長生きなんだろ?」

 燐が先に聖騎士になったら俺が生きてる間に燐は引退しなくて、そしたら俺は一生聖騎士になれねーじゃん、と。
 獅郎少年はそう続けたが、後半の台詞は燐の耳に届かなかった。ただひたすら少年が燐を何と称したかの部分で「は?」と固まってしまっている。
 少年は言った。燐が悪魔であると。
 それも、まるで何でもないことのように。
「お前、俺が悪魔だって気付いて……」
 あまりにも普通に接するものだから、ひょっとして燐の都合の良いように解釈してくれたのかとも思っていたのだが。
「え? あ、うん。最初から気付いてたけど。っつーか隠してなかったじゃん。俺を助けた時の燐、耳も爪も尖ってて、真っ黒な尻尾まで生えてたし。でも剣を納めたら元に戻ってたよな。あれ一体どういう仕組みなんだ? 祓魔師になったら人間と同じ見た目になるアイテムとかくれんの?」
「いやいやいや、その前にまず悪魔が祓魔師やってるってことに違和感覚えろよ」
「え。ダメなのか?」
「普通は駄目だろ。しかも俺、青い炎まで持ってるし」
 青い炎はサタンの力。
 元々正十字騎士團は虚無界の王を最大の敵と見なしてきた。しかし『青い夜』以降はそれが更に顕著となり、サタンの象徴たる青い炎を見ただけで殆どの祓魔師は激しい嫌悪感を催すようになっている。否、サタンそのものが物質界に顕現不可能である以上、その青い炎こそが最低最悪の存在と畏怖されてきた。つまり物質界で唯一青い炎を纏える燐は祓魔師にとって最も分かりやすい憎しみの対象であるとも言えるのだ。
「青い炎、か」
 獅郎少年はぽつりと呟く。
「あれだろ、青い炎って魔神が持ってる力だよな。でも燐はサタンじゃない」
「……う、ん」
「だったらいいじゃん」
「はぁ?」
 ぽかん、と燐は口を開けた。
(じゃあいいじゃん、って何だそれ)
 そんな軽い言葉ではすまないレベルだからこそ燐は多くの祓魔師から忌み嫌われていると言うのに。
「でも、『青い夜』じゃこれと同じ力の所為で沢山の聖職者が死んで……」
 下手をすれば獅郎少年を育ててくれているあの優しい神父も犠牲になっていたかもしれないのだ。それをあっさりと割り切ってしまうのはおかしくないだろうか。
 燐は少年にそう告げる。しかし獅郎少年からの返答は燐が予想もしないものだった。
 曰く、
「『青い夜』って何だ?」
「……へ」
 今度こそ燐は絶句した。
 修道院に住んでいて悪魔も見える少年がその単語を知らないとはどういうことか。自分が何者であるかということどころかずっと悪魔の存在すら知らず祓魔塾で初めて京都出身の同期から『青い夜』について教えてもらった燐とは違い、獅郎少年は下手をすると日常的に耳にしてもおかしくない単語であるはず。それが何故。
(俺の夢だから都合の悪いモンは全部無かったことになってんのか?)
 青い夜がなければここまであからさまかつ盛大に燐が憎まれることもなかったかもしれない。二十年も経っていない昔の出来事というのは大人にとってまだ“記憶に新しい”と表現できるレベルのものであり、実際に目の当たりにした者も多く存在しているからだ。これが何百年も前の話等になってくれば、ここまで人当たりはきつくならなかっただろう。
(この世界じゃ『青い夜』は起こっていない……? それは“もう起こらない”なのか、それとも“まだ起こっていない”ってことなのか)
 ザワリ、と皮膚の上を虫が這ったような寒気を感じて燐は身を震わせた。
「燐?」
「……なあ、今って西暦何年だっけ」
「へ? えっと確か―――」
 獅郎少年の答えに燐は「そっか」と返す。
 燐の記憶が正しければ、それは『青い夜』が起こる二十数年前の数字だった。
 どうやらこの夢はただの夢ではなく、まだ燐が生まれてもいない過去をベースにしているらしい。ちょうど養父が目の前の子供と同じ年頃の時代だ。
(悪趣味)
 自分の夢であるが、そう思わずにはいられなかった。







2011.07.19 pixivにて初出