「…………、夢?」
 目を開けると正十字学園旧男子寮602号室のベッドの上にいた。どこかも知らない修道院のベッドではない。横を向いても夜遅くまで祓魔師の話を聞きたがった獅郎少年はおらず、代わりにすっかり身支度を終えた弟の雪男が穏やかに笑いかけてきた。
「おはよう、兄さん。今日は随分と早起きだね」
 いつもの起床時刻より一時間も早いよ、とリアルに驚いた声で言われるのは兄の威厳としてこれいかに。ともあれ、
「夢、なのか?」
「兄さん?」
 応えない兄に雪男が不思議そうな顔をして近付いてきた。
「どうしたの?」
「あのさ。昨日の夜、俺ちゃんとここのベッドで寝てたか?」
「? 何言ってんの」
 平均睡眠時間が十一時間と長い燐に比べ、雪男はその三分の一に迫る四時間程度である。燐が就寝してから起床するまでの多くは雪男の目に晒されることとなるので、燐に夢遊病の気がないか確かめるのにはそこそこ適した人物と言えた。
 が、そんなことなど思いもしない雪男は兄の言葉にクエスチョンマークを浮かべながら答える。
「ずーっと、ちゃんとそこで寝てたよ。僕が知る限りじゃトイレにも立たなかったね。それで?」
 どうかしたの? と問う顔は怪訝というよりも心配そうな表情だった。
 養父の月命日の翌日で少々メランコリックになっているのか、弟に余計な心配をかけてしまったのだと気付いた燐の胸にチクリとした痛みが走る。ここで「なんでもない」と誤魔化すのは簡単だし、こちらが話たがらなければ雪男も無理に聞き出そうとはしないだろう。その辺の機微には聡い出来た弟なので。だが若干眉尻の下がった雪男の顔を見ていると、うやむやに誤魔化してしまうのも如何なものかと思われた。
 燐はベッドのすぐ傍まで近付いてきた弟を見上げ、口を数回開閉しながら頭を掻く。
「実はさ、なんか変な夢見ちまって」
「夢か。どんなのだった?」
「それがさぁ。すっげぇリアルっつーか、匂いとか感触とか本物そっくりで、それが夢だとか全然気付かねえの」
 今でもまだ濃い緑の匂いが鼻の奥に残っているような気がする。それに悪魔を刀で斬った時の手応え、少年を抱き上げた感触、腐葉土を一歩一歩踏みしめた時の柔らかさ、何もかもがとても現実味を帯びていた。起こったことも全て覚えていたし、燐は自分であの出来事を『夢』と称したが、頭の片隅であれは夢じゃないと主張する自分がいるのも確かだった。
「夢を見ていてそれが夢だと気付かないのは普通だけど……。もっと詳しく聞かせてくれる?」
「おう」
 こくりと頷き、燐は続ける。
「俺が立ってたのはどっかの森で、子供が悪魔に襲われてたんだ。それを助けて、近くにあった教会に預けようとしたら、実はその子供が教会に住んでてよ。そいつとそこの神父様が俺に泊まってけって言ったから、んじゃ遠慮なく、と。んで、ベッドに寝転がって助けたガキと話し込んでたら……たぶんいつの間にか夢の中でも寝ちまったんだろうけど、そこで目が覚めたってわけ」
「結構詳しく覚えてるみたいだね」
「んー、まあな。俺もなんでかはよく解らないんだけど。……ああ、それに」
「なに?」
 肝心なことを言うのを忘れていたと、燐は説明を付け加えた。
「そのガキがさ、俺の青い炎を見ても全然怖がらなかったんだ。今思えばガキの名前がジジィと一緒だったのと何か関係があったのかもしれねえな」
「……神父さんと同じ名前で、兄さんの炎を見ても怖がらない、か」
「都合のいい夢だろ?」
 燐は口の端を持ち上げてニカッと笑った―――つもり、だったのだが。弟の顔を見るに、あまり上手くはいかなかったらしい。
 カッチリした制服に包まれた腕が伸びてきて燐の頭を抱きかかえる。
「無理しないで」
「無理なんかしてねーよ」
「そう」
「ん」
 きっと燐だけでなく雪男も養父の月命日の翌朝はメランコリックな気分になるのだろう。だから呆れて溜息を吐くのではなく、こうして言葉少なに触れ合おうとする。
 燐はそう思いながら弟の肩口に額を預けてしばし目を閉じた。
 今朝はいつもより早く起きてしまったので、登校まではまだ時間がある。



* * *



「りーんーりーん、燐兄ちゃーん。朝だぞー」
 小さな手に揺り動かされ、燐はパチリと目を開いた。
 そして己を起こした少年の顔を見つめ、瞬きを繰り返す。
(またこの夢なのか?)
 見据えた先には獅郎少年の顔。今回は正十字学園旧男子寮の602号室で眠りについたところまで記憶がある。前の夜、この少年を魔物から助けるというリアルな夢を見てその話を弟に零したというのもしっかり覚えていた。そして今はその夢の続きを見ているらしいのだが……。
「おーい、兄ちゃん?」
 惚ける燐の頬を獅郎少年がぺちぺちと叩く。痛くはないが、その感触は燐にとってこれが紛れもない現実と思わせるに足るものだった。
(え、え……ええ!?)
 有り得ない。夢のはずなのに夢じゃない。
 燐の様子に困惑し始めた少年を置いて、とりあえずセオリーどおり頬を抓ってみた。すると当然のように痛い。夢から覚めるわけでもなく、おそらく赤くなったであろう片頬を見た獅郎少年が「何やってんだよ」と言う声を燐は唖然としながら聞いていた。


 ベッドの上で混乱し続けるわけにもいかず、その後、少年に引きずられるような格好で燐は朝食の席へと着いた。既に着席していた神父に挨拶をし、食事の前に祈りを捧げてから箸を手に取る(朝食は和食だった)。祈りの方は腐っても修道院育ちなのでやろうと思えば難なく身体が動いた。
「燐さんも修道院でお育ちに?」
「孤児だったもんで。双子の弟と一緒に十五まで暮らしてました」
「なるほど。それでその後、祓魔師になる訓練を始められたのですね。ひょっとして弟さんも?」
「ああ、あいつはもっと小せぇ頃……七歳から訓練を始めてたみたいです。俺は十五の時に悪魔が見えるようになって……まあ、色々あって」
「そうでしたか」
 にこにこと微笑む神父はそれ以上の質問を重ねない。おそらく燐の台詞の端に滲んだ影を敏感に感じ取ってしまったのだろう。
 テーブルの上に少しだけ居心地の悪い沈黙が落ちる。だがそれも長くは続かず、食卓に着いていたもう一人がいとも容易く静寂を打ち破ってみせた。
「りーんー。飯食ったらもう行っちまうのか?」
 いつの間にやら“兄ちゃん”を省略するようになった獅郎少年がくいくいと燐の袖を引っ張った。
 昨夜調子に乗って祓魔師の話を鼻高々にしまくったのが主な敗因だろうか。どうやら燐はこの少年に呼び捨てOKの認定を受けてしまったらしい。そう言えば起こされた時も数回呼び捨てにされていたような気がする。
(雪男だったら『兄さんの頭は小さな子供と同じレベルなんだね』とかしれっとした顔で言いそうだなぁオイ)
 だが別に不快かと問われればそうでもなく。
 燐が去ることを惜しんでくれる少年にむず痒さを覚えていた。
「そうだなぁ……。一応俺にも帰らなきゃいけねえ場所ってのがあるし。行方不明になっちまってると騒ぎだす奴らもいるから」
(ただし俺の身を案じるんじゃなく、サタンの息子が逃げ出したって意味でな)
 たとえここが夢であろうと現実であろうと、それはきっと変わらない。
 皮肉げな思考が浮かび上がってきて、それが表に現れないよう燐は口元を引き締める。幸い、少年にも神父にも悟られなかったようだ。
「獅郎、無理を言ってはいけませんよ」
「でも俺……」
 少年はしゅんと眉尻を下げる。なんだか物凄く頭を撫で回したくなった燐は己の欲求に逆らわずそれを実行してみた。
「わわっ、燐っ!?」
「また近いうちに来てやるよ。だからそんな顔すんな」
「本当!?」
「おう」
 実際にそんなことができるのかどうか解らない。燐の現実は弟の雪男と共に正十字学園で学生と祓魔師との二重生活を送る方であり、決して妙なリアリティを持つこの世界で彷徨い歩く方ではない。けれどそれを解っていても尚、燐はなるべくこの少年に悲しそうな顔をさせたくなかった。自分が頭の中で作り出した夢かもしれないのに、それでも。
「この森は道を知らないと簡単には抜けられないからな。燐、しっかり覚えといてくれよ! そんでまた会いに来てくれ!!」
 絶対だぞ、と小指を立てる少年に燐もまた小指を絡ませて「ゆーびきりげーんまん」と誰もが知っているであろう歌を口にする。
 これは燐の見ている夢かもしれない。獅郎少年は悪魔の姿をした燐を恐れないし、神父は優しく二人を見守っている。けれど燐にとってはそれがどうしようもなく嬉しかった。また会いに来たい、などと思ってしまう程に。







2011.07.18 pixivにて初出