(どこだ……ここ)
 気が付くと、燐は木々が鬱蒼と茂る空間に立っていた。陽が沈みかけているようで辺りはだいぶ薄暗くなっており、しかし緑の濃い匂いが降魔剣を抜いたあの日以来鋭くなった嗅覚を刺激する。
 自らが身に纏っているのは着慣れた正十字学園の制服で、燐の悪魔としての能力を封じている倶利伽羅もきちんと右肩にかかっていた。靴も勿論履いている。しかし燐には制服を着込んでこんな所までやって来た記憶はない。
(なん、だ)
 何かを忘れているような気がした。だが思い出そうとしても記憶は薄ぼんやりと霞みがかっているようで思い出せない。
(俺はどうしてここにいる? ここはどこだ? そして俺は何を忘れて―――)
 と、その時だ。
 ガサガサと近くの低木が揺れた。直後、小さな影が飛び出してくる。その影は燐にぶつかると「うわっ」と声を上げて地面に転がった。
「なっ……」
 子供だ。
 薄闇で輪郭程度しか捉えられないが、燐はそう確信する。だが(おそらく)子供は燐にぶつかって地面に尻餅を付いた後、自分より遙かに高所にある二つの青い目――つまり僅かに残った陽光を弾く燐の双眸であるが――を見上げて「ひぃ」と息を呑んだ。
 様子がおかしい。この子供は何かに酷く怯えている。
 燐は子供を安心させようと口を開く。だが声を発する前に別の存在が木々を割って現れた。
 子供が走ってきた方向から現れた、つまり子供を追いかけてきたらしいそれは燐とその子供を見つけると、“耳まで裂けた口”をニタリと歪ませる。
「オイオイめずらしーなぁ。こぉんな時間にこぉんな所にいちゃ危ないってママから教わらなかったのかぁい?」
 ケタケタと裂けた口から不快な嘲弄が漏れ出る。燐よりも二回り以上大きなそれは口の端からだらりと粘性の高い唾液を垂らし、その唾液が零れ落ちた地面からはシュウシュウという音と共に奇妙な色のキノコが積み重なるように生えていた。そして周囲に漂う臭気。
 燐は子供を己の背に庇いながら鼻の上に皺を刻む。
「テメェ悪魔か」
 おそらくは『腐の王』アスタロトの眷属。
 この子供を襲おうとしたところに燐が現れて、悪魔は燐もろとも己の糧にしようとしているのだろう。ふざけんな、と毒づき、燐は倶利伽羅の鞘を掴んだ。
 いきなり訳の分からない所に立っていて、いきなり悪魔が子供を襲おうとしていて。何だよこの状況は、と今にも叫び出しそうだ。
「だぁいせーいかーい! そしてついでにさよぉならー」
 不快な笑い声を上げながら悪魔がぐわっと口を開く。
「た、たすけ」
 燐が己を襲う存在ではなく味方だと悟った少年が制服のズボンの裾を掴んだ。動くには邪魔だが、その仕草が幼い頃の弟を思い出させて少しだけ燐の心を落ち着かせる。
「安心しろ。俺が助けてやっから」
 燐は倶利伽羅の鞘を左手で持ったまま、もう片方の腕で子供を抱きかかえ跳躍した。直後、悪魔の大口がばくりと燐達のいた場所で閉じられる。
 子供を少し離れた所に下ろし、燐は改めて倶利伽羅を構えた。他に武器になりそうな物は持っておらず、頼りになるのは自分とこの刀だけだ。しかし悪魔を見て恐れる子供の目の前で燐が倶利伽羅を抜いてしまっても良いのだろうか。燐と交流があっても青い炎と尖った耳に恐れや嫌悪を抱く者が殆どだというのに。
(でもやっぱ守らなきゃなんねー時だろ、今は)
 胸中で呟き、真横に一閃。鞘から抜き放たれた刀身は迫ってきた悪魔の顔面を深く斬りつけ、それが怯んだ瞬間にはもう封印は全て解かれている。つまり、
「な、何なんだよぉその炎はぁ!!」
 驚愕と畏怖に見開かれる黄ばんだ悪魔の目。そこに映り込むのは青い炎を纏った燐の姿。爪と牙は鋭く、耳が尖り、尻尾の先に青白い炎が灯る。額からもまた角のように炎が揺らめき、そこにはまさしく魔神の落胤が顕現していた。
「どぉしてお前のような奴があの方と同じ炎をっ!」
 よく悪魔達が燐をそう称するように『若君』とは呼ばず、ただひたすら困惑に顔を歪ませる腐の王の眷属。珍しいとは思ったが燐もそこで手を止めて話してやるほどお人好しではない。「うるせぇ!」と刀を振り上げ足の止まった標的を貫く。
「……う、ぐ。が、ああああああああ!!!」
 突き刺さった刀身を起点に悪魔の全身を青い炎が包み込んだ。
 虚無界の王と同じ業火は一瞬にして下位の悪魔を焼き尽くし、やがて悲鳴さえも飲み込み全てを塵と化す。それを見届けた燐はようやく倶利伽羅を鞘に納めた。同時に悪魔の象徴である尖った耳や爪、牙が元の長さに戻り、青い炎も消え去る。ただ尻尾だけがゆらりと臭気の残る空気をかき混ぜて、燐が決して人ではないことを示していた。
 背後で子供の身じろぐ気配がした。
 悪魔が見えていたのだから、この子も既に魔障を受けているのだろう。となると多少なりとも悪魔や祓魔師、そしてサタンという単語に聞き覚えがあるのかもしれない。
 絶対に怖がられた。
 青い炎は魔神の象徴。『青い夜』以降、余程の無知でない限り、悪魔に関わる者は子供でもそれを知っている。
 さあ、謗りを受けるか、唾棄されるか、憎しみの籠もった目で睨み付けられるか、恐怖に歪んだ顔で近付くなと叫ばれるか。どれを想像したって胸が痛い。それらマイナスの感情の全ては燐に相対する多くの者が抱く感情であり、また燐自身も己に対して抱いたものである。何故なら燐は養父を殺した。聖騎士であった獅郎の心にサタンの付け入る隙を作ったのは燐が放った暴言だ。悪魔の子として養父を死に追いやったことを後悔し、この世で一番奥村燐を憎んでいるのは燐自身なのだ。
(って、いけね。なんか思考がぶっ飛んじまってたな)
 苦笑し、燐は袋に収納した倶利伽羅を肩に掛ける。振り返ることに躊躇いはあったが、動きには一瞬の戸惑いも表れなかった。
 そして己が助けた子供を振り返った燐は、
「……え?」
 とん、なんて軽いものではない。小さな体に思い切り体当たりされて転びそうになる。だがその体当たりは決して攻撃の意志など含んでいなかった。制服にしがみついて身を震わせるその姿は、まさしく恐怖から解放され庇護者に抱きつく子供そのものだったのだから。
「え、ちょ……なん」
 青い炎が見えていなかったのか。このゆらゆら揺れる尻尾が見えていないのか。燐は子供を襲ったものと同じく悪魔なのに。どうして子供は燐にしがみついている? どうして燐が両腕を伸ばして小さな体を抱きしめても逃げ出そうとしない? どうして抱えあげた子供は燐に頭を擦りつけて安堵したように息を吐く?
「……どうしよう」
 ぽつり、と燐が呟いたのは、抱き上げた子供から安らかな寝息が聞こえ始めてしばらく経った後のことだった。



* * *



 木々の合間を進んで行くと人工の明かりが見えた。近付いてみれば燐がかつて暮らしていたものより小さめの教会だと判る。抱え直した子供の胸元にロザリオがあるのを認めて、とりあえずあそこまで行けばこの子供を保護してもらえるだろうと考えながら燐は歩を進めた。


「あの、すみません」
 木製の扉を叩いて応えを待つ。
 辿り着いた教会は古びていたがきちんと手入れされており、窓からは暖かそうな光が漏れ出ていた。ここは燐と何の関わりもない場所だというのに何故かほっと息を吐いてしまうような、そんな雰囲気がある。
 しばらくしてキィと扉が開いた。中から顔を出したのは人の良さそうな年老いた神父で、まず燐を見て宵闇迫る中の訪問者に小首を傾げる。それから燐に抱かれた子供を確認し、大きく目を見開いた。
「獅郎!」
「……は?」
「ぅ……神父さま……?」
 神父の声に腕の中の少年がむにゃむにゃと目を覚ます。
「こんな時間までどこに行ってたんですか! とても心配したんですよ……!」
「あ……ご、ごめんなさい。森で遊んでたら暗くなっちゃって」
「闇は悪しきものを呼ぶ。あれほど気を付けなさいと言ったのに」
 優しげな顔に精一杯の怒りを浮かべて神父は少年を叱った。その声や視線には紛れもない愛情が含まれており、それを知っているであろう少年も素直に謝罪の言葉を告げる。
 それはいい。別に構わない。何ら問題はない。
 燐はしゅんとしている腕の中の少年を見下ろし、一言。
「シロウ?」
 よくある名前なのかもしれないがとても関わりの深い名前だったので真っ先に耳についた。
 燐が少年の名前(だろう)を呟くと、神父と少年がようやく燐の存在を捉えた。少年は燐を見上げながら何の恐れも浮かんでいない瞳のまま「うん」と頷く。
「獅郎は俺だよ。獅子舞の獅に太郎の郎で獅郎って言うんだ。格好良いだろ!」
「お客人は一体……ひょっとして森で遊んでいた獅郎をここまで連れて来てくださったのですか? ありがとうございます」
「へ、あ……え、いや、その……」
 何と返せばいいのか解らない。
 どういたしまして? だがその前に自分が助けた少年の名前が気になって仕方がなかった。獅郎って何だ。音どころか漢字まであの人と―――燐の養父と同じなのかと。
 混乱する燐を他所に獅郎少年は神父を見上げながらそりゃあもう目を輝かせながら声高に告げる。
「兄ちゃんは俺を化け物から助けてくれたんだ! ずばぁ!って、その剣で!!」
「なっ……!?」
 その台詞に神父は息を呑んだ。そして燐を見据え、背中の刀に視線を飛ばし、「おお」と呻くように小さな声を出す。
「ひょっとして貴方は祓魔師でいらっしゃるのですか……?」
「あ、……まあ、はい。まだ候補生なんですけど」
 そして同時に悪魔でもあるけれど。
 獅郎少年の前で尖った耳も尻尾も青い炎も出してしまった身としてはどうしてもはっきり頷くことができず、曖昧な返答になってしまった。だが神父はそれで納得してくれたようでにこにこと頬を緩ませて教会の扉を大きく開けた。
 迎え入れるようなその仕草に燐はきょとんと目を丸くする。
「あの……」
「さぁさぁお客人、どうぞ中へ。もしご迷惑でなければ獅郎を悪魔から救ってくださったことへの感謝をさせていただけないでしょうか」
「え……」
「さぁ遠慮なく」
「兄ちゃん、ほら」
 腕の中で獅郎少年がくいくいと袖を引っ張る。仕草自体は幼いがその人懐っこさには藤本獅郎を思い起こさせるものがあり、燐の気持ちがぐらりと揺らいだ。完全に燐を人間の祓魔師と思っている神父を騙すようで忍びなかったが、それでも足は建物の中へと一歩踏み入れる。
「お、お邪魔します」
 幼い頃に躾られたものはこんな時でも顔を出す。挨拶をしつつおっかなびっくり中に入る燐の様子に神父は大層嬉しそうな笑みを浮かべ、獅郎少年は「ようこそ!」と元気よく声を上げた。



* * *



 獅郎少年はこの修道院で暮らしているらしい。出された温かな茶を啜りながら燐は神父からそう聞かされた。どうやら少年を送り届けた先は一時預かりどころがどんぴしゃだった模様。だがそれならば尚更、と燐の頭の中に疑問が浮かぶ。
(教会で暮らしてるくせになんで俺のことは怖がらないんだ?)
 この教会の主である年老いた神父は悪魔の存在も祓魔師の存在も知っている。そして獅郎少年には確かに悪魔の姿が見えていた。となると、少年が悪魔の存在を知らないという可能性の方が低い。先程、彼は自分を襲ったもののことを『化け物』と称していたが、神父の口から出る『悪魔』という単語にさして過剰な反応をしないところからもそう推測された。
 そんな子供がまさか『青い夜』を、サタンの存在を知らないわけがない。青い炎は魔神の象徴だ。尻尾や角を生やし青い炎を纏った燐の姿はどこから見ても魔神に由縁のある悪魔に相違なく、ゆえに燐はこうして暖かく迎え入れられている状況に酷く戸惑いを覚えた。
「ところでお客人の名前をまだ聞いていませんでしたね」
「あ、りん、です。奥村燐と言います」
「燐さん、ですか。この度は本当にありがとうございました。重ね重ねお礼申し上げます。……ほら、獅郎も」
「ありがとう、燐兄ちゃん!」
「いや、そんな大したことなんてしてねえし。むしろ茶までごちそうになって迷惑だったんじゃ」
「迷惑だなんてとんでもない。もし獅郎のことがなくても、こうして寂れた教会に若い方が来てくださるだけで年寄りには嬉しい出来事ですからね」
 にこにこと微笑みながら、神父は「ああ、そうだ」と手を打って続けた。
「もしお急ぎの用がなければ今夜はここに泊まっていかれてはいかがでしょう? 獅郎も貴方に懐いているようですし」
「燐兄ちゃん、今日は泊まっていってくれるのか!?」
「え、いや」
 きらきらした目に圧されながら燐は言葉を濁す。この場合、どう答えるのが正しいのだろう? この人の良さそうな神父に悪魔と知らず悪魔を宿泊させるというのは如何なものか。
「ひょっとしてお急ぎの用が?」
「そ、そんなんじゃなくて……。つかここがどこかもよく判んねえし」
「え?」
「兄ちゃんって迷子だったのか?」
 燐の返答に神父と獅郎少年が揃って間の抜けた顔をした。悪魔を刀で屠れる祓魔師の少年がまさか道に迷っていたとは思いもしなかったという顔だ。
 そしてその二つの顔は全く同じタイミングでニコリと微笑むと、
「では今夜はここにお泊まりください」
「そうそう! 明日になったら俺が道案内してやるよ!」
 悪意など欠片もない、善意100パーセントの言葉が燐に投げかけられた。
 これを切り捨てられる人間(燐は悪魔だけれども)がいるなら見てみたい。そう思いつつ燐が首を縦に振ってしまったのは最早仕方のないことだった。







2011.07.17 pixivにて初出