強化合宿二日目。
 勝呂と出雲の喧嘩により、連帯責任と称して訓練生全員にペナルティが与えられることになった。合宿期間中の宿泊先である男子寮旧館の一室に集められた生徒達は正座した足の上に囀石(バリヨン)と呼ばれる石等に憑依する悪魔を乗せられ、雪男が任務に出ている三時間このままでいることを科せられていた。
「鬼か……」
 雪男が出て行って扉が閉まり、志摩は思わずそう漏らす。
 だが志摩には足に乗せられた悪魔などどうでもいいくらいに気になることが一つあった。
(なんでこの部屋、俺ら以外の人間までおるんや)
 天井裏、床下、押入れの中、エトセトラエトセトラ。そこら中に祓魔師達の気配を感じる。上手く隠しているが、悪魔となり鋭敏化された志摩の聴覚や嗅覚は誤魔化せない。息遣いや身動ぎした時の衣擦れの音、耳を澄ませば心音も。それに医工騎士ならば薬品の匂い、竜騎士ならば火薬の匂いをその身から感じ取れる。
 ただし同じ悪魔でも日の浅い燐の方は違うようで、今はひたすら足の上の囀石の重みに耐えることで精一杯のようだった。加えて両脇に座る勝呂と出雲の言い合いに早くも我慢の限界が来そうでもある。
 祓魔師達に関しては燐(と志摩)を監視するためかとも思ったが、それならこれ程までに数を用意せずともいいだろうと考え直した。監視ならば一人か二人で十分だ。しかも燐や志摩の正体を知っているのは講師の中でも限られた者達だけであるはずだから、この人数は多すぎる。これは監視ではなく―――まるで。そう、まるで、
(いざと言う時に生徒を守る……ため、みたいやん?)
 昨夜、寮内に屍(グール)――縫合痕があったので正確には屍番犬(ナベリウス)だろう――が現れたからだろうか。しかし、だとしたら雪男がわざわざ席を外したり、他の祓魔師が隠れていたりするのはおかしい。雪男の件に関しては本当に任務かもしれなかったが、それ以外は護衛なら護衛として姿を見せておけばいいのだ。あえて床下や天井裏に隠れる必要は無い。
 何かあると思った。
 生徒達に存在を悟られぬよう姿を隠してもしもの時に備えねばならない何かが。
 しかしその時、突然部屋が暗くなり、志摩の思考も一旦途切れる。
「!?」
「あだっ」
「ちょ……どこ……」
「ぎゃああ」
「何だッ!?」
 足の上から囀石を落下させつつドタバタと騒ぐ生徒達。
 その中で志摩が逸早く携帯電話を取り出した。弱いながらも光を得たことで周囲も落ち着き、各々自分の携帯電話を光源とし始める。
「奥村くん、足大丈夫やった?」
「お、おう。へーき、へーき」
 慌てて立ち上がった時に爪先を囀石で強打したらしい燐に志摩が駆け寄った。足元に跪いて確かめれば、骨が折れた様子も無い。いくら燐が悪魔であり回復が早いといっても怪我は怪我であるため、志摩は大事が無くて良かったとほっと一息ついた。
「志摩は大袈裟だな」
「奥村くんのことだけやけどね」
「……アンタ達、俄か主従はもっと別の時にやりなさいよ」
 出雲の呆れを含んだ指摘が入る。
「にわか、て……。ひどいわぁ神木さん」
 志摩としては真剣に燐に仕えているのだが、それをからかわれたからと言って女の子に手を出すほど腐った男ではないつもりだ。それに燐が気分を害した様子もないし、それならば志摩が怒る理由も無い。……いや、燐があまりにも気にしていないのは彼を王と仰ぐ志摩にとって悲しくないわけがなかったが。しかしながら今のところ燐にとって志摩廉造という存在は自分の従者などではなく、ちょっとばかり風変わりな友人という認識なのは志摩自身よく理解している。よってこの反応も落胆半分納得半分だった。
 ともあれ、今はこの状況を把握するのが先だ。
 窓の外では普通に電気が通っているため、停電はこの寮内に限られたことだと考えられる。人為的に作られたであろう暗闇と、あらかじめ待機しており今もまだ行動を起こさない複数の祓魔師達。昨日襲ってきた悪魔のことも考慮して、さてこれから一体何が始まるのやら。
「俺、廊下の方見てきますわ」
 ひとまず燐に微笑みかけてから志摩は扉へと近付いた。ただし取っ手に手を掛けるよりも先に、その向こうにいる存在に気付いて僅かに眉根を寄せる。
 扉と壁の隙間から漏れる空気の中に硫黄臭さが混じっていた。それは先日、魔法円・印章術の際に嗅いだ屍番犬が放つそれと全く同じである。
(野生の屍系か、それとも手騎士が召喚したヤツか……。先生らが動かんとこ見ると、後者の方かもしれへんね)
 ある程度のことは覚悟しながら扉を開く。
 その向こうにいたのは―――
「……ビンゴ」
 志摩は思わず呟き、直後、再度閉じた扉が爆発したかのように砕け散った。
 廊下側から現れた縫い目だらけの屍―――屍番犬から視線を外さぬまま、志摩は生徒達の中で(自分を除き)最も前に出ていた燐と勝呂の両腕を引っ張りながらバックステップで後退する。
 だが所詮ここは室内であり、のしのしと部屋に入ってくる屍番犬からは十分な距離が取れない。ならば襲い掛かられる前に己が持つ悪魔の力―――黒い炎で燃やし尽くしてしまうのも手だったが、それができるなら燐の方が真っ先に倶利伽羅を抜刀していただろう。この場所には事情を教えられない者達が多すぎた。
 さぁどないする? と逡巡している間にも屍番犬の目はギョロリと塾生達を捉える。そして次の瞬間、二つの頭部のうち目も口も無く複雑に縫い合わされている方がその糸を引き裂いて中身を生徒達に向かって撒き散らした。
「ひ」
「きゃ!」
「!!!!」
 皆は顔を背けたり腕で庇ったりするが、屍番犬の体液は防ぎようも無く皮膚に付着する。
 マズイな、と志摩は思った。
 屍系の悪魔の体液は人間にとって即効性の毒になる。しえみが機転を利かせて緑男の妖精に悪魔とこちらを隔てるための防壁を出させたが、木々が複雑に絡み合ったようなそれが完成した直後、しえみは頭がくらくらすると言って膝をついてしまう。
 また体調不良を訴え始めたのは彼女だけではない。志摩と燐以外の全員――つまり『悪魔』を除く純粋な人間のみ――が次々と床に座り込んだ。
 屍系の悪魔に対する知識が不足している燐は周囲の様子に一体どうしたのかと戸惑いを見せるが、
「さっきはじけた屍の体液をかぶったせいだわ……アンタ平気なの?」
 そんな出雲の言葉に一瞬だけ身を凍らせる。次いで自分と同じく平気そうな志摩へ視線を寄越すと、納得したように「俺は平気っぽい」と短く答えた。
「……志摩も、」
「俺も大丈夫やでー。たぶん体質か何かなんやろな」
 志摩はへらりと笑い、現在進行形でバリケードを壊している屍番犬を木々の隙間から見遣る。
「杜山さんのおかげで一時的には助かったけど、こりゃシャレにならんくらいヤバい状況とちゃいます?」
「屍は暗闇で活発化する悪魔やからな。杜山さんの体力が尽きてもアウト、あの悪魔がこいつを壊しきってもアウトや。どっちにしろあんま時間は無いで」
「ど、どないしましょう……?」
 勝呂が答え、子猫丸が怯えた声を出す。
 隣では燐が携帯電話で弟の雪男に連絡を取ろうとしていたが上手く行かないらしい。志摩は携帯電話を閉じた燐と視線を交し、口の動きだけで「どないします?」と問いかけた。
 この場で動けるのは悪魔であり屍の体液に侵されていない志摩と燐だけだ。しかし悪魔としての自分達の力を、こちらの正体を知らない皆の前で振るうわけにはいかない。燐の青い炎は致命的すぎるし、志摩もまた悪魔落ちしている事実を知られれば、そこから燐の正体を探られることになる。後者はまだ誤魔化せる可能性もあるが、それでもあまりやりたいことではない。
(おい、先生ら。隠れとらんでさっさと出てきて俺ら助けてぇや)
 心中で毒づくも、部屋のいたる所に隠れている祓魔師達が行動を起こす気配は未だ無かった。やはりこの屍番犬は何らかの意図を持って手騎士が召喚した悪魔なのだろうか。
 しかしそうであっても今はとてつもない危機的状況だ。生徒が自分達の力でこの場を乗り越えることを求められているのなら、それ相応の行動を示さなければならない。
 悪魔がバリケードを砕ききるまであまり時間はなく、更に奥の方を窺うと二匹目が現れたことも確認できた。
(しゃーない。この茶番、付き合ぉたるわ)
 心中で呟き、志摩は燐の名を呼んだ。
「奥村くん」
「俺が囮になる」
 燐が静かに告げる。周囲は驚いたようだったが――特に勝呂などは「ハァ!? 何言うとるんや!!」と声を荒げた――、志摩は何も言わなかった。
(やっぱり、燐様ならそない言わはるわな)
 昨日のことで志摩は燐がどのような行動を取る人物なのかある程度理解できていたからだ。燐ならばまず自分が動くだろうと。たとえ自分の身を危険に晒そうとも、彼ならば構わず敵に突っ込んで行く。他者を守ろうとする。
 ならば、従者を名乗る志摩はどう行動すべきか。
「俺もお供しますわ」
 危険を顧みず突き進む燐の傍で、叶うならばその身を守りたい。燐の身体に宿った力は志摩など遠く及ばぬレベルであるが、それでも燐が傷つくようなことがあれば、その傷は代わりに自分が受け止めたいと思う。
 普段から周囲の人間にはヘラヘラしていて掴みどころがないとか、苦痛や苦難からなるべく遠ざかろうとするヘタレだとか言われている志摩だが、それでもこの奥村燐と言う存在に関してだけはそういった部分が鳴りを潜めるのだ。
 しかし燐は志摩を真っ直ぐに見据えて首を横に振った。
「志摩、お前はここに残ってくれ」
「なんでですの」
 志摩の声が情けなさを帯びていたためだろう。燐が青い眼を眇めて苦笑を浮かべる。
「だって今大丈夫なのは俺とお前だけだろ? だったら俺があの悪魔を二匹とも連れて行けなかった場合に備えてお前はここで皆を守るべきだ」
「……せやったら俺が囮になるんもアリとちゃいます?」
 囮になること、ここに留まること。祓魔師達の存在もあるため、どちらかと言えば後者の方が最悪の事態は免れる。ならば燐により危険な方を選ばせる必要は無い。二手に分かれるなら、志摩が囮になって燐がここに残るという選択肢もあるのでは。
 そう告げた志摩だが、燐は「ばーか」と軽い口調で告げた。
「お前にそんなことさせられるかよ。言っとくけど、俺の方がお前より強いだろ?」
「奥村くんが行っても危ないんは変わりませんやん」
 こちらを気遣ってくれるのは嬉しい。身に余る光栄だと告げてもいいくらいだ。しかし、それでも、納得はできない。燐が自分より他人を優先するように、志摩は燐の身を優先したいのだから。
「志摩、」
 燐が名前を呼んだ。
 青い瞳に真剣な光が浮かんでいるのを見て取って志摩は口を噤む。
「こんなこと、本当は言いたくないんだけどさ……」
 バリケードの向こうから迫り来る悪魔となかなか言う通りにしてくれない志摩を交互に眺め、燐は眉間に皺を寄せた。
「俺はお前にとって特別なんだよな」
「王様やからね」
「本気か」
「マジでホンマで正気で事実や」
「だったら」
 燐は一度ゆっくりと瞬く。
 そうして、青い瞳で真っ直ぐに志摩を見つめた。

「俺の命令に逆らうな。お前はここに残って皆を守れ」

 本当は燐も“友達”であるはずの志摩にこんな言い方はしたくなかったのだろう。その証拠に眉間の皺は最高潮に深くなり、刀の鞘を握る手にぎゅっと力が篭っている。
 だが志摩は嬉しかった。たとえ燐が望んで告げた台詞でなかったとしても、自分が彼の従者であると認識した上での言葉だったから。
 志摩はその場に傅き、こうべを垂れる。いつかの時のように他の塾生達が驚いた気配を見せたが気になどならない。
「御意に。いってらっしゃいませ、燐様」
「……やめろよ、その呼び方」
 唇を尖らせてそう告げた燐に志摩は苦笑を浮かべ、「気ぃつけてな、奥村くん」と言い直す。
「こっちは任しといて。一応、こういうモンも持っとるしな」
 服の下に隠していた組み立て式の錫杖を取り出しながら志摩は燐に微笑みかけた。人目があるところで悪魔の力を使うことはできないが、こういう物も所持しているのでいざという時には動けるのだと。
 錫杖に宿った聖性でダメージを受けないようにするため両手にグローブを嵌めながら、志摩は「任せた」と言って木製バリケードの間をくぐり始めた燐の背を見送る。
 一方、二人のやり取りを目にして呆気に取られていた他の塾生達だったが、さっさと向こうへ行ってしまおうとしている燐の姿に思わず声を荒げた。ただしそれでも燐が止まることはない。やがて燐が廊下側へと姿を消すと、二匹の悪魔のうち一匹がそれについて部屋から去っていった。
「しゃーない。一匹残ってしもたか」
 言いながら志摩は塾生達を背に庇う格好で錫杖を構える。主人の命令は絶対だ。しかも燐が初めて志摩に与えてくれた命令なのだから、絶対に守ってみせると己に誓う。たとえ悪魔としての力が揮えずとも。



* * *



 結果として、志摩も燐も他の塾生達も危機を乗り越えることができた。
 燐は生徒達の目が無くなったことで青い炎を使えるようになり、その力で屍番犬を撃退。また志摩の方も詠唱騎士を目指す勝呂が致死説を唱えて悪魔を祓うことに成功した。どうやら燐や門徒の志摩が立ち向かおうとしているのに、自分が怯えたままなど許せないと気を奮い立たせたらしい。またこの一件で、出雲も失っていた自信を再び取り戻し、最終的に見ればめでたしめでたしと言ったところだろう。
 尚、この強化合宿は試験前に能力を上げるためのものではなく既に試験であったのだと、正十字学園の理事長であり祓魔塾の塾長であるメフィストから直接教えられた。それを聞いた塾生達は自分の行動を振り返って「大丈夫だろうか」と不安になったりもしたのだが、それも杞憂に終わり、無事全員の合格が言い渡された。



* * *



(さぁて。この落とし前、どないつけさせてもらいましょか)
 夕刻。まもなく日が沈みきる時間帯。
 薄闇の中で志摩は内心でそう呟きながら薄く薄く、薄氷のような笑みを浮かべた。
(燐様がネイガウスに殺されかけたんやてなぁ)
 先日、候補生認定試験に塾生全員が合格した祝いにメフィストがもんじゃを奢ると言って生徒達を外へ連れ出した。雪男を含めた皆で鉄板を囲み、ワイワイと楽しくやっていたのだが、悪魔となったおかげで聴力も優れていた志摩はメフィストが携帯電話で誰かと話していることに気が付いた。正確に言うと、その会話の中に出て来た「ネイガウス」という単語に反応したのだ。
 屍番犬を退けた直後の寮でもその翌日以降の塾でも、なんとなく燐の様子がおかしかったためである。特にネイガウスを前にした時やその名前が話題に出て来た時に。ゆえに気になっていた志摩は、メフィストの通話を聞いて彼がネイガウスに何かをさせたのだと知った。
 その夜、志摩はメフィストがネイガウスに一体何をさせたのか調べてみた。燐から直接話してもらえるとは思っていなかったので、気に喰わないが主の弟である雪男にも探りを入れて。そうして出て来た事実に志摩は怒りで我を忘れそうになった。
 ―――合宿一日目、二日目と襲撃してきた屍番犬は手騎士の称号を持つイゴール・ネイガウス上一級祓魔師の手によるものであった。それだけならいい。別に構わない。候補生認定試験のためだったのだと志摩も納得できる。
 しかしネイガウスは燐に対して過剰な攻撃を加えてきた。それどころか彼は教師としてではなく、かつて青焔魔によって家族と己の左目を失ったことを恨み、燐を殺すつもりだったのだという。皆が男子寮から去った後、深夜になってからネイガウスは燐を襲撃し、その脇腹に大穴を空けさせた。幸い、燐は悪魔の身体であったためその傷もすぐに塞がったのだが……。
「俺がこないなこと許すと思ぉとった? なあ、せんせぇ」
 その声で足を止めたのは祓魔師の黒いコートに魔法円を描くための巨大コンパスを所持した男。場所は奇しくも先日ネイガウスの過剰な攻撃に奥村雪男が苦言を呈した階段のすぐ近くで、志摩は階段上部の踊り場の手摺に腰掛け、下を歩いていたネイガウスに語りかける。
「いやぁ、今回のことはホンマ参りましたわ。燐様の危機に駆け付けられんかった自分が不甲斐のぉてしゃあないんです。まさかネイガウス先生がそこまで強行的なお人やとも思てなかったんで」
「……サタンを憎む者はそれこそこの学園にも大勢いる。今はまだ事実を知る者も少なく、それが表面化していないだけだ」
 ネイガウスの隻眼が志摩を見上げた。サタンどころか悪魔と名のつくものは全て憎いと宣言しただけあって、志摩を見据える目にもそれ相応の剣呑さが宿っている。いや、“サタンの落胤に傅く者”であるがゆえにその視線は他の悪魔に向けるよりも更に鋭くなっているかもしれない。
 だが志摩もまたこの人間を許すつもりは欠片も無かった。
「今すぐここで八つ裂きにしたろか、こんドグサレが」
「その凶暴且つ短絡な思考、やはり悪魔だな」
「……ええやん。悪魔で上等や」
 ニイ、と志摩の唇が吊り上がる。直後、志摩は腰掛けていた手摺から飛んだ。そのままネイガウスの頭部目掛けて尖った爪を振り下ろす。
 ネイガウスもまた応戦のため床を蹴って立ち位置を変えながら腕に描かれた魔法円に己の血を垂らした。腕にびっしりと描かれた小さな魔法円より肘から先だけの形をした屍番犬が次々に飛び出してくる。志摩はそれを爪や炎で蹴散らし、一度床に着地してから一気に距離を詰めた。
 志摩の実力を見誤っていたらしいネイガウスは急接近してきた『悪魔』に目を瞠り、慌てて腰の巨大コンパスを構える。新たな魔法円を描く暇が無いため、それで直接志摩の攻撃を受け止める気らしい。
(甘いわ)
 爪が弾かれるなら炎で焼き殺してしまえばいい。
 志摩は手に黒い炎を纏わりつかせ、そのまま金属製のコンパスを握り締めた。じゅわ、と熱した鉄板に水を浴びせたような激しい蒸発音がして巨大コンパスが半ばから溶けて折れる。
「……ッ」
「あーあ。センセ、大事な商売道具が壊れてしもたなぁ」
 慌ててバックステップで距離を取ったネイガウスに、志摩はそれを追わず立ち止まってニタリと口の端を持ち上げる。そうだ。もっと恐怖すればいい。自分が一体『何』を傷つけたのか、理解し、恐れ、後悔すればいいのだ。
「次はどこ焼いて差し上げましょ? 他に商売道具言うたら、やっぱ腕かいな。でも先に足の方から消し炭にすんのもアリやんなぁ。そんで逃げられんようにして、指先からじわじわ焼くんも楽しそうやん?」
「悪魔めッ」
「はいはい、俺は悪魔ですよーっと。で、その悪魔に対して絶体絶命の先生は今から醜く命乞いでもしてくれはります?」
「っ、ふざけるな。誰が悪魔などに……!」
「せやったら命乞いしとぉなるまでやらしてもらいましょか」
 それまでの嗜虐的な笑みは鳴りを潜め、志摩は親しい人に対するかのようににこりと微笑を浮かべる。口調も柔らかく明るい。しかし台詞の内容と目の色は聞く者・見る者をぞっとさせる要素だけで満ちていた。温かみなど欠片も無い―――濁り、淀み、凍えるような瞳で志摩はネイガウスを射る。
「ま、たとえ先生が滑稽なくらい謝り倒してくれはっても許すつもりなんぞこれっぽっちも無いんですけどね」
 そう呟いた直後、志摩は再び床を蹴る。
 ネイガウスの方も流石上一級なだけあり、懐から魔法円が描かれた紙切れを取り出した。血は既に腕や指先から流れ出ているためすぐにそれを紙へ擦り付けて悪魔を呼び出すための言葉を唱える。
「“デュポエウスとエキドナの息子よ”」
 しかし―――
「遅いで、先生」
「ぐっ」
 志摩の右手がガッチリとネイガウスの首を掴み上げた。
 体格差などもろともせず、大の大人を腕一本で吊り上げる。
「が、ぁ……っ」
「安心しぃ。首絞めて殺すだけなんぞつまらんわ」
 そう囁きつつも長く伸びた爪は首の皮膚に食い込み、ダラダラと血を流させている。もし指がもう少し動いて動脈を傷つければ、それだけでただの人間でしかないネイガウスは死ぬだろう。脇腹に穴を開けても同じく。多少の苦しみの後、彼はそれ以上の苦痛を味わうことなく死んでしまう。
「ホンマ、つまらん」
 志摩の大切な人が受けた苦痛はこんなものではないはずなのに。
 身体に傷は残らずとも、心に受けたそれはあまりにも大きい。人間が大好きなあの方が人間に傷つけられた。殺してやりたいと、憎いのだと正面切って言われた。自分の所為で人間であるはずの弟にまで危害が加えられた。――― それら一つ一つの事実がどれほど燐に傷を負わせたのか。
「……、ぎ、……ぐ、ぅ」
「…………ああ、うっかり力入れすぎとったみたいですわ」
 失神しかけているネイガウスに気付き、志摩は右手をパッと開く。百八十を越える身長の男が床の上に崩れ落ちて激しく咳き込んだ。
「げほっ……ぐ、……はっ、あ」
「……」
 志摩はその様子を淡々と見つめる。
 だが咳が収まる前に視線の先の背中を強く踏みつけた。
「ぐ、」
「まずは片足、早ぉもいでしまおか」
 背中を踏みつけたまま、志摩はネイガウスの足首を掴む。悪魔の握力があればこのまま足首から先を捩じ切ることも、そのまま人体の作りとして有り得ない方向に曲げて股関節や膝関節を破壊することも可能だ。力の入れ具合では脚を付け根から引き千切ることさえできる。
「出血多量で死なれても困るさかい、俺の炎でちゃんと焼いて止血したげますよ」
 ネイガウスにそう語りかけ、志摩はぐっと右手に力を込める。
 しかしその手が人体を破壊するよりも早く、第三者の声が加わった。
「ネイガウス先生を苛めるのはその辺で止めていただけませんか」
「理事長」
 突如として現れた道化のような悪魔の姿を目にして志摩はぼそりとその役職名を呟き、掴んでいた足首を離す。片足は未だネイガウスの背を踏みつけたままだが、一応身体はメフィストの方へと向けてやった。
「流石に補助員と違ぉて上一級の塾講師が消えるんはカバーしきれへんのですか」
 以前燐に暴言を吐いた下級祓魔師二名を己の炎で焼き殺した件を匂わせながら志摩は告げる。
「それとも、先にこう言うべきなんやろうか」

「お前も殺したろか、このクソ道化が」

「志摩くん……」
「直接やりおったんはネイガウスやけど、お前も一枚どころか何枚何十枚と噛んでんのやろ。あんまナメたマネばっかしくさってたら終いにはホンマに殺すで」
「君は頭がいい。いや、ここは耳がいいと言っておくべきでしょうか」
 志摩の脅しに怯えた様子も無く、メフィストは胡散臭い笑みを浮かべて言った。
「ですが今は退きなさい。ネイガウス先生にはしばらく停職処分を受けていただきますから」
「そないな処分で俺の気が済むとでも思てんのか」
「思いませんよ。しかし君がここで暴走しても良いことは無いでしょう? 志摩くんなら解るはずだ」
「…………ちっ」
 しばらく逡巡したものの、志摩は舌打ちしてネイガウスの背から足を退ける。
 ネイガウスの足を捩じ切るのもメフィストに攻撃を仕掛けるのも可能だが、志摩がネイガウスを殺害したとしてそれを隠すにはメフィストに協力してもらうのが一番簡単であるし、またメフィストに殺す気で攻撃を仕掛けたとしても志摩が彼に勝てる可能性は酷く怪しい。メフィストの実力が未知数であるが故に。
「ご賢明な判断、感謝しますよ」
「次こないなことあったら」
「承知していますとも。私も“無意味に”奥村燐を害するつもりはありませんから」
 にこりと微笑む胡散臭さ極まりない悪魔に志摩は顔を顰め、しかしそれ以上何も言うことなくこの場から遠ざかる。あの言い方は“意味があれば”容赦なく燐に危害を加えるということだ。メフィストは燐の兄であり、いくらか己の弟を気に入っている節もあるが、やはり享楽主義の悪魔的な部分は己の楽しみを見出すことに最も重きを置くだろう。特に、そうすることが容易くできてしまうような力の持ち主であれば。
 だったら。
(燐様は俺が絶対お守りする。絶対や)
 ―――道化の思惑に翻弄されようとも、必ず“唯一”だけは守りきる。
 そう、強く誓った。







2011.08.17 pixivにて初出

タイトルの「Double Blaze」は志摩と燐のイメージで。
ちなみに原作ベースです。屍番犬が分裂するんじゃなくて最初から二体。
錫杖を持つ時はグローブを嵌める志摩くんとか、ネイガウス先生に本気でキレる志摩くんとか。格好いい志摩くんが書きたいのに上手く書けません。やっぱり某ランキングで選外だからですか(絶対違う)。キレた志摩くんは口調からはんなり具合が抜けるといい。燐が好きすぎて暴走している志摩くんが好きです。それとネイガウス先生、本当にすみませんでした。