候補生認定試験のための強化合宿が始まった。
 場所は雪男とその兄が暮らす正十字学園高等部男子寮の旧館。寮の前で生徒達が来るのを待ちながら、雪男は座り込んでいる兄にチラリと視線を向ける。眉間に皺を寄せる兄はしえみの友人(?)関係について頭を悩ませているようだが、雪男としてはそれよりも重大な悩みがあった。
「あ、来たね」
 そう言って見据える先、祓魔塾一年生のメンバーがぞろぞろと歩いて来るのを視認して雪男は傍目からも判らない程度にそっと眉根を寄せる。生徒達が古びた男子寮の様相に不満を漏らしたのを気にしたわけではない。兄よりも若干緑がかった青い瞳が不機嫌そうに捉えていたのは頭をピンクめいた茶髪に染めている男子生徒―――志摩廉造だった。
 志摩は普通の人間ではない。“悪魔落ち”と呼ばれる、人の身から悪魔へと堕ちた者である。しかしそれを公にはしておらず、また特に人間に危害を加えるつもりも無いようで、一応ではあるが正十字騎士團日本支部の支部長であるメフィストが彼の在籍を許可していた。
(でもそんなのはどうだって良いんだ)
 大事なのは別のこと。
 志摩廉造は雪男の大事な兄であり実は魔神の力を受け継ぐ本物の悪魔である燐を、なんと己の『王』であると言ったのだ。
 燐を一目見てすぐ、志摩は大勢の目の前で雪男の兄に頭を垂れた。その一件で燐が魔神の息子だと知る者達に志摩が悪魔落ちであることが判明したのだが、それはともかく。雪男としては兄が悪魔であると周囲にバレる確率が高まったとして、一瞬にして志摩をただの生徒から警戒対象に設定したのである。
 今のところ志摩が悪魔落ちであることは塾生達に知られておらず、燐の素性も疑われてはいない。しかし志摩が何かヘマをすれば、その時は燐も―――。
(……まったく。志摩くんが人間として生きることを選んでいるのがまだ不幸中の幸いだったか)
 そうは思うも、思考の大半は苛立ちが占めている。
 加えて燐の姿を見つけた志摩が集団から飛び出し「奥村くーん!」と兄のすぐ傍まで駆けて来たため、雪男はもう少しで舌打ちをしてしまうところだった。なんて馴れ馴れしい!!
「志摩くん、奥村くんから離れましょうね」
「なんですの先生。ヤキモチですか?」
「冗談はいいですから、ほら説明を始めますよ」
(脳天ブチ抜かれたいか)
 心中での言葉など全く感じさせずににこりと微笑み、志摩を集団の方へ戻るよう促しながら雪男は生徒達に振り返る。
「ようこそ皆さん。ここが一週間、皆さんが強化合宿を行う場となります。少々汚いですが一般の生徒がいない空間ですので、皆さんも集中して勉学に励むことができるかと思います。質問があれば適宜どうぞ。それじゃあ僕について来てください。まずは中をご案内します」



* * *



「あまり僕の兄に近付かないでもらえますか」
「そら無理な相談ですわ」
 寮内の普段は使われていない部屋で塾生達に小テストを受けさせた後、雪男はその確認をしながら部屋に残っていた。
 兄が夜風に当たってくると出て行ってからすぐ女子達が風呂に入ると言って退室。続いて宝がパペットの口をパクパク開閉させつつ一言も喋ることなく姿を消し、そしてつい先程、勝呂と子猫丸も割り当てられた部屋に戻ったのだが……何故か志摩だけがまだ残っており、黙って皆が出て行った出入口の方を眺めていた。どうやら燐が戻ってくるのを待っているらしい。
 そうすることが当然であるかのように燐を待つ姿が不快だったこともあり、雪男はプリントから顔を上げぬまま前々から思っていたことを先述の通りぼそりと告げる。すると間髪置かずに志摩が答えた。しかも文字にすると京都弁特有の柔らかさを備えているくせに、妙な刺々しさを含んだ声で。
 志摩は軽く鼻で笑いながら続ける。
「若先生の方こそ自重しはったらどうです? いい加減お兄さん離れしぃや」
「兄離れも何も、僕はただ兄弟として、そして何より祓魔師としてサタンの落胤を監視しているだけです。必要なことですよ」
「その言い訳がホンマやったら俺も気にせえへんのですけどね」
 茶色い瞳が雪男を捉えた。笑っているようで笑っていない。飄々としてるようで、そのくせ隙が無い。
 僅かに視線を上げ眼鏡越しに眺めたその顔を雪男は胸中でそう評する。まるで歪んだ鏡で自分を見ているようだった。一見全く違うけれども、本質がよく似ている。吐きそうだ。きっと相手もそう思っているだろう。
「なあ若先生。俺のこと、ホンマは羨ましいんとちゃいますの」
「むしろ君の方が僕を羨んでいるのでは? 僕は兄さんと十五年間共に過ごし、これからも同じ時を歩む権利を持っている弟ですから」
「せやったら俺は奥村くん……燐様とおんなじ悪魔や。奥村先生が人間として寿命を迎えはっても、俺やったらその先ずっと燐様とおられる。長いながーい時間をな」
「それでしたら」
 雪男はくいと眼鏡の弦を押し上げてうっそりと微笑んだ。
「僕が悪魔落ちすれば解決できる問題でしょう?」
 何せ雪男は元から“悪魔である”燐と血の繋がった兄弟なのだから。もしどうしても長い刻を共に歩みたいのなら、方法が無いわけでは無い。
 そう答える雪男に、しかし志摩はくすくすと笑い声を漏らした。
「何です?」
「アカンわぁ先生」
 志摩はピンクの頭を掻きながら「冗談きっついですよ」と続ける。そして笑い声を止めるとタレ目をすっと細めて口元には薄い弧を描いた。
 冷笑を浮かべた悪魔は告げる。
「どうせ悪魔落ちしはる気もないくせに」
「……」
 雪男の回答は沈黙。
 しかしそれで十分だとでも言いたげに志摩は続けた。
「先生が悪魔落ちして一番悲しむんは燐様や。それを一番よぉ解ってはんのは先生やろ? せやから先生は悪魔落ちなんぞせえへん。お兄さんを傷つけんのは先生が一番嫌ってはるみたいやからなあ。その点、俺はもう出会った時から悪魔やったし、燐様も気にせえへん」
 勝ち誇ったように告げる志摩へ雪男は隠す気も無く大きな舌打ちをする。
 確かにそうだ。もし雪男が悪魔落ちなどしようものなら、燐は盛大に怒り、そして悲しむだろう。それは雪男の望むところではない。  雪男は溜息を吐き、静かに告げた。
「解りました。認めましょう。ええ、僕は悪魔落ちする気なんてこれっぽっちもない。だからこそ悪魔として兄さんと同じ時間を歩める君が羨ましくもある。ですが、」
 認めることは認める。しかしそれであっさり引き下がるほど雪男が兄に対して抱える想いは小さくない。
 接続詞の後に間を置いた雪男へ、志摩が不審そうな目を向ける。しかし何と言われるのか薄々感づいているのだろう。その顔は早くも機嫌が悪そうに歪んでいる。
 雪男は笑い出しそうになりながら、相手に言い聞かせるかのように殊更ゆっくりと口を開いた。
「さっきも言いましたが、僕は絶対に君が得られないものを持っている」
「……ああ、そやね。ホンマ、その血が羨ましゅうてしゃあないわ」
 苦虫を噛み潰したような表情で志摩が吐き捨てた。
 結局、雪男も志摩も無い物強請りをしているのだ。血と寿命。元々自分には備わっていないものを持っている存在が目の前に現れたおかげで、これまで見ようとしなかった現実が嫌でも目の前に晒されることとなった。それが腹立たしくてしょうがない。自分がどうしようもないことを相手が叶えてしまえるため、目障りでたまらないのである。
「今すぐ祓ってやりたいですよ」
「俺かて先生の体中の血、抜き取ってドブに捨ててやりたい思てますわ」
 彼がいなければ自分が最大で唯一、燐に近い人間でいられるのに。それは雪男だけでなく志摩も抱いている感情だろう。
 腰の銃に手を伸ばしかける雪男と同じく、志摩の両手の爪が鋭く伸びる。共に殺意の篭った視線で相手を射抜いた。しかし志摩は両手を眺めるとふっと息を吐いて、爪を元に戻す。
「……ま、ホンマにそないなこと俺がするわけあらへんのですけど」
「ですね」
 雪男も後ろに回していた手を前に戻し、眼鏡の位置を直す。
 弟として、従者として。その違いはあれど、奥村燐を至上の存在と位置づける以上は無闇に攻撃態勢でいて良いことなど一つも無い。
「俺が先生を殺さへんのは燐様が悲しむからやで。せやなかったら瞬殺したるのに」
「それは僕の台詞です。……嗚呼、兄が君の存在を知る前に殺せればよかった。一瞬で殺すのも良いですが、対・悪魔薬学の天才の名において苦しみながら死なせてあげたのに」
 にこり、と微笑んで雪男と志摩はそう告げる。だがその後の薄ら寒い沈黙も長くは続かず、志摩が雪男に背を向けて扉へと向かった。
「兄さんを待たないんですか?」
「待つより迎えに行った方が早いんちゃうかと思い直しまして。それに先生と同じ空間におったら、弟である先生の方がまだ優先されんのは目に見えてますやろ?」
 言外にいつかは立場を逆転させてやると告げながら、志摩はヘラリと笑って出て行った。
 一人残った部屋で雪男は小さく舌打ちする。このささくれ立った感情を宥めるためにも早く兄に会いたいと思った。小テストの採点は部屋に戻ってもできるし、自分も兄を捜しに行こうかと席を立つ。
 その直後だった。風呂場の方から出雲達の悲鳴が聞こえて来たのは。



□■□



 出遅れた、と思った。
 少女達の悲鳴が聞こえて志摩が駆けつけた際に見たのは、銃を構える奥村雪男の後姿と逃げる屍(グール)らしき悪魔と浴室の床に蹲る主人の姿。どうやら悪魔に襲われた出雲達の元へ一番先に駆けつけたのが燐(と、しえみ)で、人前でサタンの力を発揮するわけにはいかない燐が窮地に陥ったところで雪男が登場したらしい。
 少女達を助けたのは燐。その燐を救ったのが雪男。志摩は燐を捜して風呂場とは違う方向に足を向けていたため駆けつけるのが遅くなってしまった。……否。もし悲鳴の発生源が志摩の主であったならば、志摩は壁をブチ抜いてでも真っ先に馳せ参じただろう。しかし現実は、こういう時に燐が一瞬の迷いもなく悲鳴の元へ駆けつけるなどと思いもせず、よって志摩の行動は遅れてしまった。
 反して雪男はどうだ。兄の窮地に間に合い、大事な存在をその手で守ることができた。現場に素早く駆けつけることができたのは元々この寮に住んでおり内部構造を把握していたのも理由だろうが、きっと自分の兄がこういう時にどんな行動を取るのかよく解っていたからだろう。
(これがおんなじ時間を過ごしてきたモンとそうやないモンの違いか)
 自分ではまだ燐の思考を十分にトレースすることができない。
 少女達が大事に至らずほっとする場面であるはずなのに思わず顔を顰めそうになり、志摩は慌てて表情を正した。
(あー、アカンアカン。志摩廉造はこないな場面で不機嫌さん晒す人間ちゃうやろー……って、ん?)
 負傷した朴を心配そうに見つめる皆に混じって志摩が独りごちていると、小さな咳が聞こえた。顔を上げれば皆から離れ廊下に繋がるドアへと向かっている燐の姿が確認できた。ひょっとしてどこか具合でも悪くなったのだろうかと心配した志摩がそちらに駆け寄ろうとするが、それよりも早く燐が足を止めて志摩からでは見えない位置にいる何者かに視線を向ける。
(そこに隠れてはんのは神木さんかいな)
 全員揃っているはずのここに出雲の姿だけが見えない。燐の視線が下がっていることから、出雲は皆から気付かれない位置で膝でも抱えているのだろうか。
 女好きとしてはそっと近寄ってどうしたのかと訊いてみるのもありかもしれないと思う。しかし出雲に意識を向けているのが他でもない大事な主人であったため、胸に宿ったのは女性に対する甘い感情ではなくチリチリと焦げ付くような痛みだ。
 志摩が僅かな苛立ちに双眸を細めている間にも燐はなんとTシャツを脱ぎ、それを出雲に渡してしまった。おそらく皆が駆けつけた時に下着姿だった彼女を心配して燐がくれてやったのだろうが―――。
「(志摩くん、少し耳が尖ってきていますよ)」
「……ッ」
 ぼそりと小声で呟いた雪男の台詞に志摩は息を詰めた。
 気付けば、まだ身体の外には出ていないものの腹の奥で黒い炎が燻っている。あやうく苛立ちだけで悪魔としての姿を人前に晒してしまうところだった。
 志摩は雪男とある種の敵対関係にあるものの、双方共に燐が悪魔であることを周囲に隠し通すつもり――燐がそう望んでいるから――である。そのため志摩に現れた異変を他人に悟らせるわけにもいかず、雪男がわざわざ忠告してきたのだ。礼をする気は無いが志摩が雪男を一瞥すると、相手はさっさと朴を心配する教師の顔を作って勝呂に話し掛けていた。
「勝呂くん、朴さんを部屋まで運びたいのでお願いできますか?」
「わかりました。……朴さん、ちょお堪忍な」
 そう答えた勝呂が応急処置を施された朴を横抱きにする。歩き出した彼に付き添って他のメンバーも脱衣所を出ようとするが、その時、志摩は再び燐に視線を向けようとして視界の端を掠めた雪男の姿に胸中で毒づいた。
(ホンマ、似すぎとって反吐が出るわ)
 雪男が浮かべる表情は一貫して思いやりのある教師の顔だ。しかし志摩には判った。この同い年の教師もまた志摩と同じく燐の状況に気付き、心配すべきもう一人の少女の存在を苦々しく思ってしまったのだと。
(こらあとで燐様に癒してもらわな)
 胃のムカつきを覚えながら胸中で独りごちる。
 雪男も志摩と同じ心境だろうが、彼に燐を譲るつもりなど毛ほども抱くことは無かった。







2011.08.07 pixivにて初出

タイトルの「Double Envy」は雪男と志摩(雪男VS志摩)のイメージで。
とりあえず弟君と従者殿は当然のようにバトります。互いの立場が妬ましくてしょうがないので舌戦をかまします。燐のことがあるので実力行使はご法度。どっちも腹黒。そして燐に関してのみ似た者同士。あと、志摩くんの言う「先生」は「センセ」発音でお願いします(笑)
世間で悪魔落ちしそうと心配され続けている雪男先生ではありますが、あえてしない方向で進んでみました。……でも悪魔落ちって美味しいですよね!(二次限定で頼む。ホント頼む←とか言ってたらアニメがぁぁぁあああ!!)
志摩くんは自分が望んだ時と感情が高ぶった時(嬉しい時も怒った時も)に悪魔の特徴が現れたらいい。勿論、嬉しい時=燐様ヒャッフー!ってなってる時ですぜ☆