「おっくむっらくーん! お昼一緒に食べましょー!」
 ぶんぶんと手を振りながら中庭を突っ切って来るピンク頭を視認して、燐は思わず溜息を吐きそうになった。本人は気付いていないが、燐が我侭を言った時の弟と同じ顔だ。眉間に皺を寄せて半眼になりながら、同郷の友人二人を置いて燐の正面で足を止めたピンク頭もとい志摩廉造をじと目で見る。
「志摩……お前、あの二人はいいのか?」
「ええのええの。奥村くんと一緒にいる方が俺にとっては大事なことやしね。むしろ生きる目的? いやー塾やのうて学校(こっち)で会えるやなんて、今日はラッキーデイやわ。まあホンマやったら授業中も奥村くんの傍にいたいんやけどな」
「それは駄目だろ。お前の授業のこともあるけど、まず俺が変な目で見られんじゃん」
「せやからこうして我慢しとるんよー。俺、奥村くんの言いつけ守れるええ子やんな?」
「……」
 燐が志摩の向こう側に見える勝呂と子猫丸を一瞥すると、彼らは一様に疲れた表情で溜息を吐いていた。ただ志摩の行動――燐を見つけ次第駆け寄っていくこと――は初対面の時以降日常的となっているため、最初の頃のように驚いたりはしない。
 一番初め、志摩が燐の前に跪いた時に「志摩! お前一体どないしたんや!?」「そうですよ志摩さん! どないしはったんですか!」「せやから言うてるやん。この人が俺の本当にお仕えすべきお人なんやて」「いや意味わかんねーし。なんで初対面のピンクに頭下げられてんの俺!?」と軽い混乱に陥ったのも過去のこと。また志摩はどうして燐が己の主人なのかきちんと説明せず、周囲にひたすら「王様は王様やろ」とだけ答えているため、ここ最近は皆も志摩の行動を疑問視しつつ深追いしないようになっていた。
 周囲の生暖かい受け入れ態勢への変化は燐にとってもありがたく、塾の初日から悪魔バレかと思われたものの、未だ普通の人間として通えている。燐をサタンの落胤と知っている一部の教師や理事長であるメフィストからは後日志摩に何らかの話があったようだが、こうして普通に高校と祓魔訓練生の二重生活を送っているのだから彼の方も一応大丈夫なのだろう。幼い頃に悪魔落ちしていた事実は相変わらず勝呂にも子猫丸にも明かしていないらしく、今後も悪魔ではなく人として振舞う予定なのだとか。
 ちなみに。初対面で燐を王と呼んだ志摩は、そのまま燐のことを「王」もしくは「燐様」と呼ぼうとした。しかし燐としてはサタンの落胤という理由で「若君」と呼ばれることも、それ以外の理由で背中に蕁麻疹が出そうな呼び方をされるのも勘弁して欲しい。よって最終的に「奥村くん」と呼ぶようにしてもらっている。「そない慣れ慣れしゅう呼んでもええんでしょうか」と躊躇いがちな志摩だったが、三日も経てば普通に呼ぶようになった。しかし彼がいずれは「様」付けで呼んでやると思っているのは……燐の与り知らぬ話である。
「奥村くん、今日はどこで食べはるん? どこぞ人のおらへん所にする? それとも坊らと一緒にワイワイ食べはります?」
 志摩にそう言われ、燐は再び勝呂達を見た。すると燐と視線が合った彼らは燐達の会話が聞こえたわけでもないのに、心得たとばかりにコイコイと手招いてくれる。
「……じゃあ勝呂達と一緒に」
「はいな」
 にこりと笑った志摩に連れられ、燐は勝呂達の方へ歩き始めた。
 志摩が可笑しな行動を取ることで生まれる煩わしさ(視線とか視線とか視線とか!)は多々あるが、こうして高校生活を始めてすぐに同い年の友人――少なくとも昼飯を一緒に食べられる人々――ができたことには感謝したいと思う。幼い頃から悪魔と罵られ、養父と弟それに修道院の者達以外とはまともに関わることができなかった燐にとって、志摩という存在を通して勝呂や子猫丸と親しげに話せるようになったのはとても大きな変化だったのだ。
(周りにはやっぱまだ変な目で見られるけど! しえみは今の志摩しか知らねえから普通っぽいけど、まろまゆとかは最初のやつ見てたからドン引きだし!)
 得たものは多かったが失ったものも多かった。
 そんな風にガックリと肩を落とすと、隣で志摩が「奥村くん」と気遣わしげに名前を呼んでくる。
「どないしたん?」
「……お前の所為だろうが」
「え!? 俺の所為なん!?」
「なんでそこで嬉しそうにするんだよお前は!!」
「えー。大事なお人を喜ばせたり落ち込ませたりするんが自分やったら嬉しない? 笑ってくれたらこっちも楽しなるし、奥村くんが俺のことで落ち込んだり泣いてくれたりしはるの想像したら、俺、すっごいゾクゾクするで?」
「なにこの変態! 勝呂助けて!!」
「スマン。俺には無理や」
「子猫丸ぅ〜!!」
「すんません。僕にも無理です」
 京都の二人の傍まで辿り着いていた燐が助けを求めるものの、最早彼らにもできることはないらしい。勝呂には「大丈夫や奥村。サタンは俺が倒しといたるさかい」とまで言われる始末。つまりそのまま志摩関連の気苦労でジ・エンドしちゃっても良いよってことですか勝呂さん!? ……と言ったら頷かれそうなので、燐も口には出さなかった。
 しかし何だかんだ言いつつ燐はしっかり笑っていた。そして先刻の台詞の通り、笑う燐の傍らで志摩も楽しそうにしている。
(……うん。変だけど、なんかいいな)
 その呟きが今の燐の本心だった。



□■□



 ゴウッと黒い炎が燃える。
 祓魔塾のとある空き教室には三つの人影があった。しかしうち二つはその黒い炎に包まれ、耳を劈くような悲鳴を上げながら床に崩れ落ちる。清廉な青とも違う、苛烈な赤とも違う、淀み荒んだ黒の炎が容赦なくそんな二つの影を焼き尽くしていった。
「覗き見とはエエ趣味やないですか……理事長」
 叫びのた打ち回る二つの物体など気にした風もなく、静かな声がそう語りかけた。扉の向こう側で壁に背を預けていたメフィストは自分の存在に気付いていたらしいその人物の能力に多少の敬意を払いつつ、暗闇から姿を現す。そしてその人物の立ち姿を視界の中央に据えてニヤリと口元を引き上げた。
「こんばんは、志摩廉造くん。随分面白そうなことをしていますね」
「面白い? 阿呆なこと言わんといてくれます?」
 メフィストの言葉に志摩は目を吊り上げながら、黒い炎を纏って足元まで転がってきた物体の一方を強く蹴りつけた。志摩に蹴り飛ばされた物体はガシャガシャン!!と机にぶつかりながら吹き飛び、教室の壁に当たってようやく止まる。その脚力は決して通常の人間が出せるものではなく、黒い炎を指先に纏わせる姿と共に志摩が決して人間ではないことを示していた。
「これは罰や。こいつら、俺の大事な“王様”にイチャモンつけよった」
「嗚呼、そう言えば報告がありましたね。一年担当の教師につけた補助員二人が奥村くんに暴言を吐き聖水をかけようとした、と。祓魔師ともあろう者が自制を失って奥村くんの秘密をバラしそうになったので注意が必要かと思っていたのですが……。君の対処の方が早かったようだ」
 そう言ってメフィストは最早動きを止めた物体に視線を向ける。轟々と燃え盛る黒い炎は対象を焼き殺しただけでは収まらず、完全に炭化させて灰と黒い炭の欠片にするまで消えはしない。その執念深さは炎を操る者の意思の表れだろう。
「それにしてもやりすぎでは? 一晩で人間が二人も消えたとなると、それ相応の騒ぎになりますよ」
「そこはアンタの仕事やろ。俺の王様の兄貴やったら、弟のためにその身ぃ粉にして働けや」
「これはまた無茶な注文を……」
 くすりと苦笑し、メフィストは肩を竦めた。
 今の志摩に太陽の下で見せるチャラけた雰囲気は微塵も無い。彼が操る炎と同じく淀んで荒んだ気配を纏って、たった一人の名を口にする時にだけその双眸に恍惚とした光を宿らせる。「燐様、廉造は貴方の害になるもの全てを排除します」と誓いのように呟く声も表情も、どこもかしこも愉快なほど狂っていた。その目には最早メフィストも己が焼き殺した祓魔師も映っていない。
「まったく……もう少し私にも敬意を払ってはどうです? 私は君が主人と崇める奥村燐の兄なんですよ」
「俺の王はサタンやない。燐様や。せやからサタンを父と呼ぶ理事長らに俺が従う必要なんぞ感じられへんのですわ」
 ようやくメフィストを見た志摩はニコリと笑ってそう言った。
 ただし笑っているのは口元だけで、メフィストを見据える視線は道端の石を眺めるのと大差ない。彼の目にはいつも燐しか映っていないのだ。燐を一目見たその日から、もしくは悪魔落ちしたその瞬間から。
(フフ。なんとも愉快な状況じゃないですか)
 だからこそメフィストはこの歪んだ従者を学園内から追い出さない。彼が燐のためにどう行動し、それが燐を含めた周囲にどんな影響を及ぼすのか。魔神の落胤の成長を楽しむ上でこれもまた魅力的なスパイスだと思う。
(志摩廉造が我らの小さな末の弟にどう作用していくのか、今後も楽しませてもらいますよ)
 そう胸中で呟き、メフィストは「アインス、ツヴァイ、ドライ!」とお決まりの呪文を唱えた。フィンガースナップの音と共に凶悪なまでの火力で炭化した死体をどこかへ消し去り、志摩にニヤリと笑みを向ける。
「とりあえずあの二人のことは私の方でなんとかしておきましょう。君は早く寮に戻りなさい。己の従者がこんなことをする性格だと知ればあの子が悲しむ。それは君の望むところではないでしょう?」
「……ま、そやな」
 ほなよろしゅう、と言って志摩はメフィストの横を通り過ぎ教室を出た。少しだけメフィストに対する当たりが優しかったような気がするのは、メフィストが志摩を『(燐の)従者』と称したからだろうか。
 そうして一人になった教室でメフィストは小さく笑い声を上げる。
「あの子は弟といい、従者といい。本当に厄介な存在にばかり好かれるようだ」
 その『厄介な存在』に自分もまた含まれていることには気付いているのかいないのか、メフィストは楽しそうに笑いながら「アインス、ツヴァイ、ドライ!」とその場から姿を消した。







2011.07.03 pixivにて初出