(嗚呼……!)
 その時の胸の震えをなんと言おう。
 油の切れた蝶番がギィィと錆び付いた音を立て、一一〇六号室の扉が開く。まず教室に入ってきたのは白く長い毛並みの犬―――に変身している悪魔。それに一歩遅れて姿を現したのは志摩と同じく正十字学園高等部男子の制服に身を包んだ少年だった。
 机に腰掛け明陀の跡継ぎと向かい合う格好になっていた志摩はそちらを見やり、喜びに打ち震える胸を右手で押さえ込んだ。制服に皺が寄ったが気になどしない。ただひたすら新たに入室してきた生徒を見つめ続ける。
 すると志摩の視線に気付いたのか、少年の青い目がふとこちらに向けられた。青い、青い、虚無界を統べる王の力と同じ色が志摩の鼓動を跳ねさせる。
 待っていた。この邂逅をずっと待っていた。
 いつどこで会えるとも知れぬ王。志摩だけの幼い王様。ずっと昔から、自分が“落ちた”時から「いつかお仕えするのだ」と名前も顔も声も知らないくせに心に決めていた唯一人。
「お、おい。志摩?」
「志摩さん?」
 視線を逸らすことなく、ガタリと机から下りる。蜜に誘われる蝶のようにふらふらと近寄れば、背後から心配するような同郷の二人の声が聞こえた。彼らは大事な友人だ。けれど今はそれよりもずっと尊いお方が目の前にいる。
「な……なんだよ」
 犬を膝に乗せたまま青い目の少年が驚いた顔で志摩を見る。警戒されているのが少し悲しいが、なんてことはない。これからずっとお傍でお仕えするのだから、この警戒もすぐに薄れることだろう。
 志摩はにこりと微笑を浮かべて少年の真横に立った。
「俺、志摩廉造言います」
「お? おう。俺は奥村燐! よろしくな!!」
 ニカッと笑った唇の合間から覗くのは、人間にしては鋭すぎる犬歯。見えないが、きっと真っ黒な尻尾も存在しているのだろうと思いつつ、志摩は「さよかぁ」と柔らかな京言葉で答える。
「燐、か……。ええ名前やね」
「そうか?」
 照れたように笑う顔からは人付き合いの薄さが感じられた。
 そうか。この人はあまり人と関わって来なかったのか。――― そんな新たな一面を知りながら志摩はすっと膝を折る。突然のことに正面の燐どころか教室にいた全員が驚いた気配を滲ませるのを感じたが、そんなものはどうでも良かった。
 まるで中世の騎士が傅くようにして志摩は呼吸を整える。
 白い犬が僅かに身じろいだ。だが邪魔をする気は無いらしく、むしろこの展開を面白がっているようでもあった。
 好都合だと独りごちながら、そうして志摩は告げる。
「燐様……俺の王。こうしてお会いできる日を廉造めはずっとお待ち申し上げておりました」
「へ……」
 戸惑う王の手を取り、志摩はその甲にくちづけを送る。そして己もまた人より鋭い犬歯を唇の間から零れさせて、若く青い炎へと極上の笑みを浮かべた。
「俺は貴方に仕えるためだけに生きてきたんです」



And that's all ... ?







2011.06.26 pixivにて初出

本能で燐=俺の王様!と感じ取っちゃってて、燐が初めて祓魔塾に足を踏み入れた時にテンションMAX!な志摩くんでした。「燐=青焔魔の息子」ではなく「燐=自分だけの王」なので、あえて「若君」呼びは無しの方向です。