◆失われた世界の記憶


「父さん……!!」
 誰かが泣いていた。
 泣くな。そう思うのに身体が動かない。薄暗い視界の中では青白い炎がパチパチと音を立てながら木片を燃やしている。
 青。と言えば虚無界の王、魔神サタンの象徴だ。かつて聖職者の大量殺戮を行ったその存在とイコールで結ばれる青い炎を憎み恐れる者は多く、獅郎もまた聖職者かつ最強の祓魔師『聖騎士』として忌むべきものだと感じていた。
 けれど。
(なんか、あったかい色だな)
 それと同時にとても悲しい色だとも思う。
 嗚咽を漏らすこの誰かの心をそのまま表現すればこんな不思議な炎になるのかもしれない。温かいのに今は大きな悲しみに満ちている、それ。
 獅郎は今すぐにでもその誰かが流す涙を拭って抱き締めてやりたいと思うのに、呼びかけようとも喉は震えず、手を伸ばそうとも指先一つ動かなかった。
(泣くな)
 泣かないで欲しい。
 悲しみなど与えたくない。苦しみなど知らないままでいて欲しい。そんな想いが止め処なく溢れてきて獅郎は何度も心の中で「泣くな」と語りかける。
(お前に泣かれると辛いんだ)
 知らない人間のはずなのに、まるで親のような心情を抱いていた。
 ……知らない? 否、藤本獅郎はこの人間を知っている。この、切ないまでに優しい“少年”が誰だか知っている。
 獅郎は薄く開いていただけの視界をゆっくりと閉じた。耳に届くのは炎の音と少年の嗚咽。優しい優しい、彼の音。その音に抱かれながら徐々に掠れゆく意識の中で、そうして獅郎は呟いた。

(泣くな、燐)



* * *



「―――ッ!?」
 ガバリと起き上がり、獅郎は周囲を見回した。そこは南十字男子修道院の自室で、何ら変わったところはない。しかし心臓は早鐘を打ち、嫌な汗を全身にびっしりと掻いていた。
(なん、だ……)
 悪魔の気配を感じて飛び起きたのとも違う。胸を掻き毟りたくなるような切なさが己の中に残っていた。
(夢を見ていたの、か?)
 でも一体何の夢を?
 思い返そうとして、全く覚えていないことに気付く。どんな感じだったとか誰が出ていたとか、そういったことすら判らない。ただひたすら心臓は忙しなく動き、鉛でも詰まったかのように肺の辺りが酷く重かった。
 何かとても大事なことだったような気がする。手を伸ばして、捕まえて、抱き締めて。二度と離してはいけなかったはずなのに。
「俺は何を失った……?」
 呟きに答える者はいない。

 ――― それは、藤本獅郎が奥村燐の生存を知る少し前の出来事。


END






◆悪魔の祈り


 物質界で生まれた末の弟が実は二度目の人生を歩み始めていたとメフィスト・フェレスが知ったのは、まだ末弟が赤ん坊で言葉もまともに話せない頃―――つまり燐の死亡を偽装して己が元に引き取ってすぐのことだった。
 言葉は話せずともメフィストの力で思考を読み取るのは可能だったため、意思疎通に問題は無く、メフィストは末弟が既に十七年分の人生を過ごしていたことを知った。燐の養父でありメフィストの友人でもある男を死なせてしまったこと、サタンの息子でありながら祓魔師を目指していたこと、燐の二十にも満たない短い人生の幕を引いたのが彼の血を分けた実の弟であったこと。それらをメフィストに伝え終えた赤ん坊は最後にこう付け加えた。もうあいつにあんな顔をさせるのはごめんだ、と。
 そう言った――正確には“思った”――燐が当時どのような気持ちで弟の銃弾を受けたのかメフィストには解らない。だがその時、一風変わった人生を歩んでいる末弟への興味の他に、その小さな頭を撫で付けてやりたいという衝動が起こったのも事実であった。


 それから十三年の月日が流れ―――。
 弟は兄への執着を欠片も抱かぬまま成長し、養父もまた魔神の落胤が生存していることを知らずに聖騎士として活動している現状に、奥村燐は満足しているようだった。直接様子を見に行っては気付かれてしまう可能性があったため、燐に雪男と獅郎の状況を伝えるのはメフィストの役目である。雪男が養父に倣って祓魔師を目指し始めたと知った時には僅かばかり表情を曇らせた燐であったが、だからと言ってメフィストに弟の道を阻めと願うこともなく。そうして雪男が祓魔師として本格的に危険地帯へと足を踏み入れるようになってからは、陰でそのサポートを自ら進んで行っていたほどだ。
 現状に満足している。何も問題ない。燐はメフィストにそう言っていた。
 しかしいつしかメフィストはその燐の言葉に何か暗いものを感じ始めた。
 悪魔というのは人の闇の部分を感知しやすくできている。したがって魔神の落胤でありながら人の心を持っている燐の闇もまた、悪魔であるメフィストには感じ取ることができた。おそらく燐本人はまだ気付いていない程度の闇だ。しかしそれはあっと言う間に大きくなり、メフィストの末弟を飲み込んでしまうだろう。
(彼の闇の原因は『孤独』でしょうね)
 一度目の人生で得ていた弟と養父。それが今の燐の傍らには存在しない。
 これは彼自身が選択した人生だったが、燐が二人を遠ざけたのは養父と弟を嫌っていたからではない。大切だった、否、今もなお大切だからこその選択だ。孤独は燐が求めたものの副産物であり、決してメインではないのである。そして燐は己の望みの副産物によってじりじりと壊れ始めていた。
(私じゃ役者不足と言ったところですか)
 今、燐の隣にいられるのは実質的にメフィスト一人だけだ。家族は勿論のこと、友人さえも作っていない。一度試しに他の誰かと関わりを持ってみてはと提案したが、もしそれで燐が悪魔として殺されなければならなくなった時、今度はその誰かを悲しませることになると言って首を横に振られてしまった。
 甘すぎる。いや、人はこれを「優しい」と言うのだろうか。
(その優しさで身を滅ぼすなんて、私からすればなんと愚かしいのかと思いますが……)
 その一方で、とても愛しくもあった。
 だからこそ失いたくない、と。メフィストはそう思ったのかもしれない。
 愛しいものは愛でたい。愛しいものは残したい。壊れてしまうなど以ての外だ。
 孤独によって愛しいものが壊れるということ。それはそれでまた面白い展開かもしれなかったが、かつて赤ん坊だった頃の燐の頭を撫でたいと感じた時のメフィストは現状を見過ごすことを良しとしなかったのである。
 自分では役者不足。しかし他人に燐の孤独を癒させるのも燐自身が拒むために無理。ならば強制的にあの子供の心を救ってやれる人間を用意しなくてはならない。『救う』など、悪魔である自分には全く似合わない単語だと思ったが、メフィストは思いついたことを実行に移すため着々と準備を進めていった。
 そして、絶好の機会が訪れる。



* * *



「貴方も他人に目撃されぬよう上手くやっていたのでしょうが、とうとう藤本には見られてしまったようですね。とは言っても残像程度だと思いますが。……それでもあの男は私を疑ってきた。おそらく聖騎士の仕事に少しでも暇ができたならすぐさまここへ押しかけてくるでしょう」
「喋るのか。俺が生きてるって」
「それは私にも解りません。こちらから明かすつもりはありませんが、妙なところで勘のいいあの男のことです。藤本が言い訳のしようの無い証拠か何かを持ってきた場合には……解っていますね?」
 だから一応覚悟しておいてください。そう言ってメフィストは燐に微笑みかけた。
 さあ、賭けの始まりだ。
 メフィストが選んだ人間は燐の心を救うのか。それとも完膚なきまでに砕くのか。ルーレットは回らなければ黒か赤かも判らない。カードは捲らなければスペードのエースが来たのかジョーカーが来たのかも判らない。
 ベットするのは愛しい末弟の魂(こころ)。
 賭けに負けて砕けてしまったならばそのまま籠に閉じ込めて飼い続けるのもアリだろうかと考えつつ、メフィストは燐が去った後の理事長室でほくそ笑む。
「ですが願わくば、あの子の心が救われんことを」
 神とは敵対する存在でありながらそう願った。


END






◆ワールド・エンド


 兄をこの手で殺したと言うのに、雪男の頬は乾いたままだった。

 誰もが危険だと解る任務を与えられた兄は皆の心配を他所に笑顔すら浮かべて任務地へと向かった。そこで兄は致命傷を負い、力が暴走。自我を失って近付くもの全てを青い炎で焼き殺す兄の現状が伝えられると、ヴァチカンにいる三賢者はすぐさまその殺害命令を出した。
 命令を受けたのは奥村雪男。
 それはせめて肉親の手で葬ってやれという上層部の情けか―――。否。肉親を差し向けることで少しでも“魔神の落胤”に攻撃を躊躇わせようという打算を含んだがゆえの人選だった。
 雪男もそれを理解し、しかしやはり自分以外の誰かが兄の命を狩り取ることも良しとせず、結局は三賢者が望むとおりに動いてしまった。そうして、この結果だ。
 最後、兄は銃を向けた弟に対して一瞬だけ動きを止めたような気がする。その隙のおかげで雪男の放った弾丸は暴走状態だった兄の心臓へと吸い込まれるように穿たれた。全身に灯っていた青い炎は殆ど姿を消し、今はまるで最後の弔いのようにチリチリと僅かに燃えているのみ。それもおそらくそう経たない内に消えるだろう。
「……」
 雪男は銃をガンベルトに仕舞うと、ゆっくり瞬きをした。
 乾いた眼球に涙が補給されて僅かな痛みが走る。しかし目尻から零れ落ちるほどの量は無い。
 大事な人だったのに。奥村雪男と言う人間の人生全てを捧げた人だったのに。
(どうして泣けないんだろう)
 空を仰ぐと抜けるような青空が広がっていた。
 再び目を閉じれば周囲の祓魔師達の声が聞こえる。塾で兄と同期だった者達は皆一様に一言も発していなかったが、他の人間の口からは「やった」「助かった」「終わったのか」そしてほっと息を吐く気配。それらが重なり合い、やがては誰かが笑い出す。悪魔を倒した時と同じように。『悪魔』を倒した時と同じように!
「あの、雪ちゃ……ッ」
 雪男の元教え子であり手騎士の少女が恐る恐る声を掛けてきた。しかし少女は雪男の名を呼びきる前に表情を凍らせる。どうしたのだろうと雪男がそう思った瞬間、
「ぅ……」
 ドクリ、と。心臓が一度大きく脈打ち、雪男は痛みに意識を失った。



* * *



「あーあーあー! ほんっとオレの息子は揃いも揃って馬鹿ばっかりだよなァ!!」
 心臓を抑えて小さく呻いた奥村雪男だったが、次の瞬間、彼はまるで別人のような口調で天を仰いだ。その耳は長く尖っており、唇の間から覗く犬歯は鋭い。爪は肉を裂かんばかりに伸び、コートの下からは黒い尾が姿を現していた。
 そして身体のいたるところに灯る青い、炎。
 最も雪男から近い位置にいた少女にはすぐさま仲間達から戻って来るよう悲鳴に似た声が上がり、少女自身も慌てて距離を取る。
 本来ならばこの青い炎を纏う存在相手に少女の足で無事に逃げられるわけが無い。炎の現出と同時に燃え尽きてもおかしくなかった。しかし少女は逃げ切り、仲間の下へと辿り着く。それはひとえに雪男がわざと少女を見逃したからに他ならなかった。
 雪男は天を仰いでいた首を元に戻し、ぐるりと周囲を見渡す。先程の喜びからは一転して恐怖に歪む祓魔師達の顔を眺め、本来の彼ならば決してしないような他人を嘲る表情を浮かべて告げた。
「だいたいサァ早すぎんだよねェ、命令来んのが。三賢者の馬鹿共、どう考えたって最初からオレの息子をわざと暴走させてブチ殺す気マンマンじゃねーか。賢い賢い雪男くんも気付いちまったみてーだし、オマケに兄貴が死んで周りが喜んでるのを聞いちまえば、そりゃ自制も切れるわな」
 ケタケタと笑いながら雪男の精神を乗っ取った“それ”は両手を大きく広げてみせた。何かを迎え入れるかのように、何かを掌握するかのように、そして何かの開始を宣言するかのように。

「グッナイ! オレの可愛い息子! ハロー! オレのもう一人の息子! そんじゃまあ、いっちょ派手にオレの息子兼お前の兄貴の弔い合戦と行こうじゃねえか!!」


END







2011.07.02 pixivにて初出

◆失われた世界の記憶
藤本神父が見ていたのは、燐が逆行する前の世界で神父さんが死んだ時の夢。でも夢の内容は覚えていないので、ぼんやりとした感覚だけが残ることになりました。
◆悪魔の祈り
メフィがとてつもなくいい人です。
◆ワールド・エンド
燐逆行前の世界の話。燐死亡後、雪男にサタンが憑依&雪男は抵抗する気ゼロ→世界終了のお知らせ。雪男の体はサタンの憑依に耐えられた模様です。