夜が奥村燐の庇護を受けてから十年後。正式な祓魔師となって経験を積んだ夜は上一級祓魔師の資格を得ていた。
互いに親友であると認める花巻咲も気付けば同じ位を取っており、同僚として任務を共にすることも多々ある。ちなみに彼がいつ上一級になったかについて夜は全く詮索する気がなかった。咲の態度からあまり詳しく調べて欲しくなさそうな気配を感じ取ったためと、その理由の前にまず彼を信じているからだ。 「やっとここまで来られるだけの力が付いた」 ビルの屋上の縁に立ち、雪混じりの風に髪を弄らせながらぽつりと呟く夜の眼下には十年前と変わらない日本庭園と屋敷がある。いや、変わらないという表現は不適切だ。木立の位置などは同じだが、敷地全体から感じる生命力というか……そういう目には見えない物ががらりと変わってしまっている。故郷たる虚無界に似たそれはパズスが屋敷を支配しているからに他ならない。 「長いこと待たせて悪かったな、最中」 愛しい人間の少女の名を風に乗せ、夜は眼孔を鋭くする。 「今、助けるから」 そして夜はコンクリートを蹴って飛び出した。 □■□ 「ついにか。きばりや、夜」 「なんだ、お前は行かねーの?」 「一応初対面のはずなんやけど、えらいフレンドリーやな……奥村燐」 夜が深山鶯邸に入っていったのを遠くから見届けて花巻咲が呟くと、ふっと隣に他人の気配が現れる。わざと姿を現したのは夜の師匠にして咲が所属する派閥の象徴、奥村燐。悪魔の血のおかげか、とっくの昔に三十路を超えたはずなのだが、その容姿は未だ二十代に見える。姿だけならちょうど咲と同い年ぐらいか。 夜とは深く関わってきたが、実は燐の方と一対一で言葉を交わしたのはこれが初めてだ。しかし同じ長い時間、夜を見守ってきた者として、また当初は対立関係にあったがゆえに情報を持っていた者として、今更自己紹介など必要ないだろう。 「あれは夜の仕事や。せやからアンタも手出しせえへんのやろ」 「まぁな。あの時……ぼろぼろだった夜を助けた時に『悪魔の殺し方を教えて欲しい』じゃなくて『最中を助けて欲しい』って言ってたら俺が自分だけで切り込んでたんだけど」 結果は今、目の前にある通りだ。 夜は他者の犠牲を嫌い、また好いた少女を自らの手で助けることを願った。ならば自分達が手を出して良いことではない。 「ホンマ夜は昔っから男前やなぁ」 「そこに惚れたんだろ? これからもアイツのことよろしくな、花巻」 「咲、でええよ。ああ、僕の方は敬語使ぉた方がええ?」 「それは遠慮しとく。今のままでいい」 「本人が言うんやったらそうしとこか」 「そうしといてくれ。……で、花巻はいつまでここにいるつもりだ?」 「その質問そっちにも返しとくで。けどまぁ僕の答えは言うとこか。『ずっと』や」 「夜が全部終わらせるまで?」 「当たり前やろ。親友の大一番なんやから」 「そっか。まぁ俺もそのつもりだったんだけど」 一度言葉を切り、燐は青い双眸で咲を見つめた。 「お前がいるならいいや。俺は家で夜を待つことにするよ」 「随分信用してくれてるやん」 「だって俺の弟子の親友だからな」 「ははっ」 燐の言葉は冗談か本気か判らない。だからこそ今は本気だと取っておこう。何せ自分は本当に夜の親友でいるつもりなのだから。 「ほな、夜のことは任されとくわ。アンタは夜が帰った時にようやったって迎えたってや」 「ああ」 頷き、燐は踵を返す。そして次の瞬間には燐の黒髪も黒いコートも気配すらも消えていた。 咲の視線は再び深山鶯邸へと向けられ、全ての成り行きをじっと見守る。 「夜……好いた女のこと、しっかり助けて来るんやで」 □■□ パズスを倒し、夜は深山鶯最中を縛り付けていた闇を取り払った。が、それでオシマイだ。夜は最中に自分がかつて彼女が助けた猫であったことを明かさぬまま深山鶯邸を去った。 自分が全てを賭けた仕事はこれで終了。差し違えてでもパズスを倒すつもりだったが、こうして生き残っている。ひとまず燐や咲に結果を報告して、眠って、そしてこれからどうするか考えよう。おそらく燐もしくは青十字騎士会の下でこれまで通り祓魔師として働くのだろうけれど。 そう思いながら夜は昨日自分が深山鶯邸を見下ろしていたビルの縁に腰掛けていた。 大切な少女を救うことができた。それは嬉しい。けれどどうしてか、胸にぽっかりと穴が空いているような気がするのだ。 己の悪魔の力を封じている剣を鞘に入れたまま抱きしめ、鍔に額を押し当てる。これが燃え尽き症候群というやつか、と苦笑してみた。と、その時、ビルの屋上にある扉がギィと音を立てて開く。夜が立ち上がり振り返ったそこにいたのは十年近い付き合いの親友である男だった。 「咲?」 名を呼ぶと、咲の口がゆっくりと開かれる。お疲れさんとでも言ってくれるのかと思った夜だったが、 「それでええんか?」 「へ?」 陽光が照らす世界で夜と同じ黒いコートを着込んだ友が普段とは異なる抑揚のない声で問う。 「深山鶯最中に自分の正体教えんでええんか、て訊いたんや」 「…………そんなの、」 良い悪いの以前にそんなのできるはずがない。 夜は一度口を噤み、黒髪の間からきらきらと輝く黄色に近い金髪を見据えた。 「言えるわけねーよ。悪魔に苦しめられてた奴が悪魔に助けられて、それでハイそうですかって喜んでくれるわけねーだろ。そもそも最中がパズスに目を付けられたのだって元を正せば俺の所為だ。俺が最中に近付いたからパズスが最中を見つけちまった。最中は良い奴だけど、やっぱりあいつは『悪魔』の俺と違って『人間』で、だから俺みたいなのと出会ったことは絶対悔やむに違いねぇんだ」 自分が最中に近付かない理由。それを吐き出して夜は目を伏せた。 どうしたって自分は悪魔なのだ。彼女の傍にいる資格はない、と。それにまだ悪魔で人型の夜と猫の夜は彼女の中ではイコールで繋がっていない。せめて猫の夜だけは彼女の思い出の中で綺麗なものとして存在していたかった。 夜が告げた言葉を咲は静かに聞いていた。否定の言葉が返ってこないのは夜にとって当然のことであり、相手の沈黙は疑問にも思わない。 しかし。 「……っさげんなや、阿呆」 「咲?」 小さく、けれど無視できない重みをもって。地を這うように低い声が夜の耳に届く。 再び視線を上げると人間≠ナ親友≠ナある男の怒りにギラついた両目が見えた。それと同時に力なく脇に垂らしていた咲の右腕が上がる。握られているのは彼の愛銃。その銃口がひたとこちらを見据え、驚いた夜が反応する間もなく、 パァン……ッ! 「ッ!!」 夜の頬を熱が走る。咲が放った弾丸は夜の頬をかすっていた。 「てめ、何しやが「フザケたこと抜かしとるんやないぞ、この大ボケが!!」……ッ!?」 こちらの台詞を遮ったのは双眸と同じく怒りに満ちた咲の怒鳴り声。夜は思わず声を失う。 咲は銃をコートのベルトに引っかけるようにして戻すと、未だギラついた視線で夜を射った。 「人間と悪魔? お前と出会ぉたこと後悔する? 誰がや! 少なくとも僕はお前と会えて後悔なんかしとらんで。勝手に他人の気持ち決めんなや!! 夜、よぉ聞けよ。お前は『夜』や。解るか? パズスみたいな『悪魔』と一緒にすんな。お前は『夜』なんやで! この*lが認めた親友をただの悪魔と一緒にすんな!!」 「……っ」 夜は息を呑んだ。 自分は悪魔ではなく、夜。己を貶める夜に対して怒ってくれる人間の親友がいる、夜という名のイキモノ。 赤い目を丸く見開いてその衝撃に声を失っていると、コツコツと踵を鳴らして咲が近付いてきた。友である男はすぐ近くまでやって来ると、自分が負わせた赤い一線にそっと親指を這わす。 「……痛ぇよ」 「アホなことでうじうじしとる奴への仕置きや」 金の髪の向こう側でふっと双眸が緩んだ。 「こんだけ言うたら自分が何せなアカンか解ったやろ」 そして、くるり、と肩を持って深山鶯邸の方へと身体を向けられる。 「さく、」 「ちゃんと深山鶯最中と話してくるまで家には入れんなてお前の師匠に言うとくからな」 「ちょ、お前いつの間に師匠と仲良くなってんだよ」 「ええからさっさとしぃ」 「あ、こら、押すな! ……って、うわ!」 どん、と背中を押されて足がコンクリートの床から離れる。空中に躍り出た身体はくるりと一回転して少し低い隣のビルの屋上に着地する。見上げた先では「さすが元猫型」と咲が笑っていた。 「ったく」 自分に向けられる笑みを見た夜はそう呟くと、背を向けてまた大きくジャンプする。向かうは深山鶯邸―――大切な少女がいるあの庭へ。 「ホンマ、世話の焼ける親友やな」 男はくしゃりと顔を歪めて苦笑する。 寂しいとは口が裂けても言わないが、友の背中を押した手はいつもより少しだけ寒く感じられた。 * * * 「祓魔師、さん?」 庭に出ていた深山鶯最中の前に夜が姿を見せると、彼女は手に持っていた野花――どれもこの庭に咲いていたものだろう――をきゅっと抱きしめて新緑の目を大きく見開いた。 驚きに見開かれた目は、しかしすぐに柔らかく細められ、 「ありがとうございました、祓魔師さん。貴方のおかげで私はもう一度私らしく花を生けられるようになりました」 彼女が生ける花は彼女の心そのもの。パズスの呪縛を振り払った彼女はもう誰にも縛られることなく、彼女の心を表現することができる。 頭を下げる最中に夜は小さく「いや……」と答えて首を横に振った。 「俺だけじゃない。お前が頑張ったから今があるんだ」 その言葉は本心である。夜の気持ちだけでは彼女を助けることができなかった。両親の水難事故というトラウマを乗り越えて聖水化した池に足を踏み入れる勇気があったからこそ、最中は夜が来るまでパズスの魔の手を防ぐことができたのだ。 「そんなことないです。私は弱いですから」 「お前は強いよ、深山鶯最中。今だって俺が普通の人間じゃないのを知ってるはずなのにこうして笑えてる」 普通の人間じゃない、のところで最中がはっとして夜を見た。彼女は夜が剣を抜いて悪魔の力を顕現させたところを目撃している。異常な身体能力、加えて頭に生えた二本の角とコートの裾から覗く尻尾を。 それなのに、夜が悪魔だと知っているのに、彼女は笑う。 「怖くなんてありません。貴方は私を助けてくれた。私を一生懸命守ってくれた。感謝こそすれ、怖がる理由なんてありませんよ」 野に咲く可憐な花のような微笑。最中は花を片方の腕に抱え直すと、すっと手を差し出してきた。 「お名前を伺ってもよろしいですか。私を救ってくれた祓魔師さん」 「……」 不安に揺れる赤い双眸が新緑を見つめる。自分にはこの手を取る資格があるのだろうか。名を告げても良いのだろうか。彼女のこの微笑みが曇ったりしないだろうか。淡い色の唇が恐怖にわなないたりしないだろうか。 不安が胸を押し潰そうとする。が、夜の脳裏に先程親友に言われたばかりの言葉がよみがえった。 ―――人間と悪魔? お前と出会ぉたこと後悔する? 誰がや! 少なくとも僕はお前と会えて後悔なんかしとらんで。勝手に他人の気持ち決めんなや!! 夜、よぉ聞けよ。お前は『夜』や。解るか? パズスみたいな『悪魔』と一緒にすんな。お前は『夜』なんやで! この*lが認めた親友をただの悪魔と一緒にすんな!! (そう、だよな) 「祓魔師さん?」 手を取らず、口も開かない夜に最中が小首を傾げる。不安そうな彼女に夜はそっと笑いかけて答えた。 「夜だ」 「え?」 「俺の名前、夜って言うんだ。俺を見つけて怪我の手当をしてくれた人間の女の子が夜みたいな色だからって付けてくれた」 「え……」 最中がこれまでで一番大きく目を瞠った。こちらに差し出していたはずの手で口を覆い、「まさか」と呟く。彼女も小さな頃に出会った傷だらけの猫のことを覚えてくれていたらしい。 「よる、なの……?」 「ああ」 「っ!」 夜が頷いた直後、最中は慌てて踵を返した。彼女の態度で呆気に取られたのは夜だ。家の中へと消えていくその背を見送ってから自分が置かれた立場を理解して膝をつきそうになる。 「……逃げられ、た? なんだ、結局ダメなんじゃねーか」 光差す庭に呆然と立ち尽くしたまま呟いた。しかし自失呆然とする中、人間よりもずっと性能の良い耳がおかしな音を拾って夜は「ん?」と首を傾げる。 「え、ちょ、お嬢様!?」「ごめんなさいあの花瓶どこにありますか!? ほら、あのガラスの!」「お嬢様お待ちください! 一体どうされたのですか!?」「あの子が折角また現れてくれたのに!」「お嬢様ーっ!?」「あ、あった!」 最中の声と屋敷に仕えるお手伝いさんらしき数名の女性の声。それからドッタンバッタンと何かをひっくり返すような音や、時折ガシャーンと聞こえてはいけないような何かが割れる音。 何だ何だと夜が混乱していると、パタパタと軽い足音が近付いてきた。視線を向ければ、花とガラス製の花瓶を抱えた最中が走って戻ってくる。しかも興奮で白い肌をうっすらと紅潮させて。 「もなか」 「待っててね! 今、私の心を見せるから」 恐れて逃げたと思っていた少女が戻ってきた。しかも土の上にそのまま正座して、言葉の通り本当に花を生け始める。 悩むことなく、止まることなく、彼女の心が表現される。そして、それほど大きくないガラスの花瓶と先程までこの庭で摘んでいたらしい花々があっと言う間に一つの形を作り上げた。夜はできあがった『深山鶯最中の心』を前にして息を止める。 「貴方が戻ってきたら真っ先に花を生けると決めてたの。私はいつだって貴方を待っていた。ずっと伝えたかった。貴方が大好きだよって」 言葉ではなく、抱擁でもなく。最中の心を最も的確に表現するのは彼女の繊手が生み出す花の美。 彼女は夜を恐れていない。彼女は今でも夜を好いていてくれる。彼女の心は全てその花々によって表現されていた。 「おかえりなさい、夜」 花を生ける美しい指先がそっと夜の頬に触れた。四本足で立っていた時と同じようにその手にするりと顔を押しつけて夜は目を閉じる。 「ただいま、最中」 2012.11.04 pixivにて初出 実は最後に夜の背中を押すためだけに花巻咲というキャラクターを作ったのでした、まる。 ふふふ、マジですよ。あとがきの第一声がこれになるくらいマジです。そして「咲→夜×最中」です。咲→夜の部分は友情なのか別モノなのか、本人もあんまり解っていないというか気にしていない感じで。 それにしても主人公である燐の出番がほんとっっっに少ないですね!(笑うしかない) まぁ「夜編」なので夜が主人公だと言えばそうなのですが。あと逆行してることもあんまり関係ない。青十字騎士会が設立されてる部分とか、その辺くらいです。まぁ「夜編」なので以下略。 あ! 藤本神父出してない!?(好きキャラなのに!) しろーさーん! しろーさーん! すっかり隠居しちゃってるしろーさーん!! そろそろ息子達の結婚相手が気になってきてる獅郎さーん! 大変ですよ片方悪魔で年取らなくなってきてるし、もう片方はブラコン継続中&基本的に人間嫌いだし。ひょっとしてどっちも神父になって奥さんはもらわないルートかもしれませんね。夜の方がさっさと結婚しちゃいそうですね。最中ちゃんと。 咲はきっと黒髪赤眼ではないけれど男前な女性を見つけて結婚するんだと思います。夜の結婚式には友人スピーチとして登場して、自分の結婚式には夜に友人スピーチやってもらう感じ。あ、ブーケはどちらも最中ちゃんに作ってもらいましょう。 ……おや、うっかり結婚話で盛り上がってしまいました。 ともあれ、ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました! たぶん「ミーシャの遺言」はこれで完全におしまいです。……とか言いつつぽろっと番外編出てきたら笑ってやってください。 |