イライラする。それがここ最近の咲の心情だった。
 ここ最近と言ったが、正確には夜をバイクに乗せて海に行ってからだ。あの青と白の世界で咲は夜の想いを知った。悪魔のくせに悪魔に虐げられ、人間に救われ、そしてそのたった一人の人間のために残りの人生全てをかけるという想いを。
 それはこれまで咲が抱いてきた『悪魔』とは全く合致しない思考回路である。
 悪魔とは人間を苦しめる存在のはずだ。悪魔とは人の苦しみを喜びとする存在のはずだ。他者を嘲り、甘い言葉で騙し、堕落させる。決して一人の少女に命を捧げるようなものではない。それが生まれてからずっと咲が刷り込まれてきた『悪魔』だった。
 だと言うのに人の形を得た偽りのクラスメイトは容易く咲に微笑み、胸の内を明かし、人間であってもそう簡単には決意できないものを実行に移そうとしている。
(なんやねん、有り得へんやろ)
 イライラ。イライラ。
 感情と知識と現実と。それらの齟齬が咲の苛立ちを煽る。夜という悪魔は咲にとって認めたくない現実だった。認めてはいけない現実だ。認めてしまえばこれまでの咲の生き方が否定される。感情が否定される。
 実際には――もしくは第三者的には――そうでなかったとしても、花巻咲という人間にとって夜を認めるということは自分を否定することと同義だった。



□■□



 取得希望称号調査票を配られた夜は隣に座る咲を眺めた。
 咲はしばらくぼんやりと調査票を眺めた後、ペンを取ってさらさらと名前を書き始める。名前を書き終わった後は希望する称号を丸で囲むのだが、彼が希望するのは竜騎士と詠唱騎士らしい。
「へー。咲は二つ取るのか」
 二つの称号を一度に取るのは並大抵の努力ではない。だがどの授業でも好成績を収める咲ならば可能だろうという賛辞と(そんな彼の友人としての)誇らしげな思いが合わさった声で夜がそう口にした。
 この時、咲の調査票を覗き込んでいた夜は上半身を傾けて随分と顔を近づけており、咲の顔まであと三十センチ程度という位置にあった。
 夜の声を受け咲の肩がピクリと跳ねる。そして夜の赤い双眸と目を合わせた瞬間、
「ッ!」
 バチンッ! と乾いた音と共に夜が仰け反った。
 咲は腕を振り抜いた格好で夜を睨み付け、しかし何かを言おうと口を開いたところで我に返ったかのようにハッと口を噤む。
 一方、見事な平手を受けた夜はジンジンと熱を持ち始めた頬を押さえながら呆気にとられて友人の名を呼んだ。
「さく……?」
 一体何が起こったのか。調査票が配られてから希望する称号がどうのこうのとざわついていた教室も、水を打ったようにに静まり返っている。
 夜はただ友人の調査票を近くで眺めただけだ。発言も特に相手の気分を害する類ではなかったと思う。しかし咲は夜が発言した直後にその頬を打った。もしくは近づいていた夜を遠ざけるように振り払った。
 沈黙が落ちる教室内で咲は己の手に視線を向ける。自分が何をしたのか理解が追いついていないような顔つきだった。
「さ……」
 もう一度名を呼ぼうと夜が口を開けると、
「あー……アカンわぁ」
 苦笑を滲ませた声で咲がぽつりと呟いた。それから彼は席を立ち、夜に一歩近づく。
「ごめんなー夜。痛かったやろ」
「え、へ?」
「ホンマすまんことしてもうたなぁ」
「や……別に、いいけど。でもなんで」
 何がいいのかもはっきりしないまま、夜は謝ってくる友人に対して首を横に振る。
 咲は「ほんまゴメン!」と謝り続けながら、教室中が見守る中でニカリと笑い、

「僕な、今ちょうど生理中やねん。せやからじょーちょふあんてーってヤツなんよ」

「あーそっか。そりゃ仕方ねぇ……ってンなわけあるかー!!」
「おいおい、夜ー。咲がセーリだっつってんだからセーリなんだろ?」
 ウガー!と頭を抱えて立ち上がった夜に他のクラスメイトから野次が入る。冗談だと分かった上で「そうだぞー」という声もちらほら続き、夜としては「え? なにこれ俺の方が劣勢なのか!?」と思わず叫んでしまった。
 一部の女子には「まったく。これだから男子は……」という感じの呆れ顔をされたが、この一連の流れで不穏な空気はすっかり消え去っている。
 そのまま咲の行動についてはうやむやになり、教室内は徐々に本来の称号調査の話題に移っていった。

 しかし当事者である夜本人はクラスメイト達のようにすっかり気にしない……というわけもなく。
 燐と雪男それにクロのいる旧男子寮に帰ってから二人(と一匹)に塾であったことを相談してみたところ―――。

「……ってことなんだけど、俺、なんか嫌われるようなことしちまったかな」
「うーん。特に気にするものでもないんじゃないかな。誰にでも不機嫌な時ってあるもんだし。むしろすぐ取り繕って教室が嫌な雰囲気になるのを防いだみたいだから、夜のことはちゃんと考えてくれてる方だと思うよ」
 そう答えたのは雪男だ。
 彼は燐と一瞬だけ目を合わせた後、兄弟を代表するように告げた。
「そう、なのかな」
 まだ不安が拭えない夜は眉尻を下げる。
「そーそー。それにあんま深く考えても仕方ねえよ。何かあれば花巻の方からお前に言ってくるだろ。それを待ってやるのも友達ってモンじゃね?」
 燐も気軽な様子でそう言った。加えて足下ではクロも《そうだぞー!》と鳴いている。
 そうやって三者から同じ意見を告げられていると、次第に夜も大丈夫なような気がして気分が軽くなるから不思議なものだ。確かに咲のふざけた言い訳は教室の雰囲気を考えてのことだろうし、またきっと問題があれば咲の方から何かしらアクションがあるだろう。
「うん。そうかも」
 夜が頷けば、燐も雪男もクロも笑ってみせた。



□■□



「……まあ、悪魔嫌いの人間が悪魔の人間みたいなところ……むしろ並の人間よりもいいひと≠ネ部分に触れてしまうと、かなり混乱しちゃうからね。きっと今日はそれが表に出たんじゃないかな」
「お? 経験者は語るってやつか」
「恥ずかしながら」
 夜が部屋から出ていき、クロも夜間の散歩に出かけた後。残った双子は静かに過去を思い出す。
「花巻くんは少し僕に似ているね。もちろん境遇は違うし、たぶん僕の方が過剰反応だったんだけど」
「お兄ちゃんは随分雪男君に泣かされました」
「うん。本当にごめんね」
「……そこは『は? 何言ってんの』くらい言ってくれても良いんだけど」
「言えないよ。言えるわけがない」
 弟の大人しい反応に気まずげな顔をする燐へ、雪男は小さな苦笑を浮かべて首を横に振った。
「でもあんな僕を見捨てないでいてくれてありがとう。おかげで僕は今、幸せだ」
「大げさなヤツだなー」
 軽い口調で答えながらも雪男を見る燐の目は優しい。
「大げさじゃないよ。……でも僕と似てるってことは、花巻くんもいずれは夜に対して僕みたいになるのかな」
「夜と仲良くなるってことか? だったら嬉しいな。悪魔じゃなくて夜を見てくれるってことになるんだし」
「そうだね。夜はいい子だから」
 眼鏡の奥で緑がかった青が笑みの形に細まる。
 それを見返す青の双眸もまた同じように細められ、燐は「おう」と返した。







2012.09.29 pixivにて初出

まさかの雪燐夫婦が息子(夜)を見守るような図になってしまいました。