「夜ー。どうないやー僕の愛車の乗り心地は!」
「すっげー気持ちいいーっ!」
 エンジン音にかき消されないよう大声で話す二人を乗せ、咲が操るバイクは海岸沿いの国道を駆ける。
 夜が後ろに跨っても全く安定感の損なわれない大型のバイクはメタリックな濃い赤を基調とした塗装が施されている。バイクを押して待ち合わせ場所までやって来た咲が「夜とおんなじ目ぇの色」と笑ったのが、夜にとってはとても印象的だった。
 咲がアクセルを回せば、ぐん、と重力がかかって咲の腹部に回した腕に力が入る。悪魔の身ならばこれくらいの速度を出すことができるかもしれないが、自分一人で駆けるのと今の状況とでは天と地ほどの差があった。
 弱い悪魔だった夜が走る――翼があった時は、飛ぶ――時、それは強者に追いかけられている場合だ。追いつかれれば痛めつけられ、汚され、屈辱にまみれる羽目になる。走るということは常に恐怖と紙一重だった。
 しかし今は違う。大声を出して、馬鹿みたいに笑って、温かな他人の身体がすぐ傍にある。胸の奥がむずむずとして、最中の近くにいた時とはほんの少し違う、けれども決して嫌ではないものの存在を自分の中に感じることができた。
(もなか)
 心の中で夜は一番大事な少女に語りかける。
(お前がいてくれたから、お前と出会えたから、きっと今の俺がいるんだろう)
 あの邂逅は夜の人生を変えた。心優しく、美しい少女との出会いで、夜は世界を知るきっかけを得た。
 だから。
(お前は絶対俺が助ける。お前をパズスになんか渡したりしねえ)
 思いを新たにし、夜はフルフェイスのヘルメットの内側で遠くを見るように双眸を細める。その時に思わず腕に力が入ったようで、ハンドルを握る咲が「夜?」と名を呼んだ。それに「なんでもねー」と返して、夜は話題を変える。
「つーか咲! お前どこ行く気だよ!」
「ひーみーつー! 着いてからのお楽しみや言うたやーん!」
 夜ってせっかちさんやなー、と苦笑混じりの声が前方からやってくる。
「まぁもうちょいやから!」
 そう告げる咲の顔は運転中なのだから当然夜から見ることができない。けれども声はいつも以上にはしゃいでいるように聞こえて、夜は口元に笑みを浮かべた。夜が楽しいと感じるように彼も同じくそう感じてくれているのだろう、と。
 ―――実際のところ、前方を見据える咲の顔は最初からずっと全く笑っていなかったのだが。



* * *



 着いたと言われて咲が指差した方向を見た夜は、ヘルメットを手に持ったままバイクから降りることも忘れて息を呑んだ。
「すっげ……」
「そうやろーそうやろー。バイク走らせとったらたまたま見つけたんや」
 咲が夜の手からヘルメットを取って誇らしげな顔をする。
 二人の目の前に広がるのは強烈なまでの青と白のコントラスト。決して広くはないが真っ白な砂で構成された砂浜と、遠くへ行くに従って濃くなっていく青い海。自分達以外誰もいないそこにバイクを止めてまず咲が降り、彼に手を引かれる形で夜も砂の上に足を着ける。
 グラデーションを描く青は吸い込まれるかと錯覚するほど美しかった。初夏を迎える前の海は優しい太陽の光を受けてキラキラと輝いており、靴を脱ぎ始めた咲に倣って夜も靴をバイクの傍に放り出せば、足の裏にさらさらと細かな粒子が触れた。
「海開きはまだまだやけど、足つけるくらいやったらいけるやろ……って冷たぁ! ちょ、想像以上に冷たいんやけど!?」
 先行していた咲が早速海水に足をつけたのだが、言葉の通り予想外の冷たさだったらしく、慌てて砂浜に戻ってくる。夜がそれを「あはは!」と笑って迎えると、咲の目がキラリと輝いた。
「咲?」
「いっちょ夜も行ってこーい!」
「へ? え、おいっ!!」
 腕を取られて、ぐい、と引かれたかと思うと、海に向かって身体が傾く。夜の腕を引っ張った形のままの咲がニヤニヤ笑っている姿が視界の端を掠め、次の瞬間、頭から海の中に突っ込む。
「って、させるかー!!」
 ―――かと思いきや、叫びながら夜はその場でくるりとターン。足は咲と同じく水に触れたものの、水が激しく跳ねた程度で、最悪の事態は免れた。人型を与えられた当初は色々と大変だったが、それにも十分慣れた今、猫によく似た姿を持つ夜の反射神経を侮ってもらっては困る。
「何すんだよ咲っ! 危ねーだろうが!」
「僕を笑うモンは僕に泣く!」
「いや意味わかんねーし!?」
 先日テレビで見た漫才のようにバシッと夜がツッコミの手を入れれば、咲は「ナイススッコミ!」とケラケラ笑ってみせた。
「そやけどざんねーん! 僕、大阪人やのうて京都出身やから実はツッコミの基準とかよう分かれへんねん」
「じゃあナイスとか言うなー!」
「やーん! 鬼さんこっちらー!」
「待てこらキモい!!」
 先程までの静謐な気配はどこへやら。あっと言う間にかなり本気の追いかけっこが始まる。しかも鬼である夜の方は特別な身体を与えられて特殊な師についているにも拘わらず、逃げる咲をなかなか捕まえられない。塾で座学の時間に見せる博識さや実技の時の身のこなしからも薄々予想はしていたが、花巻咲と言う人間は祓魔師のような職業に向いた能力を持っているようだった。
「俺これでも悪魔なのに!」
「おーそういや夜は悪魔やったなー」
「何を今更」
 咲が足を止めたので、夜も思わず立ち止まる。「追いかけっこは終わりか?」と問えば肯定されたので、二人して何もない真っ白な砂浜に腰を下ろした。
 視線は海へ向け、足も適当に放り出す。
「なぁ、夜」
「ん?」
「なんで夜は祓魔師になろう思たん?」
「言ってなかったっけ?」
「聞いてへんなぁ。ま、悪魔が祓魔師になったかて別に悪いことやとは思わへんけど、珍しいっちゃあ珍しいやろ」
「だよなー。俺が知ってるのは師匠一人だけだし。あ、理事長もか」
「僕もその二人くらいしかぱっと思いつかんわ。で、夜が三人目になるわけやけど」
 その理由は? と再度問われて、夜はどう伝えるべきかと考えながら海の向こうを眺めた。
「……どうしても助けたい人がいるんだ」
「へえ?」
 興味があるのか無いのかイマイチはっきりとしない相槌が返ってくる。その気軽さが夜の口を軽くした。
「俺がまだ四本足の身体だった頃、人間の女の子と出会った。深山鶯最中って言う」
「深山鶯? ……ああ、華道の名家やん」
「らしいな。そんで、俺はとある上級悪魔にボロボロにされて最中の家の庭に迷い込んだんだ。最中は俺を助けてくれて、俺達は友達になった。俺の言葉は全然通じなかったけど。ま、獣の姿じゃ人の言葉は喋れねえからなぁ」
「悪魔も仲違いするん?」
 夜が上級悪魔に傷つけられたという部分に反応して咲が何気ない様子で問う。
「仲違いっつーか、弱い奴は強い奴の玩具になって当然……って感じかな。悪魔は力が全てだから。強い奴は自由に振る舞えるし、弱い奴はずっと虐げられる運命なんだ」
「そないなルールの世界におったのに、夜は深山鶯最中のこと傷つけへんかったん? 人間の子供言うたら弱者の代名詞みたいなもんやんか」
「ははっ……まぁ何て言うか、俺ホント弱くてさ。しかも最中に出会った時には瀕死の猫レベルだったから。警戒してちょっと引っかいちまったけど」
「いくら弱ってる言うたかて悪魔やろーが。むしろ手負いやったら余計に攻撃的にならへん?」
「んー……。言われてみればそうかも」
 当時の状況を思い出しながら夜は頷く。
 確かに最中と出会った時の自分は己の周りにあるもの全てに対して牙を剥いていた。傷つけられる側だった者の性(さが)だ。
「でも最中はそんな俺を見捨てずに心≠見せてくれた」
「こころ?」
「花を生けてくれたんだ。これが自分の心で、俺を傷つけるつもりはないんだって。俺はそれを見て、嗚呼もう大丈夫なんだって思った」
「そんで仲良うなったちゅうわけか。でもそれやったら、なんで祓魔塾に……。まさか」
 夜が言った「助けたい人がいる」という台詞を思い出したのだろう。咲が息を呑み、続けた。
「その子が別の悪魔に?」
「……ああ」
 地を這うように低く、固い声で夜は頷く。
「俺を玩具にしてた上級悪魔―――パズスって奴が最中に目を付けたんだ。あいつは最中の叔父にとりついて、両親を死なせて、ひとりぼっちにさせた。最中の心を弱らせて十六になったら喰うつもりなんだ」
「それを止めるために……」
「祓魔師になろうって決めた」
「相手は上級悪魔やで? 戦ったら死ぬかもしれへん」
 人間の祓魔師が深山鶯邸に手を出していない意味を考えれば、パズスがどれほど強敵か予想がつくというもの。本来なら夜からその話を聞いた時点で騎士團は最中救出のため動き出すべきだ。しかしそれをしていない―――できない。それこそ捨て駒にしても良い者≠ナないと、深山鶯邸に特攻させたりしないだろう。
 騎士團には特攻させて負傷――最悪の場合は死亡――しても構わない祓魔師なら、いるにはいる。奥村燐だ。しかしそう思っているのは騎士團の半分だけ。もう半分の燐を慕っている者達は上層部の勝手を許さない。燐自身が望めば話は別だろうが―――。
 燐自ら出ていくことは夜が断った。最初は自分が最中と関わったためにパズスが彼女に目を付けたのだという自責の念と、それゆえに自分が最中を助けるのだという意地から。けれど今は少し違っていて、パズスという強敵と燐が戦い、万が一燐に何かあったらと思うと、気が気ではないからだった。夜としては自分がパズスと戦って差し違えても構わない。けれどそれが燐であってはいけないと強く思うのだ。
「俺は死んでもいい。最中が助けられれば、それで。師匠はそんな俺の気持ちをくんで手を貸してくれてるんだ」
「たった一人の人間の女の子のためや言うて、夜はこれからの自分の人生全部賭けるんか」
 明言はしなかったが、咲のその台詞には「本当にそれでいいのか」というニュアンスが含まれているように夜は感じた。だからこそ強く頷いて自分の意志を示す。
「ああ、全部賭ける。俺は悪魔で最中は人間だとか、そんなの関係ねーんだ。俺は彼女を救いたい」
「……」
 夜の決意に何か思うところがあったのか、咲は黙したまま海を見つめた。自分の内を全て吐露した夜もまた彼に倣って口を閉じ、水平線と視線を投げかける。
 しばらくして咲が「そっか」とだけ呟いた。こちらに語りかけるというよりは独白に近かったため、夜は一瞥したものの、結局何も言わなかった。



□■□



 監査対象の悪魔と出かけると決めた際、花巻咲がまず考慮したのは「人がいない(少ない)所であること」だった。何せ相手は人の姿をしていても悪魔だ。いつ何時、何が起こるか分かったものではない。もしもの場合に被害者が少なくて済むよう、咲はその条件を第一とした。
 次の条件は対象の本音を聞き出しやすい要素があること。対象の好みに合うものがあれば、それだけ咲への好感度があがり、口が軽くなるだろうと思ってのことだ。
 その他色々な条件の下で咲が選んだのは、正十字学園からバイクで行ける距離にある小さな砂浜になった。太平洋側に面したそこは少し分かりにくい場所にあり、また海水浴場として整備されていない。そのおかげとも言うべきか、人間によって汚されていないとても美しい海がある。―――青い夜を知る者にとっては忌々しい青い♀Cが。
 しかしその青を対象はきっと気に入るだろう。何せ自分の命の恩人を象徴する色なのだから。
 そうして咲は友人の仮面を被って対象を海に連れ出した。
 案の定、対象は喜び、そして―――
(……なんやねん。悪魔のくせに)
 咲に己の胸の内を吐露した。しかし計画した通りであるにも拘わらず、咲の胸の中には喜びではなくもやもやとしたものが生まれていた。
 監査対象は、夜は、たった一人の人間の少女を救うために己の人生全てを賭けると言った。彼女を救えるならば命など要らないのだという。
 悪魔のくせに。咲が知っている――憎んでいる――悪魔とは正反対の性質ではないか。
 足下が揺らぐような気配に気持ち悪さを覚えて思考を止めようとするものの、海を見つめて薄く微笑んだ夜の顔が頭から消えない。
 話を聞いた後、平静を保っていられたのは彼をバイクで正十字学園まで送り届けた直後までだった。背を向けたその瞬間に咲の顔は苦しげに歪み、バイクを走らせて自宅に向かう途中にの今は舌打ちまでしてしまう。
「ホンマなんやねん、あの悪魔……ッ!」
 怒りをぶつけるようにアクセルを回す。
 未だ理解には及ばない。言い様のない苛立ちだけが花巻咲の裡に渦巻いていた。







2012.09.17 pixivにて初出

相変わらず表裏の激しいオリキャラが出張っておりますすみません兄さん出したい。夜編はその名の通り夜がメインなので兄さん含む大人組が暗躍係にしかならないという……おおうジレンマ。あとオリ夜なんて誰得。いや、×ではなく友情にするつもりではあるのですが。