四足歩行の獣から二本の足で立つ人間の身体に慣れるには相当の時間と労力を要した。
 まず普通の生活というのができない。身体は動くように作られているのだが、それを動かす頭が追いついていかないのである。
 十代半ばの少年の姿であるにも拘わらず、見せる動きの鈍さは赤子と同じ。その状況から立って歩くという動作ができるようになっても、夜が指先の細やかな動きをマスターするには歩けるようになるまでかかった時間のゆうに二倍を必要とした。
 思うように動かない身体は夜に大きなストレスを与えたが、それら全ては最中を救いたいという願いと彼に協力してくれる者達への感謝で乗り切った。
 そうして一般人と遜色つかない程度にまで身体を操れるようになった後に、燐を師とした本格的な指導が始まった。
 燐の最大の特徴は青焔魔と同じ青い炎だが、彼は炎を操る以外に剣術の腕も突出している。十になる前から悪魔払いに携わっているため、同年代の祓魔師と比べれば経験の差が倍近くあるのだ。
 ただし同じくらいの経験年数を持つ年上の祓魔師と比較しても燐はその上を行く。才能の違いだろうかと夜は思ったのだが、燐がぼそりと零した「いや、やっぱ経験の差じゃねえかなぁ。記憶の分もあるし」という言葉の意味はまだ理解できなかった。
 ともあれ、師に恵まれた夜はめきめきと実力を付けていった。肉体に燐の血が混じっていることや元々獣ということもあって接近戦を好むため、夜に師と同じ『騎士』が適していたのも実力が伸びる理由の一つになっただろう。
 また座学などの剣術以外については対・悪魔薬学の天才と名高い雪男や元聖騎士の藤本獅郎らの手助けがあり、燐が不得意とする部分も補うことができた。
 そうやってある程度の実力がつくまでにかかった期間は一年弱。燐を中心とした狭い世界では夜の実力も十分に伸びないだろうという判断により、次いで夜は祓魔塾へ入塾することになった。塾に入ることで他者との関わり方を学び、またごく一般的なルートで祓魔師資格を得るために。
 聖騎士やら名誉騎士やらが協力すれば祓魔訓練生、祓魔候補生、そして祓魔師という段階を踏まずとも試験を受けて祓魔師になることは不可能ではない。だがそれではただでさえ悪魔であるのに正規のルートを踏まない夜を気に食わないと思う連中が必ず発生するはずだし、また夜本人としても先述したとおり他者との関わりを学ぶ機会が失われてしまう。
 最初、夜は他者との関係作りなどどうでもいいと燐に反論した。十代の子供に混じって暮らしていては成長するどころか爪が、牙が、剣が錆び付いてしまうと。しかし反論する夜に燐は淡い笑みを浮かべて軽く、しかしとても大きな思いを潜ませてたった一言だけ告げたのだ。
 人との関わりは何よりも大切な宝になる、と。
 燐の過去に何があったかなど夜は知らない。しかしその一言に込められた目に見えない思いが夜の心を動かした。
 気付けば夜は首を縦に振っており、そうして燐の指導は続けられたが、夜の生活のメインは祓魔塾を舞台にするものへと変化したのだった。



* * *



 四月。新入生の一人として夜は祓魔塾にいた。
 多くの塾生は十代の子供ということもあって昼間は正十字学園に通っているが、今期新入生の中では夜以外にも塾だけという者が何人かいるようだ。……その判断基準は主に制服を着ているかどうかなのだが。
 また燐が祓魔塾に通っていた頃は、燐のクラスメイトは全員同じ年だったらしいが、夜が入った今年の新入生クラスは若干の差があるように見受けられる。かつての雪男がそうであったように高校生の中に小学生が混じっている―――といったことはないが、中等部の制服を着ている者や、反して私服姿の若干大人びている者が混じっているのだ。
 夜も見た目は高校生程度だが、私服姿であるため後者の一人として捉えられたのだろう。制服組ではなく私服姿の一人が教室の隅に座った夜に話しかけてきた。
「こんばんは。それともまだ、こんにちは、やろか。君も正十字学園に通てへん組やんな? お仲間っちゅうことでどうぞよろしく」
 聞き慣れないイントネーションで話しかけてきたその人物はすっと手を差し出す。夜は赤い瞳でその手を捉え、腕、肩、顔と順番に相手を見上げた。
 夜に握手を求めた少年は年齢もこちらと同じくらいであろう。そのまま高校に通っても全くおかしくないのだが、にこりと人懐こい笑みの上にあるのは金よりも黄色と言った方がぴったりな見事に明るい色の頭髪だった。
 髪質が柔らかいのか、ふわふわした感のあるそれは夜にふとタンポポのイメージを抱かせる。加えて―――
「僕は花巻 咲(はなまき さく)。出身は京都や」
「あ……えっと。俺は夜。奥村 夜だ」
「奥村くんやな」
「いや、姓は便宜上借りてるやつだから夜って呼んでくれた方が反応できると思う」
「? まぁ本人がそう言うんやったら。せやったら僕のことも咲って呼んでや」
「ああ」
 差し出された手を握り返し、夜は頷く。
 ついつい相手の言う通りに動いてしまったのは彼のタンポポを連想させる髪と「花」「咲」という名前の所為だ。咲の名前も見た目も深山鶯最中を思い出させる。彼女の家にはいつも美しい花が咲いていたし、それに何より彼女が夜に初めて活けてくれた花のメインがタンポポだった。
 素直に応じた夜に咲は上機嫌な笑みを浮かべて「よろしゅうなー」と握った手を上下に動かす。ブンブンと効果音がつきそうな勢いは彼の性質を表しているようだった。きっと咲はこの動きや笑みの通り明るい人間なのだろう。
 咲はそのまま夜の隣に席を移し、二人して教師の登場を待つ。咲は「前で自己紹介とかさせられんのかなー」と面倒くさそうに呟いていたが、夜としてはそういう機会が与えられた方が助かると思っていた。何せ夜は咲やその他の生徒と異なり、悪魔なのだ。この塾ではそれを隠す気はなく――むしろ隠したまま過ごしてバレた時が大変なので――、最初に自分のことを自分から明かしておく予定なのである。
 ただしここで案じるべきは隣に座る咲の存在だ。彼は夜の正体を知らないまま距離を縮めてしまった。夜が悪魔だと知った後に態度が反転する可能性は高い。夜の大事な少女を思い起こさせる存在なだけに、それは少し心臓の辺りが痛むことだった。
「なぁなぁ、夜はどこに住んではんの?」
 正十字学園の生徒ではなく、それゆえに学園の寮には住んでいないだろうと予想した咲が夜に問いかける。その予想は正解で、拾われて傷が完治して以降、夜はかつて燐が過ごしていたという正十字学園高等部男子寮旧館を拠点としている。設備は年代ものだが生活するのに問題はなく、何年も使用していなかったために積もったほこりを片づけるのが一番の大仕事だったくらいだ。
「知り合いの好意で旧男子寮に住んでるぜ。そういう咲は?」
「僕は学園の外にアパート借りてんねん。そっから毎日バイクで通学や」
「え、お前バイクの免許持ってんの?」
「持っとるよー。十六になってすぐ取ったんやで」
「へー、すげぇ」
「ふふふ。もっと褒めてくれてエエよ。……あ、そや」
「?」
 いいことを思いついた、という顔をした咲に夜は首を傾げる。
 咲は口を開き―――……しかし、ちょうどタイミング良く教師が来たため、彼の口が次の言葉を紡ぐことはなかった。
 教室に入ってきた教師は夜のことを事前に聞かされているのか一瞬だけこちらを見て、それからかすかだが口元に笑みを刻んだ。男性教師は教卓の向こう側に立ち、
「よし、みんな席に着いとるな」
 教師は咲とよく似たイントネーションでその第一声を発する。
「俺は今年一年みんなの担任をやる志摩柔造や。担当科目は体育実技、それから聖書・経典暗唱術もキリスト教系やのぉてアジアのお経関連は俺が担当させてもらう。ここ一年くらい学園外で仕事しとったんやけど、お声がかかったんで戻ってきた出戻り教師や。どうぞよろしゅうな」
 男性教師改め志摩柔造はニカッと歯を見せて笑う。
 夜は彼と同じ話し方をする咲へと視線を向けた。すると咲はわずかに眉間に皺を寄せ、難しい顔で柔造を見据えている。
「咲?」
 小さな声で名を呼べば、咲ははっとした表情で夜に向き直り、「なんもないで」と首を横に振った。
 何でもないようには思えないのだが、今日出会ったばかりの人間にいきなり突っ込んだ問いをするのも気が進まず、夜はもやもやとしたものを抱えて「そうか」と返す。
 また咲への心配は続いて柔造が放った台詞に吹き飛ばされてしまった。
「ほら、早速やけど自己紹介してもらおか。自由に座ってもろてるみたいやけど、端から始めてくれるか。場所はそのままでエエさかい」
「は、はい!」
 柔造が視線を向けた先、夜達とは反対の教室の隅に座っていた女生徒が立ち上がる。彼女から順に名前とちょっとした挨拶を加えた自己紹介が進み、最後に咲、そして夜の番になる。
 咲は「花巻 咲いいますー。どうぞよろしく」と簡単に済ませ、彼が席に着くと同時に夜が椅子から腰を上げた。教師と生徒の視線が一斉に夜へ向けられる。
「俺は奥村 夜。っつても奥村って姓は元々名前しか無かった俺に俺を拾ってくれた人が必要だろうからって最近つけてくれたばっかなんだ。だから呼ぶ時は夜って呼んでもらった方が反応できると思う。それと」
 夜に親がいないのだと考えた生徒達はそれぞれの感情を瞳に浮かべる。が、そこにはまだ負に分類されるものはない。夜はひと呼吸置くと、意を決して自身が抱える最大の事項を明かした。
「俺は悪魔だ。ハーフじゃなくて完全な。でも祓魔師には本気でなりたいって思ってる。以上だ」
 悪魔を殺す技術を学ぼうとしている者達の中で「どうぞよろしく」とはさすがに言えない。夜は一気にざわついた空気を感じながら再び椅子に腰を下ろした。
「みんな落ち着きぃ。夜くんはちゃぁんと現役の上一級祓魔師が管理責任者になっとるし、今使てる体も人間に憑依したんやのうて、特別に許可を得て人間そっくりに作られた人形や」
 やはり夜の事情を事前に聞かされていたらしい教師がざわめく室内に苦笑しながらそう告げる。上一級祓魔師という言葉が効いたのか、生徒達の戸惑いはいくらか抑えられたようだった。
 しかしそんな彼らよりも夜が気にかけたのは己の隣に座る人物である。夜が椅子に座り直した後、咲とはまだ視線が一度も合っていなかった。咲はじっと教卓の方を眺めており、他の生徒達のざわめきよりその無言の方がずっと夜に圧力をかけてくる。
 その後も咲はずっと無言のままで、夜は内心で肩を落としながら授業が進んでいくのを見守った。
 祓魔塾生が最初に受ける授業は魔障の儀式と呼ばれるものだ。今年の生徒達も半数くらいは魔障を受けたことがなく、柔造が「まだ悪魔見えへんやつは手ぇ挙げてくれるか」という台詞におずおずと挙手していた。
 咲は既に魔障を受けているらしく、手を挙げることはない。
 挙手した生徒は順に教卓まで呼ばれ、教師が用意していた下級悪魔を使って小さな傷をつけていく。全員分が終了すると、柔造は生徒達にもう帰って良いと告げた。今日はこの魔障の儀式だけで、本格的な授業は明日から始まるとのことだ。
「ほな、明日から頑張りや。それと今日、魔障を受けたモンは……まぁ大丈夫やとは思うけど、気分悪なったり熱出たりしたらすぐ祓魔塾の先生らに言うこと。エエな?」
 柔造がそう言うと魔障を受けた生徒達は皆一様に頷き、それを確認してから教師は廊下へと姿を消した。彼の背中を見送った後、生徒達もバラバラと帰り支度を始める。夜の存在は気にかかるようだが、それでどうこう言ってくる者はいなかった。
 夜も少ない荷物を纏めて帰り支度を始める。その時、隣でガタリと音がして―――
「さっきの話の続きやけどな、今度僕のバイクの後ろに乗っけたるわ。いつでもエエさかい、夜の都合がついたら教えてや」
 椅子ごとこちらを向いた咲がニカリと笑って言った。
 夜は信じられない心持ちで咲の笑顔を受け止める。彼は夜が悪魔だと知って警戒または嫌悪したのではなかったのか。
 大事な少女を思い起こさせる少年に嫌われたと思って若干落ち込んでいた夜だが、顔を上げて相手に問う。
「咲は俺のこと怖がったりしねえのか」
「はあ? ないない」
 手をぱたぱたと振って咲は答えた。
「そら夜が襲いかかってきたら怖い思うやろうけど、今んとこそれもないし。つか夜は夜やん? 悪魔やろうが人間やろうが怖い奴は怖いし、エエ奴はエエ奴なんや。種族でどうこう決めつけとったらちゃんとしたモン見られへんて。確か現役祓魔師の中にも悪魔っておったはずやし。ま、僕が偉そうに語れることでもないんやけどな」
 あっさりとそう言ってのけると、咲は椅子から腰を上げて鞄の紐を肩に引っかける。
「ほな僕はもう帰るけど、都合のエエ日、考えといてや」
「あ、ああ」
 予想外の相手の態度に呆気にとられていた夜は何とかそれだけ返し、先に教室を出る咲の背中を見送った。おそらく人生で始めてできた友達≠ノむず痒さを覚える。
 しかも咲の反応は夜に影響を与えただけではなかった。まだ教室に残っていて咲の会話を耳にした生徒の夜を見る目が変化したのだ。
 咲ほど好意的ではないにせよ、警戒心が随分薄らいでいる。悪魔であるためか、そう言った負の感情に聡い夜はその変化を如実に感じていた。
「……変な奴」
 咲の笑顔を思い出しながらぼそりと呟く。だが夜のその声の中にも負の感情が交じることは無かった。







2012.08.01 pixivにて初出

燐達が親世代で夜が子世代なのですが(笑)、子世代に適当な年齢の原作キャラがいなかったのでオリキャラが登場します。京都訛なのはコミックス7巻P143の1コマ目でアレがアレしてるから← オリキャラ苦手な方がいらっしゃいましたらすみません。これからバンバン出てきます。