「奥村さん、どうしたんですか? その猫……って、あれ。猫じゃない?」
 正十字学園に入ろうと門を通過する際、警備員に声をかけられて奥村燐は足を止めた。
 その腕の中にいるのは猫―――のように見えるが、異なる生き物。警備員の「悪魔ですか?」という問いに燐は頷いた。
「怪我してっから俺が保護したんだ」
「はぁそうですか……さすが奥村さんと言うか」
 祓魔師に保護されたのは本来祓うべき悪魔。
 しかし燐が何であるかを知っている警備員は苦笑を浮かべ、門を開ける。
「早く良くなるといいですね、その子」
「おう。ありがとな」
 警備員が燐に向ける視線は好意や尊敬を含んでいても嫌悪や悪意が混じることはない。それが今と同じくらいの肉体を持ち、周囲から危険視されて挙げ句の果てには殺されてしまった頃≠ニ大きく異なっており、なにやらむず痒いような、心の奥がじんわりと暖かくなるような感じがする。
 燐は任務の終了直後に出会った小さな悪魔を気遣いながらそれでもなるべく急いで学園の中枢へと向かった。
 どうかこの悪魔にも微笑んでくれる人間ができますように、その人間を大切にできますように、と願いながら。



□■□



 目が覚めると同時に夜を襲ったのはとんでもない激痛だった。
「……ッ!」
 痛みで声すら出ない。しかしその痛みこそ、まだ夜が生きている証拠でもあった。
 激痛でもう一度気絶しそうになりながら、それでも夜は己と周囲の状況を確認する。ボロボロの身体で祓魔師を見つけて、悪魔の殺し方を教えてくれと言ったところまでは覚えている。しかしその後の記憶がない。
 今の自分は、もがれた翼は無いものの、傷口にきちんとガーゼが当てられて治療されていることが判った。また寝かされていたのは清潔な毛布の塊の上で、部屋自体も清潔な―――
(いやでもなんだこれ。目に痛い)
 清潔なのは清潔なのだが、壁紙や絨毯、天井、調度品などが妙に派手な色をしている。怪我の所為だけではない理由で目をしぱしぱさせながら夜は自分が置かれた状況を考えた。
 どうやら祓魔師に殺されることはなかったらしい。それどころか丁重に保護されている。行幸だ。しかしながら夜を保護した人物の姿が見えない。未だ視覚は若干ぼやけているが、視覚情報に頼らずとも周囲に他人の気配が感じられないので、夜はこの部屋に他人がいないと判断した。
 けれども。
「おや。ようやくお目覚めですか」
「ッ!?」
 突然かけられた声にぎょっとする。その動きで再び激痛が全身を走り抜けたが、構わず夜は声がした方を向いた。
《あんたは……》
 獣の唸り声のような音が夜の口から零れ落ちる。獣の姿しか取れない夜の声はこれだ。悪魔同士であるならば通じるが、人間にはただの唸り声にしか聞こえない。
 しかしこの部屋に負けないくらい奇抜な格好をしたその人物は夜にひたと視線を合わせて口の端を吊り上げた。
「これは失礼! 紳士たるもの自分からきちんと名乗らなければいけませんね」
 俺の言葉が解るのかと夜が驚くよりも早く、その人物は被っていたシルクハットを胸に当てて一礼。
「私の名はメフィスト・フェレス。正十字騎士團日本支部の支部長にして、ここ正十字学園の理事長を務めております」
《なっ! あのメフィスト・フェレス!?》
 正十字学園云々の方は解らなかったが、正十字騎士團とメフィスト・フェレスという名前は知っている。
 前者こそ夜が求めた祓魔師達のいる組織。そして後者は夜どころかパズスですら足元にも及ばない大悪魔でありながら、面白そうだからという理由で悪魔の敵である祓魔師達の側についている変わり者の名前である。
「おや。私のことをご存じでしたか」
 有名中の有名人であるにも拘わらず、いけしゃあしゃあとメフィストは言う。
 だがこれで納得できた。いくら人間の姿をしており、一見そんな様子を感じられずとも、メフィスト程の大悪魔ならば同族にすら気配を悟らせないようにするのは容易い。そして同族なのだから勿論、夜の言葉を理解することができる。
 そして力量に大きな差があるとは言え同じ悪魔であること、またそれゆえに言葉が通じることから、夜はこう考えた。
《ひょっとして俺を助けてくれたのはあんたなのか》
 だが夜の予想に反し、メフィストはきょとんと目を瞬かせた後、大口を開けてゲラゲラと笑いだした。
「あはははっ! 私が貴方を? 馬鹿を言っちゃあいけません。貴方のような小者を私がわざわざ助けるはずないでしょう?」
 まるで夜とは異なる特別な悪魔≠ネらば話は別だとでも言うようにメフィストはきっぱりと告げる。随分と失礼な物言いだが、立場の違いを考えれば怒りを覚えることもできない。それ程までにメフィストと夜の力には大きな差があった。
 夜はメフィストの言葉にただそうなのかと納得し、問いを重ねる。
《だったら俺を助けてくれたのは一体……》
 メフィストが夜を小者ゆえに助けるはずがないと言うのなら、夜をここまで運び手当してくれたのはもっと下位の者になるのだろう。祓魔師達の中で生きていることを考慮しても、おそらくはメフィストの配下にいる上級(上の下)から中級の悪魔。パズスと同等かそれ以下ではないかと思われる。
 助けてもらったことには感謝するが、果たしてパズスに敵う程の力をつけることができるのか……。
「貴方を助けた者が誰なのか気になりますか?」
 夜の思考を読んだわけではないだろうが、メフィストはニヤニヤと口元を歪ませた。夜は知らなかったが、それは相手が驚くことを予想し、そうなることが愉しみで仕方ないという時の顔だった。
「気になりますか? そりゃあ気になりますよね。何せ自分を助け、これから導いてくれるであろう存在なのですから。ま、その辺は心配せずとも大丈夫でしょう」
 くすくすと笑いながらメフィストはそう言ってのける。
 他人事のように軽い言い方をするのは、まさしくメフィストにとって夜の事情が他人事であるからだ。おそらく夜が今、目の前で死んだとしても、この大悪魔は眉一つ動かさないだろう。
 それ程までに夜の存在は軽い。
 ゆえにそんな夜に手を差し伸べるのはメフィストよりも格下の悪魔としか考えられなかったのだが―――
 カチャリ、と鍵の開く音がする。それは夜達がいる部屋と正十字学園内の別の部屋の扉が一つの鍵によって繋がる音だった。遠く離れ、夜には微塵も感じられなかった気配がその一瞬で僅か数メートルにまで近付く。
「……ッ!」
 感じ取った気配に悪魔の本能が最大級の警戒音を鳴らした。夜が痛みを無視して向いた先、この部屋の出入り口になる扉一枚向こうにはとんでもない階級の悪魔がいる。同じ室内にいるメフィストよりも更に上だ。そんな存在が扉のノブに手をかけ、ゆっくりとこちらに入って来ようとしている。
 緊張で全身の毛を逆立てる夜とは反対に、メフィストは笑みの種類を柔らかく淡いものに変えて新たな登場人物を迎え入れた。
「ナイスタイミングです。貴方が助けた小さな悪魔がようやく目を覚ましましたよ」
 え、と思った。
 メフィストの言葉が理解できず、それでも夜の瞳は扉の向こう側から現れた人物の姿を捉える。
 その存在は二十代半ばの青年の姿をしていた。黒いコートに身を包み、日本刀を担げている。髪もまたコートと同じく黒。しかしその下にある双眸は吸い込まれそうなほど深い青をしていた。
 青い目が夜を映す。そして安堵したようにそっと細まった。
「よかった。気が付いたみてえだな」
《……ぁ、……》
 言葉が出ない。応えなければと思うはずなのに、そのための音が喉の奥か出ていかない。
 本能だけで動き理性も思考も何もない下級中の下級悪魔ならばここで詰まることもなかっただろう。しかし下級の悪魔でありながら下手にまともな思考回路を持っている夜は、己とは遙かな差がある目の前の存在に呼吸の仕方すら忘れ去った。
 この青い目の青年は特別だ。コートの下から伸びる尻尾を除けば外見は普通の人間と同じだが、悪魔としての気配を隠しもしない青年からはひしひしとその大きな差が伝わってくる。
 パズスにも、またメフィストにすら臆せず言葉を発した夜だったが、こればかりは別だ。
「ん? どうかしたか?」
 固まってしまった夜に青い目の青年が小首を傾げる。
「まだ傷が……あーまぁ痛むよな。一応治療はしてっけど、絶対安静だって雪男も言ってたし」
 雪男というのがどういう人物は知らないが、どうやらこの青年にとって相当大切な存在らしい。名前一つ呼ぶにも青い目が幸せそうに細まる。
 その柔らかな雰囲気を受けて夜ははたと気付いた。大怪我を負い意識が朦朧としていた時、夜に手を差し伸べた存在の気配を。それは今、夜が感じているものと同じではなかっただろうか。
《……俺を助けてくれたのは》
「俺ってことになるのかな。怪我を治療したのは俺の弟で、場所を貸してくれたのはメフィストだけど」
 学生ん時に俺らが使ってた部屋はホコリ被ってっからさー、と燐が苦笑を浮かべる。
「かと言って俺、日本支部の祓魔師じゃねーし。いや、ホント助かったぜメフィスト」
「これくらい安いものですよ」
 親しい間柄であることが解る会話を交わす青年とメフィスト。
 これで青年が夜を助けた本人ということが確定したのだが、夜になど微塵の興味もないメフィストよりも更に上の位にいるであろう悪魔が何故わざわざ夜にここまでしてくれるのかが理解できない。
《どうして》
「?」
《どうして、俺を助けた……助けてくれたんですか》
 恐る恐る問えば、青い目の青年が夜の目の前に膝をついた。視線を合わせるためだとは言え畏れ多いことだと、夜は慌てる。しかしそんな夜の慌てぶりに青年は苦笑を浮かべただけで、相変わらず立ち上がる気配はない。
「だってお前が言ったんだぞ? 大切な人を助けるために悪魔の倒し方を教えてくれって」
《それだけで?》
「それだけ、って。それ以外に何かあるか?」
《だって俺は貴方とは全く関係のない悪魔で。しかもメフィスト、様、のような力を持った存在でもない。貴方が俺を助けても利益はないはずだ。……です》
「利益ねぇ」
 そう言って背年はぽんと夜の頭に手を置いた。ちょうどそれくらいの体躯の生き物の扱いに慣れているような手つきだ。
 怪我をしてるためにそう強い力ではないが、青年は夜の頭を撫でながら告げる。
「俺は別に見返りが欲しいから誰かを助けるわけじゃねえ。助けたいから助ける。お前だってそうじゃねえのか?」
《え?》
「お前の大切な人を助ければ、そいつから何か見返りがあんのか? 違うだろ? お前だって助けたいからそのための手段を探してるんじゃねえのか。こんなにボロボロになってまで、さ」
 何か思うところがあるのか、遠くを見るように青年は微笑んだ。
《そう……そう、だ。俺は最中を助けたいから助ける。その手段を手に入れたい》
「な? じゃあ俺の行動の意味も理解してもらえたところで、自己紹介でもするか」
 そう言えば互いに名乗っていなかった。夜はメフィストの名を知っているだけで、メフィストも目の前の青年も夜の名前を知らないし、また夜も青年の名を知らない。
《俺は夜。俺の大事な人……最中がつけてくれた名前だ》
「そっか。メフィストはもう知ってる?」
 青年の指差した方向に奇抜な衣装の悪魔が立っているのを確認して夜は頷く。
「じゃあ後は俺だけか」
 そう呟く青年の言葉に、夜の視界の端でメフィストがニヤリと口の端を持ち上げる。しかし夜がその意味を理解したのは全身の血流が止まる程に驚くのと同時だった。
「俺は奥村燐。正十字騎士團ヴァチカン本部所属の上一級祓魔師だ。そしてお前やメフィストと同じ悪魔で、サタンの野郎の炎を継いでる」

《………………ぇ》

 ひとまず夜の硬化が解けたのは、随分時間をおいてからであったことをここに記載しておく。







2012.06.18 pixivにて初出