「表舞台にようこそ、奥村燐くん」
 そう言ってメフィスト・フェレスは両腕を広げた。
 彼が纏うのはいつも通りの白やピンクを使った奇抜な衣装。シルクハットもしっかり装備済みだ。対して彼に名を呼ばれた方―――燐はと言えば、これまでのようなバッチ無しの祓魔師コートではなく、正十字学園高等部の男子用の制服に身を包んでいる。
 雪男に己が兄だと明かした後、燐はメフィストの言葉通り“表舞台”に立つことになった。
 同じ年の少年少女らと同じように高校へ通い、そして祓魔塾で祓魔師の資格を得るための勉学に励むという世界に。しかも奥村燐という人物が青焔魔の炎を継いでいるという事実を公にした上で。
 青焔魔の落胤が生きており、尚且つ祓魔師を目指しているという知らせはヴァチカン上層部の耳に入った瞬間、祓魔塾への入塾などは当然のように却下された。青い炎を操れる悪魔などさっさと処刑してしまえと上層部の者は口々に叫び、燐にはオペラ座法廷への召喚要請が出る始末。しかしそれを一刀両断したのが現聖騎士・藤本獅郎だ。
 前の人生で燐が青焔魔の落胤だと知られた際、燐に味方する者は殆どいなかった。また味方がいたとしても、雪男は上層部の決定に反論するには地位が低すぎ、シュラも上司が燐処刑派の聖騎士アーサー・O・エンジェルであったために同じく反論は聞き入れられない。メフィストは日本支部長だったが悪魔ということもあって彼の意見を全面的に肯定するヴァチカンメンバーなどいなかった。メフィストが“賭”と称してようよう燐の僅かばかりの延命が叶った程度だ。また燐が炎に飲み込まれて暴走状態だった場面を目撃されたのも悪かったのだろう。
 しかし今回は状況が違う。燐にはメフィスト・フェレスだけでなく藤本獅郎がいる。そして京都出張所の代表格の一人である志摩柔造もそれなりの力になるだろう。また燐自身、『ミーシャ』として築き上げた実績がある。ミーシャに救われた祓魔師は数知れず、その中でミーシャが青焔魔の落胤であったと知ってもなお好意的に見る祓魔師も実際に何人かいるのだ。
 そんな要素が積み重なり、燐は表舞台に立つことができた。これから正式な祓魔師の資格を得て、アオやミーシャではなく奥村燐としての人生を歩み始める。
「入塾の件は面倒でしょうが、我慢して頂けると幸いです。貴方はもう十分な実力を備えていますけど、やはり祓魔師の資格があった方が上層部の警戒も幾分弱まりますからね」
「まぁそりゃそうだろうな。そっちの件は別に構わねえよ。それにさ、雪男に言われたんだ。俺の過去のこととか色々話した後、『僕に“兄”を返してくれたんだから、次は皆に“友人”を返してあげなよ』って。塾に通えば皆と一緒にいられる時間が増える。高校の方も、な。俺、勉強苦手だけどやっぱ皆が好きだから」
「本当に君って子は……」
 はにかむ燐にメフィストは優しげなまなざしを向けて苦笑を零す。
 ここに至るまで十五年。今年で十六年目。気紛れで拾い上げた赤子はメフィストの中で随分大きな存在へと育っていた。まるで人間のようじゃないかと自分で自分を笑いながら、その一方で自嘲すらどこか柔らかさを帯びている。
「なんだよ」
「いえいえ、何でもありません。……ああ、もう塾の時間ですね。学校の方は来週から普通科への編入という形を取らせて頂きますので、それまでに準備をしておいてくださいね」
「わかった。色々ありがとな」
「私がしたことなんてほんの些細なことばかりですよ」
「謙遜はらしくないぜー」
「おや失礼な。それじゃあ私がいつも傲慢に振る舞っているようではないですか」
「え、違うの?」
「ちょっとこちらへ来なさい。年長者への態度についてじっくり語り合おうではありませんか」
「げっ!? 塾が始まるってお前が言ったじゃねーか!」
「塾長権限で奥村燐くんだけ本日欠席です。さあいらっしゃい」
「いーやーだー!」
 叫ぶ燐。しかし顔には笑みが溢れている。その顔を見てメフィストは思った。ああこれこそが奥村燐の本当の笑顔なのか、と。
「……私は間違っていなかったようですね」
「へ? なんか言ったか?」
「いいえ。とりあえずお説教はまた今度にしましょう。さあ、行ってらっしゃい」
「? おう! 行ってきます!!」



□■□



「『よう! 旧男子寮の幽霊殿。元気そうじゃねえか!』」
「宝!?」
 塾の教室へと向かう廊下で後方からかけられた声に燐は勢い良く振り返った。
 そこに立っていたのは手にウサギのパペットをつけた祓魔塾生、宝だ。宝は相変わらず表情の読めない顔で、しかし左手のパペットはうるさいくらいに口を開く。
「『お前も祓魔塾に通うんだって? 上も面倒なことさせんなあ』」
「あはは。確かにな。でも俺、皆といられて嬉しいぜ」
「『そうかいそうかい』」
 ウサギが呵呵と笑った。
 どうやら宝は燐が祓魔塾に通う理由を既に察していたらしい。前の人生でも実力不明――ただし凄いだろうことは予想できる――な宝だったが、やはりこういった状況を理解する能力も相当なもののようだ。
「そう言えば……」
 燐は前の人生での彼の様子と今の様子を鑑みて疑問を口にする。
「宝はもう俺の正体とか当然知ってるんだよな?」
「『青焔魔のご落胤様だろぉ。知ってるよ』」
「怖いとか近寄りたくないとか思わねえの?」
「『ハッ! 怖いだぁ?』」
 ウサギは器用にも「やれやれ」という仕草をして、それからぱたりと脇に下ろされた。
 急に腹話術を止めた宝は一歩二歩と燐に近付き、普段から開けているのか閉じているのか判らなかった双眸を向ける。
「たから……?」
「怖くないよ、奥村燐。君を恐れるのは君を知らない無知な人間だけだ」
「ッ! た、か」
「『じゃあ俺は先に行くぜ! お前は後ろの奴らの相手をしてから来いよ!』」
「へ? え?」
 後ろって誰!? と戸惑う燐を置いて宝は教室へと向かう。だが最後にもう一度だけ燐を振り返り、パペットではなく自身の口を開いて小さく呟いた。
「君みたいなお人好しを怖いと思うわけがないだろう?」



* * *



「あー! いた! ちょっと待ちなさい!!」
 宝が去ってすぐ、声をかけてきたのは神木出雲だった。どうやら宝が言っていたのは彼女―――否、“彼女ら”のことらしい。出雲と一緒に朴の姿も認めて燐はそれに気付く。
「なんとか間に合ったみたいね。教室に入られると朴は会えなくなっちゃうもん」
 だから廊下で呼び止められて良かったと言って、出雲は朴の手を引きながら燐の傍までやってきた。
「出雲……朴……」
「早速呼び捨て? まぁいいわ」
 思わず口にしてしまった呼称に出雲は眉を跳ね上げたが、特に厭う様子でもない。彼女はそのまま友人の朴を振り返って「こいつがあの祓魔師よ」と告げ、燐に再度視線を合わせる。
「そうよね? あんた、私と朴が夜の中学校で出会ったフードの祓魔師でしょ」
「え、あーうん。あん時はいきなり気絶させて悪かったな」
「まったくよ。……でもまぁ悪魔を祓ってくれたことは感謝してる。確かにあの時の私じゃ力不足も甚だしかったしね」
 かつての出会いを振り返りつつ憮然とした表情で出雲は告げた。そして視線で朴の発言を促す。
「えっと、久しぶりだね」
 促された朴が一歩前に出てそう口を開いた。
 朴とは彼女が祓魔師としての進路について迷っていた夜以来だ。その時もフードで顔を隠していたのだが、青い炎を晒した一件で燐の顔を見ていた出雲の発言と、それから声の具合によって、朴は祓魔師のコートを纏っていない今の状態でも燐をあのフードの祓魔師と同一人物だと理解したらしい。
 そして二人とも宝と同じく燐を恐れる様子がなかった。かつて出雲に言われた、ハーフの祓魔師などいくらでも存在するという言葉が思い起こされ、燐は知らず笑みを浮かべる。
(出雲はすげーよ。それに朴も。やっぱ二人は友達なんだなぁ)
「ん? 私の顔に何かついてる?」
「いや、そうじゃなくって……。なんつーか、まあ、元気か?」
「うん。おかげさまで元気にやってるよ。結局、祓魔塾はやめちゃったけど、この選択は間違ってなかったと思ってるし」
「そっか」
「ちょっと寂しいけどね。でも塾じゃないからいつもってわけじゃないけど、学校の方でだって皆と会えるし。それに出雲ちゃんは塾に通っていてもいなくても、いつだって私の友達だから」
 大丈夫だよと告げる朴に燐は心から良かったと笑いかけた。
「奥村くんも、これからよろしくね。制服を着てるってことは正十字学園にも通うんでしょ?」
「おう。朴達と同じ一年に来週から編入するんだ」
「普通科?」
「特進科とか無理だし。頭が追いつかねーよ」
「ふふ。とっても強いのに勉強は苦手なんだね」
 朴はクスクスと小さく肩を震わせる。その隣で出雲も呆れたような表情を浮かべる。しかしその呆れ顔の中には彼女らしい思いやりの色も隠れていた。
「あたしに答えられる所だったら教えてあげるから、気兼ねなく聞きに来なさい。その代わり祓魔師としての戦い方とか教えてくれないかしら。あんた、経験だけはすっごいんでしょ?」
 これまで名無しのまま(もしくはミーシャという名前で)祓魔の任務に当たっていた燐に出雲はそう告げる。
「すごいかどうかは判んねーけど、俺が教えられることなら」
「そ。じゃあよろしくね」
 出雲はそう言って右手を差し出した。燐は一瞬、それをキョトンとした顔で見つめたが、握手を求められているのだと気付き破顔する。
「おう。こちらこそ」



* * *



 廊下で朴と別れ、燐と出雲は揃って教室に入った。
 既に入室済みだった京都出身の三人と杜山しえみが燐の登場に息を呑み、続いて出雲が現れたことでぎょっと目を剥いた。“青焔魔の落胤”と普通に接している出雲の様子に驚いたのだろう。
 やはり青い炎を操れるということで怖がられているのだろうか。四人の反応を見て燐は胸の奥にチクリとした痛みを覚えた。
 かつて己が座っていたのは教卓の正面。隣にはしえみがいて、燐の左斜め後ろに勝呂、志摩、子猫丸が座っていたのだが、今回もまた彼らの座席の位置は変わらないらしい。それが少しおかしくて、懐かしいような、切ないような気持ちになる。
 ともあれ怖がられているのなら、しえみの隣に座るのはやめた方がいいだろう。そう思い、燐はしえみからも勝呂達からも離れた廊下側の席に近付く。元から廊下側に座っている出雲はそれで構わないらしく、何も言わない。
 そうして燐が椅子に座ろうとすると―――
「あ、あの! こっちに来ない?」
 ガタリと音を立ててしえみが立ち上がり、自分の隣を手で示した。彼女の透き通った緑の双眸はしっかりと燐を捉えている。
「え」
 しえみの態度に燐は目を丸くして言葉を失くす。それをただ単に見知らぬ人間から話しかけられたためだと思ったのか、しえみが緊張と焦りで顔を赤くしながら続けた。
「わっ、私、杜山しえみって言うの! 祓魔屋は知ってるよね。あそこの娘。前に貴方が来て庭の手入れを手伝ってくれたって、私のおばあちゃんが言ってたの。お……覚えてる?」
「……覚えてる。めちゃくちゃいい人だったよ、お前のばあちゃん」
「ありがとう」
 燐が本心から答えれば、しえみは嬉しそうに双眸を細めた。
「やっぱり貴方は素敵な人だね。おばあちゃんが話してくれた通り」
「俺が……?」
 青焔魔の落胤なのに。それなのにしえみは言葉すら交わしたことのない燐をいい人だと思ってくれるのか。
 問いかければ、しえみはニコリと微笑んで「当たり前じゃない」と答えた。
「貴方は……燐は、いい人だよ。だっておばあちゃんのこと思い出して、そんなに優しい顔をしてくれるんだもん」
「顔?」
「そうだよ。燐、貴方とても優しい顔で笑ってくれた」
 しえみはそう言い、再度己の隣の席を手で示す。
「ねえ、良かったら私の友達になってくれませんか。まずはお隣の席で勉強するところから」
「いいのか?」
「いいよ。大歓迎!」
 大輪の花が咲くような笑顔で迎えられ、加えて後ろから出雲に「行きなさいよ」と背中を押される。
「出雲?」
「あの子、高校には通ってないんだから、会えるのは塾か祓魔屋だけなのよ?」
「……おう。ありがと」
「礼を言われる程のことを言ったつもりはないわ」
 ツンとそっぽを向く出雲に燐は苦笑して、そうしてしえみの隣の席に腰を下ろした。

「初日からクラスの女の子二人とも攻略やなんて、やりますなぁ。奥村くん」

 燐が席に着くのと同時に声をかけてきたのは三人組から離れてこちらの真横までやって来た志摩廉造。椅子に座った燐は志摩を見上げて驚きに目を丸くする。まさか彼もまた燐を怖がっていないのか。
「いややわぁ。そない驚いた顔せんでも。あと俺の方は『はじめまして』も名乗りもいらんよね? 夏休み中に会うたことあるし。それとももう一回名乗っとく?」
「いや、大丈夫。志摩だよな」
「せーかい。志摩柔造の弟の志摩廉造でーす。奥村くんは奥村燐でええやんな?」
「ああ」
 頷いて、燐は志摩に問いを発する。
「志摩は俺が悪魔なのに……しかもサタンの炎を継いでるのに怖がったりしねえの?」
「奥村くんは怖がってほしいん?」
「まさか」
 燐は首を横に振る。
「俺は皆と友達になりたい」
「さよかぁ。いやーそう直接的に言われるとなんや照れてまうわぁ」
 志摩は頭を掻きながら苦笑した。
「俺はあんま難しいこととか面倒なこととか考えとうない性質やねん。せやから君が悪い奴やったら絶対関わらへん。でも奥村くんて『ミーシャ』やし、それに杜山さんが言うとった祓魔屋の庭の件は知らんけど、奥村くんが青い炎を見せてくれはったあの時―――あないな顔で泣けるヒトに悪人はおりませんやろ」
「志摩……」
 あの時の泣き顔のことを言われるのは恥ずかしいものがあるが、それでも燐を信じてくれるという事実がたまらなく嬉しい。志摩らしい軽い言い方の中に真摯な部分を感じ取って燐は胸が熱くなる。
「泣いてもええでー。志摩くん素敵!て。でも抱きつくんは勘弁な。それは女の子の特権やさかい」
「なんだよそれ!」
 あっという間に軟派な志摩に戻ったことで燐はケラケラと笑いだした。志摩もそんな燐の表情の変化を見て同じように笑う。
「そや。奥村くんてここ長いんやろ? せやったらこの辺の案内してくれへん? 京都で俺らが一方的に言うた約束やけど」
「いいぜ! 俺でよければ」
「決まりやな!」
 そう志摩が告げると、燐の周りにもう一つ―――否、二つの人影が増えた。燐がそちらを向き、相手を確認する。
「あ……」
 勝呂と子猫丸だった。
「奥村、やったな。京都で会うた時に一回名乗らしてもろたけど、改めて名乗っとく。勝呂竜士や」
「僕も改めまして。三輪子猫丸です」
 志摩とは違い、二人とも固い声で告げる。
 これまでの会話で緩んでいた燐の緊張の糸が再びピンと張りつめた。
「俺は京都の明王陀羅尼宗の座主、勝呂達磨の息子として生まれた。せやけど俺んとこの寺は十六年前の青い夜で大勢の者が死んどる」
「その話は知ってる」
 勝呂の祖父が死んだのも、子猫丸の父親が死んだのも、志摩の一番上の兄と祖父が死んだのも。そして他にも大勢の僧侶が一夜にして亡くなったため、勝呂の寺が祟り寺などと蔑まれたことも。落ちぶれた明陀宗が組織を維持するため仕方なく正十字騎士團に属したことも。
 全ての原因は青焔魔だ。ゆえに(過去の)燐の周りでも身内意識が強い明陀の者達は殊更に青い炎を警戒し、憎んでいた。最終的には燐と次期座主である勝呂や同じ明陀の家の子猫丸、志摩が仲良くしているのを見て、燐への態度を軟化させてくれたが。
 しかしこの時間軸において燐と勝呂の交流などほとんど無い。燐は勝呂の人となりを知っているが、勝呂は燐の人となりを全く知らないのだ。
(こんな状態じゃ、しかめっ面されんのも当然だよな……)
 眉間に皺を寄せている勝呂の顔を見て燐は胸中で独りごちる。信頼関係がなければ、勝呂にとって燐はただの『青焔魔の落胤』だ。かつて明陀の者を虐殺した青い炎の使い手であり、頭では違うと理解していても心が憎まずにはいられない相手だろう。明陀の仲間を家族と称する勝呂なら尚更に。
 だがそう考えて徐々に表情を失くしていく燐に勝呂が言い放った。
「なんや勘違いしとるようやけど、俺はお前を敵やと思てるわけやないで」
「……え?」
「やっぱり俺がそう考えてるて思ったんか」
 燐の間の抜けた様子に勝呂は深々と溜息をついた。
「お前は青い炎が使える。せやけど青焔魔本人やない。でもやっぱりお前は悪魔で、しかも魔神の落胤や。そやし俺は今の時点で奥村のことを敵や味方やて決めるつもりは毛頭あらへん。お前がどんな奴なんかは、これから付き合うていく課程で見極めたる」
「ってことは……」
 知らないならばこれから知って、どんな考え方の持ち主なのか、己の敵となるのか友となるのか判断する。そう宣言した勝呂に燐はポカンと口を開け、それから「すげーなぁ」と青い目を細めた。
「勝呂はカッコイイな」
「なっ!? か、かかか格好ええて……。いきなり何言うてんねん!!」
 燐が放った呟きに勝呂が思いきり反応し、照れて声を荒げる。燐はそんな勝呂を見てことりと小首を傾げた。
「何って本当のことじゃねえか」
「お、お前なあ! 俺が言うたことちゃんと聞いとったんか!? 俺はお前を敵やて思うかもしれへんのやぞ!?」
「でも俺を認めてくれる可能性だってあるんだろ? それをはっきり言える勝呂はすっげぇ格好良いよ」
「よくもまぁそんな台詞をぺらぺらと……」
 さっきまでの堅い空気はどこへやら。燐の賛辞に勝呂は照れて顔を赤くし、「なんやねんコイツ」とぶつぶつ呟いている。
 その横では子猫丸が苦笑を浮かべ、そして眼鏡越しに燐と視線を合わせた。
「奥村くん」
「なんだ?」
「坊ほど立派に宣言はできませんけど、僕も気持ちは同じです。奥村くんの青い炎は怖い。でも奥村くんは青焔魔とは違う。せやし、これから奥村くんのことをちゃんと知って、奥村くんと関われるか関わられへんか決めたいて思てます」
「……わかった。勝呂や三輪に仲間だって言ってもらえるように頑張るよ」
「子猫丸でええですよ」
 やわらかな笑みを浮かべて子猫丸が告げる。
「それに別段頑張らんでもええんです。ありのままの奥村くんを見せてください。(……まぁ、志摩さんやないですけど、あないに綺麗に泣けるんやったらきっとエエ人なんでしょうね)」
「ん? 三輪……じゃなかった。子猫丸?」
「何でもないですよ」
 子猫丸の台詞の後半が聞き取れずに疑問符を浮かべる燐だが、子猫丸はそう言って首を横に振った。

 そして教室に講義開始のチャイムが鳴り響く。
 各々が席に着くと、廊下に通じる扉が開いて本日最初の講義の講師が現れた。



* * *



 塾の講義が終了したその日の夜。燐の姿は旧男子寮ではなく、南正十字男子修道院にあった。その隣には雪男もいる。
 本来、正十字学園の生徒は寮に入るのだが、今夜はメフィストの計らいにより、鍵を使って塾から直接こちらにやってきたのだ。
「おかえり! 俺の息子達!!」
 燐と雪男、二人揃っての登場に藤本獅郎は両腕を広げてその第一声を放った。「うおっジジィ!?」「神父さん!?」と二人に驚かれながらも獅郎は一人ずつ力一杯抱きしめる。
「二人とも腹減ってるだろ。まずは手ぇ洗え。そっからメシだ!」
 思う存分息子達を堪能した後、歯を見せてニカッと笑う獅郎の背後には食卓に所狭しと並べられた料理の数々。そして先に席に着いている修道士達は皆笑顔で二人分の空席が埋まるのを待っている。彼らに燐を厭う様子はない。獅郎の直属の部下であり、同じ修道院に暮らす家族であり、また炎は扱えずとも『魔神の落胤』である雪男を生まれた時から知っているからだろうか。
 見知っているが見知らぬ顔ぶれの暖かな笑みに燐も笑い返し、「おう!」と答えて洗面所へと向かう。その後ろに雪男が続くのだが、まるで我が家に帰宅したような燐の様子に雪男が驚くことはなかった。燐の事情を既に雪男にも明かしており、前の人生ではこの修道院で雪男と一緒に育ったことも今の雪男は知っているからだ。
 燐の前の人生について話し終えた後、雪男は眼鏡を外すのも忘れて大泣きした。燐と共に育った己の力不足を嘆き、また騎士團上層部の非情な対応に憤り、今度こそはそんな目に遭わせたりしないと強く誓ってくれた時の弟の泣き顔を燐は一生忘れないだろう。ただし前の人生のことで騎士團上層部を恨んだり憎んだりはしないでくれと燐は雪男に頼むのを忘れなかった。
 燐が死んだのは、雪男に殺させてしまったのは、確かに彼ら上層部の策謀の所為だ。しかし一度死んでこの時間軸に戻れたことで、燐は失ったはずのものをもう一度手に入れることができたのもまた事実。
 燐の覚醒に伴う藤本獅郎の死はしっかりと回避されている。また、かつてより人のために振るえる力は強くなり、本来なら接点をあまり持たなかったはずの者とも関わるようになった。
 雪男にはとても辛い思いをさせてしまったが、それはこれから補うことも可能なはずだ。そう信じて燐は後ろに続く弟を振り返る。
「なあ、雪男」
「ん?」
「これからはずっと一緒にいてくれるんだよな?」
「当たり前だろ。そうじゃなきゃ僕が嫌だ」
「そっか。へへっ……なんか嬉しすぎて顔が変になる」
「なってもいいよ。これからもっともっと変な顔にさせてあげるから」
「お、俺だってお前のそのすまし顔、おもいっきり変にさせてやるからな!」
「期待してるよ」
 眼鏡の奥で愛しげに双眸を細め、雪男が笑った。
「僕に兄さんをもっといっぱいちょうだい。そしてすまし顔なんかできないくらい僕を幸せにしてよ。一緒にいっぱい幸せになろう?」
「おう!」



□■□



 とある場所の、とある任務にて。とある祓魔師が窮地に陥っていた。
 孤立した彼の周りを囲むのは数多の悪魔。どれもこれも凶悪に目を光らせて彼を嬲り殺すつもりでいる。手持ちの武器は聖水のボトルが一個と右手に握った両刃の剣だけ。
 死という言葉が彼の脳裏をよぎり、大地に立つ感覚すら危うくさせた。
 もう諦めるしかないのか。このまま悪魔達に無惨な殺され方をするしかないのか。
 絶望に打ちひしがれる彼だったが―――

「諦めんな!」

 突如、空から声が降ってきた。否、空から「人」が降ってきた。
「なっ!?」
 驚く彼の目の前にまだ年若い少年と言っても差し支えない人物が降り立つ。しかも窮地に現れたその人物は祓魔師の黒いコートではなく、正十字学園高等部男子の制服を纏っていた。
 こんな子供が一体何故ここに? ここで何ができるというのか。まさか自分を助けてくれるのがこの子供だというのか?
 様々な疑問が祓魔師の脳内で渦巻く中、少年は登場時から背中に差していた二本の刀のうち一方を慣れた様子で抜刀する。そして少年目掛けて飛びかかってきた悪魔に対して一閃。その鮮やかで無駄のない動きは悪魔の体を一刀両断し、濁った色の体液すら少年を汚すことができない。
 だが祓魔師は少年が刀を振るったという事実と共にその悪魔の断面を見て大きく目を見開いた。この動きは、切り口は、以前も窮地に陥った際に目にしたことがある。
 悪魔を狩る祓魔師を影から助けてくれていた、神の遣いの名前すら付けられたあの存在―――
「ミーシャ!?」
「悪いな。そいつはもういねえよ」
 少年が振り返り、澄んだ青い双眸が祓魔師を捉える。まだ幼さすら伺わせる顔に浮かぶのは少し大人びた苦笑だ。
 再び悪魔達を見据えた少年がもう一振りの刀を抜くと、今度は額をはじめとする体のいたるところに青い炎が灯った。祓魔師なら多くの者が恐れ、また憎む大敵の証。しかし目の前にある炎からはとても優しい気配を感じた。
「“姿無き臆病者の悪魔祓い(ミーシャ)”はもういない。だからこれがミーシャからの“最後の言葉(遺言)”だ」
 告げて、青い炎を纏った少年は笑う。
 まるで清涼な水のように、明るく照らす太陽のように。堂々と、胸を張って。

「俺は奥村燐! よろしくな!!」







2012.03.17 pixivにて初出