最後に弟の声で「兄さん」と聞いたのはいつだっただろう。彼が祓魔師になった年の、『奥村燐』の墓参りに来た時だろうか。
こうして燐が生まれ直す前は耳にタコができるくらい呼ばれていたように思う。良い時も悪い時も、慈しみながら、呆れながら、笑いながら、怒りながら、彼は燐を呼んでくれた。 ただし今度こそ雪男を悲しませないため、燐は兄と呼ばれる権利を捨てた。存在を知られないように、知られてしまってからは決して好かれないように振る舞い、身を切られるような思いをしながらここまでやって来たのだ。しかし様々な経験と助言により、燐は再び雪男の前に立つことを決めた。彼から奪った『兄』を返すと。 その方法についてはまだ良案を出せていなかったが、少なくとも嫌われようと振る舞うのはもうしていない。近付けば嫌がられてしまうため、現状では精神的だけでなく物理的にも距離を取ってしまっていたが。それでも燐は燐なりに、雪男に『兄』を返すつもりでいた。 けれど。 「にい、さん……?」 こんなにも絶望を込めた声で呼ばれるならば、やはり自分は『兄』に戻らなかった方が良かったのではないかと思ってしまう。 雪男の声が、瞳が、空気が、信じたくないと言っている。否定してくれと言っている。 生まれた時から悪魔が見えていたという境遇の所為でそれらを強く憎んでいるが、根は優しい雪男である。きっと自分が燐に対して取ってきた態度を思い出しているのだろう。燐にとってその態度はとても辛いものだったが、決して理不尽なものではなかったと言うのに。 敵の悪魔を祓い終えた燐は雪男を振り返ってくしゃりと顔を歪めた。 「やっぱ炎まで出しちまうとバレるか」 「青い炎、だから、ね。そんなものを扱える奴、なん、て……僕は、二人しか、知らない」 動揺のため所々途切れさせながら雪男は告げる。 「貴方は」 「奥村燐、だよ」 そう答えると、雪男は眼鏡の奥で大きく目を見開き、そして嗚呼と呟いた。 否定してやれば良かったのだろうか。否、たとえここで燐が言葉で否定しても、雪男はそれを信じてくれないだろう。悪魔を一掃するために咄嗟だったとは言え、青い炎という決定的証拠は既に彼の眼前に晒してしまっている。 だからこそ燐が取るべき行動は一つ。 「お前と血の繋がった双子の兄の、奥村燐だ」 息を呑む気配がした。 それは雪男ではなく、自分達の周囲―――逃げていなかった志摩達と、三階から降りてきた柔造率いる勝呂、子猫丸、しえみ。つまりこの任務に参加している残り全員だ。(ただし宝は相変わらず目を開けているのか閉じているのかすらも判らないのだが。) 二班のメンバーもあの茶色い悪魔が空けた大穴から青い炎を見たのか、事情を知っている柔造はともかく、勝呂などは驚愕と怒りが合わさった表情をしている。子猫丸は怯え、しえみは驚愕、だろうか。 そして彼らは青い炎を扱う悪魔の登場に加え、それが自分達の先生の肉親であると聞いた。全員、その顔を更なる驚愕に塗り変えられている。 燐はそんな彼らを見渡して、過去、己が青焔魔の落胤であるとバレた時のことを思い出した。何やかんやと色々あったが、最終的に彼らは燐を受け入れてくれた。宝はいつも通りで、出雲は誰よりも真っ直ぐで、志摩はお調子者かつ明るくて、しえみは優しくて、子猫丸は思いやりがあって、勝呂はとんでもなく格好良かった。 だから大丈夫、と燐は思う。 (雪男が青焔魔の落胤と兄弟だからって、こいつらが雪男を嫌うようなことなんか無い) だから今は自分と雪男のことだけを考える。雪男は何も悪くないんだと伝えてやらなければ。 「雪男、改めてはじめまして。それとも『久しぶり』の方がいいかな。お前の兄の奥村燐です」 雪男の前に跪き、視線を合わせて燐は微笑んだ。 「死んだフリしててごめん。サタンの力を継いでる兄貴なんかいない方がいいと思ってずっと隠れてた。でもさ、お前と一緒にいられないのがすっげぇ辛くて、我慢できなくなっちまったんだ」 「僕と一緒にいられないこと、が?」 「ああ。本当はもっとお前と話がしたかった。一緒に飯食って、一緒に笑って、一緒にジジィに怒られて、一緒に泣いて。それから悪魔に怯えてるお前の正面に立って守ってやりたかった。……結局は影からこそこそ手ぇ出してお前に鬱陶しがられちまったんだけどさ」 「ずっと……ずっと僕を守ってくれていたの?」 「そのための俺、そのためのミーシャだ。お前を守るために俺はこのコートを着ている」 そう言って燐は赤と青と銀で構成された階級証(バッチ)のついていない祓魔師の黒いコートを撫でた。雪男が再び息を詰める。泣きそうな顔は自身の行動を悔いているからに他ならない。兄でなおかつ自分を影から守ってくれていたのに、その人に暴言を吐いてしまったのだ、と。ゆえに燐は眉尻を下げて笑った。 「お前は何も悪くない。お前がやっていたのは当然のことだ。だから気にすんな」 「でも! でも僕は貴方に酷いことばかり言った!! 死ねとまで……ッ!」 「気にしてない。……っつたら嘘になるけど、それもあの時なら仕方のないことだろ」 そうまで雪男が悪魔を憎むようになったのは燐が一緒にいなかったからだ。だからあの言葉の責任も自分にあると燐は考える。死ねという一言は心が壊れそうなくらい痛かったが、仕方のないことなのだ。 しかし雪男は納得いかないようで、声を荒げて反論する。 「そんな! 仕方なくなんてない! 僕は……僕は、たった一人の兄に、貴方に、」 「だったら」 燐は顔を伏せた雪男の肩に手を置き、こちらを向かせる。緑がかった青い目からは透明な滴が零れ落ちていた。 (もう泣かさねえって決めてたのになぁ) しかも嬉し涙ならともかく、こんな意味合いでの涙なんて。 胸中で独りごち、燐は弟に向けて言葉を紡ぐ。 「だったらあの時の言葉がチャラになるくらい笑ってくんねーかな。ああ、もちろんお前が嫌じゃなかったら、だけど。もし嫌じゃなかったら、俺を見て笑ってくれよ」 「そんなのでいいの……?」 「欲張っていいならさっきみたいに『兄さん』って呼んでほしい。俺をお前の兄貴として認めてほしいんだ」 燐は肩から手を離し、雪男の手をそっと握った。 「ずっと辛い思いさせてごめんな。今更って感じかもしんねーけど、俺(あに)をお前に返すよ。こんな不肖の兄だけど、貰ってくれるかな?」 ぽろり、と雪男の目からまたもや透明な滴が零れ落ちた。 その滴の中に僅かでも負の感情を読みとることができれば、燐はもう何も言わずにここを立ち去るしかなかっただろう。そして二度と雪男に近付いたりはしない。―――けれど違った。涙を流しながらも雪男は微笑んで、ぎゅっと燐の手を掴み返す。 「ください。僕に兄をください。これからも僕を守って。そしてこれからは僕にも守らせて。僕の……僕のたった一人の家族、血の繋がった兄さん」 「サタンの炎なんて継いじまって厄介極まりない奴だけど」 「何とかしてみせるよ」 だって貴方はたった一人の僕の兄なんだから、と雪男は握る手の力を強くする。 「いざとなれば兄さんには神父さんもフェレス卿も、それにほら、志摩上二級祓魔師もいる。今までだって彼らに色々してもらってきたんだろう?」 「まあな。本当に色々助けてもらってる」 「じゃあ大丈夫だよ。だからねぇ、もう二度と離れないで」 「それでいいのか?」 「それがいいんだよ」 やっと解ったんだ、と雪男は言う。 「ずっと知らないフリをしてた。でも解ったんだ。僕は貴方が欲しかった。ずっとずっと、貴方という存在の隣にいたかった」 「おれの、となり」 「そう。僕はね、寂しかったんだ。貴方がいなくてずっと寂しかった。だから僕から兄を奪った青焔魔が、悪魔が大嫌いだった。つまりさ、悪魔を憎いって思うのと同じ強さで僕は貴方の傍にいたいと思ってたんだ。……憎しみばかりでそれに気付くのが大分遅くなってしまったけれど」 雪男は苦笑して、瞬きを一つ。目尻に溜まっていた涙が頬を伝って新しい軌跡を描く。 「酷いことばかり言って自分の気持ちにも気付けないとんでもなく鈍い僕だけど、こんな不肖の弟の隣にこれからもいてくれますか」 問われ、燐は握り返された手の温もりを感じながら大きく目を見開いた。そしてくしゃりと顔を歪めると、耐えられなくなった青い双眸から弟と同じ無色の滴を溢れさせる。 嬉し涙を流しながらこくこくと何度も頷いて、燐は泣き顔に満面の笑みを浮かべた。 「雪男、ずっと一緒にいよう」 「うん。ずっと一緒だよ、兄さん」 2012.03.12 pixivにて初出 |