「もしかしてこの距離でもバレてんのかなー。まさかなー」
 ぶつぶつと独り言を呟きながら燐が身を潜めているのは打ち捨てられた工場が建ち並ぶ地区の一角。どうやら過去にここで殺人事件が起き、その時に死亡した人間が元になって霊(ゴースト)が発生し、今も彷徨っているらしい。しかも大きな無念は大きな力となり、別の霊や『氣の王』の眷属達が集まって近付く人間に害を及ぼしている。
 今回、正十字騎士團日本支部の祓魔師達に下された任務は多くの悪魔を引きつける要因となっている霊を狩ること。核となる一匹がいてそれを祓えば完了するという任務はかつて燐がとある中学校で請け負ったものと似ているが、今回は悪魔の凶悪さが桁違いだった。
 そしてそんな場所に燐がいるということは、ニアリーイコールで雪男が任務に参加しているということである。雪男がいない場合でも手助けが必要ならば燐が紛れ込むこともあるのだが、今回はそのパターンではない。
 燐は自分が雪男の姿を確認でき、なおかつ人間には察知できないだろう距離を取って弟を見守る。以前はもっと近くで、雪男に危険が迫れば素早く飛び出して行ける位置にいたのだが、面と向かって近付くなと言われた今はそうもいかない。
 本当ならばこうして同じ任務に紛れ込むことすら知られれば不快感を煽ってしまうだろう。しかし燐の中には完全に雪男の傍から離れるという考えは浮かばなかった。柔造達の言葉を聞いて燐は知り、決めたのだから。喪失すら味わえない“知らない”という痛みの存在を。だからこそ“関わる”ことを。
(その関わり方が分かんねーから、こんな中途半端なことになってんだけどな)
 離れる気はない。けれど近付けば嫌悪される。
 どうするのが最良か分からず、燐はぐるぐると悩みながらひとまず雪男とこの距離を保つことにした。ここならば雪男に何かあった時もギリギリで間に合うはずだ、と。
 そんな距離を取っているのだが、視界の中央では雪男が不機嫌そうに眉間の皺を深めている。任務に対する集中や緊張でそうなっているのなら仕方がないが、万が一燐の存在に気付いてのことだったなら笑えない。まさかな、と思いつつ、燐は息すら潜めるようにして離れた位置から弟の周囲に注意を向け続けた。



□■□



(やっぱりいる)
 確かにこれまでよりも距離を取っており詳しい位置を察知することはできないが、存在していることは何となく判ってしまう。廃工場が建ち並ぶ地区で任務に当たっていた雪男は不快感に眉をひそめた。
 先日言葉を交わした人型の悪魔がここに来ている。雪男の言葉を受けてなるべく同行していることを知られないようにしているらしいのだが。
 ただし『ミーシャ』の存在に気付いているのはこの任務に当たるメンバーの中で雪男一人だけだった。班の中には雪男より気配に敏感な者もいる。しかしそちらはミーシャの存在に全く気付いた様子が無いのである。
 これは何か理由があってのことなのだろうか、それともただの偶然か。己に流れる血にある“ミーシャと自分の関係”を知らない雪男は内心で首を傾げた。
(まぁいい。近付かれないだけマシだ)
 そう区切りをつけ、意識を任務に集中させた。
 雪男の内心の変化を知らない年上の祓魔師は同じ任務に参加している別動隊と連絡を取り、状況を確認している。彼が今回の班のリーダーであり、雪男はその補佐。副班長は別の組にいるのだが、それでもこのポジションは十五歳という年齢で軽視されずに雪男の実力が正しく認められている証拠だった。
(僕の仕事は悪魔を狩ること)
 心の中でそう再確認する。
 共にいるチームリーダーは騎士で近距離戦を得意としているため、遠・中距離の敵は雪男の担当である。雪男は油断なく周囲に視線をやりながら一丁だけホルスターから抜き出している銃のグリップを握り直した。聖銀を使った弾丸は霊にも問題なく作用するだろう。
 身じろぎすれば、首からかけたロザリオがコートの金具に当たって小さな音を立てた。あの悪魔と揃いの物を身につけているという事実に眉は寄ったが、それでも外そうとまでは思えなかった物だ。それはこのロザリオが偉大なる養父から与えられた物だからか、それとも雪男自身ですら気付かない何かがあるからなのか……。
 今はそれを考える時ではないと雪男はロザリオに向きかけた意識を再び外界に戻す。じりじりと工場区画の奥へと進み、目標とする霊を探った。


 必要最低限の言葉だけを交わしながらしばらく奥に進んだが、こちらも他の組もまだ件の霊やそれに引き寄せられて集まってきた悪魔と交戦していない。それがまるで嵐の前の静けさのようで、ごくりと飲み込んだ唾の音が異様に大きく聞こえた。
「……祓魔師の存在に気付いて逃げたってことは無いですよね」
「ああ。報告を受けた霊の特徴から考えるに、それならむしろ祓魔師を迎撃しようとするだろう。嫌な予感がする」
 長年の経験から先輩祓魔師はぽつりと返す。
 と、その直後。
『あああ、うわぁぁぁあああああ!!!』
 連絡を取り合っていた別動隊の一つから悲鳴が聞こえた。
「こちらA組(アルファ)! B組(ブラボー)どうした! 応答しろっ!」
 慌ててリーダーがインカムを押さえて叫ぶ。しかし一度だけ悲鳴が聞こえた後はぷつりと音が切れて何も反応がない。雪男はリーダーと顔を見合わせ、眼鏡の奥で双眸を細めた。
「予感は当たってしまったようですね。B組がいた場所に回り込みますか?」
「そうだな。……おい、C組(チャーリー)とD組(デルタ)、聞こえているか?」
 雪男の案に頷いてリーダーはインカムの向こう側にいる別の二つの組に語りかける。こちらはまだ無事らしく、緊張した声で返答があった。
「俺と奥村はこれからB組がいた場所に北側から回り込む。C組は東から、D組は西から回り込め」
『C組、了解しました』
『D組、了解しました』
「十分注意しろよ」
 通信を終えたリーダーが雪男を振り返り、自分達も行くぞと告げる。リーダーの祓魔師は両刃の剣を鞘から抜き、雪男はもう一つの銃もホルスターから抜いて撃鉄を起こした。



□■□



「……くそっ、逃げられた」
 倶利伽羅ではない方の刀を鞘に収めて燐は毒づく。B組の祓魔師を襲った悪魔を追いかけることも可能だったが、それでは負傷した者達を置き去りにすることになる。燐は追撃を諦めて負傷者達の手当を開始した。
 記憶にある弟ほど上手くはできないが、それでもこの世界に長くいるためそれなりの応急処置ぐらいなら可能である。意識を失った二人組に手早く止血を施し、特殊な魔障――たとえば毒を盛られた時のように体調を崩すなど――が無いことを確認してからほっと息をついた。意識は失っているようだが、急を要するものはないようだ。
 しかし、と燐は唇を噛む。
 雪男に気付かれないよう現場から距離を取っていた所為でこちら側へのフォローが遅れてしまった。本来なら彼らが襲われる前に霊を斬ることができれば良かったのだが、とどめを刺される前に辿り着いて追い払うのが精一杯。このB組のメンバーが燐のいた場所から見て雪男達よりも更に遠くだったことも災いした。
 ふと視線を横にやれば、悪魔に襲われた際に壊れたインカムの破片が散らばっている。タイミング的にB組が襲われたことはこれを通じて他のメンバーにも伝わったはずなので、そろそろ彼らが集まってくるかもしれない。
「放置ってのもあんまり気が進まねえんだけど……雪男が来れば何とかしてくれるか」
 気絶した二人を一瞥し、燐はその場から姿を消した。



□■□



 燐がB組のいる場所から離れてややもしないうちにA組である雪男と今回の任務のリーダーが目的地に辿り着いた。物陰から様子を窺えば、その場所はシンと静まり返っている。
 物音がしないという現状に最悪の考えがよぎったが、雪男は離れたところに“ミーシャ”ことアオの気配を感じて落ち着きを取り戻した。アレがいたなら想像し得る最悪の事態だけにはならないだろうと。
 好意は欠片も無いが、その腕に対する信用くらいなら無くはない。
「僕が様子を見てきます」
 進言するとリーダーから一瞬だけ訝るような顔をされたが、真っ直ぐに見返せば信用してもらえたらしい。小さく頷きが返って来たのを確認し、雪男は物陰から音もなく飛び出す。
 果たして、目にした光景は半ば予想通りのものだった。
 やはり悪魔に襲われたらしい二人は気を失っているが、応急処置は施されている。周囲に悪魔の気配は無く(ただしアオを除く)、臨戦態勢を取る必要は無さそうだ。
 雪男は銃をホルスターに仕舞って医工騎士としての手腕を見せる。手早く処置を追加しながらインカムで少し離れた所にいるリーダーと東西から回り込んでいるはずの二つの組へ現状を報告した。


 この時、雪男は愚かにも気を抜いてしまっていた。近くに祓魔対象の悪魔の気配が感じられないこと、負傷したメンバーが手当されていたこと、他のメンバーが続々と集まって来ていたこと、そして非常に気に喰わないが実力者たるアオがこの現場にいることがその理由となっていたのだろう。
 しかし二丁の銃をホルスターに納めてしまったのは致命的だった。
 治療を施す雪男の視界の外から忍び寄る影。運悪く存在していた遮蔽物によってリーダーや他の仲間達からもその影は確認されていない。
 この場にさっきまでいたはずのアオは雪男の接近によりまた少し距離を取っていた。
 そして影がひと一人飲み込むくらい容易そうな巨大なあぎとを開き、凶悪なまでの牙を外気に晒して―――


 ふっと己に覆い被さる影。それが人間のものではないと気付いた時には雪男の両腕がホルスターに届いていた。しかし僅かに遅い。撃鉄を起こして弾丸を放つだけの猶予は無く、悪魔の牙が左腕を掠めた。
「……ッ!」
 身を捩ったおかげで直撃は免れたものの、黒いコートとその下の白いシャツが早くも赤く染まっている。すぐに止血した方が良いだろう。しかし片腕での処置は容易でなく、そもそも正面に敵、背後に負傷した仲間を庇う状況ではその余裕も無い。
 雪男を襲った悪魔は巨大な蛇のような形をしていた。ただし本物の蛇が頭と胴体の大きさにほぼ差がないのに対し、牙に黒いコートの布地を引っかけたそいつは胴の大きさの二倍くらいの頭を持っている。加えて地面を這う長いはずの体は途中から半透明になり、尻尾があるであろう部分は最早見えない。ひょっとしたら本当に胴の途中までしかないのかもしれないが。
(『氣の王』の眷属か。蛇を元にした霊の類だろうけど、ここまで変形しているのは珍しい)
 この場の核となっている霊に引きずられての変化だろうか。見た目的にも弱体化しているとは到底思えない。きっと姿そのままに凶悪化しているのだろう。
 蛇独特の茫洋とした丸い目が雪男を捉える。仕留め損ねた相手に蛇が再び大口を開けるよりも早く雪男は右腕だけで銃を掲げ、弾丸を放った。
 聖銀でコーティングされた弾丸は蛇型の霊の胴体部分に着弾し、
「なっ!?」
 しかし厚い鱗に阻まれる。
 雪男は眼鏡の奥で驚愕に目を見開くものの、すぐさま同じ場所に向かって立て続けに引き金を引く。着弾の衝撃で悪魔は僅かに後退したが、傷は全くと言っていいほど付いていなかった。
 ここは一度退くしかない。しかし敵を目の前にして負傷者を連れたまま一人で後退できるはずもなく。
 応援を要請するためインカムに語りかければ、まるで狙ったかのように――実際、狙っていたのかもしれない――仲間達が他の悪魔に襲われていることを伝えてきた。これでは応援も期待できない。
 万事休す。絶体絶命。
 嫌な汗が背中を流れ落ちる。正面では蛇に似た霊が再び大口を開け、とどめとばかりに飛びかかってきた。
「―――ッ!」
 喰われる。雪男はぎゅっと両目を瞑り―――

 どん、という鈍い衝撃音。

 しかし雪男には痛みも何もやってこない。音の発生源も自身とは重ならず、僅かに前方である。
「……?」
 そろりと目を開けば、視界の大部分は蛇ではなく黒い布が覆っていた。雪男も見慣れた祓魔師のコート。視線を上に移せば、見えてきたのはコートを纏った黒髪の人物の左肩が巨大な蛇に噛みつかれているシーンだった。
 共に任務を任された祓魔師ではない。一体誰だと誰何しようとして、しかし雪男はすぐに気付いた。この気配は任務に参加してからずっと感じていたものだ。
「くそっ。やっぱ物理的に離れてっと、いざって言う時に間に合わねえのかよ」
 衝撃でフードが脱げたまま黒髪黒コートの少年が毒づく。その声もまた雪男の知っているものだった。
「ア、オ?」
「……よぉ、遅くなって悪かったな」
 振り返らずに少年―――否、聖騎士の使い魔は告げる。そして右腕一本で抜刀すると、同じ体格の人間には決して出せないであろう怪力と絶妙の角度で蛇の首を断ち切った。
 ごとん、と胴体が地面に倒れ、遅れてアオの肩に噛みついていた頭部も落ちる。
 雪男が受けたのとは比較にならない深い傷からはどくどくと血が溢れ出し、アオの腕を伝い、地面に赤い水溜りを作ってゆく。それは本来ならば受けなくても良かった傷だった。アオの実力ならば、この人型の悪魔は傷一つ負わずに敵を祓っていただろう。雪男がいたから、そして雪男が近寄るなと言っていたから、アオは雪男を庇うため無理をしたのだ。
 そう。雪男はこの悪魔に身を挺して守られてしまった。
(“今更”守られたって……しかも悪魔なんかに)
 ギリ、と奥歯を噛みしめる。
 するとまるで歯を食い縛る音が聞こえたかのようなタイミングでアオが苦く笑った。
「俺が近付くのはそんなに嫌か?」
 そう言いながら振り返って向けられた双眸は純粋なまでの青。
 瞬間、雪男は初めて見るはずのそれに己の中の時間が止まったような気がした。

 自分はこの青を知っている?
 物心つく前の、母の胎から生まれ落ちた後。一番最初に見た色は何だった?

 雪男と良く似た黒髪。緑が混じった雪男の瞳よりもっと純度の高い青。
 それを知っているような、けれど全く知らないような。もやもやとした戸惑いと原因不明の焦燥感が雪男の思考を埋め尽くす。
「核になってる奴は俺が斬ってくる。お前は可能なら仲間の応援、それが無理でも自分の怪我の治療くらいはしとけよ」
 雪男が言葉を失っているうちにアオはさっさとそう告げて姿を消した。台詞の通り、核となっている霊を斬りに行ったのだろう。
 彼が立っていた場所を見つめたまま、雪男はインカムから零れてくる音で仲間達も無事であることを知る。しかしそれに対する安堵よりも困惑と焦燥だけが雪男の中に強く残っていた。







2012.02.12 pixivにて初出