「なんで、こんなにも心臓が痛いんだろう?」
その言葉を耳にした瞬間、藤本獅郎は血の繋がらない我が子を力一杯抱きしめていた。 こんなつもりじゃなかった。こんな風に燐を泣かせるために『ミーシャ』という形を与えたわけではなかったのに。 「燐……」 「と、さん……雪男が、おれのこと嫌いなんだって。死んで欲しいんだって」 「ありゃ悪魔に対して言ったんだ。燐に言ったわけじゃない」 「おれだって、悪魔、だ。俺はもう、雪男の傍にいちゃいけないのかな。死ねって……あれは“あの時”の死ねとは違うんだ。本当に死んで欲しいって思ってた」 「りん」 燐の語る“あの時”がいつを指すのか、獅郎はそれを推測するしかできない。だがおそらくそれはこの時間の流れに属するものではないのだろう。雪男が燐の「死」を望まず「死ね」と言うならば、雪男が燐を大切に思っていなければならない。そしてそれは獅郎が知る中で今も昔も存在しない。 (ああ……燐は愛されてたんだ) そして燐はそれをよく知っていた。自分が弟に愛されていることを。 だが己を愛してくれる愛しい人間を悲しませる未来があるならば、最初からそれを無かったことにしようと思った。 覚悟は十分していただろう。一時は壊れそうになり、獅郎がそれを支えたけれども、それを差し引いても燐は十分に覚悟を決めて強くあろうとした。しかし今、真の意味で死を望む言葉を最愛の人間から与えられてしまった燐は堪えきれない痛みにぽろぽろと涙を流す。 痛々しいまでに美しいそれを眺めながら獅郎は焦った。 このままでは燐が壊れる。 「り、―――」 「なあ、燐くん。燐くんのここ、ホンマに痛いんやな」 ぽつりと声を落としたのは獅郎ではなく、その傍らで燐を見守っていた柔造だった。 柔造は膝をつき、己の胸を片手でそっと押さえている。燐の青い双眸がそちらを向くと、彼はゆるやかに笑って優しく宥めるように、けれども確固たる意志を持って続けた。 「せやけど燐くんが弟くんに与えたモンの方がたぶんもっと痛いんやで」 「……え?」 俺が雪男に痛みを与えた? しかも今以上のものを? そう言わんばかりの驚きの表情で燐は息を呑む。 燐を抱きしめたままの獅郎は何も言わない。柔造が言わんとしていることは何となく悟ったが、その言葉は“燐の死を悲しまない”と認識されているメフィストや“燐を愛して最期をもらう”と約束している己が告げるよりも柔造に委ねた方がずっと強く燐に届くだろうと思ったのだ。 獅郎の腕の中で燐が柔造に向き直る。青い目は戸惑いに揺れながら、それでも最愛の弟のことならばとしっかりと相手を見つめた。 「どういう、ことだよ。柔造さん」 「燐くんの痛みは喪失を知っとる痛みやろ? 君は弟くんに愛されたっちゅう記憶があるから今が辛ぁてしゃあない」 「うん」 「ほんで弟くんの方やけど、あっちの痛みは愛することを知らん痛み。燐くんっちゅう一番に愛してくれる存在を燐くんは自分で弟くんから奪ったんやで。燐くんが知っとる弟くんと、今の弟くん。その違いは何か解らへん? 前の弟くんはあそこまで悪魔嫌いやった? あの弟くんに足りひんものは何や? 前は弟くんのすぐ近くにおって、今はおらんのは?」 その言葉に燐が目を見開く。 「……お、れ?」 燐が呟くと、柔造は頭を縦に揺らした。 「なあ、燐くん。こんな言葉知っとるか」 喪失を知らずに生きていくより、愛して失った方がずっと幸せだ 「俺もあんま気にしたことなかったんやけど……今はほんまその通りやと思う。燐くんに出逢えて良かった。君のこと知って、大切やて思えるようになって、ここが」 言いながら柔造が己の胸をコンと拳で押さえる。 「ここが、ほんまあったかいんや」 「じゅ、ぞう……さん」 「いつか来てほしゅうない未来が来るかもしれへん。せやけど俺は君と出逢えて良かった。君を愛せて良かったて胸張って言えるわ」 「本当に?」 「おん」 「本当に、柔造さんは俺と出逢えて良かったって思ってんのか?」 「思うとるよ。俺は君に出逢えて良かった。君んこと知って、愛せて、ほんま幸せや。もし君と出逢えんかったて思たらぞっとするわ」 手を伸ばし、燐の目尻を優しく拭いながら柔造は言葉通り幸せそうに微笑んだ。 「君と知り合ぉた人はみんなそう思うとるよ。……そうですやろ藤本先生、理事長先生」 「当たり前だ。燐のいねえ世界なんか考えられるか。……なあ、燐。お前を殺す時、俺はきっとこれ以上無いってくらいに悲しむ。でもな、それでも俺はお前と出逢えたことを後悔しない」 「私も君と出逢えて良かったと思っていますよ。君のような風変わりで楽しい存在を私はついぞ見たことがない」 「ジジィ……メフィスト……」 青い双眸が獅郎を見上げ、メフィストを見上げ、またじわりと温かな水を目尻に溜める。 それを笑って眺めて柔造は最後の一押しを告げた。 「燐くんがこの十六年、弟くんのためを思て頑張ってきたんは知っとる。でもそない痛いんやったら、もっと痛い思いしとる弟くんにそろそろ燐くんを“返して”あげてもエエんとちゃう?」 * * * 一旦燐を部屋に帰し、部屋に残ったのは獅郎、メフィスト、柔造の三人。メフィストが「ご苦労様でした」と喋り続けた柔造の労をねぎらうと、一番若手の男は首を横に振ってから床を見つめた。 「理事長先生や父親でもある藤本聖騎士の前で言うんもあれですけど、正直なところ、俺は奥村雪男があんま好きやありません。むしろ燐くんを泣かした奴やから一発ぐらい殴ったらなアカン思てます。でも」 過激な本心をぽろりと零し、柔造は逆接の後にふっと表情を緩めながら続けた。 「俺がああ言うことで燐くんがちゃんと笑えるんやったら、俺は何度でも言いますよ。奥村雪男を殴ってやりたいて思う握り拳は開いて燐くんの背中を押すために使わせてもらいます」 「……そっか。ありがとな」 柔造の正直な言葉に獅郎はそっと双眸を細める。 「俺の息子“達”を大事に思ってくれていて」 「“達”て……俺が好いとんのは燐くんだけですよ?」 「でも本気で雪男が嫌いならもうちょっと違う方法もあったんじゃないか?」 苦笑を浮かべて返した柔造に獅郎もまた苦笑を浮かべて問い返した。 柔造は肩を竦め、 「ま、同僚としては別に嫌い言うわけでもありませんし。その辺は藤本先生のご想像にお任せしますわ」 言って、「用も終わりましたし、それじゃあ俺はこの辺で失礼します」と獅郎達に背を向ける。 その背が扉の向こう側へと消える前に獅郎は口を開いた。 「これからも燐のことを頼む」 「つまり藤本先生のことを“お義父さん”て呼ばせてもろてエエっちゅうことですか?」 冗談半分――もう半分は本気――で柔造が振り返り、口元に弧を描いた。 「調子に乗んな。友人としてに決まってるだろ」 獅郎はニヤリと笑う。 「あれは俺のだ。そう簡単には渡さねえよ?」 「ははっ。奪い甲斐ありますやん……お義父さん」 互いに本気かどうか悟らせない曖昧な態度で告げてから、柔造は今度こそ部屋を出ていった。背後でメフィストが「おやおや。大変な対戦相手ができてしまいましたねぇ」と笑っているのを聞きながら、獅郎もまたうっすらと微笑んだ。 2012.02.09 pixivにて初出 大人組のターン! ここからハッピーエンドに向けて昇っていきます! セコム三人衆の活躍でまずは第一歩!(笑) |