候補生達を引率しての森での任務の翌日。雪男は不機嫌さを隠しきれず、ピリピリした空気を纏いながら塾の教壇に立った。
 “あの”奥村雪男が非常に不機嫌であるという噂は既に正十字学園高等部全体に広がっており、同じく高校に通う出雲と京都の三人組は心配そうに一瞥するものの何も言わない。宝は無表情で何を考えているのか相変わらず不明である。そして残りの一人、高校に通っておらず噂を知らないしえみは教卓の正面の席で深緑の瞳を真ん丸に見開いていた。
 だが反応に差はあれども、その原因は皆一様に想像できる。
(昨日の『ミーシャ』って人に関係があるんだよね)
 胸中で確かめるように呟くしえみ。
 あの場では無関係の第三者としてことの成り行きを見守っていた彼女だが、実は気になる点があって帰宅後祖母にこう尋ねていた。

 祖母が以前出会った聖騎士の使い魔『アオ』の特徴は何か、と。

 孫の突然の問いかけに祖母はいささか驚いたようだが、隠すことでもないと素直に教えてくれた。アオという使い魔が祓魔師のコートを羽織り、フードを目深に被っていること。背丈は170程度で細身。声は少年のものだが、右腕に大人びた時計をしている。それを見た祖母は土いじりで腕時計が汚れないか少々心配してしまったため、よく覚えていたらしい。
 昨日の一件で時計に関してまでは覚えていなかったのだが、しえみの記憶と祖母が語った特徴は一致している。と言うことは、ミーシャ=アオとなるのではないだろうか。――― それが昨夜、しえみが出した答えだ。祓魔師のコートを着てフードを目深に被って誰かの使い魔をしている人型の悪魔がそう易々といるとは思えない。
(雪ちゃんはミーシャのことを気にしてる)
 ならばしえみが導き出した予想を雪男に告げてみるのも一つの手だろう。だが問題は雪男がミーシャに対して抱いている感情の種類と、そのミーシャが“誰の”使い魔であるか、ということだ。
 祖母の話を信じるならば、ミーシャことアオの主人は聖騎士、つまり雪男の養父・藤本獅郎である。しえみがミーシャの正体を雪男に教えたとして、彼ら親子の仲に亀裂を入れてしまったりはしないだろうか。
(どうしよう。言った方がいいのかな)
 いつもの穏やかな彼らしくない雪男の姿を見つめながらしえみは思案する。
 彼女が何も言わなければ、雪男は正体不明のミーシャという存在に悩まされ続けることになるだろう。ならばいっそ、荒療治的な意味合いを込めて告げてしまった方がいいのかもしれない。
(……よし。雪ちゃんと藤本先生ならきっと大丈夫!)
 血は繋がらなくとも仲の良い親子の姿を思い出し、しえみはついに決心した。
 そしておもむろに席を立ち、授業を始めようとしていた雪男に向かって口を開く。
「あのね、雪ちゃん―――」



□■□



『あのね雪ちゃん。昨日出会ったミーシャって、藤本先生の使い魔の“アオ”と同一人物だと思うの』
 授業を始めようとしたところでしえみにいきなりそう告げられ、雪男は一瞬だけ頭が真っ白になった。
 養父の元に人型の「アオ」という使い魔がいたことすら知らない。雪男が知っている養父の使い魔は猫又のクロだけだ。クロは元々が神であり愛らしい猫の姿をしているからこそ雪男もまだ普通に接することができる数少ない悪魔だった。……だから、だろうか。養父が雪男に対して人型の使い魔の存在を隠していたのは。
 と冷静な部分は養父の気遣いを推測するものの、幼い頃に形成され固まった悪魔への嫌悪感はその時の授業を終わらせるだけで精一杯のものだった。
 授業終了後、雪男は平静を装って教室を出た。しかし生徒達の目が無くなった途端に廊下を歩む速度は上がり、足音は大きくなる。
 養父がいそうな場所には何カ所か心当たりがあり、そうして順に巡ったのち最終的に辿り着いたのは正十字学園の最上部―――ファウスト邸。
 玄関にはまるで雪男が来ることを心得ていたかのように女性の使用人が立っており、彼女に案内された客間には既に三人の見知った人影があった。
 一人はこの屋敷の主人であるヨハン・ファウスト五世もといメフィスト・フェレス。もう一人は雪男が探し回った藤本獅郎。そして最後の一人は予想外の志摩柔造である。柔造に関しては同じ講師であるにも拘わらず今日は職員室で姿を見ないと思っていたのだが……まさかここにいたとは、と雪男は少しばかり驚いた。
 だが年の離れた今年の新任仲間と顔を合わせても雪男のピリピリとした空気が和らぐことはない。むしろ僅かな驚きの後に訪れたのは明確な苛立ちだった。全てを承知しているかのような喰えない笑みを浮かべたメフィストと、眉間に皺を寄せて難しい顔で雪男を見つめる獅郎。そんな二人と共にしかめ面でこの場にいるということは、つまり彼も“あちら側”という証明に他ならない。
「ようこそいらっしゃいました、奥村先生。今宵はどのようなご用件で?」
 窓を背にしてメフィストはわざとらしく両手を広げる。オーバーな動作は奇抜な格好と相まってまさしく道化のよう。しかし相手が“道化”ではなく“道化を演じる男”であると十分承知している雪男にとって、それは真面目な声で言葉を交わすよりも警戒すべき事象であった。
 雪男は努めて冷静に返答する。
「神父(ちち)に用があって探しておりました」
「ほう。藤本に。それは急ぎの用ですかな? 実はこちらとしても少々藤本達と話し合っておきたいことがあるのですが……」
「いえ、お時間は取らせません。一つだけ神父に訊きたいことがあるんです」
 答えて、更に雪男は付け加えた。
「この場で問うても構いませんが、いかがでしょう?」
 それは言外に獅郎だけでなく他の二人に対しても同じ問いを発するぞという雪男の意思表示だった。メフィストも、そして沈黙を保っている柔造もそれには気付いているだろう。
 メフィストが頭を縦に動かしたのを見て雪男は口を開いた。
「祓魔師達の間で噂される『ミーシャ』とは神父さんの使い魔で間違いありませんか」
「……ミーシャ、は「相違ございませんとも! まさしくミーシャとは藤本の使い魔『アオ』ですよ! 流石天才祓魔師。真実に辿り着くのもお早いですね☆」
 獅郎の言葉を遮ってメフィストがそう返答した。おかげで口を噤んだ養父が本当は何と答えようとしたのか雪男には判らなくなる。肯定だったのか、否定だったのか、それすらも。
「僕がここまで辿り着けたのは偶然ですよ」
「ああ、そう言えば祓魔屋のお嬢さんからお話を窺ったようで? まっ、その人脈や偶然も才能の一つですよ。奥村先生、貴方はどの祓魔師達よりも早くこれに気付いた。素晴らしい。アレは特別中の特別ですから」
「特別中の特別? 人型の……つまり“強力な悪魔”だからですか?」
 そう言いながら雪男は嫌悪感も露わに鼻で笑う。
「雪男……?」
 戸惑うように養父は雪男の名を呼んだ。
 獅郎も養い子が悪魔を嫌っていることは知っていた。ゆえにおそらくミーシャことアオの存在を雪男に隠していた。しかし幼少期の経験により雪男が悪魔をただ嫌っているのではなく、憎み、酷く嫌悪していることまでは理解していなかったのだろう。
 養父は確かに雪男の身体を守っていたが、心までは完璧に守り切れていなかった。聖騎士であった彼には心まで守れるよう雪男にかかりきりになれるだけの自由など無かったのである。
 雪男自身、養父が聖騎士として非常に多忙な身であることは理解している。ゆえに“足らなかった”分を嘆いて彼を恨むつもりはない。むしろ彼が多忙にならざるを得ない程の実力者であったからこそ、雪男もまた今現在悪魔に対抗するだけの力を十分に得ることができたのだから。
 己の悪魔嫌いはそうなるべくしてなったもの。雪男はそれを理解し、納得している。ゆえに誰も恨まないが、悪魔は嫌悪した。躊躇いも憂いも無く。それが当然の理として。
(人型の悪魔なんて特にごめんだよ)
 その一例である正十字騎士團に二百年も与し続けている腹の読めない悪魔を見据えながら雪男は胸中で呟いた。
 悪魔に、そして悪魔に対する恐怖に屈するわけにはいかないと祓魔師になった雪男だからこそ、おそらく人の力では容易に太刀打ちできない“強い悪魔”というのは下級のそれよりも遙かに厭うべき対象である。
「神父さん、お願いがあるんだけど」
 雪男はそれまでの殺気立った気配を収めてにこりと微笑んだ。
 急変した息子に獅郎は目を瞠り、しかしながらさすが親と言うべきか聖騎士と言うべきか、すぐに平静を取り繕って「なんだ?」と先を促す。
「アオって悪魔は神父さんの使い魔なんだよね。じゃあ言うこともきちんと聞かせられると思う」
「あ? ああ、まぁそうだが……」
「だったらアオに命令してくれないかな」

「もう二度と僕に近付くなって」

「ゆ、きお?」
「勿論これまで通り他の祓魔師を守るため任務に紛れ込むのは仕方がないよ。それは僕も解ってる。だけど僕の周りには二度と近付かせないで。……僕は、悪魔が、大嫌いなんだから」
 口は笑っているのに目は冷ややかなまま雪男は養父に微笑みかける。
 アオの主たる獅郎は息子の激しい拒絶に眉間の皺を深め、苦悩しているのがありありと見て取れた。彼は雪男と違って悪魔を憎んでいるわけではない。人に害をなす存在として祓い、そして友として傍にいる。そんな人物だ。
「神父さん、僕は貴方とは違う。僕は悪魔が嫌いだ。憎い。僕にとってあれは祓うべき対象であり、決して隣にいるような存在じゃない」
(悪魔は僕から平穏を奪った。普通を奪った。本来いるべき人を奪ったんだよ)
 雪男がそう言い切った直後―――

「ひっでぇ言いぐさだな」

 カラリと乾いた声が新たに落ちた。
 獅郎がはっと息を呑み、メフィストが「おや?」と片眉を上げ、柔造が戸惑うように視線を走らせる。そして雪男もまた言葉を失った。
 この声には覚えがある。恐る恐る振り返ると、ちょうど雪男の背後―――扉に背を預ける格好でこちらを眺めているらしき人物が一人。はっきりと「こちらを眺めている」と断言できないのは視線がフードで遮られているためだ。
 祓魔師のコート、目深に被ったフード、そしてこの声。
「あくま」
「アオって呼んでくれよ、俺のご主人様の息子くん。『悪魔』じゃ区別が付きにくい」
 フードの悪魔は扉から背を離して歩き出す。一歩踏み出すたびに首から下げたロザリオがコートの金具とぶつかって涼やかな音を奏でる。
「改めまして。昨日ぶりだな、奥村雪男」
 そう言ってアオは獅郎の手前辺りでくるりと雪男を振り返った。
 雪男の発言を聞いていたにも拘わらず、それによってダメージを受けた気配は微塵もない。たかが人間の子供の戯れ言など気にする程でもないと、そういうことなのだろうか。
「お前、俺が嫌いなんだって?」
「……ああ、そうだよ。僕は悪魔が嫌いだ。悪魔なんてどいつもこいつも死んでしまえばいい」
「おお怖い。過激だなぁ」
 くすくすと悪魔は笑う。まるで「暖簾に腕押し」「糠に釘」状態だ。
 雪男は己の言葉が全くダメージを与えられないことに舌打ちし、視線を悪魔から養父へと移した。
「とにかく、もう二度と“それ”を近付かせないで。人間を守りたいなら僕から離れた所で勝手にやらせといてよ」
 言いたいことは言い切ったとばかりに雪男は世人に背を向ける。そしてバタンと大きな音を立てて閉じられる扉。
 ―――ゆえに、雪男は気付かなかった。
 閉じた扉の奥でフードを取り払った悪魔がそれはもう穏やかで嬉しそうな笑みを浮かべたことに。その笑みのまま青い双眸から止めどなく透明な液体を零し続けたことに。幸せな笑みを浮かべ、これまで流さなかった悲痛な涙をついに流し、そして残りの三人にこう語ったことを。
「雪男が俺のこと嫌いなんだって。憎んでるんだって。死んで欲しいって思うくらいに。よかったなぁ。ホント、よかった。……でもさ、なんで」


「なんで、こんなにも心臓が痛いんだろう?」







2012.02.02 pixivにて初出