銃のグリップを握りながら雪男は小さく舌打ちをした。幸いにも同じ任務に就いている祓魔師は近くにおらず、穏健な奥村雪男らしからぬ様子に驚かれることもない。
(まただ)
 こう思うのも何度目になることか。回数を数えることが無理だと気付けば更に苛立ちは増し、それをぶつけるかのごとく引き金を引く指に力が籠もる。
 パン、と乾いた銃声が狭い通路に響いた。
 場所は人がいなくなって久しい廃ビルの内部。雪男が放つ弾丸は壁に当たって跳弾することもなく、正確に小鬼(ホブゴブリン)達を祓ってゆく。混戦状態ではなく、また雪男がピンチに陥っているわけでもないため“あれ”が直接手を出す様子はまだないが、それでも雪男は最早慣れてしまった気配を近くに感じていた。
 こちらを守っていようと何であろうと、所詮“あれ”も悪魔だ。幼い頃から悪魔の存在に脅かされてきた少年にとって正体不明の強い悪魔は近くにいるというだけで己の中にある恐怖心を増加させ、嫌悪感として発露させる。幼少期に怯える自分とずっと一緒にいて守ってくれる者がいなかった雪男にとってそれは自己防衛とも言える反応だった。
(嗚呼、忌々しい)
 再び銃声が響いて悪魔が一匹、物質界から消え去る。

 それは、本格的な夏が目前に迫ったある夜のことだった。



□■□



 夏休みに入る前には祓魔塾一年生全員が訓練生から候補生へとなっていた。最初七人いた塾生は途中で朴が抜けて六人になったが、己の適正を見極めた上での本人の判断だったので、周囲は惜しみながらも彼女と別れを告げた。
 尚、朴と親友である出雲の間で少しばかり問答があったようだが、最終的には双方共に納得したらしい。
(女の子が減ったんは悲しいことやけど、学校の方でいくらでも会えるし。それになんや杜山さんと出雲ちゃんが仲良ぉなっとるみたいやし。朴さん相手と違ぉて、杜山さん相手やと出雲ちゃんのツンデレも拝めるし)
 まぁええか、と胸中で呟くのは志摩廉造。
 若干必死になって女の子のことで思考を埋め尽くそうとしているのは、彼の立っている場所が森の中であるということに起因する。ようは周りが虫だらけなのだ。虫嫌いの志摩にとっては地獄にも等しい場所である。
 今もまた羽音がすぐ傍を通り過ぎただけで身体の右半分に鳥肌が立った。これだから森は嫌いなのだ。特に冬以外の森は。
 しかしながら志摩にとって非常に残念なことに、本日の任務はこの森で増えすぎた『蟲の王』の眷属の駆除である。虫嫌いなのに虫がうじゃうじゃいる空間に足を踏み入れねばならないとは……同郷の二人はいい加減虫にも慣れろと呆れ顔で言ったが、それはあまりにも殺生なことだと言わざるを得ない。
(あかん。なんやもう目眩までしてきた)
 女の子効果も思うように働かず、志摩はこめかみを手で押さえる。
 隣で支給品の再チェックを行っていた勝呂が胡乱な目を向けてきたが、へらりとも笑えそうにない。ちなみに勝呂と違って志摩の手は止まってしまっているのだが、前日に彼と子猫丸が中身をチェックしてくれたはずなので大丈夫だと確信している。むしろ下手に中身を出して再チェックした方が物を失くしてしまいそうだ。
 全員が支給品の点検を終えた――ただし荷物を鞄から出していない志摩を除く――頃を見計らって、引率役の一人である雪男が口を開いた。
「それではここで散開し、各自駆除に当たってください。午後四時にこの場所へ集合とします。また皆さんの手に負えないような大物は出ないと思いますが、何かあれば支給品の中にある発煙筒を使用すること」
「質問あったら今しか訊かれへんでー。一応、ここに奥村先生が待機して俺はその辺回っとるけどな」
 雪男の説明に続き、もう一人の引率役である柔造が告げる。
 だがここで改めて手を挙げる生徒はいなかった。事前に説明は十分すぎる程にされていたので。
「よっしゃ。ほな、始めよか。散開!」
 その声に合わせて全員が散り散りに木々の向こうへと消えていく。志摩も気は進まないが皆に合わせて走り出す。ここで歩けば、後ろから容赦なく兄の蹴りが飛んでくることだろう。それこそ故郷にいる金髪の三男のように。
(ああ……頭痛い)


「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬマジで死ぬもうアカンほんまカンベンしてください!」
 念仏のように「死ぬ」を連呼しながら志摩は錫杖を振り回す。群がってくるのは虫豸(チューチ)などの小物ばかりだが、いかんせん数が多い。
 虫嫌い――具体的に言うと扉の前に蝉の死骸があるだけで通れないレベル――の志摩が身を凍らせずに対処できていたのは、ひとえに祓う手を止めれば一瞬でこの虫の大群とゼロ距離になってしまうという“もっと上の恐怖”があるからだ。しかしながら、おかげで身体は動くものの精神的苦痛は最高潮に達している。
 これで自分の手に負えないような虫系の大物が出た時には……。想像することすら脳が拒んで志摩は支給されていた聖水のボトルを放り投げた。
 聖水は周囲にまき散らされ、虫豸程度の翅ならば硫酸を浴びせかけた時のように穴を空けて地に落とす。志摩は後方に飛んで油断無くその様子を見守った。
 やがて聖水の霧が晴れると志摩に襲いかかろうとしていた小さな悪魔達は皆一様に地面に落ちるか、跡形もなく消滅していた。
「っはぁ〜」
 詰めていた息を吐き出し、どっと身体から力を抜く。
 これで周辺の主立った虫系下級悪魔は祓えたはずなので、しばらくは大丈夫だろう。と言うかもう帰りたい。
 時刻を確認すれば午後三時半前で、帰りたいという気持ちは更に強まった。
(坊や子猫さんやったらあと一戦くらいしはるやろうけど)
 虫嫌いの人間にもう一回虫の大群と遭遇しろというのはどだい無理な話である。したがって志摩が選んだのは集合地点に向けてゆっくりと帰投することだった。
 だが錫杖を担いで――念のため普段持ち歩いている時のように分解したりはしない―― 一歩踏み出した途端、背後でガサガサと草の揺れる音がした。
 虫か。また虫なのか。
 いささか自棄になりながら志摩は振り返り、
「あーもー! ホンマ何ですの!? 次から次ぎへとよう途切れもせ、ん……と」
 声が凍る。表情が凍る。指一本も動かせずに全身が凍り付く。
 志摩が振り返った先にいたのは、ひと一人くらいなら余裕で飲み込めてしまいそうな大きさの巨大蜘蛛だった。
「ひっ」
 頭部に三列にわたって頭部にびっしりと並んでいる赤い複眼が餌として志摩を見る。早く逃げなければ。そう思うのに身体が動かない。ひきつった悲鳴を吐き出すだけで精一杯だった。
 腰が抜けて地面に尻餅をついた志摩に巨大蜘蛛はじりじりと近付いてくる。蜘蛛の陰が志摩をすっぽりと覆い、大きな顎のガチャガチャと鳴る音が否応もなく恐怖を助長させ―――

「何ボケっとしてんだよこの馬鹿!!」

 怒りと焦りに満ちた声、それと身体を無理矢理引っ張り上げるような力がかかったのは同時だった。
 一瞬後には何者かに抱えられた志摩がふわりと宙を舞っており、元いた場所には巨大蜘蛛の鋭い爪を備えた脚が深々と突き刺さっているのが見て取れた。そして、着地。
 蜘蛛からこちらを庇うように正面で仁王立ちするその人物は、志摩とさほど背丈が変わらないように見えた。しかし身に纏うのは祓魔師のコート。フードを被っているため髪の長さや色を伺うことはできない。背には二振りの刀があり、うち一方は既に抜刀されて右手の中にあった。
 その右手首に巻き付けられている腕時計のデザインに見覚えがあった志摩は、こんな場面でありながら小さく「あっ」と声を上げる。しかしこちらから相手に語りかけるよりも早く、その祓魔師は地面を蹴って巨大蜘蛛に飛びかかっていった。
 フードの祓魔師が何の変哲もなさそうな剣を一閃すれば地面に容易く穴を空ける脚が一本斬り飛ばされる。もう一閃すればもう一本。二本の脚を瞬く間に失い怒り狂った蜘蛛が彼を攻撃するも、躱す動作は目で追えないくらいに早く、その鮮やかで人間離れした動きに志摩は知らず息を呑んだ。
 しかしすぐにはっとする。いくら突然現れた祓魔師が手練に見えようとも、自分がここで呆けていて良い理由にはならない。
 志摩は慌てて鞄の中から発煙筒を取り出して着火した。この発煙筒の役割は引率の講師達に自分の居場所を知らせることだが、追加で多少の虫避け効果もある。巨大蜘蛛を撃退するとまでは行かずとも、援護射撃にはなるだろう。
 果たして、心なしか動きの鈍った蜘蛛の脚もその半数が真ん中からバッサリと失われた頃にはまず講師の一方である雪男が辿り着いた。僅かに遅れて勝呂など他の塾生達や柔造もやって来る。
 まだ候補生でしかない勝呂達は大きな蜘蛛の悪魔に一瞬身体を強ばらせ、そんな彼らを庇うように柔造が前に出る。しかし柔造が敵とそれに相対する祓魔師を見据える瞳にはさほど切迫した様子もなく、むしろフードの祓魔師が誰であるか心得て、なおかつその実力に絶対の信頼を置いているかのようだった。
 候補生の中では最も蜘蛛の悪魔から近い場所にいるはずの志摩は恐怖を感じるよりもまず次兄の様子に「ああ、やっぱり」と内心で呟く。
 戦っている祓魔師の右腕にある腕時計。あれは雪男の腕にある物と同じデザインだ。コートの金具に当たって時折涼やかな音色を奏でるロザリオに見覚えはないが、あの時計と背格好そして次兄の視線から、志摩は己の予想が外れていなかったのだと確信する。
(あれが、奥村くん)
 下の名前は知らないが、次兄はそう呼べと言っていたからこれで良いのだろう。
 今、志摩の目の前で巨大な悪魔を難なくいなしている祓魔師こそが、去年の夏に京都で出会った彼なのだ。
(和尚らが抑えとった不浄王っちゅう悪魔を聖騎士が祓ったって話は聞いとったけど、その“任務”に同行できるくらいの実力者やったんや。こない余裕で悪魔と戦えるんやから)
 京都での一件に関して、燐達にとって不都合にならない程度の情報は念を入れて若干事実を歪めてから公表されている。その修正済みの情報だけを聞きかじっていた志摩は燐の実力を目の当たりにしてそう思った。
(でもあの動き……人間とは、たぶん違うんやろなぁ)
 おそらく悪魔と人間のハーフか、聖騎士もしくはそれに近しい人間が使役する使い魔の類だろう。祓魔師のコートは着ているが、階級証(バッチ)までは確認できていないのでどちらの可能性も有り得る。
 志摩がつらつらと推測する間にもフードの祓魔師は蜘蛛の脚を全て斬り落とし、とどめに剣で頭部を真上から貫いた。蜘蛛の悪魔は甲高い悲鳴を上げた後、塵になって消え去る。巨大な体躯が消え去った跡には指で摘み上げられる程の小さな脚のない蜘蛛の死体が転がっていた。どうやらあの巨体は悪魔に憑依されたが故のものだったらしい。
 敵を倒し終えるとフードの祓魔師は滑らかな動きで剣を鞘に収める。戦闘でずれかけたフードを目深に被り直し、彼は志摩の方へ振り向いた。
「怪我は?」
(あ、奥村くんの声や)
「……おい。聞こえてんのか?」
「へ、あ。おん。大丈夫ですわ」
「なら良い」
 短く告げて、彼はきびすを返す。近くには他の候補性や講師二人もいるのだが、そちらに声をかける気は無さそうだった。
 だがフードの祓魔師が木々の向こうへと姿を消す前に待ったをかける声が届いた。
「止まれ! お前は一体何者だ」
「若先生……?」
 生徒のピンチを救った者へ向けるにはいささか以上に冷たく、警戒を含む声だった。近くにいた勝呂が不思議そうに雪男を呼ぶ。
「答えろ。場合によっては相応の対処をさせてもらうが」
 勝呂の呼びかけを完全に無視した形で雪男は正体不明の祓魔師に問いかけた。左腕は後ろに回されており、いつでも背中の銃を引き抜ける体勢にある。
 問われた方は歩みを止めて問いかけた方に向き直ると、肩を竦めて苦笑を浮かべた。
「前に一度、理事長室で会っただろ? あれだけじゃ俺の立場を保証することにはならないか?」
 あくまで軽く、竦めた肩に違わぬ口調でフードの祓魔師は答える。雪男の方も“前に一度”や”理事長室”というキーワードに覚えがあるらしく、「やはりあの時の……」と小さく口が動いていた。
「あの時は気付かなかったが、コートを着ていてもバッチがないな。悪魔だったのか?」
「ご明察」
 フードの祓魔師改めフードの悪魔の返答に候補生達がざわりとどよめく。
 “奥村くん”の声までは覚えていないらしい勝呂と子猫丸は相手が悪魔と聞いて純粋な驚愕を覚えているようだ。宝はいつもどおり何を考えているのか分からない。奇妙なのは残り二人の女子で、しえみはフードの悪魔に見覚えか聞き覚えがあるのか「え? あれ?」と首を捻っているし、出雲は「あいつ……」とまるで思いも寄らぬ場面で知り合いを見つけた時のような顔をしていた。
「俺はさるお方の使い魔をしている。でもその詳細をお前に語る義務はない。と言うわけで、ここで失礼させてもらうぜ」
 フードから覗く口元だけで不敵に笑い、彼は再度きびすを返す。
 今度は雪男が「待て!」と言ってもその足が止まることはない。
「任務の手助けといいあの剣捌きや切り口といい、お前が『ミーシャ』なのか!? なぜ姿も見せず僕の任務に付きまとう!?」
「へぇ、気付いてたんだ。でもそれで何か問題が?」
 ミーシャとは何か。噂を耳にしたことがない志摩は小首を傾げる。だがその疑問をかき消すかの如く、志摩は次いで雪男が告げた台詞に―――否、その台詞によってフードの悪魔が浮かべた表情に息を呑んだ。
「っ、迷惑なんだよ! 悪魔風情が僕の周りをうろつくな!!」
「そう」
 顔だけで振り返った悪魔の少年は、フードから覗く口元に柔らかな微笑を刻んでいた。
 しかし弧を描いた口元は志摩の位置からギリギリ判る程度に小さく震えており、浮かべられた笑みが決して余裕の表れではないことを示している。
 あのフードの下では綺麗な青から今にも水が零れ落ちそうになっているのだろうか。
 次兄を見やると、彼は耐えるように自身の錫杖を強く握りしめていた。どういう理由かは知らないが、この場で手を出さないよう必死に自制しているのだろう。握りしめる手は力を込めすぎた所為で白くなっており、柔造が現状に多大なる憤りを感じていることを志摩に教えてくれる。
「……そう」
 雪男の言葉を噛みしめるようにミーシャと呼ばれた悪魔は繰り返した。
「そっか」
 是とも否とも答えず、最後にそう呟いて悪魔の少年は木々の向こうへと姿を消す。
 志摩が最後に見つめた横顔は、あの青い目も見えないのに今にも泣きそうだと思えてしまった。



□■□



「燐くんっ!」
 候補生を率いての任務を終えてすぐ。志摩柔造は報告書を纏める時間すら惜しんで燐が住まう部屋を訪れた。
 森での『蟲の王』の眷属駆除から先に帰宅していた燐は柔造の予想通り部屋にいて、しかし―――
「あ、柔造さん。どうしたんだよ、そんな慌てて」
 ケラケラと何でもないように笑っていた。
 その笑みに実の弟から投げつけられた言葉に対する陰りはない。柔造が「燐くん……?」と再び名を呼べば、机の上に腰掛けた少年が青い目を眇めた。
「わかってる。心配してくれたんだろ。ありがとう」
「……俺は何もできへんかった」
 あの森で柔造はただ黙って成り行きを見守るしかできなかった。それがあそこへ赴く前からの燐との約束だったので。
 だからひたすらに燐を抱きしめたいという気持ちを抑え、暴言を吐く雪男を殴りつけそうになる拳をぐっと抑え、その場に立ち続けた。
 燐はそんな柔造にふるふると首を横に振って否定を返す。
「たくさん我慢してくれたよ。柔造さんは優しいから、雪男にすっげぇ腹立ててたんじゃね?」
「……」
「沈黙は肯定と受け取りますよ、ってメフィストあたりなら言うかな」
 肩を竦め、燐は机に腰掛けたまま脚を揺らした。
「最初から解ってた。今の雪男は悪魔が大嫌いなんだって。だから俺のことを知ったら嫌な顔をするんだろうって。でもそれは望むところだし」
「でも、それでも。嫌われんのはイヤなんとちゃうんか?」
「そりゃ嫌だ。でも知られちまったんなら好かれるより嫌われた方がいい。愛されたいなんて思わない。あいつに味わわせる悲しみのことを思えば、俺の気持ちなんてその辺の石ころと同じなんだよ」
 窓から差し込む赤い夕日に照らされて、そう告げた燐の表情を柔造はきちんと窺うことができなかった。ただ口元だけが綺麗な弧を描いている。ぶらぶらと揺れる脚は楽しげで、声もそれに相応しい。
(せやけど)
 出入り口に突っ立ったままだった柔造はゆるやかに足を踏み出し、燐のすぐ傍へと行く。そのまま笑みを浮かべた少年の後頭部に手を伸ばし、相手の顔を己の肩口に押しつけた。
「柔造さん……?」
 少し戸惑うような燐の声。しかし柔造より腕力があるはずの燐がその体勢を崩す様子はない。腕を突っぱねるでもなく、拒絶の言葉を吐くでもなく、燐は誘われるまま柔造に体重を預けてくる。
 しかしながら、最後まで柔造の肩口が温い水で濡れることはなかった。







2012.01.14 pixivにて初出