それは燐が一人で請け負う任務を終えて、正十字学園高等部男子寮旧館に帰る道すがら。
 夜目の利く燐は街灯の少ない暗い夜道を歩く人影に気付いて「あ」と小さく声を上げた。
「朴……?」
 女子寮から離れたこんな場所にどうして見知った少女の姿があるのだろうか。制服は既に脱いで部屋着を纏っている彼女は淡い色のカーディガンを微風にはためかせながら歩いている。
 この先には燐が住む旧男子寮しかない。一応無人とされている――けれど燐が住んでいる所為で一部の生徒達にはお化け屋敷と噂されている――建物に何の用なのか。はたまた用もなくただ散歩しているだけなのか。
(……どちらにしろ、こんな夜道じゃ危ねーだろ)
 メフィストの結界により強力な悪魔が侵入できないと言っても、それ以外の―――たとえば変質者だとかその他の人間の犯罪者だとかが入って来ないわけではない。無論、そういった人種も正十字学園の各ゲートに置かれた警備員達がチェックしているだろうが、何事にも穴はあるものだ。
 燐はしばらく考え込んだ後、フードを目深に被り、自分の顔が相手に見えないような、けれども首から下は街灯に照らされて判るような位置を選んで朴から少し離れた後方に降り立った。
「なあ、こんな時間にこんな所歩いてっと危ないぞ」
「えっ!?」
 驚いたように朴が燐を振り返る。
「寮の門限とかあんだろ。同室の奴、心配してんじゃね?」
「あなた……」
 誰? と訊かれるのだと燐は思った。
 しかしその予想は外れ、振り返った朴は驚愕に見知らぬ者への恐怖ではなく、見知った者との再会を喜ぶ色を加えて嬉しそうに告げる。
「本当にいた! あの時の祓魔師さん!!」
「は?」
 確かに朴(と出雲)とは彼女が中学生の時に一度だけ夜の学校で遭遇したことがあるが、今も昔も顔を見せていないと言うのに同一人物だと判るものなのだろうか。
 燐はフードの下で目を丸くし、「なんで」と呟く。その呟きが朴にとっては「どうして自分(燐)を探していたのか?」という問いに聞こえたらしく、少し申し訳なさそうに眉尻を下げて、
「ご相談したいことがあったんです」
「いやいや、その前になんで俺だって判ったんだ? それにここにいることとか……」
「ああ、それなら」
 ぽん、と両手を打ち合わせて朴がはにかんだ。
「声で判ります。それに何となく背格好とかも一緒ですし。あとはそのフードですかね」
「そんなにあっさり」
「祓魔師さんは優しい声をしていますから。場所については、学校で噂を聞いたんです。男子寮の旧館に亡霊が出るって」
「あーその噂か」
 前に宝から聞いた話を思い出して苦笑する。
「でもその噂でよく俺がここにいるって思い至ったな」
「だってこの学園は理事長の結界で守られてるって塾の先生から聞きましたし、だったら旧男子寮にいるのも亡霊―――つまり悪魔じゃないって推測できます」
「そこから俺がいるかもって?」
「はい。予想は見事的中したみたいですね」
「お前なぁ」
 はあ、とわざとらしく溜息を吐いて燐はフード越しにがしがしと頭を掻いた。
「旧男子寮にいるのが俺で良かったけど、マジの変質者とかだったらどうすんだよ。お前、戦闘に慣れた祓魔師どころかまだまだヒヨっ子……いや、卵の祓魔訓練生だぞ? そもそも女だろうが。一人でこんな暗い道を歩いて人のいないはずの建物に近付くとか、危なすぎるだろ」
「あ……ごめんなさい」
 ようやく危機意識が芽生えてきたのか、しゅんと肩を竦める朴。
「でも、どうしても相談したいことがあって」
「そういやそんなこと言ってたな」
 無理をしてまで燐を探す理由とは何だろうか。
 そう考えた時、少しだけ強く風が吹いた。五月に入り日中は汗ばむ日もある程だったが、夜間はやはり肌寒い。燐なら大丈夫でも女の子である朴をこんな場所での立ち話に付き合わせてしまっては体調を崩してしまうだろう。
「……うち来るか?」
「えっ」
「ここじゃ寒ぃだろ。なんかあったかいモンくらい出すよ」
「いいんですか?」
「おう」
 端的にそう返し、燐は歩きだした。その後ろに戸惑う気配を滲ませながらも朴が続く。
 本当なら朴のように他人を思いやりすぎる程に思いやる少女と関わるのは、燐にとってあまり好ましくないことだ。しかし彼女の方から相談があると持ちかけられてしまっては、やはり相手を大事にしたい燐としては無碍にもできない。
(それにまぁ顔は隠して、これからあんま関わらねえようにすればいいんだし)
 もし顔や素性がバレていたなら、そうでなくとも個人が特定できるような状況だったなら、こうまで穏やかではいられなかっただろう。それこそ大事にしたい気持ちが一回転して、己から相手を遠ざけるようなキツい言葉を吐いていた可能性もある。
 俺の存在を知らないままでいて。気にしないで。それが無理なら嫌っていてよ。――― それが燐の望みなのだから。



□■□



 まさか本当に出会えるなんて。そう思いながら朴が辿り着いたのは、亡霊が出ると噂されている旧男子寮である。
 しかし外見はボロボロで“いかにも”な感じだったが、中に入ってみるとそこそこ綺麗に保たれているのが判った。特に案内された食堂は丁寧に使われているようで、朴達が住む新築の女子寮のような美しさはなくとも、清潔感に満ちていた。
「適当に座ってくれ。甘いモン大丈夫か?」
「あ、はい」
 相手の声はそれなりに若いのだが、先輩祓魔師ということもあってついつい敬語になってしまう。
 尋ね人である祓魔師は朴の返答を聞くと厨房に入り、続いてカチャカチャと金属音やパタンと戸棚の開閉音が聞こえ出す。
 手持ちぶさたになり、テーブルの下で指を組んでは離すという動作を繰り返していると、しばらくして厨房の方から仄かに甘い匂いが漂ってきた。
「お待たせ。まぁこれでも飲んで暖まってくれ」
 室内でもフードを被ったままの祓魔師はそう言って朴の前にカップと小さな皿を置く。
 白磁のカップの中には琥珀色の液体―――匂いからしてローズティーだろう。そして同じく白い皿にはカットされたパウンドケーキが乗っており、可愛らしい銀色のフォークが添えられていた。
「これ……」
「俺の夜食用のやつで悪いけど、勘弁な。もし口に合うようだったら食ってくれ」
「……ありがとう、ございます」
「敬語はいいよ。そんな年齢変わんねーし」
「え、そうなんですか?」
 確かに祓魔塾の講師には自分達と同じ年齢の少年がいるが、彼は特別だろう。
 朴が驚いて皿から視線を上げると、祓魔師は「しまった」と小さく呟く。先程言ったことは本当のようだが、あまり公にしたいものでもなかったようだ。
「今の忘れてくれ。でも敬語は要らないから」
 顔も見せず名前も明かさない祓魔師はそう言って口元に苦笑を浮かべた。
 朴はひとまずそれに「うん」と返しながら、出されたカップに口を付ける。ケーキの出し方は切った物をそのまま皿に乗せただけという単純なものだったが、紅茶の方はきちんとした洋菓子店でイートインをした時と同じかそれ以上のものだった。初めての出会いが夜の学校で幽退治だったことからは想像できない腕前である。
 驚きのまま続いてケーキを口に入れれば。朴は更に驚愕する羽目になった。
(おいしい!)
 それも物凄く。
「どうだ?」
「おいしい! とっても!!」
「そっかー。よかった」
 朴が素直にそう告げれば、フードの祓魔師はふにゃりと纏う空気を和らげた。
「これ、祓魔師さんが作ったの?」
「おう。俺、料理が趣味なんだ。ケーキの類は高校に入って……いや、なんでもない。ずっと前に知り合いと作ったりして、そっからなんか色々作り出したら止められなくなった感じ」
「すごいなぁ! こんなにおいしいケーキもお茶も、その辺のお店じゃ食べられないよ!」
「誉めすぎだって」
 でもありがとう、とその祓魔師は嬉しそうに呟く。
「なんなら少し持って帰るか? 俺んとこにあっても、食うの俺くらいだし」
「いいの?」
「もちろん。でも俺のことは内緒な」
 そう言い、歯を見せて笑う姿はどことなく子供っぽい。本当に自分達とあまり年が変わらないのだろう。
「ああ、そうだ」
 朴が優しい空気と美味しいお茶とケーキに和んでいると、はっとしたように祓魔師が口を開く。
「相談だったよな。一体どうしたんだ?」
「それは……」
 コトリとカップをテーブルに置いて朴は俯いた。
 視線の先で琥珀色の液体がゆらゆらと揺れている。ふわりと香る薔薇は心を落ち着かせたが、夜中にたった一度だけ出会った人物を捜そうとする程の悩みを消してくれる効果まではなかった。
 そして朴はゆっくりと口を開く。
「塾のこと、なの」
「祓魔塾?」
「うん。私、今そこの一年生なんだけど、本当にこのままで良いのかなって」
「このままで良いって?」
「勉強のこと。……って言うか、祓魔師を目指すこと、かな。授業にも全然ついて行けてないの。そもそも私、祓魔師になりたくて入ったわけじゃなくって」
「塾に入ったのは友達のため、か?」
「え、どうして解るの?」
「だって出雲は目指しそうじゃねーか。だったら出雲が大好きなお前も塾に入ったっておかしくないだろ?」
「そっか。祓魔師さんは出雲ちゃんのこと知ってるんだよね」
「おう。どうせあいつのことだ、塾で優等生やってんじゃね? あ、魔印の授業で使い魔の召還はもうやったか? 出雲ってなんかパパッと二体くらい召還してそうだけど」
「ふふっ。使い魔の召還はまだだけど、確かに出雲ちゃんならやっちゃいそう」
 同じ出雲の良いところを知っている者同士、彼女の話題が出るとそれだけで喜びが増す。出雲という少女はよく知らない人物からよく誤解されがちなため、特に。
 朴はくすくすと笑い声を漏らしながらそう告げた。
 だが笑みはすぐに姿を消す。
「出雲ちゃんは凄い。なのに私は中途半端な気持ちで塾に入って、そして全くダメ」
「……じゃあお前は塾を辞めたいのか」
「どうなのかな。このままじゃ良くないとは思ってるんだけど……」
「でも出雲と違う道を行くことを躊躇ってる?」
 問われ、朴はこくりと頷いた。
 全く授業について行けず、そもそも祓魔師になろうという情熱はそこまで大きくない。だが折角出雲が誘ってくれたのにその手を振り払って良いものか。自分から離れて、出雲に嫌われたりしないだろうか。――― そんな不安が朴に重くのしかかる。
「だから貴方を捜してたの。祓魔師で、出雲ちゃんを知ってる人だから」
「……でも俺はきっとアドバイスなんかできねーぜ」
「え、どうして?」
 先輩祓魔師として助言をくれると期待していた朴は心細げに瞳を揺らす。それを真正面から見てしまったらしい祓魔師は気まずそうに俯きながら、フード越しにガリガリと頭を掻いた。
「だってそれはお前の問題だ。俺がどうこう言っていいことじゃない。お前が考えてお前が納得した答えを出して、それを出雲に言えばいい。きちんと自分の気持ちを話せば、あいつならどんな答えだって受け入れてくれるはずだ。それとも出雲はそんなこともできない女か?」
「そっ、そんなことない! 出雲ちゃんはとっても優しくて私の話もちゃんと聞いてくれる!」
「だろ? だったらやっぱりこれは俺がどうこう言う問題じゃない。俺が何か言ったら、それはお前だけの意見じゃなくなる。そしたら出雲に伝えるお前の考えにはきっとお前の気持ちが伴わなくて、あいつにはちゃんと伝わらない」
「……」
 彼の言うことは尤もだった。
 出雲ならきちんと朴の話を聞いてくれる。だがその話に朴以外の気持ちが入ってしまえば、あの意地っ張りで繊細な親友はきっと気付いてしまうだろう。そうなれば、彼女に朴の気持ちが伝わることはない。
 朴の沈黙を肯定と受け取って祓魔師は小さく苦笑した。「大丈夫」と告げ、口元に緩やかな弧を描く。
「それにさ、お前ならきっと自分で決められるよ。だってお前はお前が大好きな神木出雲の親友なんだから」
「あっ……」
 その言葉はとても“強い”言葉だった。
 そう。朴朔子は神木出雲の親友だ。あんなに素晴らしい女の子の友達なのだから、朴だって自信を持って良い。彼はそう言う。
「決められる、かな?」
「ああ。大丈夫。お前はちゃんと決められるよ。そして、出した答えが塾を続けるでも辞めるでも、お前はちゃんと出雲に自分の気持ちを言える。その保証くらいなら俺だってできる」
「……ありがとう」
 朴の中で答えはまだ出ていない。けれど心はとても軽かった。
「やっぱり貴方を捜したのは正解だった」
「そうか? 俺はアドバイスも何もしてねえけど」
「ううん」
 首を横に振って朴は微笑む。
「貴方は私に自信をくれた。それが何よりのアドバイスだよ」



□■□



 朴が自信を得たことで一夜限りの相談会は終わりを告げた。
 夜も更けていたため燐は彼女を寮まで送り届けることにし、暗い夜道を二人で歩く。
 朴は最後まで燐に名を問うことはなかった。おそらく燐がフードを脱がない理由を彼女なりに慮ってのことだろう。
 そんな彼女の思慮深さに感謝しながら女子寮の近くまでやって来たところで燐は足を止める。
「じゃあな。寮監に見つかんねえよう気を付けろよ」
「うん。……それじゃあ」
「おう」
「貴方に会えて良かった。本当にありがとう」
 朴はそう言って背を向けた。
 燐はその背が女子寮の入り口に吸い込まれていくのを見届けた後、きびすを返して旧男子寮へと歩き出す。
「……貴方に会えて良かった、か」
 とぼとぼと夜道を歩きながら最後に朴からもらった言葉を大事に大事に、燐は呟いた。
 その一言がとてつもなく嬉しい。自分という存在がいてもいいのだと、他者と関わってもいいのだと言われているようで。自分は悲しみを与えるだけではない。喜びをもたらすこともできるのだと。
(でも)
 その言葉に甘えるのを燐は良しとしなかった。
 甘えてはいけない。己がかつて仲間達や、それに何より最愛の弟に与えた悲しみを思い出せ。あんな悲劇は二度と起こしてはならない。二度目の人生は大事な人達を悲しませないため、弟を悲しませないために使い尽くすと決めたのだから。
(今回は特別だ。俺は奥村燐でも青焔魔の落胤でもなく、顔の見えないただの名無しの祓魔師だった。だから朴の話を聞くことができた)
 正体不明の祓魔師だから、今後たとえ燐が騎士團に廃される立場となっても彼女に直接的な悲しみを与えることはないだろう。旧男子寮からいなくなってもどこかで任務を全うしていると思ってくれるはず。
 そして燐は朴がくれた優しい言葉を抱えて誰にも伝えない別れを告げればいいのだ。
「ありがとう、朴。俺も朴に会えて良かった」







2012.01.09 pixivにて初出