混乱と動揺の一時間目が終了し、塾生の全員が悪魔を視認できるようになった。あのボロボロな教室は魔障の儀式のためだけに使用された部屋であり、二時間目からは別の教室となる。
 志摩達は雪男に送り出されるまま移動し、今度はもう少し内装がマシになった教室で次の授業の講師を待った。
「……まさかとは思いましたけど、そのまさかすぎて何も訊けませんでしたわ」
「そやな」
 混乱疲れ(?)でべたりと机に張り付く志摩。
 それを眺める勝呂の視線にも若干ながら疲労の色が見て取れる。カチカチと右手で操作している携帯電話では自分達の身内で最も事情を知っていそうな柔造にメールでも打っているのだろうか。残念ながら志摩が授業中に打ったメールへの返信はまだない状態なので、そちらもあまり期待できないのだが。
「あー……次の授業て何でしたっけ、子猫さん」
 頭が大変お疲れ中なので真面目な座学は無理だ。そういう気持ちで傍らの子猫丸に視線を向ければ、彼は志摩を安心させるように柔らかく、ただしどこか苦笑を滲ませて眼鏡の奥の双眸を眇める。
「次は体育実技担当のセンセがレクリエーションしてくれはるはずですよ。確か今日の授業は二つだけですから、これで終わりっちゅうことになりますねぇ」
 ―――良かったですね、志摩さん。
 そう言った時点での子猫丸の顔は完全な苦笑を浮かべていた。疲れきっていた志摩の表情が子猫丸の台詞に合わせ、目に見えて元気を取り戻していったのが大きな要因だろう。
「まぁ奥村雪男くん……いえ、“奥村くん”と“奥村先生”のことに関しては、これから柔造さんに連絡取りつつやっていきましょ。僕も偉ぉ気になりますし」
「そやねぇ……おんなじ名前で、片方は聖騎士っちゅう証明つき。もう片方は今日俺らの目の前で歴代最年少祓魔師資格取得者を証明しはったお人、か」
 半分は子猫丸に答える形で、もう半分は独白として、志摩は机に頬をつけたまま唸るように呟く。
 まさか先程まで目にしていた黒いコート姿がただの仮装であるはずもないだろう。あの着慣れた感じや胸に光るバッチはどう見ても正しく祓魔師だ。そして高校の入学式に参加していたとおり、年齢も自分達と同じ。確かに雰囲気は大人びていたが、容姿も十代半ばの少年のそれだった。
「ああ、そういやちょい思い出したんですけど、奥村くんと奥村の若先生がつけてはった腕時計て同じデザインと違いました?」
 講師の雪男の姿を思い出していた志摩は、夏に出会った『雪男』の腕に似合わない(大人っぽすぎる)腕時計が巻き付けられていたのも連鎖的に思い出してそう告げる。
 そうだ。確かに二人は同じデザインの腕時計をつけている。青い目の『雪男』はどうにも似合っていなかったのだが、講師の雪男は似合いすぎるほどに似合っていた。
「偶然……にしてはなんや可笑しいと思いません?」
「よお見とるな」
 感心するように勝呂が答える。
「俺はそこまで覚えとらんけど、志摩の言うんがホンマやったら確かに変やと思う」
 市販品ならば別の人物が同じ物を身につけているのも有り得ることだろう。しかし講師の雪男はともかく青い目の『雪男』は自分に似合わない物をどうしてわざわざ選んでいたのか。名前が同じことと何か関係があるのか。そもそも―――……
「奥村くんて、ホンマに奥村“雪男”くんやったんやろか」
「は?」
「何言うてますの、志摩さん」
 ぽつりと零した志摩の呟きに勝呂と子猫丸が反応する。だが志摩は頭の中で過去をなぞるのに精一杯だったため答えられない。
(そや。よお思い出せ。夏に出会ぉた奥村くんの名前はどうやって知った? 柔兄や。柔兄が奥村くんのこと『奥村雪男』やて言うた。せやし俺らは柔兄と一緒におった男に『奥村くん』て呼びかけた。……それで? 奥村くんは名前が間違ぉとるとか言わへんかった。せやけど、)
 自分達は彼を下の名前で呼んだことなど一度もなかったのではないだろうか。つまり青い目の彼が本当に『雪男』という名前であるかどうかなど確かめられていないということだ。
「……夏に出会ぉた方の奥村くんて、姓は『奥村』やけどひょっとしたら下の名前が『雪男』と違うんとちゃいます?」
 志摩がその答えを出した瞬間、勝呂と子猫丸が反応を示す前に教室の扉が開いた。

「おう、みんな揃とるみたいやな。二限目始めるでー」

 西の方の訛に京都出身の三人はぎょっと目を剥く。
 このイントネーションは自分達の故郷のものだ。そして何よりこの声、は。
「柔兄っ!?」
「柔造!!」
「柔造さん!」
 志摩や勝呂だけでなく、子猫丸までもがガタガタッと大きな音を立てて腰を上げる。驚愕を露わにした三人の視線の先には何かの任務に出かけていると思われていた志摩柔造の姿があった。
「え、なんで!? なんで柔兄が正十字(ここ)におんの!?」
「そら当然俺が祓魔塾の講師からや。志摩、勝呂、三輪、さっさと席に着きぃ」
 明陀の志摩柔造としてではなく、あくまでも祓魔塾の講師の一人として柔造は振る舞う。
 纏う衣装は見慣れた仏教系祓魔師の正装である。しかし向ける視線は身内に対するものではなく、その他の生徒へのものと同じだった。
「俺は志摩柔造。一年生の体育実技を担当させてもらう。今日は俺一人やけど、ほんまは椿先生いうお人もおって、そん人がみんなの基礎体育を見てくれはるわ。俺は剣術と棒術中心に実践を想定した体の動かし方っちゅうやつを教えるさかい、よろしゅうな」


 一部の生徒の心情を除きつつがなく二時間目の授業も終わり――志摩達も流石に授業を妨害してまですぐさま柔造を問いつめる気はなかったのだ――、塾の生徒はバラバラと教室を出る。いつもの志摩ならそのタイミングでこれからクラスメイトとなる少女達に声をかけるのだが、今ばかりはそちらに意識を向けることができなかった。
 京都出身の三人組は揃って教室に残り、未だ講師の顔のままの柔造の元へと近寄る。
「柔兄、話があんねんけど」
「……ま、来るとは思とったわ」
 弟の言葉に柔造は苦笑を浮かべた。
「それと坊、いきなり驚かせてしもて申し訳ありません」
「なんで事前に言うてくれへんかったんや」
 謝罪する柔造に勝呂はしかめっ面で問う。
 知らぬ間に祓魔塾の講師になっていた柔造にはいくつか訊きたいことがあるのだが、その一つがこれだ。同じ明陀―――“家族”なのだから、言ってもくれて良かったのではないか、と。
 すると柔造は表情に年長者としての思いやりを淡く滲ませながらこう答えた。
「前もって言うたら、自分の所為で俺まで京都から引っ張り出して来てしもぉたんちゃうかて気にしはるでしょう? 坊は真面目ですさかい」
「俺のためか」
「いらん気ぃ使ぉてほしなかったんですわ。それに―――」
 明陀の人間がわざわざ京都の地を離れて勝呂が通う正十字学園について来たとなれば、普通は座主血統を守るため仕方なく……と考えるだろう。加えて、柔造の正十字学園行きを了承した志摩家の家長・八百造はそのつもりで跡取り息子を送り出していた。
 だが柔造はそう説明した上で更に付け加える。
「そもそも俺は違う目的でここに来たんですよ」
「違う目的? 柔兄が正十字におるんは坊のためやないん?」
「おん」
 志摩の問いに兄はそちらへと視線を向けてあっさりと頷いた。
「坊のため言うんやったら、ほんまは俺なんか必要ないんや。ここには子猫も、頼りないけど廉造……お前もおる。それに学園内は理事長の結界で守られとるしな。坊に気ぃ使わせとぉないっちゅうこと以外にも親父の耳には入れとぉなかったんで黙っとったんやけど、俺がここにおるんは別の目的のためや。それが何なんかは、事情があって言われへん」
 柔造が言うと、勝呂が眉間に皺を寄せて尋ねる。
「俺らが八百造には黙っとく言うても教えられへんか」
「すんません、坊。たとえ親父を含めた明陀の誰にも言わへんって仰ってもろても、俺には答えられへんのです。これは俺だけの問題やないんで」
 弟から再び勝呂へと視線を戻して柔造は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
 しかし何もかも隠したままというのは不義になると思ったのか、柔造は「ただ、そうですねぇ……俺が言えることは」と己が現時点で言葉にできることを探す。
 そして数秒の間を挟み、彼は思いを口にした。

「ある子ぉの助けになりたいんですわ」

 愛おしげに、告げる。
 それだけで柔造が“ある子”とやらを本当に大切に思っているのが伝わってくる。
 柔造のそんな顔を見て志摩も子猫丸も何も言えない。ただ勝呂だけは将来明陀を引っ張っていく者としての自覚ゆえか、驚愕を押し殺して一度だけ頷いき、「わかった」と答えた。
「お前が正十字に来た理由は問わへん。柔造、お前の好きにしたらええ。お前にそないな顔させる奴やったら悪い奴とちゃうやろうしな」
「おおきに、坊」
 本当ならば明陀の一角をなす当主に黙って別の目的を持ち京都を離れるというのは誉められたことではない。しかし寺の者達を大切に思うからこそ、勝呂は今回の柔造の行動を許したのだろう。
 お堅いはずの兄の行動とそんな幼馴染兼将来の主の様子に志摩は呆れながらも穏やかに笑う。
 しかしながら柔造が言う『あの子』とは一体どんな人物なのだろうか。柔造には弟と同じ年の少年を以前“あの子”呼ばわりした前科があるので、容易に女の子だと決めつけるわけにもいかない。せいぜいが柔造より年下だろうということくらいだ。
(あんま俺らと同い年くらいの男に『あの子』とか使わんといてほしいんやけどなぁ……。ま、奥村くんみたいな見た目やったらまだセーフっちゃあセーフかもしれんけど)
 真夏の空の下、出会った青い瞳を思い出す。
 一目で男と判るが、どこか凛とした美しさを感じさせる少年だった。印象的な青い瞳は宝石のようで、しかし決して無機質ではなく。感情を滲ませて揺らめく双眸は今でも志摩の心に強く残っている。
 柔造はこの学園に来て講師の方の奥村雪男と知り合っているはずなのだが、彼のことを一体どう思っているのだろう。奥村雪男という名で祓魔塾の講師をしている者と、その人物とは異なる容姿をした青い目の少年のことを。
 志摩がそう考えるのとほぼ同時、その疑問を声に出す前に勝呂が口を開いた。
「これでこの件は仕舞いや。せやけど柔造、もう一個別のこと訊いてもええか」
「俺に答えられるもんでしたら」
 快く答える柔造に対し、勝呂の顔つきは厳しい。その表情を見て志摩はおそらく勝呂が自分と同じ質問をしようとしているのだと思い至る。あの困惑した顔は祓魔塾の最初の授業で浮かべていたものだ。
 勝呂は一拍置くようにゆっくりと呼吸し、そして問いを発した。
「奥村雪男は誰や。一年の悪魔薬学教えてくれはるあの奥村先生のことでええんか。それとも奥村雪男は二人おるんか? 聖騎士と一緒に京都まで来た方と、眼鏡かけて講師してはる方と。もしくは『奥村』は二人おるけど、『奥村雪男』は一人だけなんか」
「…………」
 勝呂の問いかけに柔造はしばらく無言だった。だがその表情は驚きや辛そうなものではなく、どちらかと言うと感心しているように見える。事実、柔造は少しの沈黙の後に「坊は凄いわぁ」と呟いた。
「奥村の若先生に会ぉただけでそこまで考えはったんですか」
「こんなもんお前の弟も子猫丸も考えついとる」
 疑問を流すことを良しとせず、勝呂はあっさりと告げる。
「そんで、どうなんや?」
 あの夏の日、自分達と言葉を交わした少年は一体誰なのか。問いかける勝呂に柔造はすっと表情を引き締めて答えた。
「“奥村雪男”は坊らの先生になった若先生のことです」
「せやったら夏に会ぉたのは一体誰やねん」
「それはまだ明かせません。せやけどもしまた会ぉた時には『奥村くん』て呼んだげてください」
「“奥村雪男”やないのにか?」
「そうです」
 柔造は頭を縦に動かす。
 勝呂と柔造が会話する傍らで志摩はじっと兄の言葉を聞き、その表情の変化を見つめていた。
 兄の回答から察するに、自分達の仮定の一つはかなり正解に近かったらしい。おそらく夏に出会った青い目の少年は『奥村』の姓を持っている。ただし講師の奥村雪男と一致しているのはその姓のみで、名は異なる。そして血の繋がりがあるかどうかは不明だが、“若先生”が正しく“奥村雪男”ならば、どちらの奥村も現聖騎士と何らかの繋がりを持っていると考えるのが妥当だろう。
(嗚呼、)
 しかし志摩はそう思考する一方で兄の言葉ではなく表情の変化に目を留めて内心で呟く。
 兄は神妙な顔つきで勝呂の問いに答えていた。しかしその顔は真面目一辺倒のものではない。真面目な顔の下にはひた隠しにされた強い感情が渦巻いている。
 感情の名はおそらく愛情、心配、他者を気にかけ守りたいという思い。そういった誰かを大切に思う気持ちだ。そしてその感情を柔造はつい先程誰にでも判るほど前面に押し出していたではないか。「ある子ぉの助けになりたいんですわ」という台詞と共に。
 おそらく家族だけが判る今の表情の微妙な違いに気付き、またそれが発露した瞬間のことを思い出した志摩は、兄の行動の理由が少しだけ理解できたように感じた。
(柔兄の言うてる『ある子』って奥村くんのことなんや)
 青い目の彼は正十字学園にいる。柔造はそれを追いかけてここまでやって来た。
 かの少年がどのような事情を抱えているのか推測することは難しいが、それは志摩家を継ぐ立場にある柔造にここまでさせるほど大変なものなのだろう。
 青い瞳が志摩の脳裏を何度もよぎる。こちらを見て揺れたあの瞳が。
(奥村くん、ここにおるんやね)
 厄介事に関わるのはなるべく避けたい性質なのだが、あの青い瞳を思い出すとそんないつもの自分が姿を消していくように感じられた。
 もう一度会いたい。会って話がしてみたい。
 抱えている事情を一緒に解決してあげようなどと無邪気に無謀なことを考える頭は生憎持ち合わせていないのだけれど。それでも志摩は口を噤んだまま、記憶の中にある青い瞳の少年にそっと語りかけた。
(君にも色々あるみたいやけど、今度会ぉたら名前くらいは聞かせたってな)







2012.01.03 pixivにて初出

今回は(今回も)燐兄さん不在で志摩家の次男が頑張って……いや、頑張ってないな。惚気てるだけでした。そして五男ファイト。目指せ志摩家燐。それにしても雪燐への道が遠すぎるorz