正十字学園の入学式を終えた日の午後、志摩廉造は同郷の勝呂竜士、三輪子猫丸と共に祓魔塾の教室へと足を踏み入れた。
「学園の方とはまたエラい差ですやん」
 先程までいたピカピカの校舎と比べ、塾の一年生に割り当てられた部屋はあまりにもボロい。空気も埃っぽく、どうにもしばらく使われていなかった形跡がある。
(なんや嫌な予感するわぁ)
 胸中で独りごち、ひとまず志摩は二人に「どこ座りましょ?」と尋ねた。
 志摩と同じく教室の朽ち具合に少なからず驚いていた勝呂と子猫丸はガラガラに空いている席を見渡す。元々あまり生徒数は多くないようだが、今この教室に到着しているのは志摩達を除いて一人だけ。淡い髪色で何故かウサギのパペットを持っている少年は現れた志摩達を気にした風もなく、(おそらく)閉じた目を前の黒板へと向けていた。
「ま、あっこらへんでエエやろ」
 そう勝呂が告げたことで三人は教室の奥へと歩を進める。真面目な勝呂が勉強を嫌って後方の席を望むはずもなく、彼らは前でも後ろでもなくちょうど中間辺りの席に腰掛けた。教室の中央に陣取らず、教卓側から見て右手側に座ったのは、勝呂曰く、
「右手で物書きはる先生ん時と横書きの教科ん時やったらこっちの方が板書しやすぅてええんや」
 だそうな。
 中央や反対側だと教師の身体が邪魔になって黒板に書かれた文字を書き取れないことが多々あるらしい。そんな勝呂の言い分を聞いて志摩が思ったのは当然ながら「やっぱり坊は変態や」である。子猫丸はその隣で「へぇそうなんですか」と感心していたが。
「それにしても坊と子猫さんもビックリしたんとちゃいます? 新入生代表で挨拶しとった―――」
「奥村雪男、やろ」
 志摩は椅子ではなく机に腰掛け、勝呂と子猫丸に語りかけた。
 思い出されるのは午前中での入学式で目にした『新入生代表』の姿。真面目そうな眼鏡の少年が壇上に立ち、完璧なまでに大役をこなしていた。
 同い年であるにも拘わらず落ち着いた態度の少年に感服すると共に、志摩が――そして勝呂達も――驚いたのは彼の名前である。
 新入生代表を務めた入試トップの少年の名は奥村雪男と言う。
 昨年の夏、京都を訪れた聖騎士の連れと同姓同名だ。しかしその容姿は異なっている。志摩達が出会った『奥村雪男』は身長が180を越える勝呂と並ぶどころかもっと小さかったし、“黒髪で青い目”と同じ言葉で形容できても一方は純粋な青で本日目にしたもう一方は緑ががった青だった。
「坊はあの奥村雪男くんとおんなじ特進科なんですよね?」
「同じや言うても教室はちゃうで。せやし話もしとらん」
 子猫丸の問いかけに勝呂はそう答え、自分もまだ新入生代表の方の奥村雪男が京都で出会った奥村雪男と関係があるのかどうか判断できないと暗に告げる。
「普通に考えたら名前がおんなじだけで無関係のお人なんでしょうけど……」
 呟きながら志摩は考える。
 どうにもただの学生のようには見えない。落ち着きすぎているというか、ただの少年少女達とは違う生活を送ってきたかのような。
 そう感じるのは自分達もまた一般の少年少女達と異なる人生を歩んできたからだろうか。悪魔という存在を知り、それを滅する家系に生まれた志摩達は、限りなく普通に近い生活を送ろうとしても決して本当の『普通』を手に入れることはできない。新入生代表を務めあげた奥村雪男からはそんな気配をかすかに感じる。同族と言うか、自分達よりも更に一歩深いところにいると言うか。
「あーあ。……あん時、奥村くんとメアド交換しとったら連絡して訊けんのになぁ。なんやうっかり流されてしもて結局教えてもらわれへんかったですやん?」
「そうですねぇ」
 志摩が悔やむように言えば、子猫丸がこくりと頷く。だが子猫丸はふと何かを思いついたように眼鏡の奥でパチリと瞬きをすると、志摩を見て告げた。
「あ、そや。柔造さんに訊きはったらどうです? なんや知ってはるかもしれませんし」
 そもそも最初に『奥村雪男』について情報を持ってきたのは柔造だ。藤本獅郎と青い目の『雪男』が虎屋旅館を訪れる際、道に迷った『雪男』を案内したのが柔造だった。柔造は『雪男』を気に入っていたらしく、彼の養父のかつての暴挙を知った上で尚、にこやかに接していたように思う。
 ゆえに柔造と『雪男』が共にいる場面を見かけたことがある子猫丸が同じ場面を目撃した志摩にそう提案してみたのだが、しかし志摩は軽く眉を寄せて答えた。
「俺も一瞬そう思たんですけど……」
「なんや志摩。柔造、今忙しいんか?」
 勝呂の台詞に志摩は肯定するでも否定するでもなく、軽く頭を揺らす。「それが俺にもわからんのです」と。
「俺らがこっちに引っ越す準備しとる時に柔兄もなんや忙しそうに荷物纏めとったんは知っとります。せやけど何のためとかどこ行くんとか訊いてもなんも答えてくれへんかったんですわ。お楽しみや、言うて」
 そのため志摩家の次男・柔造が今どこにいるのか判らない。しかも向こうが意図してのことなのか、携帯電話にかけても電源が入っていないか圏外であるというアナウンスが流れるのみで、機械越しに問うこともできないのである。
 志摩がそう説明すると、子猫丸は困ったように苦笑し、勝呂は眉間に皺を寄せる。普段真面目な柔造がそんな行動をとるのが不可解なのだろう。
「まぁ柔造やったら心配するようなことでもないんやろうけど。……志摩ならともなく」
「ひどっ! 坊、その言い方は酷いんとちゃいます!?」
「志摩さん、自分の胸に手ぇ当ててよぉ考えてみてください」
「子猫さんまで! なんですの、お二人ん中で俺のこといじめんのが流行っとるんですか!?」
「ホンマのことやろ」
「ホンマのことやないですか」
 勝呂は普段のしかめっ面のような表情で、子猫丸は朗らかに笑んで、それぞれ志摩にキッパリと答えた。やはり二人の中で志摩イジメが流行っているのかもしれない。もしくは「家族なんやから連絡ぐらいつけろやボケェ」と言うことなのだろうか。だとしたら切ない。志摩があの兄に勝てるはずがないのに。
「なんですのこの理不尽な仕打ち……」
 めそめそと嘘泣きをすれば、勝呂からの視線が剣呑さを増したような気がした。仕方がないので志摩は速攻で嘘泣きをやめ、「とりあえず」と口を開く。
「柔兄の方はどうしようもないんで、一番手っとり早いんは新入生代表の方の奥村雪男くんに直接質問することやと思います。ちゅーわけで、坊、よろしゅうお願いしますわ」
「は? クラス違うて言わんかったか」
「それでも普通科の俺や子猫さんよりは特進科の坊の方が話す機会もあるでしょうし。まあ代表の方の奥村くんも祓魔師関係なんやったら俺とか子猫さんでも突撃できそうやとは思いますけど」
 新入生代表の方の奥村雪男が普通と違うというのは、未だ確証のない志摩の勘によるものである。しかしもし雪男が祓魔師のコートを着ていたりこの塾内で出会えたりしたならば、その勘は確信に変わるだろう。ただし本当に志摩達と同じ年齢であるはずの彼が祓魔師のコートを着ていた場合、そちらの雪男が天才と謳われる歴代最年少祓魔師ということであり、したがって志摩達が京都で出会った『雪男』は一体何者かという疑問が発生してしまうのだが。
「……あんま期待はすんなや」
「わかっとりますて」
 ぼそりと答えた勝呂に志摩はへらりと返す。こういう律儀なところが勝呂の勝呂たる所以だ。
「まぁこれで二人の奥村くんの話は一旦終了っちゅうことですけど……あとはカワエエ女の子でも―――」
「うわっ、何このボロい教室」
「わー、なんだか凄いねぇ」
 志摩の煩悩にまみれた台詞を遮るように張りのある声と穏やかな声が耳に入る。そちらに視線を向ければ、タイプの違う二人の少女が新たに教室へと足を踏み入れていた。
 先に発言したのは気の強そうな猫目とツインテール、それから公家のような眉が特徴的な少女。後に発言したのはボブカットの全体的に柔らかそうな雰囲気の少女だ。
 正反対のタイプの少女達は唖然として教室を見回した後、二人揃って席に着いた。視線が向けられた際に志摩が手を振ってみたのだが完全に無視されている。しかも二人が座ったのは志摩達の真逆で出入り口に近い方だった。……ただ手近な所に座っただけだと思いたい。
「こんなボロい所に“あいつ”も通ったのかしら」
「だと思うよ。あの人も正十字学園と祓魔塾のことはよく知ってたみたいだし」
 “あいつ”が誰なのか分からないが、二人には共通の知り合いとして祓魔師がいるようだった。志摩達と同じく彼女達も“こちら側”の家系なのだろうか。
 まさか少女らの話題に上っている“あいつ”が京都で出会った『奥村雪男』と同じ少年だとは思いもせず、志摩はこれから共に学んでいくらしい少女達の姿ににへらと表情を崩していた。
 やはり女の子というものはいい。そこにいるだけで空気が華やぐ。
「おいこら志摩。塾が始まる前から要らんことすんなや」
「……坊、俺まだ何も」
「しようとしとったやろ。せめて今日ぐらいは大人しゅうしとけ」
 挨拶代わりに携帯電話のアドレスでも訊きに行こうと思っていたら、腰を上げる前にそう注意された。勝呂からの幼馴染をよく理解しているジト目に志摩は苦笑を返す。
 そうこうしているうちに再び教室のドアが開き、顔を出したのは一人の少女だった。
 しかも正十字学園に入学した志摩達とは違い――この教室内にいる全員が正十字学園の制服を纏っているにも拘わらず――、現れた少女は私服らしい着物に身を包んでいる。
「(わっ、なんだか人が結構来てる……!)」
 少女は小さな声で呟くと、頬を赤く染めながらやや挙動不審気味に教室へ入ってきた。その様子から察するに、少女には人見知りの気があるのかもしれないと志摩は思う。
 淡い金の髪は肩につく程度で、大きな瞳は緑。先の二人とも違う砂糖菓子のような見た目の少女である。
 しかしそんな控えめかつ甘そうな雰囲気を裏切って少女は教卓の正面を己の席と定めた。
 これで教室に揃ったのは七人。何か足らないような気がするのは教室の広さの割に生徒数が少ないからだろうか。
「……? どないした、志摩」
「へ? あ、いや。なんもありませんよ」
 志摩は勝呂にいつもの緩い笑みを向け、それから携帯電話で時刻を確認する。もうそろそろ授業が始まる頃だ。
 次に教室のドアを開くのは志摩の中にあるかすかな“足りない”という違和感を無くしてくれる塾生か、それとも授業を始めるためにやって来た教師なのか―――

「皆さん、静かに。授業を始めます」

「「「ッ!」」」
 ドアが開き、現れたのは志摩達と同じ年齢の少年である。しかし“彼”は祓魔師のコートに身を包み、いかにも仕事用の道具が詰まっていますと言わんばかりの鞄を手に提げていた。
 黒髪に黒縁の眼鏡、左目の下に二つと口元に一つあるホクロ。そしてレンズの奥に緑を帯びた青い瞳。纏う衣装は違うが、その姿は正十字学園の入学式に参加した者なら一度は目にしているはずの人物だ。
「奥村、雪男……」
 新入生代表を務めた入試トップの少年が生徒ではなく教師の顔で教卓に手を置いた。彼は志摩の呟きを耳に入れると「はい」と穏やかな顔を向けて口を開く。
「正十字学園高等部の入学式に参加した方なら覚えていらっしゃるかもしれませんね。奥村雪男と言います。皆さんとは同い年ですが、僕は十三の時に祓魔師の資格を得たので、今日から祓魔塾に通い祓魔師を目指す皆さんの先輩と言うことになります。担当は対・悪魔薬学で、一年生の皆さんの担任も務めます。よろしくお願いしますね」
 すらすらと述べられる自己紹介に志摩は目眩がするようだった。
 自分の勘は当たっていた。しかしこの奥村雪男がかの天才だとしたら、自分達が夏に出会ったあの少年は一体何者だというのだろう。
 既に祓魔師である柔造が志摩達に話して聞かせ、そして聖騎士の隣に立っていたという彼は。
(あかん。こらホンマに連絡取らな)
 眼鏡の奥村雪男が着々と授業を進める中、志摩はこの訳の分からない状況解決への糸口として兄の名前を胸中で呟く。
(なあ柔兄、あの“奥村くん”は一体何者なんや)







2011.12.13 pixivにて初出