それは正十字学園高等部の入学式を目前に控えた、ある夜のこと。

(まただ)
 森の中で中規模の掃討戦に参加しながら雪男は胸中で独りごちた。
 時折感じる何者かの存在。“それ”は気配を悟られることなく祓魔師達の味方であるかのように振る舞う。時に敵の攻撃を何かで弾いたり、また直接的に敵の数を減らしたり。
 今もまた雪男を狙っていた虫豸(チューチ)を鋭い刃が斬り裂いたようだった。目ではその瞬間を捉えることができなかったので“ようだ”という表現を使っているが、地面に落ちた悪魔が真っ二つになっているという現状だけで十分そう言ってもいいだろう。
 雪男がこの存在に気付けたのは、かつて養父と任務に参加した際に目の前で犬型の屍(グール)が絶命したからだった。それ以降、雪男は姿の見えない何者かがいるという意識を持って任務に臨んでいる。すると徐々に自分達以外の誰かが作戦に参加している気配を感じ取ることができるようになっていったのだ。
(神父さんは人間じゃないだろうって予想してたみたいだけど……)
 あの時から随分経ったが、養父からの更なる見解は未だ聞けていない。詳しいことが判っていないからなのかもしれないし、判ったことが雪男に話せないことだったからなのかもしれない。ただどちらにせよ、雪男はかつて(そして今も)己を助けてくれる人外に対して―――……

「嗚呼、『ミーシャ』がこれに参加してくれてるのか」

「ミーシャ?」
 突然思考に割って入ってきた台詞に雪男は銃を構えながら問い返す。
 同じ任務に参加しているこの男性竜騎士は自身に向かってくる羽虫の大群に聖水のボトルを投げつけて撃退しながら、雪男の足下に落ちた真っ二つの悪魔を見て答える。
「そ。奥村も気付いてるんじゃないか? 時々俺達を助けてくれる存在がいるってことに」
「それは……」
 時々どころではなく“そこそこ”感じている。雪男が気付きやすいだけなのか、それとも実際に雪男が参加する任務での出現率が高いのかはさて置き。
 竜騎士は雪男の反応を肯定と受け取ったらしく、敵が聖水で怯んだ隙にリロードした小銃を構えてからこちらを一瞥して嬉しそうに微笑んだ。
「ミーシャってのはそいつの名前だよ。耳の早い奴ならもう知ってるはずだ。ま、誰が付けた名前なのかは分からないんだけどな」
 竜騎士はそう言うと小さく肩を竦めて引き金を引いた。ワントリガーで三発。タタタッという発射音が聞こえた直後に樹上から猿のなり損ないのような悪魔がドサリと落ちてくる。
「でも俺達祓魔師にとって『ミーシャ』って名前は結構縁起がいいんだぜ。気になってちょっと調べたんだけどさ、ロシアの代表的な男性名の一つに『ミハイル』ってのがあって、そのニックネームが『ミーシャ』なんだと。んで、『ミハイル』は英語圏の『マイケル』とかフランスの『ミシェル』と一緒で『大天使ミカエル』に由来するらしい。凄くね? ミカエルだぜ、ミカエル。俺達の仇敵、サタンと戦ったっていう天使じゃねーか」
「随分とその『ミーシャ』とやらに好意的なんですね」
 雪男もまたその竜騎士に遅れを取ることなく、目の前に現れる悪魔を次々と祓っていく。正確な射撃同様、返す言葉も普段通りの落ち着いた口調のままだ。
 竜騎士はそんな雪男を賞賛するようにヒュウと口笛を吹いた。そして「さっすが至上最年少の資格取得者」と笑ったかと思うと、その笑みは若干質を変えて憧憬らしきものを滲ませる。「ミーシャのことだけどさ」と告げる声にも表情と同じ感情が込められていた。
「あれは何て言うか神様……とまではいかねーかな、うん。でもなんつーか、その存在を感じるだけで今日も無事に過ごせるんだなぁって安心できるんだ。名前の由来もあるけど、やっぱ経験上な。特に難易度の高い任務に参加してる時とか。君が祓魔師になったあたりから日本支部内の高難度任務で負傷者の数が減ってるって話を聞いたことは?」
「え。あれって装備が改良されてきてるからじゃないんですか?」
 まさかそのミーシャとやらの働きで負傷者が減っていると言うつもりなのだろうか。
 言外に雪男がそう問えば、竜騎士は――自身のことでは無いはずななのだが――少しばかり照れくさそうに「まーな」と答える。
「普通は奥村と同じように考えるだろうよ。でもミーシャに助けられたことがある人間からすれば、」
「考え方も変わってくる、と?」
「そういうこと」
 ニッと口の端を持ち上げ、竜騎士は再び引き金を引く。
 相手が言葉を切ったので雪男もまた口を噤んだ。すると入れ替わるように今回の任務で配布されていたインカムから司令部の命令が聞こえてくる。どうやら少し人員の配置を変えるらしい。雪男はここに残るが、傍らの竜騎士は場所を移動する必要がある。
「ん。俺はもうちょい奥に行ってくらー。じゃあな、奥村」
「ええ。お気をつけて」
 雪男はそう返し、竜騎士の背を見送る。そして相手の姿が完全に木々の向こうへと消えると、表情を変えぬまま足下で真っ二つになっている悪魔の死骸を靴の踵で踏み潰した。
「ミーシャに助けられれば、か……」
 呟きながら放つ弾丸は正確に悪魔の体へと突き刺さり、その命を奪ってゆく。機械的と言ってもいいほど淡々と作業をこなす雪男の表情からは何の感情も伺えず、他人が見ても「真面目なんだな」という感想ぐらいしか抱かせない。
 だが表面と内面が同じなどと一体誰が言えるだろう。
 昔、まだ雪男が祓魔師を目指す前。幼い雪男は悪魔に怯えて生きていた。悪魔を悪魔と知らず、自分だけが見える恐ろしい何かとして捉えていた雪男に、そいつらはいつでもどこででもちょっかいをかけてきた。病弱で怖がりというのも悪魔を引きつける要因となっていたのだろう。
 怖がるから寄ってくる。寄ってこられて更に怖がる。悪循環はとどまるところを知らず、しかし皆には見えていないらしいものを怖いと大きな声で訴えることもできず。雪男は養父から祓魔師の話を聞くまでずっとその恐怖を抱え続けてきた。守ってくれる人もいない世界の中、たった一人で。
 後に自分は養父や周囲の修道士達によって性質の悪い悪魔から守られていたことを理解したが、当然のことながらそれにより悪魔に対する感情が改善されるはずなど無かった。
 しかも雪男にとって恐ろしいものは悪魔だけではなかった。同世代の子供達もまた幼い雪男にとっては嫌なものの一つだったのである。
 恐がりで泣き虫の雪男を子供達はすぐさまイジメの対象とした。
 子供達は自分達の気が済むまで雪男を罵り、時には暴力を振るう。子供だからこそ手加減など分からず、止める者のいない行為は雪男に深い傷を付けた。
 悪魔の件と同じく、この行為に関しても雪男の正面に立って守ってくれる存在がいれば、少しはその後も変わったかもしれない。しかし現実はそうではなかった。
 おかげさまで奥村雪男はすっかり人間不信の悪魔嫌いに育ってしまった。すぐ傍で体を張って守ってくれるような、慕うべき対象はおらず。また手にした力で守るべき他人も特になく。他者に対して常に見えない壁を作り、容易には内面を晒さず、当たり障りのない柔和な笑みを浮かべて対応する。
 ゆえに雪男は他人がいなくなったことで思わず隠れていた内面が覗いたかのように、ほんの少しだけ顔をしかめた。
(嗚呼)
 あの竜騎士に語りかけられる前の思考が戻ってくる。
 初めて“それ”に助けられた時から随分経ったが、養父からの更なる見解は未だ聞けていない。詳しいことが判っていないからなのかもしれないし、判ったことが雪男に話せないことだったからなのかもしれない。ただどちらにせよ、雪男はかつて(そして今も)己を助けてくれる人外に対して―――……
(天使? 馬鹿馬鹿しい。この世で人間に深く関わるのは同じ人間と悪魔だけだ。つまりミーシャも所詮は悪魔。……そう、僕の)
 パンッという破裂音と共に銃弾が悪魔を貫いた。呆気なく消滅した祓魔対象を見て、雪男は注視しなければ解らないほど小さく口の端を持ち上げる。
「僕の大嫌いな悪魔だ」
 こちらが頼んでもいないのに何のつもりか人間に助力する人外『ミーシャ』に対し、奥村雪男は少しどころではない嫌悪を抱いていた。







2011.12.11 pixivにて初出

兄さんと一緒に育たなかった雪男は悪魔嫌いの人間不信です、よ……(視線斜め下) 兄さんマジごめん。これからもっと酷くなるよ(待て) 現時点での雪ちゃんは本当に体育館裏に行った方がいい。
ミカエルをwiki先生で調べると燐好きとしては心躍る記述が色々あって2424します。

ミーシャの由来、補足。
双子のお母様であるユリ=エギンさんですが、エギンっていうのはロシアの方の姓らしいです(でもよく知らない/オイ)。なのでロシア繋がりという意味でもミハイル(ミーシャ)を起用しております。