「『テメーが旧男子寮の亡霊か』」
「へ……?」
 任務を終えて帰ってきたある日の深夜、自分だけが住んでいるはずの寮の前で燐は思いがけない人物に出会った。
 見間違いかと何度も瞬きを繰り返すが、街灯の光を僅かに受けるその人物は消えない。淡いブラウンでふわふわとクセのある髪、いつも瞑っているような両目、そして左手にはめられているウサギのパペットと言えば―――。
(宝?)
 燐の目の前に立っているのは記憶にあるよりも若干幼いような気がする祓魔塾のかつての同期、宝だった。
「『オイオイ、どーした。ンな呆けやがって。オレが訊いてるんだから答えろよ。テメーが旧男子寮の亡霊って言われてる奴か? 何の目的でここにいやがる』」
 パクパクとパペットの口を動かしながら宝は完璧な腹話術で燐に問いを発する。
 暗い中でも夜目が利く燐には相手の姿を捉えるのもさほど苦ではなく、よく見れば、彼が纏っているのは正十字学園中等部の制服だった。宝のことはほとんど何も知らないのだが、かつて自分達と同じ学年だったことから推測するに、おそらく今の彼は中学三年生。このままエレベーター式に高等部へ入学するとすれば、今は(形ばかりの)内部入学試験が終わって自由登校になった時期だろう。だからと言って、明日も平日のはずの学生が夜中にこの辺をうろついて良い理由にはならないのだが。
(って、今も昔も学校なんてマトモに行ってねえ俺が言うべきことじゃないんだろうけど)
「『オイ、シカトか?』」
「あ、悪ぃ。そんなつもりじゃなかったんだけど驚いちまって……」
 フードは被っていなかったが、この暗さでは宝がこちらの姿を詳細まで見ることなど叶わないだろう。そのため燐はいつもより肩の力を抜いてそう答えていた。
「でも亡霊って何だよ。俺はこの通りちゃんと生きてるんだけど」
「『そうみてーだな。だがこの学園じゃ少しずつ有名になってきてるぜ。誰も住んでいないはずの高等部男子寮旧館に灯りが見えるとか、物音が聞こえるとか』」
「あー……まぁ隠す気もなく普通に住んでたからな。これでも一応、理事長からの許可は貰ってるぞ」
「『解ってる。じゃなきゃお前みたいなのはこの学園内に暮らすどころか入り込むことすらできないだろ』」
「は?」
 何を知っているのか。怪訝そうな顔つきになる燐は、次の瞬間、宝が放った一言で息を呑んだ。
「『テメーみたいな人型の悪魔が、よ』」
「……ッ!」
「『はっ、悪魔のくせに動揺しすぎだろ。もうちょっと自分の感情を隠すってことをしてみたらどうだ。そんなんじゃ同族どころか人間にまでころっと騙されちまうぜ』」
「な、んで」
 力を使わない限り、燐はちょっと耳が尖っていたり犬歯が鋭いだけの人間にしか見えない。しかも今はこんな暗がりで、その姿すらまともに捉えることはできないだろう。だと言うのに宝の確信に満ちた言い方は何だ。
 燐は強ばる身体で相手の動向をじっと見守る。宝が燐の正体に気付いているとしても攻撃するなどという愚かな手段は最初から浮かばなかった。関わりはさほど深くないが、宝もまた燐にとっては大事な相手である。彼に対して取ることができる手段は説得か、逃亡か、それくらいしかない。
「『そう緊張すんなよ。解ってるって言っただろ。テメーだってそうだ。理事長から許可を貰ってるって自分から言ったじゃねーか。だったらテメーは人間を害そうとする悪魔じゃねえってことだろ。少なくとも今のところは』」
「え」
 最初から悪魔を排除する気で来るのかと思ったのだが、これは拍子抜けだ。宝は相変わらず読めない表情のまま感情豊かにパペットを操って、まるでそのウサギの人形が苦笑でもしているかのように「はっ」と笑った。
「『オレが今夜ここに来たのは“念のため”と“興味があったから”それから“暇だったから”だ。ま、テメーが学園内で暴れそうな奴なら祓ってやろうかとも思ってたけどよ……どう見ても違うだろ?』」
 ひょい、と答えを求めるように短い腕を振ったパペットに燐は頷く。
「ああ、俺は人間を傷つけたりしねえ」
「『なら問題ねえな。それによぉ、そもそもこの学園には理事長の結界の所為で中級以上の悪魔が入り込めねえ。つまりテメーが言った“理事長の許可”も本当ってこった。理事長が許可して出入りできる悪魔なんだから、よっぽどでねえ限りオレがとやかく言うもんじゃねえ』」
「じゃあ……」
 宝は別に燐を祓おうとかここから追い出そうとか思っているわけではない、と。そう解釈して良いのだろうか。
 燐がそう問えば、パペットはこくりと首を縦に振って「『ま、無駄な労力は使わねーに越したことはないからな!』」と皮肉げに苦笑してみせる。丸いボタンで作られた目が細くなるわけがないと言うのに、宝が操るそのウサギは本当にニヤリと笑ったかのようだった。
 感情が伺えない宝とは正反対にパペットが表情豊かである所為だろうか。燐はウサギの顔に配された二つのボタンを見つめて淡く微笑み、
「ありがとう」
 感謝の言葉はするりと口から飛び出ていた。
 祓おうとしないでくれて。追い出そうとしないでくれて。そして、悪魔であるこの身を信じてくれて。燐は心から感謝の言葉を口にした。
 すると燐の言葉を耳にした宝は―――

「変わった悪魔だね」

 ウサギの口は動いていない。それどころかパペットをはめた左腕は脇に垂らし、ボタンではなく本物の眼球が瞼を押し上げて燐の姿を捉えていた。
「え、おま……今、自分で喋って」
「腹話術っていうのは自分で喋るものだからその言い方は正しくないかな。でもまぁ君の言いたいことは解るよ」
 荒っぽいウサギの口調とも違う、この穏やかな物言いこそが宝本人のものであるらしい。
 宝は薄く開いた両目で闇にぼんやりとしか見えないだろう燐の姿を捉えて淡く笑った。
「本当に変わった悪魔だ。人間に礼を言うなんて」
「俺は悪魔だけど心は人間のつもりだからな」
「そう。君の中の“人間”がどれほど綺麗なものかはあえて問わないけれど……まぁ君がそう思うなら君の中ではそれが人間なんだろうね」
「? 何言ってんだ?」
「理解しなくて良いよ」
 ふっと吐息だけで笑い、宝は踵を返す。
「お、おい。どこに行くんだ?」
「どこって……そりゃあ『中等部の寮に帰るに決まってんだろうが!』」
 台詞の途中からパクパクとウサギのパペットを動かして宝はそう答える。
「『テメーを祓う必要は無ェってわかったんだ。だったらコンビニで食いモンでも買って大人しく寮に帰るとするさ』」
「あっさりしてんなー」
「『他の奴らがしつこすぎるだけだろ。じゃ、育ち盛りのオレ様は腹が減ってんだ。さっさと帰らせてもらうぜ』」
「おー……あ、待てよ」
「『あん?』」
 去ろうとする宝を燐は咄嗟に引き留めた。
 普段なら己と関わろうとする者をことごとく遠ざけようとする燐だったが、宝からは燐が一番最初に手を伸ばしたメフィストとどこか似た雰囲気を感じ取ったのだ。
 きっと宝は燐がどうなっても悲しんだりしない。メフィストが己以外を玩具と定義付けて眺めるタイプなら、きっと宝は己以外を透明で分厚い壁越しに眺めるタイプだ。ゆえに二人とも――心の深いところはどうであれ――基本的に他人のことでそう悲しんだりなどしないと燐の勘が告げたのである。
 他人を悲しませたくないと願う燐にとってそれはとても心地よい状況だった。
「『なんだ? もうオレの用は済んだぜ?』」
「あ、うん。だからさ……」
 この状況が心地良いから、もう少しだけと願ってしまう。
「腹減ってんなら俺が作ってやろうか?」
「『は?』」
「俺もこれから自分用に飯作るところだったんだ。それにさ、俺、勉強とかはからっしきだけど料理の腕だけは自信あるんだぜ」
 だからどうせなら食って行けと燐は繰り返す。
 顔の方は室内でフードを被っていれば問題ないだろう。むしろ宝ならば燐の顔が見えようと見えまいと気にしないかもしれない。
 と、思ったのだが。宝は再び人形ではなく本人の口を開いて答えた。
「やっぱり変わり者の悪魔だなあ。でも、お誘いは嬉しいけど遠慮しておくよ」
「なんで?」
「なんでってそりゃあ勿論、『お前は悪魔でオレはそれを祓う側だからな! これ以上の干渉は無用だろ?』」
 嫌味ではなく単なる事実を告げるように、ただしやはり荒っぽくウサギのパペットが全身を使って告げる。そうして宝は燐に背を向けて歩き出し、今度こそ寮への帰路についた。
 宝の姿が完全に見えなくなった後、燐もまた己が住まう旧男子寮に入る。
 誘いは断られてしまったが残念だと思う気持ちはなかった。理由はおそらく、誘う前から断られるであろうことを予感していたからだ。そういう人間だからこそ、燐は宝を気安く誘うことができた。下手に情を抱いて流されたりなどせず、他人との間にきっちり線を引いて対応できる宝だからこそ。
「……俺的カッコイイ奴ランキング変動の予感」
 一位は不動。二位もなかなか変わらないとは思うが、三位以下は怪しいかもしれない。
 ひょっとしたらそのうち十位以内に宝と宝のパペットがそれぞれランクインするかもなぁと呟きながら、燐は遅めの夕食を作るために食堂へと足を向けた。







2011.11.19 pixivにて初出

宝くんを思い切り捏造してしまいました。宝くん(とメフィスト)は、内心どうであれ、自分が悲しいとか苦しいとか感じても外に出さなさそうですよね。なので燐的には神父さん達よりも近付きやすかったり。燐が自分から声をかけたのもこの二人だけです。何もしていないのに燐にデレてもらえる二人。神父さんと志摩家の次男はハンカチギリギリです(笑) ただし神父さんは特別中の特別なので、一度許容すると後はデレデレ燐ですよ!